『史』 1978年4月号



亡国の兆し




カルチュア・ショック


 私は過去一五年間日本を離れ、世界各地で資源開発に関係して来た。別に日本の企業から派遺されたり、日本を放棄した訳ではなく、日本には国際舞台で自由自在に活躍できる多国籍企業が無いので、外国で働くより仕方がなかった。
 地上最大のビジネスと云われる石油産業に身を置き、石油にまつわる国際政治の潮流にふれながらも、日本人として祖国の現代史に関心を持ち続けて来たのである。
 昨秋、突然一時帰国が決定したが、二週間の日程で専門家やジャーナリストを相手にゼミと講演をするのが与えられたスケジュールで、今度の帰国は六年振りだった。
 帰国時の印象が新鮮なうちに記録を残して置くことは、自他ともに参考になるし、現代史への報告上の義務も果せるという次第である。六年前の一九七一年二月、私は七年振りに帰国した。その時の印象は拙著「石油飢餓」(サイマル出版会刊)の冒頭に発表した。
 その記録が読者に歓迎されたので、私の証言に意義を認めた同胞が少なくなかったと思われる。故国の土を踏んで五〇時間以内という圧縮された時間帯での印象は、稀少価値だけでなくネガティブ・カルチュア・ショックを内包しているのである。
 日本人が初めて外国へ出掛けた時に受けるもの、あるいは外国人が初めて異国文化に接して感じるものがノーマルなカルチュア・ショックなら、現体験としての私の印象は浦島太郎がタイム・マシン的体験をした四次元を逆行するタイムショックと同種類だと云えなくもない。こう考えて、帰国六〇時間目に日比谷の日本人記者クラブで行われた記者会見の席上、冒頭の時間を借りてジャーナリストにこの印象記を披露した。講演の部分は時事通信社の「世界週報」に掲載されたが、オフレコにした部分をここで紹介させていただく。



知的生活ブーム


 私の第一印象を率直に表現すると、それは「痴性の蔓延現象」とのショッキングな対面だった。もっと分り易く云うと、現在の日本は「知的生活」や「知性」の名において、知的荒廃が猛烈に進行しており、知識層と云われる部分が見るも無残な形で荒廃に触ばまれ、知性の空洞化が顕在化している。
 チセイと発音され爆発的ブーム現象を起こしているが、私に云わせれば、それはヤマイダレを付けた痴と性の組み合せにほかならない。それは恐山の巫女や卑弥呼的な士俗性と結びつけたタワケとサガの組み合せであり、帰国の翌日私はこの点を痛感した。親しい人々に電話したが、その中で旧友との対話は、ジャーナリストらしい切りこみを受けることで始まった。
 「君の六年振りの日本の印象は?」
 「いつ来ても日本人は全員が疲れ切ってるみたいで、背筋がシャンとしている人間がほとんど居ない。それに若い連中がそろいもそろって電車の中で、子供向け漫画やカストリ雑誌を臆面もなく拡げて熱中している様はなんだい。思わず赤面させられたよ」
 「そうか」
 「国民全体がだらしないって感じだな。まるで旧植民地のエジプトやパキスタンと云うか、横光利一の戦前の小説「上海」に迷いこんだと思ったほどだ。それに漫画も穢い絵ばかりだ」
 「マンガか、あれは大学生とサラリーマン達だよ」
 「でも寝室でならとも角、公共の場所であんなものを拡げるセンスはどういう事だい」
 「劇画世代というんだ。六○年アンポ以来の風潮で、青年が方向感覚を失ってるのだ。でも悲観したものじゃないよ」
 「どうしてだね。恥を知ってた日本人から恥を引けば背広を着たケダモノと大差ないと僕は思うが」
 「でも最近「知的生活」というのがブームで、日本人の間に知性に対する関心が大いに盛り上っているんだ」
 「どういう風にだい。知性はブームになるようなものじゃないよ」
 「百聞は一見に如かずだ。どこか近所の本星に行って見たまえ、驚くから」
 こう云われて、私は東京の中心に出掛けたついでに、大きな書店に入ってみたのだった。



