『文藝春秋』 1983年04月号



誰も知らない“第二の安宅事件”
金融パニックの引き金になるか、日本が入れあげるドーム石油会社の危機

藤原肇(国際石油コンサルタント)



ドームゲートは氷山の一角だ

 安宅事件は戦後最大の倒産劇であり、目の前で進展した壮絶な企業崩壊のドラマは、一九七六年を日本の経済史にとって忘れ難いものにした。
 そして、「企業とは、こんなにあっけなく崩壊し死滅してしまうものだろうか」とは、創業七十年の実績と伝統を誇る安宅産業という商社が倒産した瞬間の巷の声であった。それは、自分の一生を託す会社は運命共同体と同じだと考え、モーレツ社員として働きつづけて来た安宅マンの嘆息だけでなく、総合商社こそ戦後の経済繁栄の推進役だと信じてきた、一億日本人の驚きを含んだ声に他ならなかった。年商二兆六千万円を誇った総合商社の安宅産業の墓標は、カナダのニューファウンドランド州の一角で朽ち果てようとしているが、日本人は教訓を学んだのだろうか。
 石油ビジネスにおける「ババ抜き合戦」に敗れると、会社でも国家でも実にあっけなく全面崩壊するのが世の常だ。そして凍てついた白い霧が旅情をさそう、あのニューファウンドランドで安宅産業を野たれ死にさせたのは、三億ドルという数字に表わされた冷酷な負債とその大きさに他ならない。
 仮に、近い将来において、安宅事件の五倍、十倍の規模での取りつけ騒ぎが発生した場合に、生き残る力を持つ企業が、果たして、わが国に存在し得るのだろうか。しかも、その十倍のスケールの負債をかかえた倒産劇が、たったひとつではなくて次つぎと起った時、日本株式会社としてのわが国は、果して、生き残り得ると考えることができるのか。
 安宅事件の"七回忌"が未だやって来ていないというのに、われわれは再びここに凍てついた北極おろしの彼方に浮び上ろうとする不吉な影を目撃しようとしている。おそらくそれは“ドームゲ−ト事件”とでも名づけられて、安宅事件の十数倍を上まわる惨事を伴って、これからその全貌を日本人の目の前に現わすことになるだろう。
 北極洋の一角に位置するカナダ領ボウフォート海に拡がる黒い霧が、インドネシア、中南米諸国、そして中東産油国の金脈とどのように繋っていくのか。しかも、その国際的な利権漁りの構図が、日本の政治家とどう絡んでいるのか。
 昭電疑獄、造船疑獄、インドネシア賠償疑獄、ロッキード疑獄といった数かずの構造疑獄は、政治を喰いものにして利権商売に明け暮れる、自民党株式会社の営業案内の大見出しにすぎない、と言ってもいい。そして、報告書に現われていない陰の部分には、国民が知らない隠し財産が埋れているのであり、ひとつの疑獄事件の中には幾十とも言える汚職事件が構造的に含まれている。しかも、ドームゲート事件にまつわる新しい疑獄の氷山は、おそらくそれ以上の、巨大なものが隠れているのではないかとさえ予想できるのである。


