『LA INTERNATIONAL』2002年10月号



台湾は日本の真の友人を見誤っていないか

〔台湾の友への手紙〕 巧言令色の諂人に真の友はいない

藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)在米




日本の政治的混迷と平成幕末

 21世紀の始まりは台湾や日本の運命にとって、輝かしい未来を約束してくれると期待したいが、現実は暗雲が広がって明るくないのは残念だ。陳総統は原発問題や政治統合で動揺しているし、日本政府は無能を露呈して支離滅裂で、折角の新世紀の訪れを飛躍台に使えずに、民心は不安な気持ちで政治に殆どうんでいる。
 特に酷いのが日本の政治と経済の混迷であり、眼を覆いたくなる無惨な亡国状態に陥って、重苦しい閉塞感の中で平成の幕末状況を迎えている。特高警察による思想統制や拷問などの弾圧は戦時中の筈なのに、今の日本は東条内閣の頃よりも断ち難い閉塞感が蔽われ、殆どの日本人が窒息状態に混迷している。
 戦後50年以上にわたって続いた自民党支配が、金権政治による腐敗と派閥人事による人材枯渇を招き、中南米やアフリカの独裁国も顔負けの政治不信に陥っている。日本人はこの悲惨さを最早や自らの手で克服できないでいる。鬱積した気分の間隙を縫って台頭したのが、長らく雌伏していた国家主義の怨念の流れであり、敗戦の屈辱感を抑え切れなくなった右翼が、自民党の鷹派と結託して政治宣伝を推進して、その影響が台湾に無用な紛糾を生んでいることは見過せない。
 台湾人が非常に親日的なのは嬉しいが、日本の実情に対して表面的な観察に慣れてしまい、親近感を示して近づく不良日本人に対して、警戒心を持たずに受け入れる傾向があるのは、「巧詐不如拙誠」の言葉を知る民族として、余りに不用心ではないかとむしろ心配になる。
 国家の最高責任者が開放的なのは良いが、李登輝前総統や陳水扁現総統が対談する相手が、日本人として二流や三流の人物が多く、宣伝に利用される隙を作り易いことは、太平洋の対岸から北東アジア情勢を観察する私にとって、大いに気掛かりだと思わずにはいられない。


軽薄な世相と粗製乱造の国家主義人脈

 半世紀以上続いた自民党の独裁政治が既に破綻の徴候を示し、官僚の不正の横行や政治家の腐敗のために、最近の日本は経済的な破綻の中で閉塞感が強い。だから、政府は権力を維持するために追従者の育成に力を注ぎ、言論界を通じた愚民政策を推進するために、大量の御用学者や御用評論家を育てたが、とりわけ小林よしのりは漫画を使う御用文化人の代表である。
 漫画を武器に使う政治活動で蒙昧さを露呈し、相手を嬲り者にして商売にする小林よしのりは、「台湾論」という思わせぶりな題の本を出して、孤立に悩む台湾人の関心を集めようと狙ったが、彼の特技は捏造と詐術だから要注意である。
 日本の社会が混迷の極致を露呈しているので、粗悪な日本人がメディアの上で派手に動き、実力も無いのに派手な演出で売名家が罷り通り、虚妄の名声を高めて脚光を浴びているが、そうした中に新国家主義を標楴する集団があって、海外に活路を求めて妄動しようとしている。
 だから、小林が台湾を扱った本を作ったといって、扇情的な政治宣伝の走狗を果たす卑賎な者に、関心を払う理由も必要も全くないはずだ。小林は絵の威力を狡猜に悪用する天才であり、敵対すると考える相手を悪魔のように描き、白を黒と言いくるめる日本版の小型ゲッペルスとして、迷える大衆に愚劣な絵の爆弾を投げている。
 自民党政府は国会で絶対多数を支配しているが、実態は孔子が言う朽木だから彫刻は不可能だし、幾ら補強しても腐った支柱では役に立たない。だから、時間の経過を通じて愚民政策による多数支配は解体して、今後は平成幕末の大転換にと結びついて行くことだろうが、亡国の直前は悪行狼籍が殷賑を極めることだろうし、その醜悪で愚劣な泡沫の見本が小林の漫画と云ったら言い過ぎだろうか。
 小林は理性に欠けた激情的な人間として知られ、自分の頭脳で思索や判断力がない為に、権力に操られて簡単に感情を爆発させるし、敵だと考えた相手に発作的に飛びかかって攻撃するので、日本では情報テロリストと敬遠されている。
 戦時中の日本には特高警察や憲兵が公安活動を担当し、検束や拷問などの硬型の弾圧で臨んだが、戦後の日本は排斥や嫌がらせなどの軟型の手段で、社会の良識派を葬る方式が効果を上げて来た。
 政治破綻によって日本が亡国現象を強めて、反動化の中で伝統主義や非進歩性を強めれば、民族意識の高揚と国家主義が支配力を持ち、高慢不遜な態度で夜郎自大な態度を取るようになる。しかも、国家主義は近隣の強大国の幻影に脅えて、恐怖と劣等感を母体にして生まれたものだ。戦前の日本はソ連の共産主義を嫌悪したし、敗戦後は米国の工業力と軍事力の前に平伏させられた。
 最近では共産中国の急速な発展に反発して、相手を否定する代わりに自らを情熱的に肯定しながら、裏返しの無力感を国威発揚に置き換えようとしているかに思われる。