『腐敗の時代』


 知性を表題に使った本が山のように有った。「知的生活」「知的経営術」「知的ゴルフ」というのはもとより、知性や知的を売り物にした本が、丁寧なことに知性コーナーと名づけられた所に賑やかに置かれてある。しかも売り場には「明治維新の知的観察」とか「社会の知的展望」と云う、分ったようで何だか訳が分らない特集記事を並べた雑誌も氾濫状態だった。
 一応友人の挙げた本を取り上げて見ると、裏表紙に「英語には知的正直ということがある。知的正直というのは簡単に云えば、分らないのに分ったふりをしないということにつきるのである」と書いてある。それでは知的正直に恥じないことが論じてあるのだろうと早合点して、並んでいた同じ著者の本を二冊ほど購入すると、電車の中で読み出した訳である。
 ところが「知的生活の方法」と題した本には、個室を作ってカードを整理し、ブドウ酒を飲んで白チーズと黒パンを食べれば脳の活動が盛んになるとか、家庭生活や親類は知的生活にとってマイナスになるということが、写真入りで並べ立ててあるにすぎない。
 カードの整理だけでなく読書や勉強の仕方については、十年も昔に川喜多二郎氏や梅棹忠夫氏が程度の高い啓蒙書を世に送り出している。しかも内容において、はるかに独創性に富んでいたことを憶えている。
 読後感として裏表紙に「衒学の徒が知的なお喋りだと思いこむのにふさわしい、空虚な内容のお喋りに終始している」と書きこんで二冊目に移った。
 私は本を読む時には鉛筆を二本使う癖がある。云いまわしや発想が面白い部分には青い線を引き、統計や人名あるいは地名や日付けなど、データとして使えるものは赤い線をひく。また、普通の黒い鉛筆は本の余白に自分のコメントを書き加えるのに使用する。大低の本には赤と青の線が引かれいろいろなコメントと読後感が書きこまれる。
 日本エッセィスト・クラブ賞をもらった『腐敗の時代』という本を読んで、こんどは余白がコメントで一杯になってしまった。一冊の本を読んで三冊位本を書けるほどの書きこみをしたのは初めての経験だが、読みおわった時、私は猛烈な偏頭痛で頭が割れそうだった。
 その理由は本全体を構成する著者の思想が支離滅裂だからだ。沢山の外国人の発言や見解が引用してあり、引用の内容自体は大変興味深いのだが、それを著者が自己流に解釈して自分の見解と結びつけたとたんに、我田引水、誤解、論理の飛躍で筋が通らなくなり、全体として全く体をなさなくなっている。明快で、しかも論理的な思考法に馴れている私の脳は、ゴッホのゆがんだ絵の前に立った時と同じように、この人の修辞法と強弁に対して大きなストレスを感じてしまうのだった。
 本全体が狂っているのは確かだが、歴史を見る眼について論じ、進化論を頭ごなしに否定する所で
 「地球は元来火の玉であったことは誰でも認める。その温度の高さはパストゥールが煮沸実験した時の温度の何千倍もの高さであったと推定される。別のことばで云えば、地球が始まる時殺菌は完全だったのである。そこにどうして生物が生じたのか」などと中学生にも劣る知識を背景に進化論にいどみかかっている。
 この語学屋の先生は人間の認識外に自然の法則があることをさっぱり理解せず、生物学や物理学のイロハさえ知らずに科学を論じ、私の専門である地質学にも無知をさらけ出して切りこんでいる始未だ。そこではセミの抜け殻を見てノミを連想しかねない単細砲ぶりを発揮しているが、進化と退化は同一の現象の異った側面であることが全く分っていないのである。
 自分の幼稚な頭が理解し得ることだけが実証でき、それを越えた理論は科学ではないという、全くたわけたことまで断言している。私は亜然としてしまった。



