『史』 1979.08月号



茶番劇の東京サミット


藤原肇(石油コンサルタント・在北米)






持たざる国の集会

 日本中の警察官を総動員し、機動隊の包囲網の中でバタバタと行われた「東京サミット」が終った。事件らしい事件も発生しなかったという点で、無事に会議を終えることが出来て何よりだとも云えるだろう。しかし、その内容は、ホスト役の日本側の国際感覚も災いしたし、地盤沈下の激しい国々を代表して東京に集った顔ぶれにもふさわしい充実度の低いものだった。
 それは折から流動的に変化していたイランや中東情勢を軸に、めまぐるしく展開していた世界的な石油争奪戦と、それをバネにして値上げ攻勢をかけるOPEC(石油輸出国機構)がジュネーブで定期総会を開いていたためでもある。石油における「持つ国」と「持たざる国」が、奇しくも同じ日にジュネーブと東京で会議を持って牽制し合ったという意味では、1979年6月28日は世界史に記録される記念すべき瞬間になった。
 東京に集まって、バッキンガム宮殿のイミテーションの会議場で顔をつき合せた持たざる国の首脳は、文字通り持たざる者の悲哀を味わうことになった。それはジュネーブのOPEC総会が、久し振りに大幅な石油公示価格の値上げを決定したからである。お蔭で東京サミットの存在理由と効果は、たちまちのうちに半減してしまった。
 もっとも、東京に集まった各国のトップが、指導者と呼ぶには余りにも小粒の政治家ぞろいで、石油をめぐって激動する国際政治についての指導性において、余り期待できるものを持ち合せていなかった。石油カルテルであるOPECの攻勢に対して、目のさめるような対策を考え出したり、効果的な長期戦略を構想するだけの頭脳を持ち合せていない以上、石油を握った産油国首脳にふりまわされるだけというのは、始めから分りきっていたようなものである。
 それは各国の首脳陣が、産業社会とエネルギーの関係について、文明の次元で論じるだけの思想性や政治的洞察力において劣っていたからである。また石油をめぐる国際政治を考えるためには、単なるパワー・ポリテイックスの次元ではなくて、更により上位の次元に属する国民国家時代の黄昏という認識を持たなければならない。その視点が欠けていたことも指摘できるのである。
 われわれの目の前で進行しているのは、19世紀的な国家至上主義に代って、新しい時代の主人公になる国際主義を基調にした世界秩序の誕生である。現在におけるさまざまな危機現象は、新しい生命と機会が生れるに際しての、陣痛の苦しみに他ならない。だから、あわてふためいてジタバタする代りに、落ちついた気分で新しい生命体が遭遇する未来について思いをめぐらすことの方が、はるかに歴史的な意義を持つと思われる。「東京サミット」にそれが脱落していたのは、開催国に生れた市民の一人として、惜しいことだと思わざるをえない。


ピンボケの新聞論調

 1973年のことだが、アラブ産油国が断行した石油エンバルゴによって日本経済がパニック状況に陥り、わが国のジャーナリズムが、石油危機が襲来したと大騒ぎしたことがある。当時の田中内閣は三木特使を土下座させにアラブ諸国に派遣した。石油供給を減らすという日本への脅迫をどうにかなだめることに成功し、皆がホッと肩の息を抜いた時期に私は一冊の本を上梓した。『石油飢餓』(サイマル出版会)と題した本の中で「石油によるエネルギー飢餓の時代はこれで一段落したのではなく、これからいよいよ本格化するのだ」という警告を冒頭に書いた。だが、日本人はこの発言に耳を貸そうとしなかったばかりでなく、私を「狼が来る」と叫ぶ子供扱いをした。また日本の政治は台風一過ということで、その後石油問題を国家の安全保障の根幹にすえることを忘れている。しかも九州の二倍もある広大な日本固有の領海を、韓国に割譲する日韓大陸棚条約批准を強行した。
 その一方では、OPECに結集した持てる立場の国ぐには、内部に不一致があったとは云え「主要先進国」とうぬぼれている石油を持たざる国を攻略するために、ロッテルダム、ロンドン、ニューヨークにまで駒を進めて、値上げ攻勢の布陣を築き上げていた。そこで、一九七九年六月二八日に本当の巨頭会談が行われた場所は、日本の新聞やテレビが大騒ぎをした東京ではなくて、実は日本人には霞んで見えたジュネーブということに、残念ながらならざるを得なかった。おそらくそれは石油暴騰の影響が猛烈なインフレと不況を招来させ、国民の大多数が生活苦と先行きの不安にさいなまれる時期になって、初めて実感としての肌寒さを憶えさせることになるのではあるまいか。
 このような「東京サミット」のピンボケ具合と軌を一つにした新聞記事を見て、私は最近におけるわが国のジャーナリズムの質の低下をかいま見る思いをしたことがある。それは「東京サミットの構図」と題し、朝日新聞の朝刊に連載された記事のことだが、第一面に九段抜きで全くお粗末なことが書かれていた。「誇れる治安のよさ」という小見出しのもとに書かれている部分をつぎに引用する。
 「東京サミット」が日本にとって、ある意味で会議そのものよりも大きな意義を持つと思われるのは、参加国首脳、随員、報道関係者に、日本を知らせ、親近感をもってもらう絶好のチャンスだ、ということである。
 一昨年末の外務省の調査によると、英、西独、仏、伊、ベルギー五カ国の成人の三分の一は、日本が核兵器を持っていると信じており、日本が民主主義国だと分っている人は、約半数にすぎないという。欧米諸国が、人種的、文化的に親類同士であるのに比べ.日本はその点、サミットの異端児といった印象が強い。
 このさい、日本の平和主義、言論の自由、文化水準の高さ、さらには治安のよさなどをぜひ認識させて帰したいものだ。
 首脳自身は無理にしても、側近や報道関係者に、夜の日比谷公園や地下鉄の安全なのを体験させれば、まずほとんど誰もが目を見はるに違いない。
 大きな書店に連れて行って、フランスやドイツ文学の書だなを見せ、またガルブレイス教授やドラッカー博士の翻訳が、ものによっては原著以上に売れていることを伝えれば、単純に日本をエコノミック・アニマル扱いするのが誤りであることに気づくはずだ。
 どこの国も、自国の文化を最上のものと思いこみ、異文化を白眼視、野蛮視しがちだ。欧米諸国には、歴史的にとくにその思い上りが強い。それが今日の西欧文明の行き詰り、衰退をもたらしたそもそもの原因ではないか。
 そのへんを指摘し、反省させるには、日本は最適任者であり、「東京サミット」は最良の舞台と思われる。―――
 長い引用になったが、これが長谷川如是閑や笠信太郎の伝統をうけついだトップ・ジャーナリストの論調だとしたら、驚くべき低水準にあると云わざるを得ない。なぜなら、東京サミットはオリンピックのように参加することに意義がある親善大会ではないからだ。世界の現状をどう認識し、どこにお互いの立場の相違があるかを確認し合い、次に不一致をいかにまとめて課題に対して誰が何をいかにするかを決定するのが、この会議の眼目のはずである。
 「東京サミット」は、議論を通じて何をまとめ、各国がいかに責任を果していくかを確認するところに決め手がある。この論者にはその理解も気魄も伝わっておらず、まるで水戸黄門の巡行を迎えるようなつもりでいるようだ。しかし国際政治というのは、そんな甘ったれたものではないのである。


