『財界にっぽん』2007年10月号

[遠メガネで見た時代の曲がり角] 連載第11回



小泉の打算で確定した靖国カルトの聖地


藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)在米



 法案の審議や政治責任を明らかにするために、議論を通じてより良い選択をする場所が議会であり、議会制民主主義は近代社会の基盤である。だから、緻密な議論の遂行が不可欠であるのに、安倍は権勢欲を満たす所と錯覚して、議論抜きの強行採決に明け暮れたので国民は安倍の暴政に「ノー」の審判を下し、自民党は参議院選挙で惨敗したのだった。

 選挙結果を見た8月1日付けの『NYタイムス』は、「追い詰められた安倍」と題した社説で、「極めて不人気の安倍は、自民党の大敗北でも辞任しない」と書き、『LAタイムス』は「民族主義的な執念に痛烈な打撃を与えた」と論じていた。総選挙での惨敗は国民の不信任であるのに、権力にしがみつく安倍は辞任するのを拒み、政治責任について無知な日本の首相の恥知らずが、世界中に知れ渡ってしまったのである。

 新聞論調のレベルでは安倍政権について、腐敗の放置や独断専行が中心になったし、「軍国主義路線」や「指導制の欠如」が論じられた。だから、『戦後政治からの脱却」というスローガンの下に、戦前のファシズム体制の復活を目指した、安倍のカルト政治の実態についての分析や、その危険性についての議論は未だ始まっていない。

 だが、この問題が国際政治に重要な意味を持ち、日本の戦争責任と密着しているだけでなく、それが世界平和の未来に影響すると分かれば、学者が雑誌メディアで論じる時代が始まるのであり、それに備えて政治姿勢を改めない限り、世界から孤立した日本の運命は悲劇的になる。

 米国流のネオコン(超保守主義)思想にかぶれた安倍は、政治的に未熟だが国粋主義の代表者として、選挙抜きで首相に担ぎ上げられた。そして、サンケイなどの保守メディアに支えられ、復古主義を鼓舞したことによって、靖国カルトによる反動政治が日本を席巻した。

 一般の日本人にとって「靖国カルト」という言葉は、聞き慣れないので異様な印象を与えるが、これは戦前の神国日本の神話と結びつき、軍国主義への郷愁と密着した国民運動として、ジャーナリズムの世界では良く使う概念だ。カルトは「狂信的な信者によって組織された宗教的な集団」を指し、特に靖国神社という軍人の霊を祭る神社が、政治との係わる時にこの言葉が重要な意味を持つ。

 靖国神社は幕末から維新にかけての時期に、徳川幕府に反抗した志士や官軍の死者を祭った、東京招魂社と呼ばれた社に起源を持ち、この新興の社は1879(明12)年に靖国神社と改名されている。しかも、この靖国神社だけは内務省の管轄ではなく、軍部直属で陸軍省と海軍省が所管する国家施設だった。だから、靖国神社は軍国主義の教化施設であると共に、戦争で死んだ兵士のための慰霊所として、一般市民を排除する軍事施設に他ならない。

 『靖国問題』(ちくま新書)で「感情の錬金術」を論じた高橋哲哉は、「大日本帝国が天皇の神社・靖国を特権化し、その祭祀によって軍人軍属を『英霊』として顕彰し続けたのは、それによって遺族の不安をなだめ、その不満の矛先が決して国家に向かうことのないようにすると同時に何よりも軍人軍属の戦死者に最高の栄誉を付与することによって、『君国めに死すること」を願って、彼らに続く兵士たちを調達するためであった」と書くが、靖国神社は軍国主義者たちにとっては、神道は生活と結んだ自然崇拝に属しており、シベリアのシャーマニズム、ケルト族のドルイド崇拝、アメリカ・インディアンのアニミズムに共通し、神学的には宗教の周辺部にある習俗に属す存在だ。だから、国内では意味を持つ歴史的な説明は、特殊すぎるために文化人類学的に翻訳し直すことで、世界に通用するように書き改めることが必要だ。

