『BIG−A』 1989.08月号



自民党政治ご破算のすすめ
−いまの自民党は自由民主党に非ず−



藤原肇 国際エコノミスト ペパーダイン大学名誉総長顧問



普段はアメリカに在住し、年に2〜3回日本に帰ってくる国際エコノミストの藤原肇氏は、日本を離れているがゆえに日本の動向がよく見えると言う。今回のリクルート事件とそれに続く政局の混迷ぶりは、白民党が本来の「自由民主」に基づいた政治を忘れたことに起因しており、この腐敗政治から立ち直るには、自民党をはじめ野党を含めて政界が「ご破算で願いましては・・・・・」から再スタートを切るしかないと力説する。



利権集団化した自民党

 5月下旬に一時帰国して驚いたことは、日本のマスコミが、"天安門事件"に伴って中国に戒厳令が布かれたことを、一面トップで大々的に報じていたことだ。中国の学生は「もっと自由をくれ」と言ってハンガーストライキをやったわけだが、古今東西、ハンガーストライキが暴動を引き起こしたということは、聞いたことがない。にもかかわらず戒厳令が布かれたということは、中国指導層がよほど時代感覚に欠けているということに他ならない。学生達がゴルバチョフの訪中をチャンスと見て行動を起こしたのは、戦略として当然であり、中国指導層はあれほど血迷う必要はなかった。私は、そのトンチンカンな対応ぶりに、まず驚かされた。

 中国の戒厳令騒動を横目で見ながら、東京はリクルート事件の後遺症に七転八倒の状況である。私に言わせれば、学生が政府に抗議のシュプレヒコールをあげなければならないのは、北京の天安門広場ではなく、東京の永田町の方である。また、野党が労働組合を動員して「内閣即時総辞職」「解散・総選挙」を要求するデモを行っても不思議ではない状況なのに、その気配は全くない。この日本の余りの天下泰平ぶりにも驚かざるを得ない。

 竹下首相は、平成元年度予算が成立したらリクルート事件の責任をとって辞任することを明言した。しかし、予算の自然成立を2日後に控えたきょう(5月26日)現在、後継総裁はまだ決まっていない。自民党の人材不足は目を覆うばかりだが、これは単に、ニューリーダーやその次の世代のリーダー達がリクルートに汚染されていたから人材がいない、というだけではなく、もっと深刻な原因がある。

 戦後、自民党の母体となった自由党や民主自由党が設立されたときの理想は、果たして何であったのだろう。それは反ファシズム、反警察国家、反官僚主義であり、自由主義、民主主義、反共産王義であったはずである。ところが今日の自民党を見た場合、反共主義だけは残っているが、他の理想はどこかへ忘れ去られてしまっている。現在の自民党は全体主義、官僚主義、警察主義に陥っているうえに、自民党自身が一つの利権集団になり下がっている。

 政治家は昔から"井戸塀"が原則だったが、いつの間にか利権集団となり、利権を守るために二世議員が横行しているのである。つまり、自民党はもはや立党時の自民党ではなくなっている。暖簾だけは自民党を掲げているが、実態は自由と民主の党ではない。だから、自民党を背負って立つ人材がいなくなっているのは当然のことなのだ。そのことに誰も気づいていない。

 国民の中には、日本において自由主義、民主主義を守ってくれるのは自民党しかいないと、期待している人も少なくない。しかし、今の自民党はその国民の期待を完全に裏切っている。リクルート事件は、自民党が"錦の御旗"にしている自由民主主義が完全に崩壊し、泥まみれになっていることを白日のもとにさらけ出した。日本の自由主義は大正時代に芽生え、治安維持法下で吉野作造らが必死になってリベラリズムを育ててきた。戦前、ファシズムの嵐に押しつぶされそうになりながら辛うじて生き延びた大正リベラリストの尻尾が、戦後の自由民主党の立役者となったのだが、そうしたオールド・リベラリスト達はすでにほとんど絶滅し、今や自民党はリベラリズムとは似ても似つかない利権集団となってしまったのである。

 だから私は、昨年、文藝春秋から出した『アメリカから日本の本を読む』の中で、日本の政治家についてできるだけ政治家という言葉を使わないで、政治業者という言葉を使った。政界を舞台に利権を漁り、利権を売り、私腹を肥やしている姿は、政治家と呼ぶに値しない。彼らは政治業者に過ぎないのだ。アメリカには真のステーツマンがいて、その周辺にポリティシャンがいるが、日本の政治家はポリティシャン以下の業者である。