カナダの彗星・ドーム石油社

 日本からカナダを訪れる観光客の多くは、バンフの東方百キロに位置する、石油の町カルガリーの空港を利用しているはずだが、このカルガリーはテキサスのヒューストンに続いて、世界第二の情報センターでもある。カルガリーには八百社以上の大小石油会社と三千社に近い石油関連のサービス会社がビジネスを営み、ダウンタウンに林立する高層ヒルの偉観はシカゴやトロントを凌ぎ、ニューヨークに次いで世界第二位だとも言われている。
 儲け話に関して目ざとい日本の商社は十五社も営業所を構えているし、最近では東京銀行も出張所を開設した。私がカルガリーに住み始めた一九六九年には、人口も三十万人で日本の商社は一社も支店を構えていなかったが、一九七三年に三井物産がオフィスを構えて以来、日本料理屋も数軒営業し始めたし、人口も倍加してブームタウンの賑わいを見せている。
 ダウンタウンのビルのほとんどは石油関連会社のオフィスであり、セブン・シスターズのカナダ子会社は、総て自社の名前をつけた三十階建て四十階建てのビルを構えている。年間売り上げ高が二十三億ドル(約五千億円)のドーム石油社は、カナダ最大の独立系石油開発会社であり、町の中心に四十階建てのドームビルを築いて陣取っているが、このクリーム色の存在が、日本人を幻惑し、この会社に何千億円もの資金をいれあげることになるのである。
 ドーム石油社の三十年余りにわたる成長の歴史は、そのままカナダの石油産業の発展史と、世紀の風雲児ジョン・キャラハーの成功譚が二重映しになった戦後史でもある。カルガリーでジャックと言えば、その筆頭はまず彼のことであり、スタンダード・オイル・オブ・ニュージャージーのフィールド・ジェオロジストとして中央アメリカやエジプトの石油開発に従事した彼が、カナダの子会社であるインペリアル石油に戻ったのが一九四九年だった。ちょうどカナダはレデュック油田の大発見で賑わっており、トロントのドーム鉱業に行って、石油開発のベンチャー・キャピタルを調達すると、ジャックは地質担当マネジャーにおさまった。そして、この時の二十五万ドルの資本が、三十年間で最高が十七万倍に達したのちに最後の破綻に結びつくのだが、少くとも初めの二十五年間は輝かしい発展の四半世紀だった。創立期のドーム石油社は下部白堊系の石油と天然ガスの開発を主体にして順調に成長し、同じ地質仲間のコーン・ヘイグと共に組織を固めていった。ジャックは持ち前の政治的手腕を発揮して、ハーバード大学の基金を石油会社買収の資金に運用したり、次つぎに小さい油田や有望鉱区を買い漁っていき、ドーム石油社の資産内容を大きくした。そして、一九五六年にウイニペックの弁護士ビル・リチャードを経営陣に迎え入れた時には、すでに、ドーム石油は積極果敢な中堅石油会仕として、投資家たちの注目を大いに集める仕手株の寵児でもあった。
 それからの二十年間にジャックとビルの乗っ取リコンビは次つぎと会社を買収し続け、資産増加と新株発行の錬金術が眩いほどの成果をあげ、ドーム石油社の株はニューヨーク市場の人気銘柄として、ウォールストリートで大いにもてはやされたのだった。経済欄を賑わせた買収工作には、トランスカナダ・パイプライン社、カイザー資源開発社、メサ石油社、ハドソン・ベイ石油社などが大物として数え上げられ、ハドソン・ベイ石油の買収には四十億ドル(約八千億円)の資金が、銀行借り入れで動員された。そして、このハドソン・ベイ石油買収が、ドーム石油崩壊のスピードを加速させることになるのだが、それは一九八ニ年まで待たなければならない。
 一九六八年にアラスカのプルドホ湾で北米大陸最大の油田が発見されたニュースは、全世界に大きな衝撃を与えた。日本の財界はその石油を輸入することを考えて、東京にノーススロープ石油会社を設立したし、私までがフランスの石油会社をやめて、次に大発見を予定されるマッケンジー・デルタを目ざして、カナダのカルガリーに移り住んだ。そして、カルガリーの石油業界はカナダ領北極洋周辺地帯の石油開発に、積極的に取り組みを開始したのである。
 それにしても、最も有望なマッケンジー・デルタ一帯は、資金力を誇るセブン・シスターズの子会社が鉱区を独占的に支配しており、北極洋多島海では広域的な征圧に成功したドーム石油社も、デルタ周辺では水深五十メートル前後の、ボウフォート海南部の鉱区を抑えるだけで我慢せざるを得なかった。石油開発はビジネスとして行う一種の戦争である。補給と兵站を担当する資金力と、兵器や兵隊を整える組織力、それに戦略や戦術を構想する頭脳力という点で、カナダで最も野心的なドーム石油社といえども、メージャーズの底知れぬ力の前には、互角に戦うという訳にはいかなかった。
 それでも、卓越したジェオロジストであり企業家としてのジャックには、辣腕のビジネスマンであるビルがついて金策を担当していた。一九七〇年代前半期のドーム石油社は、北極洋多島海における石油開発のパイオニアとして、オイルマンやジェオロジストたちの敬意を捧げられる数少ない会社のひとつであった。もっとも、パイオニアには常に毀誉褒貶はつきものである。人によると、「ドーム石油社は開発に自分のカネは全く使わず、専ら他人の資金を大量に使いまくる。だから、パートナーになる場合には、大いに用心した方がいい」と言って、接近するのを敬遠する会社も少なくなくなかった。 その危惧が現実のものになったのがダラスのハント石油社の訴訟事件であり、世界最大の金持であるハント親子が経営するテキサスの石油会社は、ボウフォート海のドーム石油社所有の鉱区の共同開発の話に誘いこまれ、巨大な開発資金を使わされたあげ句の果てに、ドーム社を訴えて癇癪球を爆発させた。この段階で会長と社長を兼任していたジャックに代り、弁護士兼ビジネスマンとしてのビル・リチャードが社長として登場し、一九七四年を契機にしたドーム社の超積極路線がスタートすることになるのである。