日本人の島国根性

 日本を知らせたり親近感を持たせるのは、日常における外務省やジャーナリズムズムの活動を通じたり、外国人とのつき合いを通じ日本人のひとりひとりが普段から培っていく筋合いのものである。
 外務省が発行している対外宣伝用のグラビア雑誌が、毎号派手に自衛隊を扱っている程度の平和主義や、韓国に比べたら増しなだけの言論の自由。お花もお茶も家元制度のシガラミの中で、カネと縁故の文化水準。そして家族の送迎にも自由に国際空港に出掛けることのできない、成田空港の治安のよさ。「東京サミット」自体が、防弾完備のキャデラックを用意し、しかも警官の人垣による警戒体制に治安の問題はシンボライズされているのだ。
 警察がハッスルしすぎたために、日本の治安が悪そうだということは報道陣によって世界中に知らされた。こんなにまでしなければ日本政府は安心して会議が開けないのだろうかと、人びとの注目を集めてしまったのに、どうして日比谷公園や地下鉄を引き合いに出す必要があるというのだろう。
 「東京サミット」は国家の次元での会議であり、日本の現状は国家の次元ではイランやアルゼンチン並みの治安の悪さが存在していることは、動員した警察力が如実に物語っている。それと同時に、庶民の次元では、日比谷公園はリュクサンブール公園やハイドパーク並みの安らぎとくつろぎがあるというのに過ぎないのである。治安のよさは警官の多さではなくて、少なさによって表わされるという事実こそ、優れた洞察力を持つジャーナリストの指摘すべきことではなかろうか。そして日本政府がやったことは、まさにその正反対のものだったのである。
 また大きな書店に連れていかなくとも、チューリッヒやハーグの街角の本屋には、ドイツやフランスの文学は原典でそのまま幾らでも並んでいるし、原著以上に売れている書籍は米国やフランスでは日常茶飯事ある。カミユは米国の高校生のベストセラーだし、ハン・スインの作品は中国よりもフランスやアメリカで人気が高いのだ。「不確実性の時代」という教科書的な水準の本に対し、大学生が殺到したのなら話も分るが、実業界のミドル・マネージメント・クラスの人間が熱中して読み、オカルト・ブームに似た旋風をまき起こしたことは、別に文化の面での、質の良さとして自慢する筋合のものではない。それを知的水準の高さだと錯覚するのは、知性の名においてたわけたことがまかり通っている日本には似つかわしくて、世界には通用しない。ガルブレイス教授が分り切ったことをまとめ直して本にしても、今更テキスト・ブックを読むまでのことはないといった態度の醒めた精神を持つ人や、ガルブレイスを超えた人びとも世界には沢山いる。その多くがジャーナリズムに陣取っているのが普通だということを、日本の論説委員や編集委員クラスの人びとは、真面日に考えてみるべきではないだろうか。自国の文化を最上のものと思いこむのは日本人の特性であり、歴史的に思い上がりが強い点では、わがヤマト民族は大いに反省すべきである。
 せっかく文明の次元で西欧諸国と親類に近い関係を築き上げ、歴史感覚を身につけた国民を育て上げかけている日本である。それなのに、元号を法制化し、自ら選んで日本人をサミットの異端児にしてしまったのは、ほかならぬ日本政府だった。しかも愚行は愚行を呼び、警察国家日本の印象を世界に植えつけてしまった。


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