本末転倒の倫理問題

 戦後の日本の発展を支えてきたのは自民党政治だという声がある。しかし、自民党がやってきたのは真の意味の政治ではなく、行政に過ぎなかった。本当の政治は真のステーツマンにしかできないが、行政なら官僚をバックに誰でもできる。だから、ステーツマンとしての素養のない二世議員や土建屋議員などの政治業者でも務まったわけだ。議員は「選良」と呼ばれるように、人品骨柄卑しからざる、尊敬に値する人物がなり、国家・国民のために尽力するというのが本来の姿であるのだが、日本の実態はあまりにもかけ離れている。

 アメリカには"プロフェショナル・エティックス"という言葉がある。プロの政治家になるためには、まずそれにふさわしい倫理観を身につけていなければならないのだ。ところが、日本は事件や疑獄が起きると、政治家の倫理が問われ、政治家はエリを正せということになる。これは正に本末転倒で、そもそも"プロフェショナル・エティックス"に欠けた人達が政治家になっているということなのだ。今回のリクルート事件でも、自民党の上層部のほとんどがリクルートにいただかれてしまっていたことが暴露され、図らずもそのことが証明された。

 竹下首相が在任期間中にやったことは、カネをばらまくことだった。国際的にも国内的にも大盤振る舞いをした。ばらまくカネが竹下個人のカネなら誰も文句はない。しかし、それは国民の血税である。血税をばらまく一方で、カネがないからと言って国民の猛反対を押し切って消費税を導入した。これはどう考えても矛盾しているのではないか。カネをばらまけば人気が出るという発想は、田舎の小金持ちのご隠居的発想でしかない。

 アメリカに「竹下奨学金」をつくるという話を聞いた。かつて田中角栄が絶頂の頃、「タナカ・スカラーシップ」というファンドがつくられ、アメリカの各大学にたしか1ミリオンダラーずつ、奨学金がばらまかれたことがあった。その後、田中角栄が逮捕されてから、ある大学の学部長に会ったら、「タナカ・ファンドからカネをもらっているのは気持ちが悪い」と苦笑していた。私はそのとき、アメリカにいる日本人として心苦しい思いをしたが、今回「竹下奨学金」の話を聞いてそのことを思い出した。

 カネを出せばチヤホヤされるというのは、待合レベルの話である。芸者や幇間はカネで踊るだろうが、それを国際政治の舞台でやっても、決して尊敬はされない。外国人はカネを出してくれた人の名前を残すために、好意的に「タナカ・ファンド」などと名前をつけてくれているのに、その当人が逮捕されてしまっては、笑い話にもならない。大体、カネは国民の血税から出ているのに、自分の名前をつけてもらって満足している日本の首相の精神構造がおかしいのである。同じカネをばらまくにしても、首相の名前をつけないで、例えば「日米友好ファンド」ぐらいにしておいた方がよほどスマートだ。

 いずれにしても、自民党政治は行き詰まった。竹下政権の後にいかなる政権ができようとも、その前途は暗い。なぜなら先に述べたように、現在の自民党は自民党でなくなっているからだ。かつて私は小室直樹氏と対談集を出したが、その中で小室氏はなかなか鋭い指摘をしていた。それは「日本の資本主義は仮面を被った共産主義である」という指摘である。共産主義は全体主義である。その意味では小室氏は、自民党政治が反共を掲げながら、その実共産主義的な全体主義に陥っていることを看破していたわけだ。

 自民党政治は結党時の理想に立ち帰らなければならない。そのためには現在の自民党政治を御破算にしなければならない。御破算にするということは、ソロバンが合わないから玉を一つか二つだけ弾き直すということではなく、全部の玉を弾き直すことである。日本の政治はこの際、与党も野党も、派閥もすべて解消して、一から出直したほうがいい。そのくらいにしないと、利権の温床と化した政界を刷新することはできない。

 昔の日本の政界が全て正しかったわけではない。しかし、政界を取り巻く官界、学界、財界は今日ほど政界と癒着していなかった。官僚は貧しくても身辺をきれいに保ち、自負心をもって国家、国民のために尽くした。場合によっては時の権力をつっぱねる気概を持っていた。そこにはいい意味での"武士道"が継承されていた。学者にしても、財界人にしても、時の権力に迎合しないプライドを持っていた。しかし、今回のリクルート事件を見ると、腐敗した政界に官界、学界、財界が相乗りした構図になっている。この構図は醜悪である。


