『月刊ペン』1980年5月号
●座談会

藤原肇 <国際石油コンサルタント>
森詠 <ジャーナリスト>
司会 公文俊平 <東京大学教授・システム社会論>




いま地球儀政治≠

これまでの日本の政治は平面感覚で動いてきた。しかし、世界秩序が大きく塗り変えられているいまこそ、立体感覚の政治へと脱皮しなければならない



イスラム第三世界勢力の台頭

公文 今日は藤原さんがカナダから二年ぶりに日本に来られたのを機会にお集まりいただきました。最近、中東・アフリカ問題、あるいは石油問題等について健筆をふるっていらっしゃる森さんにおいでいただいて、お二人を中心に自由な議論をお願いします。私は進行係をつとめさせていただきますので、よろしくお願いします。
 早速ですが、本誌三月号に森さんは「八○年代の火薬庫・中東資源戦略のゆくえ」をお書きになりました。以前出された『資源戦略』では七六年から七八年にかけての中東アフリカ情勢をかなり個別的に詳しくフォローしておられましたね。ところが今回の論文ではイスラム世界というものを、一つのまとまりとして大きく見るという観点が新たに出てきているように思います。
 つまり前の『資源戦略』ではむしろ米ソの角逐に焦点が合わされていて、それに対するイスラムの力というものは、それ自体としてはそんなに大きくとりあげられていなかったように思いますが、そのように森さんの視点が変わってきたのはどういうわけか、そのあたりから話を切り出していただきましょうか。
 七九年二月のイランのイスラム革命は日本では考えられないほど大きな出来事だったように思うのですね。イラン革命は今のイスラム・パワーの端緒になった事件だったわけです。八○年代、ないし九〇年代、そして二十一世紀という時代を通じての新しいイスラムの世紀を開くとぱ口に当たるような重要な事件になるのではないかと思うのです。そういうことで、最初にまとめました『資源戦略』の頃の世界構造とはまるで変わった様相が出てきているのではないかと思っています。
 その一例をあげれば、ソビエトが第三世界に対する解放闘争の指導者としての役割を果たせなくなった状況が、イラン革命において出てきたことです。イランのイスラム革命はソ連のなんらの影響力もなしに起こってしまった。だから大きなショックを受けたのは、西側よりも、むしろソビエトだったと思います。それがイスラム・パワーだった。
 イスラム・パワーといっても単なる宗教的な次元のパワーなのではなく、イスラム第三世界の人々の力=人民パワーだと思います。その人びとの動き≠ニいうのがやはり重要なのであって、その人びとに依拠してこれまでソ連は杜会主義革命というものを輸出しようとしていたわけです。ところがそういうことがもはや通じない時代になってきた。反対にアメリカにとってはどうかといえば、アメリカも第三世界にいくら経済援助をやっても自分たちのいうことをきかなくなってきている状態が始まっている。
 そういうイスラム第三世界の人びとが一つのパワー・ブロックを作りはじめ、いやもうすでに作りだしているのではないかなという予感がある。今までのアラブ・イスラム社会というのは、世界の歴史の片隅に取り残されてきていましたね。政治的にも経済的にも軍事的にも、日本を含めての西側諸国の風下にあって支配を受けてきた。そうしたアラブ・イスラム世界が新たに自己主張をし始めたと思うわけです。特に石油とか資源問題をからめて、自分たちの民族意識というものを自覚し始めだしたという時代が来たのではないか。それが具体的にあらわれたのがイラン革命だった。そのようにみると、これからは単に米ソ冷戦構造というような見方では、もはや抑え切れないファクターとして、もう一つのパワー・ブロック、イスラム・パワーというものを考えないとだめなのではないか。
 日本ではもう一つ誤解があると思う。いま自己主張し始めたのは、イスラム・パワーだけだと思っている。だが、これはちがう。イスラムだけの問題ではない。実はイスラム世界はイスラム世界で人びとは力をもってきていますが、中南米もアフリカも、つまり第三世界全体がパワフルになってきてると思うのですね。
 特に石油資源が偏在する地域ということで、中東イスラム世界がクローズアップされ、中東だけが非常に大きな力をもってきているように考えられているだけではないかと 思うのです。
 ともかく、そうした時代の様変わりみたいなものを今回感じて書いたわけです。
公文 藤原さん、いかがですか。
藤原 たしかにその通りなのです。世界的な視野からみると十九世紀的な国民国家でありながら、今まで保たれている秩序というものがそれぞれの国民国家の段階で崩れ始めてきている。ECなんかはその一例ですね。いろいろな弱い部分がぎくしゃくとしてぶち壊れ始めてきている時代が始まっている。
 それと同時に、そういった弱味の部分の中に、いわゆる文化の反動化というか、民族主義の動きというものが、一つの反作用として生まれてきている。
 いわゆる汎グローバリズムというかインターナショナリズム、そういう次元での世界化現象というものが進行しているわけだが、それがなかなかスムーズにいかない。なぜかというと、実は国民国家の枠組みがそれぞれの次元でいろいろ固い抵抗を示し始めてきているからです。その中でスムーズに多国籍化していった部分と、多国籍化していけなかった部分の対立というものが世界の中にある。特に日本の場合はスムーズに多国籍化していない国の中の一つであって、アテブ諸国に現われているような民族主義化と同じような現象が進行しつつある。
 同じことはソビエトの中にも始まっていて、ソビエト自身がうっかりしていると、そういう波の中で内部崩壊しかねないのではないかという心配がある。それを外に向かってどのように力を分散していくか。そこでたとえばソビエト圏とイスラム圏の接触している部分で、いろいろなぎくしやくしたものが出てきているのではないかと思います。
公文 七〇年代をふりかえってみたとき、先ほど森さんの言われたこととはむしろ反対に、北に対して南の世界が団結して自分たちの力を強めていくという結果は、期待されていたほど急速には生じなかったのではないか。たとえばグループ七七は団結を強めるよりも、分裂の方向へいってしまったのではないか。OPECだって七〇年代半ばまではいいとして、その後はむしろ分裂のほうに向かう動きを示してはいないか。そラだとすればアメリカやソ連は、いま藤原さんの言われたような弱さを抱えてはいるが、南が分裂しそうになっているおかげでかえってある程度余裕ができて、自分たちの間で競合的な世界戦略を考え、実行していくことが可能だった。それがたぶん七〇年代後半の姿ではなかったか。
 ところがここへきて、もう一度ある種の民族主義的な力が表面に出てきて、その力の行使がなされ始めた。そうなると、今度はアメリカもソ連もそれに直面せざるを得なくなってくる。そうすると逆に、今度は米ソが協力するという局面も出てき得るのではないか。
 イスラムのパワーブロックについてもう少しつけ加えれば、それは決して一つの統一と団結によってつくられたイスラム世界のパワーということではないと思うのです。イスラム・パワー内自体は多極化している。その分裂の度合いが、内部矛盾が強いだけ外に対するパワーとしての力も発揮されていると思うのです。
 イスラムは統一されれば逆に非常におとなしい世界になる。今は過渡期だと思いますね。リビアにせよイラン、サウジにせよ、それらはみな自己主張が強い国で、それだけに競合しあいながらパワー・ブロックの総体は強くなるという状態だと思います。
 だから、たしかにそうしたイスラム・パワーに米ソが揚合によっては協力しかねない場面もこれから出てこざるを得なくなるのではないかなとは思います。しかし今はまだそこまでは至っていないと思うのですがね。ソビエトはアメリカと協力する前に、それなりの有効な陣取りがどうしても必要だったと思うのですね。それがアフガニスタン軍事侵攻だった。アメリカはアメリカなりに、やはり力を発揮できる足場を中東につくらなければならない。両国ともそういう中東への布陣がつくられたところで、米ソ協力を行なう可能性が強いのではないか。
公文 統一というところまではまだいっていないが、しかし分裂の力が弱くなっていくというのではなくて、むしろ分裂の中に力の爆発のようなものが起こっているという見方ですか。
 内では限りなく分裂しながら、外への力は強くなっていくという感じですね。
藤原 最終的にやはり統一されていくのではないかと思いますね。
公文 統一というのは、文宇通りグローバルな世界についてのことですか。それともイスラム世界だけのことですか。
藤原 グローバルな地理学的な世界ではなくて、やはり同一の利益団体としての世界、その一つの共通分母としてのアラブ世界であるとか、そういうものだと思います。