流れ星になった北極の彗星

 七〇年代前半はマッケンジー・デルタの石油探鉱がダイナミックに推進された時期であり、エッソの子会社インペリアル石油を筆頭に、ガルフ、モービル、シェルといったメージャーズ系の会社が、極寒とツンドラを相手に石油開発に挑んでいた。一九七〇年のアトキンソン一号井の出油成功以来、タグル、パーソン、ヤヤといった具合に発見が続き、一九七五年には合計十五本の発見井を数えるに至ったが、空井戸の数も百本に近かった。なに分にも、カルガリーから二千二百キロも離れたマッケンジー・デルタは、器材や人材だけでなく、燃料や食糧の補給は総て空路で行わねばならず、一本の試掘に数億円あるいは数十億円のコストがかかるので、この挑戦は世紀の難事業のひとつでもあった。
 私自身新しいフロンティアヘの挑戦を体験するために、フランスからカナダヘ移り住んだのであり、ジェオロジストとしてより責任ある任務を担当する上で、ユニオン石油からベルギー系多国籍石油会社のペトロフィナ社に転じて、このチャレンジをデルタ計画統括責任者の立場で体験した。ペトロフィナ社はメージャーズほどの大組織ではないが、日立や三菱に比較できる経済的実力を持つ会社と評価を受けていたので、プロジェクトごとにインペリアル社やガルフ石油などから、共同開発の話が持ちこまれた。そこで数かずのデータを解析してプロスペクトの評価や投資効率の計算などをやったものだが、五年以上も担当して研究していた私にとってさえ、マッケンジー・デルタやボウフォート海の海の構造解析や層位同定の仕事は困難なものだった。
 一九七三年のオイルショックを契機に石油価格が高騰し、石油の安定供給がカナダにとって政治課題として脚光を浴びたことにより、フロンティア地域の石油開発熱は高まっていき、一九七五年から七六年にかけてブームはピークに達した。同時に盛り上ったカナダの民族主義が反米感情を高め、トゥルドウ内閣の石油会社のカナディアニゼーション政策の反映もあって、七六年半ばにはブームは急速に凋んでしまう。一九七五年に国営のペトロカナダ社が発足し、特権的な立場で石油開発に乗り出した。その特権が余りにも排他的で差別的だったために、メージャーズは言うに及ばず、米国資本との結びつきを持つ独立系石油会社のほとんどが、カナダにおける石油開発への投資を差しひかえた。しかも、毎月のように五社、十社の規模で、米国系会社がカルガリーのオフィスを閉鎖して、国境の南にと引き揚げていった。有名なアメリカ資本のカナダからのエクソダスがこれである。
 実力を誇るアメリカ系石油会社が活動を低下させると、その機会を最大限に活用して、ドーム石油社を指揮するジャックとビルのコンビが派手に動き出す。ウォールストリートの資金を大量に導入した都合上、七割余りが外国資本だったドーム石油社は、大急ぎでカナダ化への転換策を講じる必要があった。そこで採用された魔術のひとつが新株の発行であり、同時に百%支配の子会社ドームカナダを作り、株をカナダ人だけを対象に発行する作戦である。成功を手に入れる鍵は株価操作のためのニュース源としての、新しいプロジェクトと石油発見の吉報の確保だった。
 ブリティッシュ・コロンビア州の天然ガスプラント新設、ダウ・ケミカルと共同のエチレン工場や新規石油化学コンビナート計画、それに、ボウフォート海の大胆な開発計画などが続々と発表され、人びとの注目を集めた。ドーム石油株は人気株の筆頭として儲かる株の代名詞となリ、カナダ中の投資資金が山積みになって大型ドームを形成した。ドーム石油の社員は会社の奨励策もあったので、数万ドルの単位で借金をして、自分の老後の蓄財の意味で株を買い集めた。上昇する株価が大天井に達するたびに分割されて株数は増え、人びとは資産増加で有頂天になった。こうして、ドーム石油社の手練手管が縦横にその威力を発揮し、不況の翳りの出たカナダの石油業界の中で、ドーム石油社だけがラベンダー色のオーロラの輝きに照り映えていた。
 一九七八年に独立してコンサルタント会社を設立した私は、ドーム社とペトロカナダ社以外は活動を縮小した不況に沈むカナダのフロンティアに見切りをつけ、専ら米国の油田地帯での仕事に従事した。
 ドーム石油社の一人舞台は二年間ほど華々しく続いたが、その天下はあくまでも一時的なものでしかなく、一九八〇年代の始まりと共にカナダ経済を覆った経済不況の中で、すっかり色あせてしまった。
 カルガリーのオイルマンたちの間では、ドーム石油社のプロジェクトは技術的にも大変杜撰であり、オペレーションのいい加減さはひどいもので、予算の八割や十割のオーバーは日常茶飯事だ、という悪評が公然と囁かれていた。急激に事業が拡大したために、その任にふさわしくない人物が、力量以上のプロジェクトや予算を取リ扱ったせいである。
 そんな時、かねがね噂の形では流れていたが、ボウフォート海の石油開発に日本が資本参加する、というニュースが、大きなセンセーションを伴って公表された。ドーム石油社の株は再び、反騰に転じた。なにしろドーム石油社に注入される日本からの資金が四億ドル(九百億円)という金額で、これは安宅が出した負債をはるかに上まわっていた。