 神道は太古神道、宗派神道、国家神道の三つに区分できるがここで取り上げた靖国神社は国家神道の中核であり、明治政府は人々の精神支配のために、維新期から1945年までのほぼ80年の期間にわたって、国家神道を政治支配の道具として使った。

 明治維新において古代レジームを復活するに際し、中央集権的な国家体制を築くためには、国家主義的な神話と宗教の結合が必要だった。そのためには太陽神である天照大神の子孫が、現人神である天皇として神格化され、軍隊を統率する大元帥陛下を崇拝する形で、国教としての国家神道を統治に直結したのである。

 そして、大日本帝国が版図を拡大して行く過程で、侵略戦争を正当化して戦士を顕彰するために、靖国神社は別格官幣大社の称号を付与され、国のために死ぬ名誉を象徴する場所に位置づけられた。だから、軍国主義を復活して過去の栄光に陶酔したい、懐古趣味を生き甲斐にする国粋主義者にとっては、靖国神社は大地と血に直結 した聖地であった。

 こうした靖国神社問題を含む考察については、拙著『小泉純一郎と日本の病理』で論じたので繰り返さないが小泉前首相の病理について診断したのに、残念ながら出版社がその部分を削除してしまった。私は地球の病理を扱う地質の専門家であり、構造地質学を十年以上も専攻して学んでいるので、診断術を人間に応用するのは簡単だから、これまで社会の病跡学の著書を何冊も出版している。だが、日本では医師の免状がないと診断は出来ず、小泉が精神的に異常だと本に書く行為自体が名誉段損での訴訟の対象になるらしい。

 だから、英語版で出した「Japan’s Zombie Politics」の中には、ロバート・ヘイ博士の「サイコパス理論」を援用して、小泉についての病理診断を復活させたが、小泉が靖国神社に示した妄念は異常心理に属しており、それは栗本慎一郎の証言で実証されている。

 首相の立場での靖国神社への執拗な参拝については、小泉首相の信念に基づく行為であったとされ、それが政治的信条だと一般に考えられている。だが、慶応時代に小泉の旧友だった栗本順一郎代議士は、「週刊現代」の2005年12月24日号に「パンツをはいた純一郎」と題して、興味深いエピソードを披渥しているので引用する。「…小泉は通常の意味で、とにかく頭が悪かった。…理解力がゼロなんです。…小泉は採点のしようがないくらいバカだというのが正しい評価です。…普通、性格が悪いというのは、相手が嫌がることをわかって意地悪するやつのことをいうわけですが、彼の場合は、理由がわからないでやるんです。だから、結果として、性格が悪い。…靖国神社参拝問題で、小泉は中国、韓国の怒りを買っていますが、靖国神社に対して、彼は何も考えていないですよ。私はかつて国会議員として『靖国神社に参拝する会」に入っていた。そこで、小泉に「一緒に行こうぜ」と誘ったのですが、彼は来ない。もちろん、靖国参拝に反対というわけでもない。ではなぜ行かないのかといえば「面倒くさいから」だったのです。ところが、総理になったら突然参拝した。きっと誰かが、『靖国に行って、個人の資格で行ったと言い張ればウケるぞ』と吹き込んだのでしょう。で、ウケた。

 栗本慎一郎博士は元明治大学の教授であり、構造人類学者として私と同じ構造主義者だし、構造主義は「精神分析」「地質学」「マルクス主義」の三つの基盤を持ち、それは目に見えない構造を見つけ出す学問である。異常精神に支配された小泉首相の愚行に、日本中が引きずりまわされて外交を損ない、政治の中に狂気を導入してしまったのであり、安倍内閣の誕生と靖国カルトの跋扈を許したが、どれだけの日本人がそれに気づいただろうか。


記事 inserted by FC2 system