イラン、中国「近代化」のジレンマ

公文 たとえば中国が革命後、ソ連の方式を真似て杜会主義的な産業化を試みて、それがなかなかうまくいかないで、文化大革命という現象が起こりましたね。六〇年代にそれが非常に盛んになったわけだが、あれはある意味では今のイスラムなんかで起こっている現象と似てるところがあるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。
 中国はこのままいけばイランの二の舞いをやるのではないかという気がしますね。要するに社会主義国といっても所有形態が単に国家所有になるか、あるいは資本主義のように私有財産制が十分認められるか、それだけの違いしかない。
 そうした経済体制の中で行なわれる近代化路線というのは、今の中国がやろうとしているスタイルから考えると「イランと同じ上からの近代化≠やるように思えますしね。
公文 かつてパーレビがやろうとしたようなね。
藤原 そういったことを、僕は『中国人・ロシア人・アメリカ人とつきあう法』の中で、中国の近代化とはどういうことか、これが安定の方向に向かっていくのか、それとも自己崩壊に向かっていくのかということを考えた。特に中国の場合は、今は非常に中央集権的な国ができているようにみえるが、内部では昔の藩閥的な勢力がそれぞれ地方に頑張っていますし、中央集権が強くなればなるほど逆に地方の反発というものが大きくなる。
 そういう内部矛盾を抱えたままイラン化現象というものが起きてくる。それを統一していくのは、北側に凄い熊がいるぞ、そのためにわれわれは内部を統一しなければならないぞという、いわゆる中ソの緊張というものを北京が意識的に出していくことによって、内部の秩序を保っていこうという考えが出てきているのではないか。
 そうですね、近代化の中身が問題だと思いますね。中国がやろうとしている近代化とは、結局は資本主義化ですよね。その資本主義化をやるのだったらどうして文化革命が必要だったのか。まあいまの中国がそれを否定したのだから、文化革命の目指した道とは全く逆の道を辿るんでしょうが。もっとも、私は文化革命がいいと言っているわけではないんですが……。
藤原 全体否定をしてしまったから中国としては非常にやりづらくなる。
 要するに資本主義化しようとしているということは、先ほど藤原さんが言ってられたように、多国籍化をやるということですね。それは世界資本主義の中に中国経済を登場させる、あるいはリンクさせるということであって、それをやればアメリカの大恐慌がストレートに中国経済に波及するという状態を結果として生みだすわけです。
 世界の景気がいい間はいいが、少しでも悪くなると、すぐに中国経済を揺さぶることになる。世界経済の矛盾は常に最も弱い環に集中していく。だから、これまでの革命というものは先進国に起こらないで、まず途上国、ないしは後進国に起こっている。
 そういう意味でいうと、中国はまだ途上国ですからね。非常に経済の弱い国ですよね、世界経済の中では。その弱い環に革命が起こる可能性は出てくる。だからもう一度揺れ動くかもしれない。中国にはそうした事態が将来、出てこざるを得なくなるのではないかと思いますね。
藤原 革命を一度やったからもう革命は起きないと思ったら大間違いで、中国自身が内部に弱味をつくってしまっている部分がある。
 それから杜会主義経済というものは一体何かということが問題になると思うのですね。杜会主義経済というのはストックの経済ですね。それに対し資本主義というのはフローの経済ですから、どこかに何か欠陥が生じても、なんらかのスタビライザーが働いて、どこかで均衡する装置がある。
 ところが社会主義の計画経済の場合はそれがない。だからストックをいかにうまくつくり、それを分配による経済でしかやれないわけですね。ところがそのストックの経済がソビエトでも中国でも成立していない。肝心のストックの経済理論体系や経済政策がないのですね。それなしにこれからどういう杜会主義をつくろうとしているのかは、本当に問題だと思います。
 いま中国をみていると、ソ連と同じようにフローの経済学を入れようとしているわけでしょう。そうすると、たしかに所有形態は国家所有の杜会主義体制だが、経済的にはもう一回資本主義に戻ろうとしているようにしかみえないわけですね。それは明らかにもう先行きがみえている。イランのバーレビがやろうとした白色革命も、同じ経路をたどったわけですから、どこかに必ず無理が生じるのではないかなと思うのですがね。
公文 私は少し違う見方がありうるのではないかと思うのですが。つまり、時間を十年ほどずらして考えると、むしろ文化大革命に至る以前の一九五〇年代、とりわけ毛沢東の大躍進≠フ試みあたりまでが、フェーズとしてはパーレビの白色革命に似ている。それがなかなかうまくいかないということで文化大革命≠ェ起こり、いわば近代化=産業化を否定した。
 そして、なにか中国独自のいき方をしてみようとしたが、それもまたうまくいかなくて四分五裂し、人々があい争った結果、これをもう一度否定して、今度は西側のやり方に近い、より正統的な近代化一産業化路線に戻った――というように考えてみると、イランの場合は白色革命があって、今度のイスラム文化革命があって、しかしそれでもうまくまとまらなくて、もう一度近代化の試みに帰るというような波も考えられはしないか。
 もちろんあるでしょうね。ただイランの場合、周王の白色革命の中身というものが問題だと思うのですね。もちろん白色革命は農地改革だけではなく、工業化政策も同時に進行させるわけですが、いわゆる輸出代替生産の育成が中心ですからね。
 工業化といっても、外国資本との合弁で、しかもそのほとんどが原料や部品を外国に依存した組み立で工場だった。イランの地場産業を必要としない工業化だった。日本の援助で作られる中国の製鉄所も、中国の石炭や鉄鉱石を使わないプラントで、その点ではイランによく似ている工業化の方向です。その方向はイランを単に外国資本による市場化にしようという道でしかないと思うのです。
 パーレビの白色革命は工業化をして農村を解体して、労働者をいっぱいつくって、その労働者を工業化した工場のほうで吸収しようとしていた。考えてみればそれは理屈としては正しいのだが、工業化の度合いが七三年の石油ショックの影響もあって非常に遅れてしまった。もともと工業化の成長の度合いというものは、先進国でもそうだが、農村の破壊と解体の度合いよりも遅いものです。そんなに工業化によって急速に労働者を吸収できるはずがない。
 工業化により作った製品にしても、とても一国内では売れない状態になる。そうするとどうしても海外市場が必要になる。だからイランのパーレビ帝国というのは外に外にという膨張政策をとって、帝国主義的な経済進出をやろうとしたと思うのですね。そうしたイランと非常に似ている近代化政策を中国はやろうとしているわけです。
 中国は、八億か十億だかの労働力を工業で吸収していきたいという意気込みがあって工業化している。工業化による消費生活の急速な浸透はいずれにしてもイランと同様、農村を破壊し解体していきますよ。たとえ上海などでの工業化政策をいくら必死に進めたとしても、農村からあふれ出す労働力を吸収できない状態になる。一方で工業化により多量に生みだした工業製品をどういうふうに処理するかというのが問題になると思う。中国はそれらを外へ向けざるを得なくなるのではないのか。
 その一例が、イラクなどアラブ産油国へ中国人の労働者を輸出し始めたという事態に出てきていると思うのですがね。いずれ中国は工業製品についても市揚を求めざるを得なくなるのではないのか。変質した杜会主義というものに中国はなっていくのではないかという気がします。
 だから彼らが否定しているソビエトの杜会帝国主義とかを、今度は自ら中国が演じようとするのではないのかと思いますね。ソ連と同じ経路を辿りつつあるのではないかな。
藤原 それからね、やはりアメリカと英国アングロ・サクソン、フランスというのは社会自身がある意味で技術集約型というか、重工業型から世界の知識集約型に移行している国々である。ところがドイツとか日本というのは、いつまでたっても重工業的ないわゆる技術集約型の産業社会を量的に拡大していって大量生産し、それを世界に輸出することによって生き延びていこうとしている。また大量生産をするためにはエネルギーをガブ飲みしなければならない。そういう体質をもっているわけですよ。
 しかも先ほど言ったように、いわゆる国民国家としての枠組みがあるために、逆に無理やりよそへ品物を流出させる。一つの地域、たとえば経済圏の中でECならECの中でドイツが非常に力をもってドルをたくさん溜める。同じように日本も外に向かって製品をたくさんつくり、ドルをたくさん溜めて、しかもエネルギーを大量に食っていくという現象が、日本とドイツを中心にしてアメリカもそれに巻き込まれている。
 アメリカは非常に知識集約型のものももっているが、相変わらず重工業指向型のいわゆる技術集約型のものをたくさんもっている。エネルギーをガブ飲みしているため、国民国家の枠組みの中での重工業とエネルギーの需給関係のバランスが崩れてきて、世界からどんどんわれ勝ちに石油を買い占めるという傾向がある。それが原因で実はそんなにスポットしなくてもいい中東の石油を、いやがうえにも加熱させている。
 その次に中国の問題ですが、これも同じように近代化を進めていくことによって、やはりエネルギーを非常に必要とする重工業化をせざるを得なくなってくる。そうなってくると、今度はエネルギーを自分たちの中で、これから五年、十年後に供給し得るのかどうか。
 それからソビエトも遅ればせながら重工業指向型。その重工業指向型がいわゆる軍需指向という形でエネルギーを大量に食っていく。ソビエトの場合にはエネルギー源としては非常に大きなポテンシャルをもっていますが、テクノロジーの問題と官僚主義的な、いわゆるビューロクラシーがガンになってコーデイネーションがうまくいかなくなって、ポテンシャルを十分に生かしていない。
 そういう形でいわゆる国民国家としての枠組みの問題と、それぞれの国民国家がもっている重工業指向性とエネルギーのバランスとが絡み合って、これらがぎくしゃくとしたいろいろな問題を引き起こしている。今は大変なことが中東を中心に起こり始めているようにみえるが、これからはいよいよそれが強くなっていくと感じます。