石油公団がとびついた

 カナダ政府の差別的なエネルギー政策が本格化した一九七七年頃から、メージャー系だけでなくドーム石油社までもが、マッケンジー・デルタやボウフォート海南部の鉱区権の一部を、ファーム・アウト(分担請け負いに出して井戸を掘ること)するアプローチをとり出した。単独でボーリングするには、フロンティアの事業として余りにもリスキーだからである。
 東京を訪れたビルは経団連の紹介で石油公団を訪問すると、ボウフォート海の石油開発プロジェクトを披露すると共に、日本の資本参加を呼びかけた。時あたかも、華々しいドーム石油社による一人舞台の時期であり、天下り通産官僚の吹き溜りである石油公団にはカナダの石油開発について理解できる専門家が、人材として一人も存在しなかったので、辣腕のビル・リチャードによって、たちまちのうちに自家薬籠中のものにされてしまったのである。
 この時期のカルガリーでは、まともな石油開発会社はどこもドーム石油社のパートナーになって、ボウフォート海に乗り出そうなどとは考えていなかった。なぜならば、ドーム石油社の保有している鉱区は、地質学的に見てプロデルタの堆積環境と、厚い砂岩層の発達する可能性に乏しいトルビダイト層で構成されていることが、かなりの確率で予想できたからだ。何億ドルや何十億ドルの開発資金が必要になる所なら、それに見合った何十倍という価値を持つ石油の埋蔵量が期待できなければビジネスにならないが、トルビダイト層にそれを賭けるのは無謀だ、というのがプロの間の常識になっていた。常識の裏をかいて見ごとに経済採算性を伴う石油を生産できれば、こんな目出たいことはないが、それは一発勝負の千三つ屋のやり方であって、科学をベースにした石油開発のアプローチとは違うのだ。
 ところが、単なる行政上のテクノクラートでしかない日本の石油公団の官僚たちには、時代の最先端をいく多国籍企業が全力をあげて死闘を繰り広げている、石油ビジネスの頭脳ゲームをやり抜くだけの能力は無い。
 日本の政治の本質は補助金という名の税金のバラ撒き合戦である。政治家が役人をうまく使って行う、各種の利権漁りのシステム化されたものに他ならない。そこに金権政治の背景もある。そして、エネルギー源としての石油の確保が、日本の安全にとっての最優先課題だという大義名分があり、石油利権が有望な政治金脈と結び付く以上、政治家は役人と組んで利権に死にもの狂いでむしゃぶりつくのである。
 石油公団がこの話にとびつき、早速、商社や電力各社を始めとして大企業に呼びかけて、日本側グループを編成する。
 日本側は団長の石油公団理事以下、東京銀行や日本鋼管といった各社代表三十名近くが、ドーム石油社と条件などについて団体交渉を行うのだ。日本側はアメリカの大学を出た東銀の若手社員が通訳だったが、ドーム石油社は元ジャペックス・カナダ総支配人として、石油ビジネスの経験を持つ早川聖氏を通訳に頼んで会談に臨んだ。ことばの翻訳はできても、石油開発の具体的な問題に関して専門知識に不足する日本側は、たとえ人数は多くても少数精鋭でベテランを布陣したドーム社にふりまわされっぱなしだった。
 早川さんの話によると「私はドーム石油社から雇われて仕事をした立場上、余計なことを言う必要はないので忠実に通訳をしただけです。それにしても、この交渉の荒筋は実におかしなもので、ドーム石油社のカンバンや建物は使っているものの、実は日本グループに融資させる相手が、資産も何も持っていないドーム・カナダ社という子会社だという筋書なんですな。これは日本でも取りこみ詐欺によく使う手口でして、私にはすぐにピーンと来ました。それに公団の理事とかいう人は、ファーム・インという言葉の意味もまともに分らない程度の頭脳だのに、実に横柄な熊度でして、これは裏に何かあるという感じがしたけれど、私の立場では何も出来なかった」というのである。
 ドーム・カナダ社というのは、一九七七年十月以来カナダ連邦政府が認めた、別名をドーム予算という
 特別課税控除(タックス・.シェルター)をベースに派手に活動し始めた会社で、ドーム石油社の子会社としてボウフォート海での開発を目的に、大量の探鉱資金を株式市場でかき集めていた。掘削船四隻やカナディアン・キゴリアーク号という砕氷船を売り物にして、派手なボウフォート海キャンペーンをしていたが、これらは総てリース契約の雇船であり、実質的に資産に相当するものは無い。だが、数回の会談の結果、日本側はドーム社にカナダドルで四億ドル(約九百億円)融資することにして、契約にサインしたのである。しかも、それはプロダクションローンとして石油で生産後に支払うという内容である。『カルガリー・ヘラルド』紙のデーブ記者はいう。
 「こんなうまい話は聞いたことがないという訳で、皆が目を丸くしました。何しろ、四億ドルのカネは石油が市場に出たあと、十五年間で現物払い。いつ商品になるか見当もつかないのに、これからあとに借金を年賦払いということは、実はもらったも同然で返す必要はないということだ。リチャード社長の天才が日本人を仕留めたということです。彼は四億ドルをもとに、もっと巨大な資金まで引き出す訳だから、カナダにとって救世主です」
 この最後の部分は意味深長である。なぜならば、四億ドルは一種の手付け金であって、もしボウフォート海の試掘で成功すれば、生産井の段階で日本は更に四十億ドルまで開発資金を融資する、というコミットメントが更に存在しているからだ。これは何と安宅産業が潰れた時の負債の十五倍であり、イランの三井石化のこげつきの七倍に相当するのである。しかも、誰一人としてボウフォート海の石油が、経済的に採算ベースにのるという確信を持っていないのである。


