『創』 1998年10月号



「朝日・講談社巻き込む大激論の欠落した部分」




騒動の間接的当事者の一人として敢えて言う。節書に抗議し回収を要求してきた本多・疋田両氏は、偏屈で驕慢なタコ壺思考が丸見えではないか。
   
藤原肇(国際コメンテーター)



墜落し腐敗した日本のジャーナリズム


 政官財界の鉄のトライアングルを舞台にして、相次いで露呈する汚職や支離滅裂な政治のために、日本の杜会は悲惨な亡国現象に支配されている。この重苦しい時代性の招来の原困としては、鉄のトライアングルの腐敗だけではなく、杜会における自浄能力の欠陥がある。
 しかも、権力を監視して不正を追及する役目を与えられ、常に冴えた批判の目を保つ義務を持つので、司法、立法、行政の三権力に続いて第四の権力と呼ばれ、〔社会の木鐸〕と自負するジャーナリズムを中核にした、メディアの腐敗もそれに深く関係している。
 官僚が定年後の天下り先を確保するえめに、特殊法人を作って税金を無駄遣いしたり、その下に子会社を幾つも作って系列化して、付け回しをしていたことの露見が物語るように、日本は役人たちによって食い荒らされて来た。それと同じことを新聞社もやっており、系列化したメディアが天下り先になって、退職金の稼ぎ場所として利権化している。
 そのために定年後の有利な役織を得ようとして、人事を巡って醜い派閥争いが罷り通り、新聞社でも酷い追従が横行しているために、記者たちの士気に影響を及ぼしている。特にこの傾向が著しく目立つようになったのは、報道界の幹部が巻きこまれ綱紀弛緩が顕在化した1988年のリクルート事件の後からである。
 1973年の第一次石油危機の半年前に出した『石油危機と日本の運命』(サイマル出版会)と題した処女作が、私と日本のメディアの交渉の始まりになった。その時から私はジャーナリストに取材される立場になり、取材を受けた何百人もの記者と知り合ったし、その時以降30冊あまりの著書を出したが、読者の多くはジャーナリストたちだった。
 リクルート事件の後で報道界の腐敗に関心を持ち、私はインタビューによる取材を始めたが、各新聞社に何人も現役記者の読者がいで、内部問題についての情報は面白いほど集まったし、退職したOB記者から色んなことを学んだ。また、現役時代に幹部として組織の中枢にいた人の目から、直接に極秘情報を取るのは困難だが貴重であり、隠棲の地を何回も訪ねてインタビューを試み、固い口から秘話を聞き出すのに7年を費やし、『朝日と読売の火ダルマ時代』の原稿を苦労してまとめた。
 だが、出版は困難を極め40社以上に断わられ、最後に雑誌社に持ち込んで上梓にこぎ着けたが、読者に届いたのは1997年11月だった。出版がら3力月の間にまともな書評は、『東洋経済』『LAインターナショナル』『財界にっぽん』の経済誌だけであり、新聞も総合誌も週間誌も取り上げなかった。
 『噂の真相』の2月号が朝日関連の記事で言及し、重大問題だのに朝日ば抗議もしないと挑発したので、朝日の広報室長からの抗議文が届き、事実違反と名誉を傷つける記述を訂しで謝罪せよと主張した。私ほ真実に関しての裏取りはしているから、名誉を傷つけたか否かより読者の信頼確保のために、自らの嫌凝を晴らすことが先決だと回答した。
 暫くして疋田桂一郎と本多勝一の連名の抗議書が届いたが、抗議書の内容は〔木の葉だけで木も森も見ない〕たぐいだった。