食糧・エネルギー・情報の均衡がカギ

公文 やや話が噛み合わないまま先に進んでしまった感じですが、それはそれとして、日本について考えてみると、日本は今藤原さんが言われたほどには重工業指向ではなくなっているのではないかと思います。一九七〇年頃からすでに知識集約産業とか情報化ということがいわれ始めていますし、それからここ数年をみても、少なぐとも石油の消費量は総量としては横バイですね。しかも、GNP一単位当たりの石油消費量は大幅に減っています。
 石油だけでなくエネルギー全体で考えても、やはりオイルショック以後の数年の間にGNP一単位当たりのエネルギー消費率は、石油ほどではないが大体一割近く減っています。その間、産業構造の転換は急速に進んでいるといわれていますよ。
藤原 しかしそれがいわゆる知識集約型に進んでいるかどうかというと問題があるので、実は水商売指向型になっている。知識集約型として一つ一つのビジネスが、何か価値を生産していくというのではなく、流通機構の中でいろいろなレジャー産業が生まれてみたり、大学がある意味で失業救済組織として大量にあふれたりしている。要するに重工業を縮小していく過程で大量にあふれてきている若者を、大学生の名のもとに失業者として学園の中にプールしている。
 だから日本の場合には、本当の意味で産業社会が知識集約型に移行しているのではなくて、水商売の方向へという形で動いている。それはある時点までは可能だが、これから大変な状況を迎えるのではないか。
 その一つの現われとして、たとえば中高年層、窓ぎわ族や各企業が抱えている潜在失業者としての労働者を、どうするのか。
公文 それについて森さんのお考えはいかがですか。
 それと関連するかと思うのですが、日本も含めてソビエトもアメリカも、やはり国内的な問題として、今言ったエネルギー・バランスとかそういうものが崩れてくる事態が、たしかに一九八〇年代に起こるのではないかという気がしますね。
 特にソビエトでは、一つは労働力不足が生じるといわれている。それからソ連の石油生産は一九八〇年代前半にも、枯渇とまでいかなくても少なくともピークに達するだろうというのが大方の見方です。
 三番目に、食糧生産の不作という問題もある。ソビエトだけをみても国内的にいろいろ起こってくる。
 単なるイスラム・パワーのブロックみたいなものが成立するとか、あるいは中国の力が強くなるとかいう外因性の原因とは別に、ソビエトにしても、もはや自分の国だけでは成り立ち得ない状態が八〇年代に起こってくるのではないかなと思いますね。アメリカも同じだと思います。アメリカの産業があれだけ多国籍化されて、ほかの国に依存しているとすれば、たとえばイスラム・パワー・ブロックが形成されれば、どうしてもその衝撃は受けるのではないのか。
藤原 労働力指向型の産業社会を支えていく活力というのは、実は食糧なんですね。それから技術集約型の産業社会の活力を支えているのは、エネルギーの中心である石油。それから知識集約型の産業社会を支えているのは情報である。
 だから情報と食糧とエネルギーというのは、それぞれのどういう状況の産業社会であっても活力になっていく。そのバランスをどうとっていくかということが、実は一つの国がどういうような生存条件を保っていくかということと結びついていくと思うのです。
 アメリカの場合は食糧は十分にある。それからエネルギー源、これは現在いろいろな桎梏はあるが、やはり大きなポテンシャルをもっている。それから情報に関しても十分なものがある。特に新しいノーハウですね、そういうものは非常に大きな蓄積がある。だからアメリカ自身は自己完結的である。
 アメリカに準じているのがフランス。イギリスも案外似ている。イギリスの場合、食糧だけが不足していて、石油に関しては北海の石油があるし、情報に関しては英国人の人的ポテンシャルというのは非常に強いものです。英国国内に残っていろいろやっている人たちはほんのひと握りだが、実は英国の知識集約型のものというのは多国籍化している。そういう意味で、イギリスやフランスというのは案外バランスがとれている。
 それに対して日本の場合は、マン・パワーを支えている食糧、これはだめ。エネルギーもだめ。それからこれからわれわれが知識集約型になっていく意味で、いわゆる情報をどう確保していくかというと、日本の場合情報はある意味では洪水状態だが、それを選択していく人たちが非常に少ない。
 それは政治の次元にも反映されている。経済の分野では、いわゆる産業的なノーハゥを自分たちがつくっていくだけのポテンシャルがあるかというと、今のところはエレクトロニクスなどというのは克服してきたが、大部分のものはだめである。こうみてくると、日本というのは非常に危険な状態にあるわけです。
 ドイツの場合にも同じように食糧はだめ。それからテクノロジーはあるが、石炭と石油がほんのわずかしかない。特に天然ガスを戦略的な意味でオランダから半分買っているが、残りの半分はソビエトに握られているという弱味がある。知識に関してはかなりなものを持っているが、国際化していないわけですよね。ノーハウとかはいろいろもっていて、いわゆるノーハウ・プロパーとしてはあるが、多国籍化したビジネスとしてはドイツは非常に粗末な状態である。
 それでは第三世界はどうかといいますと、食糧に関してはほとんどの国はアウトに近い状況である。エネルギー源に関しては中東諸国、あるいは南米の一部の諸国はかなりなものを自己所有しているが、今度は知識や情報に関してはほとんどゼロである。
 もちろんインドとかインドネシア、あるいはそれぞれの非産油諸国の、いわゆる後進発展途上国といわれている国は、食料、エネルギー源、情報いずれも危ない状況にある。
 こうみてくるとアメリカというのはまだまだバランスがとれていて、それほど危機感をもつ必要はないと思うわけです。