奇妙な資源外交

 ドーム社への融資とボウフォート海の探鉱作業を監督する窓口として、日本側は資本金四百四十億円で北極石油株式会社を発足させた。資本金の六割を石油公団が持ち、残りの四割は石油関連会社や商社などの四十四社が出資している。石油公団の財源は総て税金であり、この会社は国と財界が共同で作った準国策会社といえる。
 ところが、北極石油会社がドーム・カナダ社と契約を取りかわす前の段階で、すでに親会社であるドーム石油社の財政破綻は始まっており、カルガリーでは一九八〇年にはすでにドーム崩壊が囁かれだした。一九七九年から八〇年にかけて発生した、カナダの開発資金のエクソダスの結果、百億ドルに近いカネがテキサスのオースチン・チョークで雲散霧消し、カナダの株式市場が急速に厳冬期のように冷えこみ、流石のドームもそのあおりで資金集めの勢いが落ちこんだのである。友人のマイクは一緒にロッキーヘ行った山仲間でドーム石油社でミドルマネージメント役のジェオロジストである。一九八一年初めに彼と一緒に昼食をした時、こんなことを言っていた。
 「八万ドルほど損をしたが、三日前に会社の株を売っ払ったんだ。会社がすすめたし保証人にもなってくれたので、銀行から二十万ドルほど借金して株に投資したけど、今なら八万ドルで済むが、ボヤボヤしてたらスッテンテンになって借金だけが残る。家を売って損は埋めたが、これで十年昔からやり直しだよ。でも、社員のほとんどは借金して買った株であるが故に、最後まで手放す気になれないでいる連中が多いんだよ・・・・・・」
 一九八一年の春から夏にかけて、奇妙な資源外交が展開していて、田中六助通産相がオタワを訪問し、カナダ政府と一連の会談を行った。 私は『ウォールストリート・ジャーナル』がすっぱぬいたサウジアラビアのDD石油の話を思いだした。それはサウジの王族関係者たちがロンドンに会社を作り、各国の政治家と組んでリベートの上乗せをしたが、その不正がイタリーで発覚したという特報記事である。しかも、この報道があったあと、日本はDD石油の取引を突然中止しており、私の親しいプリンス筋の中東情報には、タナカという名前が頻繁に現われているのだ。最初私はそれを田中角栄のことだと思いこんでいたが、あとになってそれが田中六助の間違いであることを知ってびっくりした。
 メキシコ石油の輸入に関して、田中六助が大いに活躍したことは、資源を扱う日本のジャーナリストで知らない人はいないほどだ。一九七〇年代後半に新しい石油大国として注目されるようになったメキシコは、石油の埋蔵童を商売道具にして、資源外交を展開して外資導入をはかった。石油の供給地の多角化とプラント輸出を国策にしていた日本にとって、メキシコ石油は理想的存在でもあり、財界と政界が続々と使節団を派遣して、有名なメキシコ詣でをしたことは、われわれの記憶に新しい。日本側は日産三十万バーレル(五万トン弱)の購入申し入れを行い、結果として、ロペス・ポルティーリョ大統領から二十万バーレル(三万トン)の輸出割り当てをもらった。その見返りは、日本の資金で製鉄所と港を作ることと、国営石油会社ペメックスヘの四十億ドル(一千億円)の融資である。この段階でプロジェクトの旗ふり役をしたのは日本興業銀行であり、中山素平の子飼いである池浦頭取が陣頭指揮に立った。
 ところが、対抗意識を持った東京銀行が大あわてで割りこみ、バハカリフォルニアの製鉄所建設に五%を切る低金利の融資を行ったが、建設工事に取り掛る段階で、この製鉄所はガラクタでビジネスにならず、初めから失敗作であることが明らかになった。一方、日産二十万バーレルのメキシコ石油の輸入も、半分は重質油のマヤ石油であり、東亜燃料工業以外は買い取りを拒否する始末で、日本とメキシコは双方不信感を高めたのだった。
 海外を舞台にした田中六助のエネルギッシュな活躍は、特に日本人の眼のとどかない地球の裏側において目ざましいものがある。
 そのひとつがパラグアイにおける国際空港建設に対する円借款であり、この人口二百万の国に日本は百億円の円クレディットを供給した。それも首都のアスンションではなくて、僻地のポート・ストレスナウというところに、国際空港と称するものを作ったのである。
 似たようなケースはウルグアイにもあって、これも国際空港の建設で百億円の円クレディットが供給されている。パターンは全く同じであり、人口二百万人のこの国の首都モンテビデオではなく、田舎のサンタクルスという地図にもないような町に飛行場を作っている。建設の理由は、周辺に二千人の日系移民が住んでいるということだが、これは日商岩井の契約である。
 また、一部が国内に報道されたものとしては、ニカラガの地熱発電所事件がある。これも日商の仕事で円クレディットが設定され、途中でソモサ大統領が失脚する事件が起きたために汚職が発覚している。失脚後に契約価格が余りに高すぎるとの疑惑を持たれ、イタリアの会社に再入札を求めたところ、五割も安かったのだ。しかも、失脚直前にソモサが前払い金を受け取って持ち逃げをする、というオチまでついていたのである、
 こういった発展途上国に対しての日本の経済援助は、日本の企業だけが参加できるタイド・ローンが普通であり、国内の土木事業と全く同じで幾らでも談合が行われる。本命は低値で入札するし他は高値を出すのがそのやり方であり、落札した低値自体が三割から五割国際価格より高いのは当り前で、おり賃を各社に分配した残りが政治献金に化けるというのが、そのカラクリである。
 しかも、こういった援助資金を取り扱うのが、通産、外務、大蔵の古手官僚で構成する国際協力事業団(JICA)や輸出入銀行なのである。