偏屈で驕慢なタコ壷思考


 抗議文は虚偽の記述で名誉と信用を損なったから、記述を取消し二人の承諾を得た謝罪文を朝日に掲載し、本の販売を停止し、回収せよと要求していた。この段階で〔本多・疋田vs岩瀬〕の低次元の応酬の余波で、その飛沫を浴びる不運に見舞われたが、相手が拙著を誤読し絶版要求の言い掛かりを付ける以上は、私ばたしなめの返答を出す責任があった。
 『朝日と読売の火ダルマ時代』が論じているのは、堕落し腐敗した大新聞の体質を改革して、ジャーナリズム本来の機能を取り戻すために、過ちを反省して腐敗の根を断つことだ。ところが、自分のことしか眼中にない二人は、自ら犯した軽率な行動の反省も抜きで、新聞記者としてのケジメが何かも考えず、新聞の網紀弛緩の批判に難癖をつけて来た。
 本多記者とは20年来の友人だが、私はとても残念だと思ったものであり、その一端が綱紀弛緩にあるなら、官庁と同じで機構改革が本可欠になる。
 この抗議書騒動を一瞥して明らかなことは、二人の驚くべき視野狭窄症についてであり、国内だけに通用するタコ壷思考が丸見えだ。閉鎖的な日本の専門家集団を論じた丸山真男は、内だけで通用する俗論が罷り通って、外から何か言われると忽ち被害妄想に陥り、全面攻撃に曝されたと身構える姿勢に、典型的なタコ壺発想があると指摘している。
 タコ壷思考を相手にするのは楽しくないが、ジャーナリズムの健康に役立つなら、活字論争の場があれば参加してもいい。〔悪口雑言罵言誹誇講座〕というコラムで、本多記者は雑誌に好き放題を書き散らし、相手に対して乱暴な攻撃をしている癖に、他人から批判を受けると興奮して噛みつくので、まともに扱う人は余り多くない。
 だが、長い交遊を通じて偏狭さを知る人を相手に、議論ではなく口論はご免被りたいと思い、決め手になる返事で反省を促すことにした。



本多・疋田両氏の抗議に対する返答


 ファックスで送った返答は次のような内容だった。
《拙著『朝日と読売の火ダルマ時代』の記述に関し、FAXで届いた抗議書に関して返答します。抗議書の文中で拙著の記述に虚偽があると難癖をつけ、二人の名誉と信用を傷つけたと主張し、謝罪と本の発売停止を要求していますが、これは視野狭窄に基づく不当な言い掛かりであり、拙著を読み直すようアドバイスします。
 指摘にある記述ばインタビュー記事であり、すべて相手側の発言に基づく情報に従い、私はその受け答えをしていますし、疋田記者に関してば褒めただけでなく、記者の良心との関連で朝日新聞を称賛しています。これを名誉棄損や信用破損と読んだのなら、その読解能力と社会常識の低さは呆れたものだと思うに至りました。
 昔から朝日の記者には私の読者や友人も多く、二人が学芸部の松原記者のスキー仲間であり、アッピヘのスキー旅行に行っているのは、社内で知れ渡った公知の事実です。また、接待凝惑に関して社内調査が行われ、朝日の上屑部に報告されていた事実は、講談社発行の『Views』1997年1月号に、岩瀬達哉記者が詳細にレポートしています。
 朝日関連の情報のウラ取り作業をしたので、リクルート事件当時に広報担当重役として、社長室長を兼任して社内情報を統括した青山取締役から、私は未公表の諸事実があったことを確認しています。広報担当取締役は社内情報の掌握の点では、社長以上に精通しているのは周知であり、当事者が体面上その事実を否認したにしろ、責任者の証言が黄金よりも重いのは常識です。
 古い話ですが『文藝春秋』の1983年4月号に発表した、私の「ドームゲート事件」の記事が縁で知り合って以来、岩瀬記者の成長と活躍は目覚ましく、最近は「論際事件」や「大蔵省接待凝惑」のスクープを続け、95年度の雑誌ジャーナリズム賞を受賞しています。緻密で果敢な岩瀬記者の取材力は絶大であり、かつて「極限の民族」のレポートを生んだ、若き日の本多記者を遥かに凌駕する以上は、彼が取材した朝日の衝撃スクープが、問題の核心に迫っているのは凝いなしです。青山顧問からの私のウラ取り作業からも、岩瀬記者の記事に言い掛かりを付けた点では、二人の拙著に対しての抗議も同類であり、自分たちの軽率な行いを反省した上で、一層の修行に励むようアドバイス致します。
 日本のジャーナリズムの健康のために、活字論争の場の提供があれば参加するので、朝日の論争誌『論座』綿集長が書いた、無条件無修正掲載の承諾書を送付下さい。敬具》