『レトリックの時代』


 認識論や哲学を得意に喋りまくりながら自縄自縛というよりは、むしろ語るに落ちる現象を至る所で露呈しているのは、専門だと得意になって英語教育を論じた「英語教育考」という部分である。平泉試案の明快さと迫力に圧倒されたと白状している部分にいみじくもその単純さが馬脚を現わしているが、この英語学の教授は英語を文法と錯覚して英語論を展開している。また記号にすぎない文字をことばと取り違え、得意になって言語論をやっている。
 こんな程度の能力しか持ち合わせない先生から外国語を教わる大学生も気の毒なものだと思わず同情した。私にはこの先生がおそらく英語もろくに分らないのではないかという感じがした。第一、音楽論を喋っているつもりの人が楽譜について御託を並べていれば、それは五線譜の問題であって、グレゴリオ聖歌もロマン派も単なる作文におけるレトリックの問題にすぎないからだ。
 専門にしていることでさえ精神分裂症気味である以上、その他は推して知るべしだ。三島由紀夫や徳富蘇峰を神様のようにたてまつって、民族の生んだ最大の英雄のように云っている。蘇峰はこの英語の先生があがめたてまつる強引な説話法を、国枠主義のプロパガンダに用いた人であり、東条英機が蘇峰節の拙劣な弟子であったことはあまねく知られている。
 戦後三〇年たって、再びここに蘇峰節の独唱者が登場したのである。私はこの本の扉に「こんな下らない云いたい放題を書き、しかも自分の認識が実存的世界の中に留った感覚主義丸だしだというのに、この本がエッセィスト賞をもらったとしたら、日本エッセィストクラブというのはどんな連中の集りなのだろうか。この本はまともな人間には偏頭痛を感じさせるという意味で、異常度を計る役目を果し得るかもしれない。こんな本がアクセプトされている社会とは、どれほど狂っているのだろうか」と書きこんだ。
 こんな本がベストセラーとしてうけ入れられている日本は、どうかしているのではないか。昔はこんな支離滅裂なことを書けば、ジャーナリズムやアカデミィの世界から叱責の声が出て来たものだが、現在の日本ではそれさえもない。この本には他人の説をファクトに使い自分のデマゴギーをそれで挟んで紛飾したものだ。
 せっかく冴えた頭脳を持って太平洋を渡って来たというのに、滞在いくばくもなく鎮痛剤を飲まなければ居られないほどの頭痛に支配されてしまった。だが私には残念なことにもう一冊の本が残っていた。仕方なしに読み続けることにしたが、その二冊自の本は『レトリックの時代』と題する本であった。
 私は北米大陸に九年程生活していて英語力はアメリカのハイスクールの学生と似たりよったりの実力しかない。というのは高校から大学入試もすべてフランス語で、しかもフランスに五年以上も住んだので、英語力はまあまあと云う程度のものしか持ち合わせないからだ。
 英文法の大学教授を鼻にぶらさげ、他の英語教師を文法ひとつできない気の毒な人と侮蔑している著者である。ところで私が驚いたのは、英語で物を考えるということを得意になって
 Thinking through English
と書いてボロを出しているのをみつけたのだった。こういう間違いを平気でやる英語教師が横行しているから日本の学生の英語は駄目だし、憲法の翻訳も間違ってしまったのではないかと思う。
 それと云うのは、英語で考えるという時にはThinking in Englishと云ってスルーなどと云う前置詞を使うことは絶対にないからだ。アメリカに限らずインドでも香港でもThinking in Englishが英語で物を考える時の唯一の表現法で、これは小学生でさえ間違えないのである。
 こんな初歩的なことも出来ずにいる人物である。しかも日本の英語教育に文句をつけ義務教育を廃止しろと叫びマスコミから喝釆をうけている。日本というのは、余程どうかしているとしか云いようがない。