ジャパニーズ・キラーの背水の陣

 話を中南米からカナダに戻すと、ドーム石油社の財政危機は一九八一年末には絶望的であった。資本金一億四千万ドルのこの会社の銀行負債が、一九八〇年は二十六億だったのに八一年には六十二億ドルに激増していた。しかも、オイルマンの間では、ドーム社が発表する技術データには捏造に近い意図的ミスインタープレターションがあり、信用がおけないと公然と言われ出した。それが頂点に達して爆発したのがアルバータ州の石油関係のプロフェショナル協会(アペガ)が主催した早春のコンサルタント年次総会の席上である。会長による年次報告と石油業界の情勢分析を行ったブラウン会長は、「ドーム石油社の会社報告書におけるボウフォート海の石油埋蔵量に関する数字は、プロフェショナルな職業倫理に反するものと思う。これは倫理規定に反する捏造行為に属し、この試算に参加したコンサルタント並びにドーム社のエンジニアは、プロフェショナル協会の会員資格を停止するように、資格審査委員会が調査を行うことを提案する」と発言した。ブラウン会長はジャーマン・ドリリングファンドと呼ばれる西独の石油開発のための民間資金の取り扱いでは、カナダ最大のビジネス量を誇る石油開発会社の社長である。国際的に名を知られた彼がドーム社を名ざしで批判したことは、カナダ中に大きな衝撃を与えた。アペガにはエンジニア、ジェオロジスト、ジェオフィジシストが結集しており、この組織から石油のプロフェショナルが追放されれば、ドーム石油社は石油開発を継続すること自体不可能になりはててしまうのである。
 すでにドーム石油社は加速度的に自壊を早めており、一月以来経費節約のために大なたをふるっていただけでなく、四千二百人の従業員の十五%を削減していた。ジャックとビルにとって一番の見込み違いは、四十億ドルを注入して狙ったハドソン湾石油会社の保有資金が、予想した八億ドルではなくて三億ドルに過ぎなかった点である。この見込みはずれは致命的であり、キャッシュフローを作るためには、換金できる資産を全部処分して利息に充当しなければならない。なにしろ、負債総額は七十億ドルであり、一日の金利の支払いだけで八億円必要なのである。こういった状況の中で大半が血税である日本側の払いこみ資金は、あっという間に利息の払いに消しとんでしまった。
 ドーム石油社の資産の叩き売りはバナナ商人的であり、一年前にコントロールした造船所から、ハドソン湾石油が海外に所有していた石油資産にまで及んだ。この海外資産の場合は、シシリー沖やガボン沖を含むが主としてインドネシアの権益であり、経団連を通じて価格十五億ドルで売りこみ工作をした。私の会社とサントリー社がカンサス州で小規模な石油開発を行っていると聞きこんで、ウイスキー会社にまで売りこみの話を持ちこんだそうだが、結局は英国のブリティッシュ石油が、言い値の四分の一に叩いて三億四千万ドルで落札したのだった。札束でドーム社の顔を叩いたのである。
 ここで三億ドル余り手に入れたからといって安心できない理由があった。九月三十日には十三億ドルの支払い期限が来るからであり、この巨大なハードルを乗りこえるためには、生きのびるための知恵が必要である。それがたとえ謀略や詐欺に似たものであったとしても、瀕死の手負い獣にはなりふり構っているゆとりなどなかった。
 狙いはただひとつ。オイルビジネスにはく全く無知な上に石油に貧欲な相手といえば、世界広しといえども日本人を置いてはいない。ドーム石油社の中にはジャパニーズ・リレーション・デパートメント(日本人接待課)まで出来ていたし、リチャード社長は別名"ジャパニーズ・キラー(日本人殺し)"と呼ばれ、ジャックのような"スマイリン・ジャック"とは一味違った凄味のあるエースが健在だ。
 ドーム石油社のビル・リチャード社長が考え出した構想は液化天然ガスの日本への輸出の話であったが、競合するプロジェクトもあった。ひとつはペトロカナダ社と三井物産が組んだ計画であり、規模としては五億ドルだった。もうひとつ丸紅と住商が組んだものだが、カナダ側が評判の悪い力ーター・エネジー社だったから問題にならない。ドーム石油社としての問題点は、プロジェクトが図面上は出来上っていても、肝心の天然ガスの埋蔵量が自社のものだけで半分も満たすことが出来ず、総てが単なる作文でしかなかったことである.
 しかし、日商岩井グループだけでなく、日本には石油や天然ガスの開発において、事前評価のできる会社は存在しておらず、ドーム石油社の言うことを鵜呑みにすることは分り切っていた。それに、日商のうしろには興銀と東銀がついていただけでなく、石油公団や通産相をやった閣僚級の人脈がある。


