『財界にっぽん』2006年12月号

[遠メガネで見た時代の曲がり角] 連載第1回



平成版の東条内閣の発足と安倍内閣の相関図


藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)在米



ベストセラーになった「小泉純一郎と日本の病理」(光文社ぺ―パーバックス)の第一章で、「中国政府を相手にせず」という暴言を吐いて、日本の対中外交をメチャクチャにした近衛と、靖国神社参拝で中国や韓国との外交を損なった小泉を対比し、上海事変による対中侵略とイラク派兵を強行した政治の相似性を論じた藤原肇博士は、「近衛内閣に続くのは東条内閣だ」と予言していたが、安倍内閣は果たして・・・・



安倍晋三への世界の厳しい目

  安倍内閣を論じるにあたって海外のメディアの多くが、安倍晋三が岸信介の孫で三代目の世襲代議士であり、岸がA級戦犯で安倍が国家主義者だと指摘している。FTの9月17日の「Weekend」という特集記事で安倍を紹介し、「安倍は、祖父の記憶にまとわり付く戦犯の汚名に憤慨する。彼は日本のアジア侵略が西欧の帝国主義よりも悪いとか、第二次世界大戦では日本に罪があるという考えを疑い、東京裁判を米国の見せしめだと考えて正当性を認めない」として、「靖国神社を安倍が参拝するのは、この戦争が不名誉なものではなかったと確信している」書く。そして、に全面2ページを費やしての記事で、岸や安倍の出身地の山口県と長州閥を論じるが、吉田松陰をめぐる話などは内容に乏しく、東京特派員のDavid Pilling記者の記事は、至って表面的な観察でブラサガリ取材に過ぎない。 経済情報では優れた取材力を持つのに、政治となると流石のFTでもこんな手抜きで、いい加減な記事を活字にしてしまうのは残念だ。

 安倍晋三官房長官が自民党総裁に選出される直前だが、シンガポールの「海峡タイムズ」紙は9月19日付の論評で、「安倍が第二次大戦での日本の侵略を認めず、愛国心を強調し平和憲法を改定して軍事化を目指す」と強い警戒の気持ちを表明していた。

 安倍が首相になった9月27日の「インディペンデント」は、「安倍が軍事力を増強して愛国心を高揚させ、戦争放棄を謳った憲法を改めると誓った」と書き、超国家主義者で軍国主義の復活を目指す安倍の政治路線に、侵略主義復活への不安を表明したし、同じ日の「ニューヨーク タイムス(NY. Times)」の社説は、「小泉の挑発的な靖国神社参拝の中止宣言が、安倍内閣の最初の仕事でなければいけない」と書いていた。

 こうして、日本の侵略戦争を東アジア解放の聖戦と考え、東京裁判を否定する安倍の姿勢に対し、世界のジャーナリズムはその祖先帰りを危惧して、祖父の岸信介がA級戦犯だったこととの関連で、不信と警戒の意思表示をしたのである。


「理想を過去に求める」安倍晋三の執念と因縁

  祖父にA級戦犯から首相になった岸信介がいるが、彼は東大で国粋主義の中核だった上杉慎吉教授の薫陶を受けたし、少壮官僚として体験した欧米視察では、ドイツの産業合理化運動と呼ばれた、産業の国家統制の政策に傾倒している。また、ノーベル平和賞の佐藤栄作元首相は岸の実弟で、共に官僚を経て首相を歴任しており、政治家の家系のプリンスだということは、安倍新首相を語るときには常に引用され、外国のメディアでも先ずそのことを強調する。国内のメディアでもそこで終わっており、その先に別格のA級戦犯の松岡が控えていて、その超国家主義が日本の運命を狂わした点は、多くの場合において省かれている。裁判中に病死したのでウヤムヤになっているが、他国頼みの危険な外交をやった松岡洋右は、近衛内閣で外相を務めナチスかぶれの政治家だった。そして、枢軸外交による日独伊三国軍事同盟の締結を始め、国際連盟から脱退して孤立路線を選び、松岡旋風で親英米派の外交官46人の首を切り、日本の外交基盤をメチャメチャにしてしまった。強烈な国家意識は明治以来の長州閥の特性だが、岸を中核にして安倍晋三に続く家系は、国家統制と軍国主義への強い遺伝子を持ち、それが松岡や岸などの国粋主義から、宮本顕治のような共産主義のボスに至るまで、国家権力への欲望を駆り立ててきた。

 なぜ安倍が愛国主義を教育の中心におき、教育基本法や憲法の改定を急いでいるかや、防衛庁を省に昇格して軍事行動の自由のために、集団自衛権の見直しを優先課題にしているかは、この安倍の家系を包む国家主義の亡霊が、日本の政治に憑依している証拠である。それは国防国家への志向という衝動が、ポピュリズムの時代精神として現れたのであり、それは岸信介が試みた戦前の統制国家が、どんな軌跡を残したかを知れば明白になる。


臨戦国防国家体制への回帰

  岸は東大三年生で高文に合格して翌1920(大9)年に農商務省に入るが、同期入省には三島由紀夫の父の梓がいた。農商務省は4年後に農務省と商工省に別れるが、商工省の少壮官僚の岸は欧米視察を体験している。また、1930(昭5)年の訪独で産業カルテル化を見た岸は、1928年に始まったソ連の「第一次5ヶ年計画」と、ドイツが基幹産業の国家統制に影響されて、帰国した翌年に「重要産業統制法」を作っている。また、満州事件の翌1931年に誕生した満州国では、この「重要産業統制法」を国策の基本にしたし、1936(昭11)年に岸が満州国産業次長に就任してからは、「産業開発5ヵ年計画」による国防国家が本格化した。

 満州での仕事を三年で切り上げて帰国した岸は、古巣の商工省に戻って国家総動員体制を仕上げ、安倍内閣の商工次官を経て東条内閣の商工大臣になる。満州で岸が実験した国防国家路線は、日本の産業活動を国策に服従させて、終身雇用、源泉徴収、業界団体、公団公社化などに見る、戦時経済に合わせた1940年体制になっている。これはナチスが推進した国家社会主義の実現であり、その源流にはソ連が実行した計画経済に基づく、軍事力と経済力を侵略のために総動員した、官僚による独裁的な国家支配のシステムがあった。

 関東軍の参謀長だった東条英機は、満州国の産業を支配した岸と親しく、アヘンを機密費として利用しあった仲だったと言う。しかも、戦時体制の大日本帝国の政策を動かしていたのは、首相、外相、陸相、軍需相に加えて参謀総長を兼務した東条と、東条に軍需相は召し上げられたとはいえ、軍需次官と国務大臣を兼任した岸信介だった。また、東条を首相にと奏上したのは木戸内府だが、木戸幸一は商工省第一部長だった時代に、岸の上司だった長州閥に属す官僚で、木戸孝允(桂小五郎)の孫でA級戦犯でもあった。

 こうした東条、岸、木戸、松岡というA級戦犯の四角形と、祖父の岸を敬愛する安倍晋三が人気で首相になり、国家主義に根ざす軍事路線を推進して、憲法を改めて国防国家の復活を目指すことは、東条内閣の再来を思わせずにはおかない。岸信介が推進した国家社会主義と東条の軍国主義が、安倍内閣に相乗効果を伴って再生すれば、日本の運命は極めて危険だと知る必要があるし、超国家主義はナチズムに紙一重なのである。


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