『財界にっぽん』2007年8月号

[遠メガネで見た時代の曲がり角] 連載第9回



温家宝首相の訪日と国会で行った演説を読む


藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)在米



温家宝首相の国会演説の草稿

 国際感覚と理性的な判断力に欠けた小泉首相は、個人感情のおもむくまま靖国神社の参拝を繰り返し、近隣諸国を刺激する頑迷な姿勢を取った。そのために長期間にわたり中国と険悪な外交関係が続いたが、小泉首相の退場を機会に日中が歩み寄り、2007年4月に中国の首相が六年半ぶりに訪日した。

 しかも、慰安婦問題で安倍首相が軽率な発言をして、国際世論から手厳しい批判を受けていたので、出来るだけ穏便に計らう意図に基づき、日本政府は中国の首相を国会演説の主賓として遇した。温家宝の演説日程は4月12日だったので、外務省は中国側に「草稿を訪日前に見たい」と申し入れたが、「首脳会見の結果次第で内容を改める可能性がある」と言って、事前に草稿を見せるのを中国側は拒絶している。

 だが、11日にあった日中首脳会談において、安倍首相の口から「日本は台湾の独立を支持しない」という発言を得たので、会談後に中国側は佐々江アジア太平洋局長に演説草稿を渡した。やっと草を手に入れた外務省は草稿を検討して、「拉致問題について触れて欲しい」と申し入れたが、「日本側の希望は受け入れられなかったし、靖国神社問題に触れていないのに満足した」と外電は報じている。

 時事通信が配信した「検証・温家宝訪日」という記事は、「演説は温首相自らが執筆した。温首相は一文字も欠かさず、精魂を傾けて書き、日本国民に伝えたいメッセージだと語った」と見え透いた嘘を並べている。だが、外交官なら誰でも知っていることだが、首相や閣僚が外国に行って行う挨拶文を始め、演説の原稿は何人もの役人が草稿をまとめるし、欧米諸国ではスピーチライターが担当して書くものだ。

 時事の記事は伝聞調で信用度は低いが、演説草稿を首相が精魂を傾けて書いたと信じ、記者がそれに感激したのならお粗末の極みで、政治の実態についての認識が甘すぎる。補佐官や秘書が準備した草稿に手を入れて、講演者が自分の言葉にして喋るのがトップのやり方なのに、この新聞記者はそんなことも知らないのだろうか。


文献判断と解析作業の必要性

 日本人はインテリジェンスの訓練が不足していて、大部分の場合は文字面を読んで納得してしまう。だが、書かれたものの意味を読みぬくだけでなく、行間を読み取る能力が更に問われているヒに、何が書いてないかを判読する洞察力が必要だ。各国の外交機関やシンクタンクなどにおいては、その解析作業が行われているのであり、最も優れた人材がその仕事を担当しているが、日本の政治機構にはそれが欠落している。

 こうした作業プロセスを文献批判と呼んでおり、江戸時代までは仏教原典や本草学などで、厳しい訓練をする伝統が日本にもあった。だが、最近の外交官や幹部官僚には鍛えられた者が少ないし、ジャーナリストや政治家もその訓練が不足している。

 日本のこうした特殊事情を承知した上だろうが、温家宝は役人が書いた演説草稿を読み上げ、阿倍仲麻呂や鑑真の名前を列挙して、日本人の自尊心をくすぐったのである。だが、少し歴史の裏面に詳しい人なら気づくが、阿倍仲麻呂は日本から頭脳流出した人材だし、鑑真はミッションの使命を帯びて訪日した唐の僧であり、ベクトルの流れの方向に真意が秘められているのだ。

 日中関係で日本が誇る歴史的な人物を扱う時には、当時の世界の中心だった唐で密教の神髄をマスターして、法灯を日本に伝えた真言開祖の弘法大師とか、シナ学の巨人としてアジアの至宝の内藤虎次郎が聳え立つ。空海や湖南を引用したのなら胸を張ってもいいが、阿倍仲麻呂や鑑真の名前に感激してしまい、「歴史人物を列挙して友好を強調した」と喜ぶのでは、余りにも単純でお人よしだと笑われてしまう。

 現に温家宝の演説の全文を読んで感じるのは、中国が侵略された歴史をソフトに表現しており、残留孤児や日本人の引き上げの美談物語に続いて、「中国は昔から徳を重んじ武力を重んぜず、信を講じ、睦を修めるという優れた伝統がある」という、文飾の国にふさわしい自己宣伝までやっている。しかも、草稿にあった「中国人民は日本人民が平和発展の道を歩いていくことを支持する」という部分を省き、事前の打診を抜いて天皇に北京五輪の訪中を招請したことで、安倍内閣を軽視した記録まで残ったのである。


軍国主義と反動路線で萎縮する未来の日本

 こんな指摘をしても私は反中国の人間ではなく、世界で仕事をして身につけたノウハウの中に、無言の発言に重要な意味を潜ませる技法があるので、相手の意図としてそれを読み取っただけのことだ。したたかな中国外交を構造主義の立場から、その伝統的な政治感覚を分析したのであり、外交辞令の裏の意味を読み取ったに過ぎない。

 議会政治の基本と伝統に無知な安倍首相は、国会での慎重な議論の手続きを省いて強行突破する、独裁者が好む「始めに結論あり」のやり方で、「教育基本法抹殺」、「防衛省への昇格」、「国民投票法のごり押し」という具合に、問答無用の強行採決の手法を繰り返して来た。強行した安倍内閣は世襲議員集団で、日本の「七光り族」は中国の特権族の「太子党」に等しいが、北京の政権中枢には太子党などいないのだ。

 戦略なしで執念だけで盲進する安倍政治は、自滅に向かう「義和団」の日本版であり、幼稚なトップに率いられた日本の進路決定が、時間の関数であることは温家宝首相に丸見えだ。温家宝流の長期的な国家戦略に基づけば、日本は孫子が『軍争篇』で論じた「逸を以って労を持つ」の対象で、彼の訪日は日本の運命の転換点に重なった。

 戦前レジームに回帰して軍国主義化する日本は、消耗して疲労する路線を遭進することで、美辞で粉飾した虚妄の国家はファシズム体制になり、その運命は没落への一方通行へ突入して行くだけである。それに対して、ブリックス(Brazil, Russia, India, China)に属す中国の未来にはより希望が持ち得て、独裁的な共産党支配が破綻してもその後には内乱を経て、民主的な社会の登場を期待できる。だから、日中の独裁政権が共に行き詰まりに直面するに際して、似たように破綻しても受ける打撃が異なることは、歴史の教訓が示唆する通りなのである。

 ブリックスという言葉を最初に提示したのは、ゴールドマン・サックスが出した『ブリックスと見る夢2050年への道、Dreaming with BRICs: Path to 2050)』と題した2003年秋のレポートである。この報告書にある具体的な内容としては、2050年におけるGDPは1位の中国が44・5兆ドルであり、2位の米国の35・2兆ドルにインドが27.8兆ドルで続き、日本は6・6兆ドルで6兆ドルのブラジルに肉薄され、追い抜かれるという構図として予想されている。

 安倍が美しいと妄想している日本の未来は、軍国主義と反動路線に熱を上げた愚行により、中国や米国の二割の経済力に萎縮してしまい、国民は軍国憲法と教育勅語で威圧され、「自由」という言葉に憧れる奴隷国家になる。それがどんな意味を持っているかについては、歴史意識に乏しい安倍晋三に分からなくても、地質学を専攻し時間と空間の問題に詳しい温家宝にとって、「自明の理」だと類推せざるを得ないのである。


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