日本は分権制を推し進めよ

公文 森さんがソ連の弱点を指摘されたのに対して、藤原さんはアングロ・サクソンの強さを指摘された形になりました。ところで藤原さん、にもかかわらずアメリカでは三桁という率でインフレが高進しており、ドルの価値が低くなっている。省エネルギーもなかなか進まない。防衛・軍事面でも、かつては二・五戦略を悠々立て得たのが、今は一・五戦略に縮小せざるを得なくなっている。
 日本との関係では、七〇年代以降しばしば経済摩擦が発生して、日本に対してあまり輸出をするなとか、直接投資をしろとか、あるいは防衛費の増額ないし肩替わりをしろとか、そういった要求が出されてきているわけですね。
 他方、日本の中にいる人間として考えてみると、日本は藤原さんがいわれるほどには脆弱でないような気がする。藤原さんは、さきほどエレクトロニクスのことを言われましたが、八○年代にはいわゆるマイクロ・コンピュータ革命のようなある種の情報化、知識集約化が相当急速に進行していくことは間違いないと思うんですよ。
 それから中高年層のことをおっしゃったがこれもたしかに七〇年代後半にはある程度の整理が進みましたが、しかしこの頃になるとむしろ各企業は定年年齢を引き上げて、中高年層を活用すべきであるといいだした。いろいろ調べてみると、中高年になったからといって仕事の効率が低下するということはそれほどない。むしろ逆の面さえある。
 ただそれに対してもちろん日本には弱味もある。おっしゃる通り食糧はない。エネルギーもない。第二次石油危機以後に経常収支の大幅赤字が生じて円安化が起こっている。それから情報処理や意思決定についても、気になる点は少なくない。
 しかし、だからもうだめだということなのか、それともどんな困難を払っても食糧エネルギーを自給できるようにすることを考えるべきなのか、それともない以上どこかから買ってくる、あるいは外へ出ていって、それを開発して引き取ることを考えてはどうだろうか。藤原さんはスーダンの南のほうにいって食糧開発をやったらどうか、と提案をしておられますね。
 エネルギーだって中東とか南米とかシベリア、いろいろなところに出掛けていって共同開発をやるという、一種の多国籍化の試みは不可能ではないと思うのですが。
藤原 日本が国民国家の厚みの中で果たして生き延びれるのかどうかというと、これからは恐らく不可能ではないか。そうなったら、たとえばサウジアラビアと連邦王国をつくるとか、非常に極端にエゲツなく聞こえるのですが、スーダンを巻き込み、南米のボリビアあたりも巻き込み、仲のいい者同士お互いに補完し合える状況で連邦国家をつくっていくとか、そういうことをやらない限りだめだ。日本が身を切り骨を切りながら一緒にやっていく方向を追求していけば、ある程度日本にも活路があるのではないかという気がします。
 それは極端に聞こえるかもしれないが、最初のアプローチとして、たとえばリアドと名古屋が姉妹都市を形成しお互いに人的な交換をしたり、これは僕のお得意の人質論≠ナすが、日本航空とNHKと国鉄はサウジに五〇%支配させて、どこか南イエーメンとの境目の未開発の地域に日本人を入植させてもらうとかね。そうやって生き延びていくよりほかに、日本としてはとてもではないが選択は残されていないのではないか。
公文 日本が本格的に外へ出ていくべきだとか、相互乗り入れ型の依存関係をつくれというのは、非常に魅力的な提案だと思いますが、実際上どこまで可能でしょうか。
 たとえばサウジアラビアとの間で資産の持ち合いをやり、いろいろなプロジェクトを協力して実施するということが、どこまで日本にできるのか。しかもサウジアラビアは経済もさることながら、軍事的な力が渦巻いている地域である。そんな危険なところに果たして日本は出ていけるのかどうか。
 今の時代が、たとえば石油も食糧もそうだが、政治商品になりましたね、経済商品でなくなった。ですから単に金があるから買えるものではなくなってきた。すると石油にしても食糧にしても、日本の一番弱いところですが、それをこれから手に入れるにはどうしたらいいのかという問題がありますね。
 ただその前提条件として、日本の経済がこれからもどの程度成長していくのかという問題がある。あるいはトーン・ダウンしてゼロ成長、ないしはマイナス成長にして、もう少し昔の生活に戻ろうとするのか、あるいは日本経済の特性である二重構造をなくしたり、といったいろいろな選択肢があると思うのです。
 そのうえでなければ石油にしろ、食糧にしろどう入手していくかを決められないと思います。しかし、いずれにしても日本が一国だけで、国民国家の枠組みの中で暮らせるとは思えないわけですね。
 そうするとなんらかの形で日本は外へ出ざる得なくなるでしょう。外国との協力関係を結ばなければならない。そのとき戦前型の侵略でない方法を考えねばならない。では最もいい出方とは何があるのだろうか。
 藤原さんの言う人質論も面白いが、ただサウジアラビアにしてもほかの中東諸国にしても、もし日本が今の状態で出るとすれば、下手をすると相手国の経済的な支配権を握ってしまうことになる。そうなればこれまで先進国が行なってきた植民地経済と大差なくなってしまう。
 やはり民族国家としての主権をお互い認め合う関係の中で、どうやって安定的に石油を供給してもらうか、あるいはこちらが何を提供することができるかという関係だけでなく、もう少し別の大人の付き合い方がないものかなというような思いが一つあります。それは決して日本が中東に対し軍事的な武器供給をやるべきだとかいった手合いの論議ではないと思います。もっと日本の外交戦略の問題があると思うわけです。
藤原 日本自身が道州制という形で現在の国民国家の枠組みの中で、もう少し小さいところに政治の中心を下ろしていく一方で、現在のような強度な中央集権国家のあり方を打破していかなければならない。
 一つには日本の農産物自給率を高め、しかも経済の自立態勢を高める必要が、まずありますね。それには政治体制も中央集権制ではなくて、やはり地方分権制の中で各地域ごとに、地域レベルでのエネルギーの自給なり食糧自給ができるような体制をつくらなければならない。
 その前提のうえで、サウジにしてもほかの第三世界諸国にしても付き合わないと思います。でないと、経済大国日本の傘の下にどこかの国を吸収するという形になりかねないと思うのですね。それは非常に危険ではないかと思います。 だからもっとゆるい意味での経済連帯、経済圏という構想がもし発想される場合でも、やはり外交がまずなんといってもしっかりしていなければならないと思います。
公文 日本がとりわけ第三世界の国々と協力的に共存していくためには、ある意味で文字通りの小国に戻らなければならない。地方分権化を断行し、地域的自給の途も得るべきだ。お二人の話はつまるところ、そういった提言になるかと思いますが、相手側の国についてはいかがですか。
藤原 特に中東の問題ですが、やはり似たような変化を前提するしかないのではないか。現在の国境線の枠組みの中で陣取りをやったり、引っくり返したりしてもどうしようもないんで、それぞれ多様性を認め合いながら一緒になっていくことが必要です。
 たとえばパレスチナの問題にしても、現在のイスラエルという国を最終的には半分づつに分けて、パレスチナ居住地域の国とイスラエル人居住地域の国というようにしていく。するとアラブのほかの国だってゆるやかな連邦をつくっていかない限り、問題解決の方法はないと思うのです。 それと同時に日本自身が、北海道とか関東・甲信越とかいう単位に少しづつ権限をゆるめていって、いざというときに日本という国がポシャッとつぶれないよう、お互いにもちつもたれつという方向でいく準備をそろそろ始めておかないといけない。
 日本は経済進出する時、日本の国内経済体制をがっちり固めながら出ていくというスタイルをいつも考えるわけですね。それは間違いなのではないかと思いますね。そうでなければ、日本は第三世界からも信用される条件が十分ありますしね、アラブなんかにとっても非常に付き合いやすい国になるのではないかと思うのですがね。
藤原 日本のビジネスなんかのやり方をみていると、東京の指令でしか動かない組織というものが外に出ているでしょう。中央のコントロール指令ということで、外国からはちっとも受け入れられない。
 小さいユニットで世界に散らばっていく。その中でビジネスをやっていくという発想がなければいけないですね。
公文 分権化論というよりは、日本万国論に近いですね。商人国家≠フ論理的帰結かもしれない。
 しかも、日本はやはりじっくりと長く、十年、二十年、三十年の単位で幅をみて世界に対処しないといけない。世の中の第三世界の動きがどうなっていくのかを見越したうえで、日本独自の外交的な布石をやっていかないと、短期的な利益だけを求めて外に出れば必ず後でシッペ返しを受けざるを得なくなる。アラブ世界だけでなく、第三世界のどの国に対してもゆっくり対処していくべきだと思います。
藤原 その通りですね。中国自身がやはりそういう形でいくつか地方分権的に分けていった。ゆるい統一体としてより安定したものになっていくでしょうし、ソビエトも将来においてもっと内部が細かく分かれて、安定した状態になるのではないか。ソビエト圏とか、EC圏といったものがなくなっていくという前提で準備していかなければならないし、世界というのはそういうふうに動いていくのではないかと思うのですね。