ガバナビリティの詭弁


 その他修辞法、日本語論、教育論、週刊誌論、全体主義論とこの本の中に書かれている粗雑で混乱をきわめた駄文についてはつきあいかねるので省略する。しかしガバナビリティについて論じている部分は余りにもひどいので、ひとこと論評を加えることにする。
 この先生はガバナビリティということばに被統治能力という訳語を与え、日本のジャーナリストの多くが統治能力という意味で使っているのはけしからんと、自分が英語の素人でないという立場で切りこんでいる。文法上ビリティで終る英語は形容詞ではブルで終り、意味は原則として受け身だという理屈は原則としてそうであるかもしれない。だがその訳語はこの人の云うように被統治能力でも統治能力でもない。なびき易さ、制御しやすさということであり、もっと平たく云えばバカさ加減ということなのだ。
 ところがこの語学教師は被統治能力という訳語の能力という字に幻惑されてしまい、ガバナビリテイが高いことを大変いいことであると誤解している。
 「戦前の日本はガバナビリティがすこぶる高い国民であったから、いい加減な指導者の下でも、よく戦う兵士がいっぱいいた」という記述や「明治維新があのように成功し、日清・日露の両役の勝者になれたのは、国民のガバナビリティがずば抜けて高かったからである。日本兵は「進め」と云われれば進み、「守れ」といわれれば死んでも守った」といった文章にその誤解と無知がいみじくも露呈されている。
 私はこの所を読みながら、アフリカの土人がタイコに合わせて突進したり、インデアンが敵の銃火に立ち向いバタバタ倒れていく光景は、その戦術的な無知を気の毒に思うのが本筋で、この先生のように得意になる人の心が知れないと考えずにはいられなかった。単語のスペルの中に能力を示すableが関係しているから誉めことばだと思いこんでしまった語学教師の浅ましさはどのように形容したらいいだろうか。自分の独断に気がつかないまま「従順とほとんど同意義の被統治能力(ガバナビリティ)を持つ国民こそが偉大な国民であり、個人の自由度の大きな社会生活をエンジョイできるのに反し、ガバナビリティのない国民は、全体主義によってのみ近代国家としてまとめられるので、個人の自由度はきわめて小さくなり、いわゆる近代奴隷国家に落ちこむのである」と書いている。
 ここまで来るともう始未におえない暴論で、これを読んで痛くならない頭のほうがおかしいと云ってもよかろう。伊藤博文は朝鮮人をガバナブルと云ったのであり、それはコントロラブルの意味としてサブデュの形で使ったのに、それをこの教師は誉めことばと思いこんでいるのである。
 これまで無知につけこまれて植民地支配に甘んじて来た多くの被支配者達でさえ現代では、ガバナビリティを低めている。また個性の滅却による全体主義の擡頭を防ぐためにも、大多数の人びとはガバナビリティの高くないことを望んでいるのである。
 ツアー治下のロシア人は最高のガバナビリティを示したし、ドイツ人もガバナビリティの高さによってヒットラ−に盲従した歴史を思い出させる。
 「日本は戦争中に兵士や国民のガバナビリティを国家が乱用、悪用したので、その反動が出てガバナビリティを恥じる考えが出て来ている。しかし社会全体としてはまだ著しくガバナビリティが高い国民であるから『ガバナビリティを捨てよ』という悪質なイデオロギーに乗せられない限り、自由度の高い、繁栄した国家を維持していくであろう。」
 という結論となっている。それがいかに支離滅裂であるかは、あらためて説明の必要もないほどである。



日本国家の現状


 ガバナビリティということばを日本で流行させたいなら、そのやり方がひとつだけある。それは「福田内閣のガバナビリティ」ということばをカッコ付きで用いて、なびき易さという意味で使うのである。
 福田内閣がもしどこかの国の言いなりになっているという批判があったばあい、それを「福田内閣のガバナビリティ」は高い、と言えばよいわけである。しかも、その三下奴である語学教師が、ゲッペルス張りの見えすいたデマゴギーをまき散らし、国民に逆立ちした物の見方を植えつけようとしている。
 曾ての日本には本物の言論人や知識人がいて、こんな小型ゲッペルスの言動を放置しないだけの権威があった。それに比べれば、今の日本は精神が風化し、知性の名の下に痴声が氾濫しているようである。ここに私が帰国の第一印象として、亡国の兆しを読み取ったゆえんである。ここで私は真剣に、一億の日本人に問いかけたい。狂っているのは果して私の第一印象なのだろうか、それとも日本という国家の現状なのであろうか、と。


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