日本人の生兵法

 ドーム石油社は総て借金で他人の資本をフルに使いまくるというベースで、液化天然ガス・プロジェクト自体、日本からの四十億ドルの融資と、トランスカナダ・パイプライン社の調達する五億ドルのパイプライン建設が骨子である。そのうちの二十億ドルは液化天然ガス施設の工費、残りの二十億ドルがLNGタンカーの建造費で、日本側は年利九・七五%の利息を受け取ることになっている。すでに、毎日八億円の金利支払いで青息吐息の会社が、更に、毎日利息の追加払いを二億円以上できる、というのが日本の銀行屋の計算らしいが、果して元金の回収について考えたことがあるのだろうか。
 それ以上気懸りなことは、石油開発の専門家としての立場で、ドーム石油社が日本に売却できると祢している天然ガスの埋蔵量についてである。ドーム社がブリティッシュ・コロンビア州東北部に所有する天然ガスの内容に詳しい、ユニオン石油時代の同僚ホーマー・ジョンソンは、三十五年の豊かな経験をもとにこういっている。「あの辺でガスを生産するニカナシン層やカドミン層は孔隙率のバラツキがひどくて、とてもじゃないが、まともな石油エンジニアには生産計画が立てようがない。深さが三千八百メートルで、一本当りの試掘費が二百万ドルに仕上げが百万ドル。それにあそこの平均発見率は三割で、しかも、一本当り日産二十五万立方フィートから二百万立方フィートで、底なしの泥沼に踏みこむようなもんだ。第一、砂岩のポロシティが八%から一〇%なんて汚すぎるな・・・・・」
 石油開発を一年やった人間なら、これだけの情報が一体何を意味するか、たちどころに理解できるはずだ。砂岩の孔隙率は普通二〇%以上だし、仮にこれだけのデータをベースに投資計算すると、わざわざ八百キロもパイプラインで輸送して液化するまでもなく、カナダ国内で消費する場合だって、コストが高すぎてとても売り物にならないのだ。
 ついでだから、もう一つエピソードを紹介しておくと、ドーム石油社がボウフォート海での発見と埋蔵量を派手に発表しているが、子会社のカンマール・マリン・ドリリング社の社長のモリー・トッドは、「ボウフォート海の生産ポテンシァルの全計算値は、一次回収によるものではなくて、三次回収までの分までをベースにしている」と発表している。これは八二年九月二十日号の業界誌『オイル・ウィーク』にはっきりスクープされている。
 石油の埋蔵量の計算に三次回収分まで含めてあるなんてことは、どんなイカサマ師でもやらないことであり、石油公団の役人たちに財布をあずけたことで、日本国民は莫大な税金を使って、とんでもない喰わせものを掴まされたということになるのである。
 一九八二年九月三十日はドーム石油社にとっては乾坤一擲の瞬間であり、この日に支払い期限が来る十三億ドルの決済を果して生きのびるか、あるいは負債に押し潰されて破産するかの剣が峰だった。液化天然ガスの対日輸出で日本の銀行から四十億ドルの融資をうけるという、日商との間に取り交した証文が次の勝負の決め手といえた。作戦としては、銀行から新たに借り入れるやり方か、カナダの連邦政府から資金を引き出すことであり、日本人を相手にした場合と違って、担保に使う物件が無いまま話をまとめる戦法が使えないのが頭痛の種だった。
 手元にはBPに売ったハドソン湾石油の海外資産で得た三億四千万ドルがあり、問題は残りの十億ドル程である。九月に入るとドーム社の株価は落下し、かつては八十ドル、百ドルと言われていたものが、わずか一けたの値段になって未だ下げやまなかった。従業員を百五十人整理したとか、資産を売り払ったというニュースのたびに、株が売り浴びせられたが買い手がつかなかった。一年前までは、誰もドーム石油社の株が五ドルで買えるとは夢にも思わなかったのに、もはや三ドルでも買い手はつかないのである。
 ジャックとビルの最後の生き残り作戦が、オタワとトロントに向けてフルパワーで動き出した。オタワはトゥルドゥ首相が率いる自由党が目標で、これはジャックの担当だ。そして、力ナダの金融の中心トロントは債権者達の砦であり、いざとなれば死なばもろともということで、五大銀行を道連れにすると脅かすまでのことである。この段階で、ドーム石油社がカナダの五大都市銀行から借り入れている負債額は、商業インペリアル銀行の十四億ドル、モントリオール銀行の十億ドル、トロント統治銀行の十億ドル、ロイヤル銀行の五億ドル、ノバスコシア銀行の二億ドルといった具合だ。そして、この五大銀行はカナダの全銀行の預金高の九一%を抑えているのであり、ドーム石油社に万一のことが起れば、カナダの銀行が連鎖的に取りつけを起し、カナダ経済は前代未聞のパニックの中で収拾がつかなくなる、ということなのだ。
 結局、額面二ドル五十の転換社債を四億株発行して、それをオタワ政府と銀行グループが二億株ずつ引きうけて、九月末の危機を乗り切ると共に、既存の株主も別に二億株の転換社債を買う権利を有する、ということで話がついた。銀行と組んだ政府による半国有化であり、現在の二億二千万株の発行株式が、将来は十億株に水増しになるという手品が使われたのだ。株への投資を通じた資産作りとしての魅力がゼロに等しくなったので、取引が再開されるとたちまち一株一ドル九十セントに暴落した。一九八一年五月に一株を百八ドルで買った人間には、ドームだけでなく自分の生死にかかわる問題だったに違いない。