ゲオロポリティーク≠ゥらの発想

 世界は限りなく統一されるのではなくて、限りなく分散され、なおかつ一つの力としては安定性をもっていく。私もそういう感じを持っているのですがね。ちょっと夢みたいな話になってしまって…(笑)。
公文 そこまでいくと本当に夢みたいな話で…(笑)。そこで話を引き戻しますが、五年とか十年とかという短期で考えると、民族国家であるかどうかは別として、国家というものが解体する方向に進むとは非常に考えにくい。
 それこそ森さんも書いておられるように、中東やアフリカ地域にはまさにアメリカという国とソ連という国が、陣取り合戦にしのぎを削っているという現実があるわけですね。
 べつに国家が解体していくというのではないのです。ひとつの国が地方分権や自治権の上に成り立つゆるい国家の道をたどらざる得なくなってきたということです。そのうえでさらに大きくいえば、二つの世界にそれらの国々が収敏していくのではないのかなと思うのです。
 それは一つはソ連を含めてのユーロ・ユーラシア・アフリカ圏という世界経済圏のゆるいつながりと、それに対してアジア・ラテンアメリカ・北アメリカの環太平洋圏、その二つのゆるい経済圏になっていくと思うのです。今までだったら東西対立だったのですが、これからはソビエトも含めてのヨーロッパ中心の世界と中国や日本、アメリカを中心軸にした世界と、こういう二つの世界の対立になるのではないかなと考えるのです。
 そのちょうど両経済圏の接点に当たるところにイスラム・パワー・ブロックがある。そのイスラム・パワーが二つの経済圏に揺れ動きながら位置するというのが、八〇年や今後二〇〇〇年ごろまでの間につくられる経済体制ではないかなと。
藤原 今のところは共産主義社会と資本主義社会という形で、アメリカとソビエトと極端な対決があるが、この中間が出てきて、いわゆる非常に個人主義的なものをベースにした世界が出てくると思う。たとえばアラブ人というのは非常に個人主義的な傾向が強いのですね。いわゆるマルクスに否定された形でのプルードン主義的な、個人主義と社会主義的なものがないまぜになったような勢力の台頭が考えられる。個人主義だか全体主義だかわからない、汎イスラムイズムという形の社会主義がこれから育ってくるのではないかなという予感がしますね。
 そういう世界全体の流れの中でみると、一体日本はどういう方向に変わらなければならないのかが、ある程度わかってくるのではないか。今のところ暗中模索で、どっちへ行ったらいいのか感覚的な反応でしか、日本自身進路がさっぱりわからん。「海図なき航海」とか、わけのわからない本がたくさん出てきちゃうわけですね。
公文 その間に大きな戦争が起こるとか、そういう危険は-…。
藤原 やり方次第で起き得るでしょうね。しかし仕掛けて起きるような戦争が果たしてあるのかどうかは疑問だと思う。
 戦争における経済学という視点から、たとえばマクナマラ戦法でやりますと、局地戦なんかでアメリカの代わりにどこかが代理戦争をやってくれたら、これはアメリカとしては都合がいい。ソビエトはソビエトで代理戦争をやって勢力圏を拡大してくれたらこれは都合がいいとかという利害打算があるだろう。
 それは僕自身が今から十五年ほど前から、鉱物資源や石油の開発という仕事を中東とかアフリカでやった体験からして、あの辺は非常にポテンシャルが高いところで、実際問題としてアメリカとソビエトが、それぞれ自分たちの勢力圏としてあそこを温存しておきたいわけです。温存しておくことによって自分たちの現在抱えている重工業偏重の産業社会の資源を安定確保できるという、そういう現実的な利益があるわけですね。
 たとえば石油、これはペルシャ湾になるわけですが、ウラル山脈の西側からトルコを通って、地中海を通ってスペインあたりにいく弧を描くとしますね。
 それからその外側にサハラ砂漠を通って、エチオピアの近くを通ってアラビア半島を含みアフガニスタンを含み、それから西シベリアを通って北極海のほうへ向けていくような弧を描きますと、そこに三日月ができるわけですよ。これをユーロ・アフリカにおける「三日月地帯」と呼んでいるわけです。
 そこにはポテンシャルとして、石油と天然ガスが全世界の大体六〇%以上も存在しているといわれている。西シベリヤ、第一バクー、第ニバクーそれからイランを含め、北アフリカ、アルジェリアを含めて石油、天然ガスの産地があるわけですが、ソビエトの勢力圏にするか、あるいはアメリカが勢力圏にするかという対立があるのは当然のことだと思います。現在の米ソ関係のバランスの中だけでみれば、徐々にソビエト圏が落穂を拾っていって、だんだん自分たちの勢力圏にとりこんでいくでしょう。
 それから今は世界中が石油のことばかり考えているからそれしか議論されていないが、実はこの三日月地帯の外側は世界のマイニング・ベルト(鉱脈地帯)として、非常に重要な地帯なのです。
 これは十九世紀的ないわゆるゲオロポリティークの見方ですが、僕自身はジィオロジストですから、ジィオロジーをべースにしたゲォロポリティーク=i地質政治学)という視点、でみますと、世界の非常に重要なものを含む地帯がこの三日月の外側にずっと広がっている。
 たとえばシベリアにはタングステン、チタニウム、クローム、ダイヤモンドだとか金とか、あらゆる有効な資源が未開発のまま眠っているわけですが、開発された状態ではアフリカにあるわけです。南アフリカ連邦やローデシアや、コンゴにおけるカッパーベルトとか、いろいろなものがありますが、実はその地帯の争奪が石油戦略と並行して行なわれていて、アンゴラから始まった動乱というのはこのマイニング・ベルトに添っての親ソビエト圏への引っくり返しであったといえるわけです。
 もし南アフリカ、ローデシアを含めたアフリカ地帯、あるいはパキスタンからアフガニスタンを含み、パミール高原をずっと通っていくところを抑えると、ソビエトは白金からパナジュームまでを含めた世界の金属元素を全部抑えられる。いわゆるゲオロポリティカルなものがあるわけですよ。
 恐らくその二つの中で、ソビエトとして本当に狙いたいのは、実はマイニング・ベルトのほうであって、石油とか天然ガスではない。ところがマイニング・ベルトを分断されるとアメリカとしては石油を取り込まれてしまう。そういう焦りがあって、アメリカは中東の石油をわれわれに、といっているのではないか。
 こうみて<ると、案外ソビエトの今までの動きというのはスムーズに読めるのではないか。サウジアラビアやペルシャ湾を包囲するために、アンゴラから始まってアフリカの角に出てアフガニスタンとみるのもある程度正しいかもしれないが、実は彼らの狙っているところはその外側にあると思う。
 僕がもしブレジネフであればそういう発想法をしますね。



