『世界週報』 1990.05.22号



ブッシュ大統領は『ロン−ヤス関係』を清算したい
構造障壁協議に秘めた思惑



藤原肇






ニクソンの世界戦略に乗る

 ブッシュ米大統領の頭の中は、「グローバリズム」でいっぱいである。新しい世界秩序の確立のために、彼は既に昨年11月の段階で、ニクソン元大統領を参謀役に起用しており、それが、3月に行われたカリフォルニア州パームスプリングスでの海部首相との日米首脳会談と微妙な形で結びついていた。
 それはなぜか。あの会談は、日米関係の阻害要因になっていた「ロン−ヤス関係」という愚劣な虚像を取り払い、日本側の欺瞞的政治の正体をアメリカの首脳部に認識させたという点で、非常に建設的な足跡を残したからである。
 3月の日米首脳会談を語る前に、まず、ブッシュ大統領が、レーガン前大統領からニクソン元大統領にウマを乗り替えたことについて触れたい。
 ディズニーランド風の楽天的な雰囲気と、お祭り騒ぎに陶酔するのが好きな日本人は、昨年11月6日の「ニューヨーク・タイムズ」が「日本、中古の大統領を購入」と書いたように、レーガンに200万ドルの講演料を払って、日本での接待旅行に熱を上げた。この日本流の田舎芝居が世界中からもの笑いになっていた時に、ニクソンはひっそりと晩秋の北京を訪れ、政治の布石を着実に打っていた。
 日本人が札束攻勢で中古の大統領を有頂天にさせ、アメリカの世論が「全くの商業主義に、こんなにずうずうしくのめり込んだ大統領経験者は、かつて存在したことがない」と糾弾したのに対し、レーガンは「大統領を長くやってしまったために、稼ぐことができなかったのだから」という弁明をして、アメリカ人たちを唖然とさせた。同時に、パトロン役を演じた日本人が信用をだいぶ失ったことも事実である。
 いずれにしても、日本人と組んだレーガンが人気を喪失している間に、ニクソンの人気と評価が高まっていた。
 中国から帰ったニクソンは、ホワイトハウスに招かれ、ブッシュとタ食をともにして、北京での中国首脳との会談について、その内容を詳細に説明している。
 それまでブッシュは、ニクソンと電話連絡するだけだった。ワシントンに正式に招いて協議したのは、ニクソンがワシントンから追放されて以来初めてである。日本旅行についての帰国報告を、電話で済ませただけのレーガンとの対照が実に鮮やかで印象的だった。


大統領メーカーのエネンバーグとは

 そして、このようなブッシュとニクソンの関係が、3月のパームスプリングスのサミットの舞台回しに関係しているのではないか、と私には思えるのである。
 その理由を説き起こすうえで、アメリカ最大の富豪、ウォルター・エネンバーグについて、まず説明したほうがよいだろう。
 エネンバーグは、ブッシュ・海部会談が設定されたアメリカ最高の避寒地で金持ちたちの別荘が多いパームスプリングスに、9ホールのゴルフコースも備えたサニーランズと呼ばれる大邸宅を所有する"大統領作り"の黒幕的存在である。
 ウォルターの母親、サディーが、33歳の時にカリフォルニア州から立候補して下院議員になったニクソンを指して、「あの若い男は見所がある。目をかけてやりなさい」と言ったのが始まりで、25万坪の広大な邸宅に、ニクソンは時々招かれるようになり、最後には、ホワイトハウスの主人にもしてもらった。
 また、カリフォルニア州知事だったころから、客の仲間入りをし、恒例の年越しパーティーにはナンシー夫人とともに過去22年間連続で出席したレーガンも、大統領にしてもらっているから、ウォルター・エネンバーグこそ、大統領メーカーであった。
 ブッシュ夫妻は、エネンバーグからの招待で、海部首相との会談が決まる前からサニーランズに赴く予定にしていた。海部・ブッシュ会談の会場は、サニーランズから800メートルほどのランチョ・ミラージュの町だった。
 会談2日目の夜は、エネンバーグ夫妻の好意で、海部夫妻もブッシュ夫妻や他の富豪と一緒にサニーランズの晩餐に招かれたが、それが終わってからが肝心で、私はブッシュがエネンバーグから重要な了解を取り付けたと推測している。すなわち、レーガンと手を切り、ニクソンに乗り代えるという了解である。
 この時期は、大統領として地歩を固めたブッシュが、2月19日号の「タイム」に発表された世論調査による大統領の支持率で、76パーセントの高率だったのに力を得て、独自の路線を遂行することに踏み切った時でもあった。
 この高い支持率は、ケネディ以来のことであり、しかも、パームスプリングスに来る直前の大統領の足跡と、行動の内容にそれが感じ取れた。・