日本における指導者の不在と小人才子の闊歩

 優れた人は〔従其大体為大人〕であるように、真の大国は偏狭な国家主義に無縁だが、失敗続きで精神的に余裕が無くなることで、過激な国家主義が台頭するのが世の習いだ。
 日本の歴史は開国と攘夷の間を揺れ動き、過度の開国は侵略行動に発展しているし、極端な攘夷は鎖国政策が日本の歴史の基本であり、最近は政治破綻と経済的な行き詰まりの中で、買弁主義と国家主義が錯綜して紊乱してしまった。
 現在の日本政治が支離滅裂の状態を呈し、アジア諸国に落胆と失望を与え且つ信望を失墜したが、その原因は自民党の派閥の頭目が密室の中で、民主的な手続きを無視して党総裁を決定し、指導的な資質が無い森を首相にしたことに始まる。
 森喜郎は大学生時代に淫売窟で警察に逮捕され、売春防止法違反の検挙歴を持っているし、闇世界の暴力団との関係が深い裏幕型の政治家であり、その指導能力の無さは周知の事実だった。
 なぜこんな不屈千万な人事が強行されたかといえば、自民党が支配する既得権を維持するためであり、資治通鑑が「何世無才、患人不能識之耳」と書くように、腐敗摘発と改革を為す人間が登場すると不都合だから、無能でも操り易い人間を傀儡に選んだのだ。血迷ってこんな破廉恥漢を首相に選んだのは、自民党に経世済民の思想が枯渇して、党利党略のために国政壟断することが、恥辱だという意識が全く喪失してしまったからに他ならない。
 日本列島全域を拠点に、対外的にも利権化して食い荒らしているために、金満国家は貧欲な寄生虫の餌食とされ、百鬼横行で亡国の悲哀に直面している。屈原も張良も不在のまま、無能政治が継続して、世界の嘲笑も意に介しないようだ。
 日本では大多数の政治家が公的な権益の私物化を企み、祖国の未来を損なって顧みないという風潮が漲っている。国民は虚妄の経済大国という名前に幻惑され、偽れる盛装に包まれ無知にして蒙昧な隷属状態に陥っている。しかも、日本列島の全域が利権化してしまい、戦前の上海租界に酷似してきたし、幾ら悪政でも「道不行、乗筏浮干海」とは行かず、邪悪な物を排除して行くより他は無いが、その気力が昨今の日本では機能麻痺に陥っている。