鉱物資源の独占はなにを意味するか

公文 藤原さんのゲオロポリティーク≠ヘ、大変壮大で面白いですね。その視点に立っていえば、エネルギー、とりわけ石油と天然ガスについてはソ連は国内産のものでやっていけるということですね。
藤原 ええ、国内で十分やり得る。ただね、現在のように重工業で生産するものを、ほとんど軍事部門に振り向けていると開発はできない。ですからソビエトは新しく石油開発を中心にした方向に移行するとしたら、ある程度エネルギー問題も自分自身で解決できると思いますね。
 石油掘削のテクノロジーの点でいうとどうなんですか、北海ないしは北極海のほうの…。
藤原 恐らく一九九〇年にソビエト領北極海開発で利用されるテクノロジーというのは、現在カナダやアラスカで使われているテクノロジーがそのまま利用されるに違いないと思います。
 そうするとソビエト独自でその技術開発をする可能性というのは少ないのですか。
藤原 やはり非常に少ない。サイエンスの部門では非常に進んでいる分野がありますが、テクノロジーになりますとバラつきが非常に多い。アメリカに比べて十年遅れているといっていいのではないか。
 従来のソビエトのいき方としては、今軍事的に力をつくっているが、将来的には西側の技術導入するためには仲よくしなければならない。
藤原 そうですね、アメリカとソビエトはどうしても仲よくやっていかなければならない。ちょうど日米闘係と似たようなものが、とくにテクノロジーの問題に関してあるのではないか。
 なぜかというと、ソビエトのビューロクラシーが弊害になって、エネルギー不足や食糧不足の問題がある。今後もそういう問題が起きてきますから、ソビエトの内部で反乱や暴動とかが起きてくる、それをソビエトは一番心配しているわけです。
公文 さきほどのゲオロポリティークに話を戻しますが、石油、ガスの三日月地帯の外側にある金属の三日月地帯のほうですね、今さし当たり問題になっているのは、南アフリカ連邦とかローデシアとか、あのあたりですね。しかしおっしゃったように稀少金属の鉱脈がアフガニスタンから中国のほうにも伸びているとすれば、さらに東シベリアにまでも当然伸びているということになりますね。
藤原 それはもう凄いポテンシャルがありますね。もうすでにダイヤモンドや金とか、チタニウムとかいうものはかなり開発されていますから。
 ウラニウムもありますね。ウラニウムの場合には花崗岩系のウラニウムと、堆積岩系のウラニウムと二種類あります。それからアフガニスタンからソビエトの国境にかけては、世界のルビー地帯です。ルビーというのはこれから大量に兵器に使われるのではないか。特にレザー兵器とか核融合とか、いろいろな形でルビーの需要が非常に多いのです。このルビーを大量に使う可能性があるというような俗説をアメリカできいたことがあります。
 これからも通常兵器を使った戦闘というものは頻繁に起こり得る可能性があるわけですね。たとえば中ソ国境の紛争は、恐らくタンクを使った戦争になるでしょうね。ソ連側はタンクを使うが中国側はレザーを使った対戦車砲を大量に必要とする。そのためにはルビーがいるんだというような、いかにも物語的なことを言う人もいますがね、まんざら嘘にも聞こえないし…(笑)。
公文 ただ、石油についてはソ連のもっている技術は十年遅れているとおっしゃったが、鉱物のほうはどうですか。探鉱から採掘するまでの技術でも米ソのレベルは相当違いますか。
藤原 探鉱の開発技術というものはソビエトが非常に進んでいるわけです。日本では、たとえば三池をはじめ多くのところは、フランスやドイツから技術を買っていますが、オリジナルは実はソビエトにありましてね。ですからそれをシベリアで使うことは可能だが、現在のようなあまりにも軍事至上主義だと、そういうものがどうしても配給されない。そうなったら日本あたりにつくらせて、ひとつシベリア開発は日本にしてもらおう、というような戦術が出てくるのではないかと思いますが……。
公文 国内にそういう鉱物資源が大量にあって、そして、その投資のための技術も高水準のものをもっているとしたら、さきほど藤原・ブレジネフ構想にあった、アフリカに進出した本当の狙いは鉱物である、という話はどういうことになりますか。
藤原 世界の独占体系がこれで確立するわけですよ。たとえば金の生産の九〇%、クロームの生産の八○%、あるいはチタニウムの九〇%、自金にいたってはソビエトがほとんど独占している。そうなっ、てくると、これからエレクトロニクスの時代でしょう、白金を抑えられたらエレクトロニクスにとって致命傷なわけですよ。
 だからアメリカが食糧を禁輸するのに対してソビエトがどう対抗措置をとれるかというと、白金を止めてしまえば世界のエレクトロニクスは白金の値段が千倍、一万倍になっても使わざるを得ないですから、ソビエトとしては切り札になるわけですよ。
公文 それでは、藤原説をまとめてみれば、要するにソ連としては稀少な金属資源を独占することによって、食糧戦略の行使に対する対抗手段を得ようとしたということになりますか。
藤原 食糧とそれからテクノロジーというか、むしろノーハウに近いものを確保できる と考えられますね。ソ連がもくろむ世界革命戦略とは
公文 それによって大体一九七〇年代にソ連の中東、アフリカに出ていった狙いが、大きくは説明できるのではないかというのが、今のゲオロポリティークの仮説ですね。
 森さんに今の藤原仮説についてのコメントをお願いしたい。
 ソビエトの国内事情というものが、どこまで追い詰められた状態にあるのかがポイントになると思いますね。ただ一つだけ疑問に思ったのは、かなりいろいろな資源を持っているにもかかわらず、どうして軍事力に金を投資して外の資源を確保しようとしているのか。まあ今の独占の問題がありますが、そこまで攻撃的なものかなという感じが一方にあるんですよ。
 それはソビエトが自分の勢力圏を広げるという構想の背後には、やはり単なる資源の獲得だけではない意図があるのではないかと思うのです。資源だけで考えてしまうと、やはりまた足元をすくわれるかもしれないという気もするのですね。
公文 たとえばどんなことですか、資源戦略以外の要因というのは。
 ひとつには非常に表向きな話になるが、やはりソ連には世界革命という目的がある。ソビエトの世界革命路線はあるにはちがいない。途上国にどんどん革命を起こして、自分の傘下に入れていく方向は、彼らにとって望ましいことは事実でしょう。ただその場合に、七〇年代後半のソ連の援助の仕方はよく理解できないのですね。
 たとえば反共的なバース党政権のイラクになぜこれまで援助をしたのか。ソビエトの立場からすれば共産主義者はどんどん殺すイラクのような国に援助をしていいはずはない。同じことはリビアのような反共の国になぜ援助をするのかにもいえることです。今リビアはアメリカにどんどん接近していますよね。つい最近ではエジプトが攻め込むという情報をアメリカが流したということで、リビアが親米路線に切り替えつつあるという状態になって、PLOと大げんかをやったという、そんなこともあるらしいのですが、そういうリビアをなぜ援助するのか。 同じようなことはいろいろあったと思うのです。エジプトにしも、かつてはどんどん援助して、後では反ソになって離れていくということかあったと思うのですがね。
藤原 要するにアフリカや中東の親ソという姿勢は、アメリカから離れてつくところがないから、仕方なしにソ連についただけの話ですね。戦略的なものですね。
 そうです。そこでこう思うのです。ソ連は七〇年代に入って以降、世界革命戦略を既存の社会主義諸国防衛に重点を置く戦路に変えたのではないか、と。それはいくら援助をしていても、ソ連の思うような社会主義革命が、第三世界に起こらなくなったことにもよるのではないか。それどころではなく、肝心のソビエト自身が危機的情勢にあると見ているのではないか。七九年の秋だけをみても、NATOと中国からの圧迫感というのが一層高まり、ソ連は両方からどんどん追い詰められている様相は、たしかにあると思うのですね。
 それをはねつけるには、たとえソ連型の社会主義国でなくても、反米であればいいという、無原則な同盟者を求めはじめたと思うのです。第三世界の社会主義革命などを待っていては間に合わない。それよりも、カウンタ―帝国主義としての味方をどこかにつくらなければならない。つまり白い猫≠熈黒い猫"≠烽ヒずみをとる猫はいい猫である、ですよ。そういう発想というのは当然行なわれていると思いますね。だから、反共国家にも援助を惜しまなくなっている。
藤原 ソビエトを歴史的にみると、外敵から攻められてきているという歴史的な事実はどうしても忘れられないので、彼らの熊が立ち上がって吠えているような姿勢というのは、実は彼らが恐れというか、恐怖心からそれをやっていると考えられるのではないか。
 ソ連がこれまで援助してきた第三世界それ自体が、最初にも申し上げましたが、これからはコントロールが効かなくなるという事態が出てくる、それがソ連の最もこわがっていることなのだろうと思うのですね。そうした事態がアフリカでもどんどん起こる。中東でも起こってきて、その極端な例がイランの形で出た。
 これはいまだかつてなかった事態だと思います。これは大きいと思うのですね。ここで私は、ピエール・ガロウ将軍の核抑止理論を思い出すのです。御存知のとおり、ガロワ理論はドゴール主義のべースになった考えですが、彼によれば核を持っている国同士、ないしは対立する核保有国双方の利害関係がからまって中立化している国だから、核戦争は起こらないという。むしろ一方の核保有国の利害が少ない中途半端な国というのは、みんな問題が起こる要素を持っている。アフガンはその典型的な例だと思うのですが。
 だからいま一番よくいわれる朝鮮半島の危機とかいったことはまず起こり得ないと思うのですね。むしろ戦争が起こりそうな場所というのは、第三世界のいままさに米ソが張り合いつつあり、ないしはヨーロッパも含めて先進国が張り合っている国で、互いに双方とも利害対立が中立化の形にまで達していない国に通常戦争が起こる可能性が強くなる。しかも戦争が起こっても、そうした第三世界では核が使えないという危機感が米ソ両国にあると思うのですね。それが米ソ両大国の第三世界へのコントロールがきかなくなった事態にもつながっている。そのため米ソは第三世界対策として、核をあてにしない、通常戦能力を高めざるを得なくなった。
 その布石のために米ソ両国ともどうしても戦略拠点を抑えるために出ざるを得ないし、それに資源の問題がからんでいるから、ますます事態は深刻になる。たとえばその資源をアメリカに確保されてしまっては、いくらソビエトが将来的に資源がだいぶあったとしても大変である。しかも問題はソビエト一国だけにとどまらず、社会主義圏、東欧諸国にも波及する。いろいろな世界の友好国にも石油などの援助をしなければならない立揚にあるソ連としては、どうしても中東に出ざるを得ないという様相があったのではないのかと思うのです。
藤原 資源を抑えることによって、逆に資源を抑えられてしまっているという内部矛盾を抱え込むわけですからね。燃え広がる内部矛盾で、案外逆に大きな火傷を負う可能性があるわけですね。
 ところがソビエトというのはおもしろい国で、海軍戦略に関してはマハンの海軍戦略を忠実にやるし、陸軍に関してはジェミニの戦略であるとか、まさに十九世紀的なものを一つ一つ丹念にやっていくということがあるので時代遅れに見えるのですが、それが古典的であるがゆえに、非営に力強いものを持っているというおそれがあるわけですよね。