アッピの接待に矮小化された激論


 このファックスが何らかの効果を生んだと見え、半年ちかくも音沙汰がない状態が続くが、長年の文筆稼業を通じメディアに書く場を持つので、本多記者は得意の悪口雑言を撒き散らしていた。日本が直面している危機的な状況を前に、こんな枝葉のことに捉われて浪費する時間と手間は、老人のエゴを満すだけの壮大な無駄であり、身勝手な主張の氾濫は言語界にとって不毛である。
 そう考えた私ば5月半ばの段階で『創』に寄稿を申し出、日本の報道界の綱紀弛緩と腐敗の克服を論じ、その一部で本多・疋田連名の抗議書の問題に触れ、読者の中核であるジャーナリストヘ問題提起を試みたが、論点が大きいからと9月号には不掲載だった。
 日本のジャーナリズムの堕落と腐敗を危倶するが、個々の醜聞にこだわる気のない私にとって、アッピの接待に問題を矮小化した激論とやらは、子供の喧嘩に似で不毛な応酬に終始していたから、巻きこまれずに済んだのは幸運であった。こんなアソビの接待のような全体の一部で微細な問題は、正面から論じ大騒ぎする性質のものではなく、軽率な行動で誤解されたのは不徳の至りと、参加記者たちが謝れば済む問題に過ぎない。だが、本多記者は『噂の真相』に持つコラムを使い、岩瀬記者の記事や講談社を叩いたり、『噂の真相』の記者をヨタ者呼ばわりして、一方的な発言で鬱憤を晴らしていたが、これはある意味で言論を使う暴力であり、老醜を晒け出した愚劣な所作に見えた。
 『Views』の記事を巡る一連の出来事について、現役記者や雑誌の編集者の意見を聞いたら、「重箱の隅をつつく疋田流の言い掛かりは、中学生のイジメのメディア版だ」とか、「析角の才能を愚劣なことに使って惜しい」まで色々とあった。また、岩瀬記者については「迫力は弱いが丹念な取材をしており、自信をつければ第二の大森実になる」とか、「もっと騒げばいいのに地味すぎて物足りない」など賛否両論いろんな見解があったが、卑小な争いはみっともないと気づくべきだろう。
 リクルートによるアソビでの接待の問題は、拙著では報道界の堕落の一端として言及しただけで、この件に私は間接的に関与したに過ぎない。だが、『創』が9月号で試みた〔大激論〕特集を読んで、当事者の両方に20年ちかく知り合う私は、次のような批判と読後感を持ったが、他の読者たちの印象は如何だったろうが。