十億ドルをどうするか

 一九八二年の十月に東京出張した私は、商社や石油関係の知人たちにドーム石油社についての考えを問い合わせてみたが、ほとんどの人が実情についての知識を持ち合わせていなかった。ただ幾人かの商社のエネルギー担当者たちが、「日商は強引に話をまとめたが、あれはロッキード事件の弔い合戦だった」とか、「ドーム社が救済されたので、事件になってボロが出なくて済んだと胸をなでおろしている人も多いでしょうね」いう人もいた。が、中には「興銀や東銀に代えて輸出入銀行をひっぱり出すようです」といったことを口にする人もいた。
 冗談ではない。ドームは救済された訳ではなく、八三年の三月には更に十億ドルの支払い期限が来るのだ。しかも、力ナダ政府はドーム救済のために五億ドルを出した訳ではなく、銀行倒産が政治パニックに結びつくのを惧れて、銀行グループに更に五億ドルの融資を押しつけたにすぎない。現に、一番コミットメントが少ないノバスコシア銀行は協調融資からうまく逃げて、残りの四行がババを掴んだのだ。しかも、カナダ政府はカネを出す訳ではなく、一九八三年十一月までの時限立法で、ガソリン一リットル当り十七円と天然ガスに特別な税金をかけ、それで五億ドルを捻出するのであり、結局、尻ぬぐいをさせられるのは納税者としてのカナダ国民に他ならないのだ。それと同じことは日本側でも進行していて、輸出入銀行の資金というのは税金の別名であリ、太平洋の両岸で最後の後始末を国民が押しつけられようとしているのである。
 また、ボウフォート海の石油開発でコミットメントした日本側四億ドルのうち、三億三千五百万ドルはすでに払いこみ済みだが、残りの六千五百万ドルの支払い日は十二月三十一日なので、この問題についても質問してみた。事実上破産している会社に融資するのは、泥棒に追い銭だと私には思えたが、大会社のサラリーマン達には痛くも痒くもないとみえて、皆が「払うより仕方がないでしょうな」という返事をした。石油公団が各社に平均二億円ということで割り当て、奉加帳をまわして来た以上、自分の会社だけおりる訳にはいかない。なぜならば、石油公団は通産省の別働隊であり、昔と同じ行動をとらない限り他の機会にいじめられるし、変な具合に仕返しをされたら猛烈に高いものにつく。だから、さわらぬ神にたたりなしということで、お祭りの寄附と同じだと思って仕方なしにやっている。四十四社のうち九割以上は、心の中でそう思っているはずだ、というのが共通の意見だった。
 私は日本の滞在を終えアメリカに戻ったが、途中で四日ほどカルガリーに立ちより、ドーム石油社のその後の状況調査と、取材のために幾人かのカナダ人のオイルマンや旧友たちに会って意見の交換を行った。情報のほとんどは悲観的なものであり、特に、ボウフォート海のポテンシアルが予想をはるかに下まわるというものが多かった。ボウフォート海でたった一本だけ採算ベースにのると言われる井戸は、ガルフ・カナダ社のタルスーツN・四四だが、日産二千バーレル強(三百五十立方メートル)であり、油田全体として、商業採算にのる最低限の埋蔵量は五億バーレルが必要だが、現段階ではせいぜいその七割くらいが推定埋蔵量として見込めるだけだ、というのがガルフ社の発表だった。
 また、一度確定してブリティッシュ・コロンビア州政府の認可までおりた液化天然ガス計画が微妙な路線変更をとげようとしていた。そのことは九月末にカナダ政府が第一回の救済工作をしたあとで、石油ジャーナリストのミス・ラブリースが、「カナダの五大銀行が、手持ち資金の過半数に相出する巨額の資金を、ドーム石油社に追加融資をしたことが異例中の異例なら、オタワ政府がドーム社救済に乗り出したのも、きわめて異例だ」と指摘して、東京とオタワを通じる不可思議な政治力の発動があった結果ではないか、と推測しているが、どうも何かがありそうだ。そこに資源派通産相を経験済みの政治家の地下金脈が見え隠れしていると見るのは、私だけであろうか。
 液化天然ガスの日本に対する輸出は長期プロジェクトであり、液化設備、LNGタンカー、パイプラインの新規工事など、時間をかけて取り組まなければならない。しかし、誰もドーム石油社がその期間生き残り得るのかを知らないし、ジャックやビルにしても、そんな先のことはともかくとして、八三年三月に廻って来る次の十億ドルの支払いをどうするか、見当さえついていないのである。
 直ぐに金になるということで思いついたのではないかと思うが、天然ガスを液化する代りにメタノール化して、現在世界中にあり余っている普通のタンカーを使って日本に運んだらという案が、かなり具体的に進み出した。ところが、日本側には家庭の事情があって、もめているというのだ。それはLNGタンカーを作るルートと普通のタンカー船団を扱う政治家の利権チャネルが違っていて内紛があり、しかも、一九八三年は総選挙が予定されているので、その選択は日本の政治家の将来にとり死活問題だ、という情報も舞いこんでいる。私は石油開発のプロではあるが、日本の海運や造船業界の内情についてはほとんど何も知らないので、これは日本のジャーナリストに調べてもらうより仕方がないだろう。それにしても、何か奇妙にキナ臭いのである。
 おそらくは、すでに途中にいろいろな安全装置が作られていて、絶対に最上部には追及の手が届かないようになっているのだろうが、今こそ日本のジャーナリストは巧妙に張りめぐらされた資源金脈を探り出して、政治を食いものにしている日本のドンたちの悪行を、国民の目の前にさらけ出して欲しいものである。
(文中敬称略)


記事 inserted by FC2 system