日本は小野小町か姥桜か

公文 両陣営の対峙・競合という関係がすべての基礎にあるようですね。最後に、そういったグローバルな見地から、では日本のこれからの進路をどう定めるべきかという点について、遠慮はいっさい無用ということであらためて自由に論じあって下さい。
藤原 日本に帰ってきたら、スパイ事件があったとかいって、いろいろ騒いでいるわけですよ。ジャーナリストは八月の参議院選挙のための選挙対策ですよ、自民党は共産党を叩くためにやっているし、ちょうどアフガンのこともあるんで、ここぞとばかり反ソ感情を盛り上げているのだと言っているのです。ところが僕に言わせれば、自衛隊の中のいらない人間を全部お払い箱にして、自分たちに都合のいい連中だけを並べるという、いわば人間の再配分をやっているのではないか。
 僕のように世界を回って、すぐ内乱や動乱が始まったりした国をみている人間の勘として、なにかきな臭いことが起きているのではないかという気がする。
 これからもし戒厳令をしかなければならないような状況が起きたときに、自衛隊がクーデターを起こすのではなくて、案外公安みたいな部分が戒厳令をしいて、たちまち日本の動きを統制するような動きがでてくるのではないかなというような印象を受けたわけですよ。これはむしろ『日本封鎖』をお書きになった森さんの線に近づいてくるわけですが、どうですか。
 たしかに今の日本の動きというのは、先ほどの論議に出ましたが、中央集権化といいますか、どうも上から下へ命令のうまくいく杜会にしたいという人たちが多いように思うことはありますね。
 自衛隊は戦後三十年やっと軍事テクノクラートが育って自立しはじめた。そこへ今回の宮永スパイ事件です。この事件を契機に、シビリアンコントロールの名の下に自衛隊を警察官僚=旧内務官僚が牛耳っていくのではないかと思いますね。彼ら(自衛隊)はまだ社会的にも法的にも認知を受けていないというコンプレックスを抱えたままでしょう。自衛隊はほかの国の軍隊とまるで違う、軍隊とはいえない存在だと自らも考えている。法的に弱い立場にいるわけだが、警察はそこを巧みについて、自らのコントロール下におこうと画策していると思うのですね。どこに軍隊内にまで警察が介入する国があるでしょうか。日本の場合、自衛隊が軍隊ではないから警察権が及ぶわけですね。しかし、これは本当に喜ぶべきことかどうかは疑問だと思うのです。自衛隊にすれば、いま戦争が起これば彼らが先頭に立たされて死んでいかなければならない状況にある。
 そういう矛盾やうっ屈した不満について、私は、あなたたちどう思うかとよく閏かれるわけです。この不自然さは、いつか自衛隊を爆走させるのではないかと私は思います。かといって、自衛隊を支配する強力な警察国家も望ましくはない。いま問われているのは本当のシビリアン・コントロールとは何かということでしょう。警察官僚が自衛隊を支配することは、決してシビリアン・コントロールではない。警察権力の強い国家は中央集権的な国家です。これでは第三世界は警戒します。
 真に第三世界と付き合っていくことを考えれば、やはり、もう少しゆるい杜会体制、また地方分権化して、また各機能の横の流通といいますか、連絡とか、横の風通しのいい杜会がつくられる必要がある、と私は思いますね。
藤原 森さんの今のお話とは直接関係がないかもしれませんが、外国、ことにアメリカやソビエトにとって日本とはいわれるほど魅力のある国かどうか論じましょう。
 かりに僕がブレジネフで、日本を欲しいかと聞かれたらこの国は全然欲しくない(笑)。日本自身のソフトウエアのインプットが途絶えた状況で、果たしてわざわざ武力を使って北海道だけとるというような戦術を立てるかどうかというと、これはつまらない。むしろ日本というのは老婆のような国だと思う。日本が外国に眼をつけられて、うっかりすると強姦されかねない魅力的な若い女性のような国だと思うのは、大問違いもいいところです。
 ところが、僕がアメリカから日本に来るたびに「アメリカでは日本のことをどう思っていますか」ときかれるわけですよ。だから「アメリカではなんとも思っていませんよ」と答えるのです。日本人が思われていると思っているだけの話で、外では日本のことなんかなんとも思っていない。
 たとえば日本が平和をベースにした、要するにどこの国にとっても疎外要因にならない状態だったら、今まで通り平和を維持できるが、攪乱要因としていろいろ働くようになったら、この国の生存は非常に難しいのではないか。僕自身の感じとしては、日本を封鎖するなら、それこそ森さんの『日本封鎖』ではないが、潜水艦五隻でたくさんなわけですね(笑)。
 もっと必要だと思いますが…〈笑)。
藤原 ただね、逆にソビエトに日本がついたら、アメリカがどの程度恐れるかということ考えたらいい。現在のまま、ソビエト側についてシベリヤ開発をやったら、これはちよっと問題があるとアメリカ側は考えるかもしれない。
 しかし、石油食糧が止まって内乱状態寸前の事態を迎えたと仮定しましょう。まず、戒厳令をしかなければいけない。次にクーデターを起こすでしょう。するとほうぼうに火の手が上がって内乱状態になり、さらに内乱状態を徹底的に推し進めて日本の国民の半分が餓死するとか、そういう状況になってソビエトにつくのだったら、今度は日本を掴んだソビエトにとっては姥桜なわけですよ。こうなるとアメリカは日本がソビエトについてもかまわないと判断するでしょうね。
 日本は自分たちが世界中から魅力を感じられていて、とくにソビエトは日本のことを虎視たんたんと狙っているというような思い込みというのは、この際きれいさっぱりと捨てるべきではないかと思います。ところが日本の国内にいる先生たちは、日本というのは素晴しい美人で、小野小町以上である、ソビエトからツバをつけられたら大変だと心配をしているが、そんな心配いりませんよ(笑)。だれもそんなに日本のことを気にしていませんよ。これが日本の姿ではないですか。
 私も同感ですね。つまり日本に革命や内乱が起こり、占領してもまるで価値のない国になるとか、あるいは戦術核でめちゃくちゃになったら、日本というのはアメリカにとってもソビエトにとっても価値がないというのはその通りですね。
 そういうことは将来もあまり現実味がないでしょうから、今のままで考えても、これから日本がソビエトの友人になるか、あるいはアメリカの友人のままでいるか、ないしはソビエトにもつかず、しかもアメリカから離れようとするとか、そうした日本の選択の問題が両方の国にとっては大きな問題にはなるでしょうね。アメリカにとっては反ソになってくれればくれるほど、日本がアメリカに近づくわけだからありがたいと思いますが、では日本の国益や日本の立場からいえば、日本は果たしてアメリカにいつまでついているのがいいのかどうか、これは疑問ですね。もっと自分の国や国民を大事にする方向を探し出すべきだと思います。日本が魅力ある女性でなくてもいい、婆さんでもいいと思うのですね。
藤原 知恵のある婆さんは、大事にされる(笑)。
 独自な国際的な影響力をほかの国に与えつつ、なおかつ共存しながら資源を確実に安定的に供給を受けるような立場をつくろうとすれば、それはアメリカにべったりになることではないだろうし、反対にソビエトにべったりになることでもないだろう。独自の民族的な自覚の上でたどっていくべき道、日本のとるべき第三の道というものはあるのではないかと私は思うのです。
藤原 それが民族主義と結びついて、尊皇攘夷思想が台頭してくると、非常に危険ではないかと思いますね。