(大激論)に乗った当事者たちへの批判


 先ずは本多・疋田組を代表した本多記者だが、ジャーナリズムが堕落して危機的な状況にある時に、今の日本に何が最優先であるかを見失ない、卑小な問題にこだわって騒ぐ姿は余りに退嬰的であり、醜悪な老害ぶりは見るに堪えない程だ。過去に蓄積した豊かな経験を生かせば、腐敗して混迷に陥った日本のメディアに対して、大改革の提言と実戦が出来る立場にいながら、目標と挑戦の意欲を次元の高い所に向けず、歪んだ情熱をエゴの満足のために浪費するだけで、晩節を汚して気づかないのは不思議である。
 次は未知の疋田記者に対しての疑問の提示だが、より若い世代の育成に手助けする意味で、老記者の出来る最大の貢献があるとしたら、私小説的な空しい抗議の記録をまとめる代わりに、より社会性の高い仕事に熱意を注ぐことが、第一線を退いた記者の役割のはずである。また、『朝日と読売の火ダルマ時代』の中の記述において、イニシアルを使った岩瀬記者と違って私は本名を明記し、本多と疋田の両記者の不見識を叱正したが、若い岩瀬記者ではなくなぜ私に対決しないのか。
 拙著の記述に抗議して目前払いを食わされ、その後は抗議一つ出来なかったことを思えば、イジメを記録した日誌で都合の悪い事実を抹殺し、美文家の末路を独善で飾るのば余りに哀れだ。それに、〔李下に冠を正さず〕という言葉の前には、〔君子は未然に防ぎ、嫌疑の間に処らず〕の句がある位は、歴代の「天声人語」担当者の常識であり、〔過ちて改めざる、これ過ちと言う〕教訓に基づき、次の世代への包容力ある心を期待したい。
 次に遊軍の立易で岩瀬記者をズバリ批判すれば、『新聞が面白くない理由』に収録した『Views』のアッピの記事は、抗議と嫌がらせの影響だと推察するが、トーンを落として書き変えたために迫力が減り、析角の本の資料価値が低減している。また、昔から私家版で出る本は二種類に識別されており、杜会性がないか時代に超越しているかに分かれ、私家版の主役は情趣の世界が庄倒的だが、無価値に属す『書かれたらそれまでよ日誌』に対して、反論するような愚行の目撃は残念だった。
 少なくとも『新聞が面白くない理由』が扱ったのは、日本のジャーナリズムを蝕む堕落と腐敗であり、その点で『朝日と読売の火ダルマ時代』と共通した、日本を包む危機的な状況に対しての警世の書として、大きな次元の問題に挑んでいるはずだ。日本の危機の問題に関して太平洋戦争を論じ、戦争のテーマに外交や軍事の問題を扱った時に、それが卑近な形で矮小化されてしまい、防空壕の掘り方や竹槍訓練になったと知れば、そんなレベルの議論に参加しないのが見識だし、そのための節度が品性を磨くのである。



朝日新聞と講談社の対決では幼稚に過ぎる


 最後になったが、「大激論」の調整役をした岩本太郎記者に対して、日本では相互批判が歓迎されないのを承知の上で、特集記事を日本の外で読んだだけでなく、拙著を通じて問題に関与した立場から、今後への注文と期待を合めて提言したい。
 合計で20頁にわたる紙数を割いて実現した、この特集はある意味で貴重な企画だと思うし、『創』の読者にばジャーナリストが多いが故に、リードの仕方で建設的な成果をもたらし得たが、朝日新聞と講談杜の対決では幼稚に過ぎる。
 しかも、危機的な状況が日本のメディアを包んでいて、誰かが勇気を持って大胆な改革に挑まない限り、馴れ合い気分が自壊作用を促進するだけだ。だが、問題を矮小化して危機への切迫感を押しやれば、第四の権力は外からの批判が少ないために、「茄で蛙」症候群と呼ぷ緩慢な死にやられるが、醜聞好みの週刊誌と違う識見が欲しい。
 その点で『Views』の連載は画期的であり、日本の報道界の堕落と腐敗を追及した功績は、大いに評価していいばずだと考える。また、日本の外から故国を30年問にわたって観察し続け、遊軍として岡目八目のフリーランサーをしたが、現在の日本が陥っている亡国現象の背景に、私はジャーナリズムの堕落と腐敗の存在を読み取る。
 報道界全体を支配している危機的な状況は、日本のメディアが抱えた構造的な問題に由来し、単なる朝日新聞と講談社の問題ではなく、もっと本質的なジャーナリズムの在り方に関わっておリ、一刻も放置できない状態にある。そうである以上は、こんな防空壕論的な矮小化したものでなく、正面からジャーナリズムの運命を取り上げた、次元の高い正攻法の議論が次に必要であり、それを心ある読者は期待していると確信する。


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