レーガン路線は継承しない

 3月2日の首脳会談初日に、ブッシュは午後3時にパームスプリングス空港に降り立ったが、その前にセンチュリー・シティーにあるレーガン事務所を訪問し、前大統領と世界情勢について意見交換している。しかも、ニカラグアのコントラ間題では、自分の意見がレーガンと違うと強調し、それを記者会見でも印象づけるようにしゃべっている。
 これは、ホワイトハウスの外交路線がもはや、レーガン路線を継承しないとのマニフェスト(宣言)である。しかも、これは当然、太平洋関係にも反映するはずだから、欺瞞に満ちた「ロン-ヤス関係」の総決算の始まりでもある。
 なぜなら、現在の日米関係がここまで行き詰まり、感情的な対立関係にまでなったのは、中曽根がその場しのぎのウソをつき続け、それにレーガンとアメリカ人がだまされたためだと、ブッシュは十分に知り抜いているからである。
 そして、中曽根のコン・ゲーム(信用詐欺)の手助けをしたのが日本の役人たちだったことや、日本のメディアが中曽根を「巨悪」と呼ぶこともホワイトハウスは承知している。
 また、ブッシュ−ニクソン関係について言えば、地政学上のグル(導師)として復活したニクソンは、パームスプリングスでの日米首脳会談後の3月9日、ワシントンで共和党議員の大歓声に迎えられて、十数年ぶりに公式に世界戦略についての講演を行った。 そして、新版のニクソン自伝が脚光を浴びる中で、ニクソンは『タイム』誌のカバーを飾り、二流だったレーガン外交や、三流以下のキッシンジャーやブレジンスキーのお雇い外交から脱却して、ブッシュとニクソンの新コンビによる強いアメリカの復活宣言が行われたのである。
 つまり、サニーランズのエネンバーグ邸で誕生したカリフォルニア生まれの二人の共和党大統領であるニクソンとレーガンが、東部エスタブリッシュメントの御曹司でテキサスを地盤にするブッシュをブリッジにして、レーガンからニクソンへの"選手交代"があったのだ。


海部-ブッシュ会談はみそぎの儀式

 その舞台がランチョ・ミラージュのエネンバーグ邸だったのであり、幸運にも、選手交代の儀式に立ち合った海部首相は、この仲間に組み入れられた。そして、ブッシュ政権がアジア戦略で「ジャパン・カード」を使おうとしているからこそ、逆にブッシュが海部首相の守護役を果たすという僥倖に恵まれたのである。
 ブッシュ政権は、新しい日米関係を樹立するためには、「ロン−ヤス関係」の総決算をして、ウソのない「ブッシュ−海部路線」の確立が、どうしても必要だと考えているのである。そうであるからこそ、パームスプリングスの会談は成功したのである。
 現在の日米関係の行き詰まりの真因は、日本の文化や市場の特性にあるのではなく、権力を握って放さない自民党体制と、強力になりすぎた官僚支配にある。
 それをブッシュは十分に理解したが故に、海部を盛り立てるように日本に送り出し、体制改革への勇気ある挑戦と、ウソで固まった中曽根政治の総決算を期待して、日本人自身の自己変革能力にゲタをあずけた。
 そして、その具体的な成果の一つになったのが、4月6日の日米構造障壁協議の中間報告だったのである。
 ところが、この中間報告で、ワシントンと東京の間で、一応合意が成立したとして、まるで日米間の危機が回避されたかのような記事が日本国内のメディアに氾濫している。
 しかし、これはあくまで次のステップへの小休止ではあり得ても、問題が解決したのではないことについて、覚悟を新たにする必要がある。なぜなら、今回の協議に対する日米両国間での認識が異なっているからだ。
 日本のマスコミ界は、構造障壁(ストラクチャル・インピーディメント)イニシアチブの略称である「SII」を、「構造協議」という作為に満ちた用語で統一してしまい、協議の核心である「障壁」を抹殺し、存在しないかのように装い、あたかも「構造」が協議のメーンテーマであるかのごとき一種の情報操作が行われた。
 「協議」と訳されている「イニシアチブ」は、「戦略発動」とか「主導決行」といった内容の言葉であり、そこには、仮想上の敵対関係をワシントンの側から封じ込め、障害物を制圧し解消するという政治的意志と決意のほどが読み取れる。
 いずれにしても、先に述べたように、日米関係をここまでこじらせた直接の原因は、中曽根時代の有言不実行の欺瞞がアメリカ側をいらだたせたことと、一時逃れの対応をした日本側の政治姿勢にあることは明白である。
 ブッシュ、海部両政権を悪戦苦闘させている「ロン−ヤス関係」の負の遺産を大掃除し日本自ら、中曽根政治の総決算をするところに、日米構造協議の基礎があることに気付いてしかるべきなのである。パームスプリングスの首脳会談は、その「みそぎ」の儀式だったという、その意義を熟考すべきである。

(ふじわら・はじめ=パームスプリングス在住、評論家)


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