歴史から学ぶ日本の課題

 たしかに危険です。だから第三の道といっても平和な道ではなくては意味がない。
 それは決して日本の国内の体制を固めることではなくて、しかも単なる経済援助、経済進出重視型ではない。日本がアジアをはじめとする第三世界と苦しみを共にしながら、相互に助け合って生きていく道を模索すべきだと思いますね。そういう外交政策が行なわれてもいいのではないかと思う。
 これからの時代は、日本だけで生き残れる時代ではない。隣りのどういう国とも仲よくまた平和的に共存していく時代だと思うのです。それは決して軍事力の増強といった道ではないと思うのですよ。
藤原 そういう意味で中程度の国の平和路線というものが出てくるべきですね。今までの平和務線というのにあきて、平和だといかんということを言いはじめてきた人がいるが、やはり今までだって平和というものは不完全だったので、もっと第三世界と仲よく平和を維持することによって、日本の一億の人たちの安定した生活を維持していく方向へ政治が進んでいかなければいけないのではないかと思います。
 というのは、日本の安全保障というのは実は軍事的なものではなくて、むしろ一億の人たちが不幸にならず生活していくことである。そのためには食糧も確保しなげれはいけないし、エネルギーも確保しなければいけない。また、日本自身の産業社会がこれまでのような重工業偏重のいわゆるエネルギー多消費型から脱皮して、より知識集約的になると同時に、世界の中に東京からの中央コントロール指令ではない形で散っていって、しかも日本人がその中に入っていくことによって、国民が少しづつ減っていくということも考えていかなければならない。人ロが多いというのは大変なことでして、中国が近代化しなければならないというのも人口が多いためであって、日本だって同じである。
 ともかく軍事の問題がよく安全保障といわれますが、あくまでも軍事というのは政治の延長線ですよね。だから経済と政治外交の安全保障問題がまずある。相手が経済、外交などすべてを無視してきた時に軍事という最悪の場合の選択が出てくる。軍備は最低限のものは必要とは思いますが、軍事が安全保障の中心ではない。こうした安全保障の考え方が十分に日本人にいきわたっていないように思いますね。
藤原 そうですね、ここで改めて強調しておきたいが、国家の安全保障の問題と国防問題は次元が違う。国防問題と軍事の問題はまた次元が違う。国家の安全保障の問題を軍事問題と、ごちゃまぜにしたような議論がこの頃経団連とか日経連などで出ているが、ああいう耄碌じいさんの時代遅れの議論にわれわれは巻き込まれたくないと思いますね(笑)。
 アラブでいろいろな政府の人たちの話をきくと、日本に対する見方というものはこうなんです。日本人に対して兵器とかそういう類のものを欲しいなどとはいっていない。彼らは日本のものより優秀な兵器や武器、アメリカからもらえるし、フランスからだって西ドイツからだって、ソビエトからだって欲しいといえば買えるのです。
 日本に期待しているのはそういう武器などではなくて、われわれアラブの立場を理解してほしいということです。
藤原 そうそう、そういうことなのです。
 同じ東洋人ではないか、と。彼らも東洋人として同じ人種なんだ。白人とは違う。われわれの政治的な未成熟な度合い、途上国の苦しみというものを日本人も一緒にわれわれと分ち合い、助けてほしいと。それがなんといっても大事なことなのだというのです。彼らはそれを何度もくり返すわけです。具体的に、ではどうしたらいいのかですが、彼らは経済援助を求めているのかといえばそうでもない。金はいくらでもあるんだというのですね。問題はあなたたちが辿ってきた明治維新とか、近代化のプロセスでの日本の歴史的な経験を教えてほしいと言ってきます。
 だから、さきほどの話のソフトウエアですね、そのあたりがどうも日本人は全然理解していない。武器さえ売れば石油をもらえるとか、技術を援助すればいいのだろかといった単純なことでしか考えていない。
藤原 現在、過去を通して唯一のソフトウエアというのは、実は過去の経験の上に成り立っていると思うのですね。ところが現在の政・財界人は歴史に学ぶ能力をもたない人たちだから、せっかくわれわれのもっている歴史という宝をアラブの人たち、あるいは第三世界の人たちと分かち合えないというジレンマがあるわですよね。
 日本人は、いつもイスラムというのはわかりにくいというのですが、彼らにいわせれば、なにもイスラム教を理解しろというのではない。われわれアラブは仏教を理解しようと思わない。要するにわれわれイスラムの文化なり、われわれイスラムの価値基準があることを認めなさい。あなたたちの文化や価値基準も認めるということなのですね。
 それを、われわれのイスラムの文化や価値を低くみて、なんでも西洋のほうが、技術や文化すべてが上位にするような見方というのは間違っているということを言うわけです。
 日本入はイスラムの理解をという前に、まずイスラム文化の存在を認めるところから始めなければいけない。そこからはじめて、彼らアラブに対する理解ということもいえるのではないかと思うのです。
藤原 そういう意味でアラブ諸国、あるいは第三世界というものは非常に遠くにみえて、実は非常に近いんですね。
 明治維新の流れをもう一度日本人が思い出せば、あの第三世界が辿っている今の動乱はほとんどが理解できると思いますね。日本人はアラブ第三世界を理解できる経験を、ほかならぬ日本の毛岸のなかに持っている。その歴史経験をもとに、日本とアラブが手を結べば、日本はアメリカやソビエトをあてにせず、独自の自立路線をかかげて生きていけるのではないのかなと思います。
藤原 それも日本中心の路線ではなくて、いまのお話にあったような日本というものは、実はアメリカにとってもありがたいし、ソビエトにとってもありがたいわけです。
公文 自由にどうぞといったとたんに、私も思わず眼をひくような話ばかり飛び出して一時はどうなるかと思いましたが、なんとなく落ちつくべきところに落ちついた感じです。
 八○年代の入ロに立っている日本は、まだ自分の進路についてはっきりした結論を出して動き出すというところにはきていないと思います。目下はいろいろな人びとが、世界はどうなり日本はどうすべきかといった問題をめぐって、カンカンガクガクの議論を重ねているところでしょう。
 今日の議論もその一つの典型として是非読者に味読していただき、読者ご自身でもいろいろと考えていただきたいということで、今日の結びにしたいと思います。ありがとうございました。


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