問題が山積みの日本の新聞業界

 権力の逸脱と横暴を監視する役目の報道界が、組織の肥大化を通じて営利事業の傾向を強め、言論活動より金儲けのために堕落して、権力者と癒着して腐敗体質を強めることで、批判と信賞必罰の欠如が亡国症状を招き寄せている。
 朝日と読売は各一千万部前後の発行部数を誇り、全国紙として新聞業界を支配していが、巨大化のために情報の質の低下が著しく、私は「朝日と読売の火ダルマ時代」(国際評論社)に続いて、「夜明け前の朝日」(鹿砦社)の新聞論の2冊を世に問うた。
 現実の問題として、朝日新聞」は経営難のために呷吟しており、「読売新聞」は独裁的な経営者の権力嗜好に基づき、〔一千万部の独裁者〕である渡辺社長の指揮で、憲法改定試案など政治プロパガンダに熱を上げ、読売を自民党タカ派の機関紙に変質させた。
 そして、大阪読売の元社会部長だった黒田清に、「今の読売は権力に擦り寄っているなんてもんじゃない。権力が新聞を作っているんだ。そんなのジャーナリズムじゃないよ」と新聞失格を宣告せしめている。
 しかも、かって共同通信の社会部記者だった魚住昭は、最近出した「渡辺恒雄・メディアと権力」(講談社)の中に、「渡辺が論説委員長に就任して以来、社説で前面に打ち出してきた反共・国家主義路線は、すでに社会面も覆い尽くしている」と書いている。これは「朝日と読売の火ダルマ時代」の「まえがき」で、読売と「フェルキッシャー・ベオバハター」を二重写しにして、日本の運命を危惧した私の観点と共通する。
 ナチス党の政治宣伝専門の機.関紙に似た読売は、御用新聞である限り幾ら発行部数を誇っても、日本の代表新聞と呼ぶに値しない存在だ。
 共産政府の機関紙だった「人民日報」や「プラウダ」が、政治宣伝の紙爆弾に過ぎなかったことは、過去の歴史が明白に証明する歴史的な事実だし、政府の機関紙が権力の暴走をチェックして、自由や権利を守るためにペンを奮った例は歴史に記録がない。
 これが日本を支配している二大新聞の実態であり、それに続いて毎日新聞、日本経済新聞、産経新聞等の全国紙があり、更に広域な領地を持つブロック紙と共に、各県を読者圏にした地方新聞が日本の各地にある。
 毎日新聞は経営破綻に陥り何度も再建し、至って苦しい経営状態の中で健闘しているが、日本経済新聞は経済専門の新聞であり、産経新聞は財界の支援で設立した歴史を持つせいで、反共主義に徹した個性を売り物にしている。


日本における言論界の堕落と腐敗

 財界御用達の産経新聞は台湾政府に密着して、日本における台湾報道の中心になっているが、それは「蒋介石秘録」を連載した因縁であり、強烈な反共路線のために北京政府と犬猿の仲だから、自ずと台北政府と緊密な関係を維持している。
 だが、産経は市販されて日刊紙の形態を取ってはいるが、反動路線による政治宣伝臭が濃厚であり、世界の常識では一般紙として評価するのが難しく、宗教の教団や政党の機関紙の仲間に扱われ、公正な立場での報道形態からは逸脱している。
 しかも、この産経新聞が積極的に支援しているのが、日本における新国家主義を標榜する集団であり、小林はその中で派手に動く扇動者として、漫画という至って扇情的な手段を駆使しながら、現代における攘夷思想の鼓舞宣伝を担っている。このような権力の走狗が産経新聞の関係で台湾に目を付け、「台湾論」を論じたことで挑発に乗せられて、狡猾で悪質な扇動に巻き込まれてしまっている。願わくば、こうしたことで台湾の名誉を傷つけて欲しくない。
 世の中には知る必要の無い愚劣な物が多く、小林が得意とするのはその種の卑賎なものであり、知る権利とは全く無関係な雑音に属し、無視することが精神の健康にとって最上である。知る権利と自由な報道を確立することは、民主社会における報道界の重要な役割だが、それと権力者の走狗の政治扇動と取り違えて、愚劣な騒音に関心を払う必要は全く無い。
 しかも、御用新聞は自由な報道に敵対する存在だから、ジャーナリズムの枠組みの中には入らないし、民主的な市民社会の発展にとって有害だが、その存在を弾圧して粛正するのではなくて、関心を示さず無視することが最良の選択だ。それに代って力を使う弾圧で抹殺を試みるならば、それはスターリンや毛沢東の粛正と同じで、何千万もの同胞を殺戮して歴史に汚名を残し、瞬間的な安泰は保つことが出来ても、「一将成功万骨枯」で湯武放伐の根拠になるのは間違い無い。
 21世紀を迎えて1年有余、漸く独裁政治は終焉するに至り、民主的な政治体制が一般化して、各個人の見識と教養の豊かさに基礎を置く、理性と洞察力が社会を動かすようになるから、政治宣伝はもはや時代遅れで無用の長物と云えよう。しかも、新世紀はアジアの時代だと言われているし、その前に大きな変動と混迷があるにしても、熟した柿は腐って落ちて大地の土に還元し、その上に新しい生命が希望と共に誕生する筈だ。
 だから、若い世代が試練に挑戦して困難を克服すれば、新しい理想に基づいた国造りは可能であり、前途に明るい未来が待ち構えている筈だ。昨今の日本も前代未聞の政界、財界、官界等々の夫々の大掃除の時期にある。
 時には、粗大な塵埃や汚物が海外に流出して、悪臭芬芬とした「台湾論」が漂着するにしても、その時は汚物入れに投げ捨てて始末し、美麗島の平安を保って貰いたいと云うのが筆者の切なる願いだ。


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