リクルート事件と倒錯精神

 日本のマスコミは、江副をカネをばらまいたハチャメチャな男だとして袋叩きにしているが、彼はおそらく気の小さい、計算高い男に過ぎない。彼はまず自民党の派閥、派閥のボス、議員を現在のポテンシャル、3年後のポテンシャル、5年後のポテンシャルで評価し、この議員は「AAA」、この議員は「BBB」などと格付けしていったに違いない。その指南役を務めたのが中曽根-藤波ラインだったはずである。そして、そのリストに基づいて未公開株が流れていった。マスコミは検察のメスが中曽根にまで入らなかったことに憤激しているが、中曽根と江副の関係は一種の"愛人関係"であり、愛人が貢ぐのは当然で、検察もサジを投げたというのが真相ではないか。

 日本のマスコミはリクルート事件の本質がわかっていない。私は『アメリカから日本の本を読む』や『加州毎日』の記事で指摘しておいたが、この事件の背後には"倒錯精神"が横たわっていると見ている。異常精神を持った人達が国家権力の中枢を握ったとき、国家はいかにスポイルされるかを、リクルート事件は問わず語りに物語っている。私は学位は理学博士だが、政治学部でナチズムの研究をしたり、医学部で異常精神のことを学んだり、文学部で心理学を勉強したりした。今から四半世紀も前にわけのわからないままに勉強したことが、ここへきて役に立っているわけだ。リクルート事件はそうした総合的な観点から分析しないと理解できない複雑怪奇な面を持っている。

 私には東京・永田町には倒錯精神という妖怪が徘徊しているように見える。ナルシズムという性向は人間誰しも多かれ少なかれ持っているが、それが度を超すと自惚れになり、果ては自分さえ良ければ他人はどうなっても構わないという考え方になる。私は中曽根という人物はその典型だと見ている。中曽根は釈明記者会見で江副との関係を聞かれ、「江副ナニガシ…」と吐き捨てた。しかし、中曽根と江副が親密な関係にあったことは、アメリカの東京特派員は皆知っている。一月の『ワシントン・ポスト』紙の記事にもはっきりと書いてあった。それを白々しく「江副ナニガシ」と言われたんでは、江副も浮かばれない。また、中曽根の女房役を務めた藤波にしても同様で、気の毒としか言いようがない。

 私は自民党の代議士にも友人が多く、東京に帰ってくるたびにいろいろ話を聞く。彼らの話によれば、代議士の秘書というのは代議士の女房役であり、名代であり、金庫番である。二重人格でなければ務まらないということである。そして、秘書官上がりの代議士は大抵精神的にホモだということだ。つまり、代議士秘書は女性的な繊細さと、男性的な大胆さを合わせ持っていないと務まらない仕事であり、また男が男に惚れて身も心も捧げる状態でないとやっていられない仕事であるらしい。その関係が度を過ごすと、女房以上の関係になり、愛憎関係さえ生まれてくるのだと言う。自民党の派閥はその関係を拡大したものであるから、自民党の周辺が精神的ホモという倒錯精神の色彩を帯びてくるのは、自然の成り行きということかも知れない。そういう状況にありながら、「未公開株をもらったのは秘書」としらばくれるいやらしさは、もはや救い難い。自分の女房の収入を自分の収入ではないと言い逃れるような人物を、国家のトップにしてはいけないのである。

 昨日、テレビで中曽根の証人喚問を見ていたら、中曽根は「レーガンさんは大雑把な人で…」というようなことを堂々と言っていた。レーガンは今年の秋に来日するらしいが、仮にもついこの間までアメリカ大統領だった人物を、日本の前首相が「大雑把な人」と評するその神経は常識を超えている。レーガンが現役だったら国際問題になるところだ。そんな発言がポロリと出てくるところに、中曽根の無責任体質が露呈されているように思われる。

 そもそも中曽根は総理・総裁になれる人物ではなかった。鈴木善幸が政権を投げ出したときも、自民党内では「二階堂総理-福田副総理」でいくことがほぼ決まっていたものを目白が猛反対して、中曽根政権が誕生したのである。中曽根は"風見鶏"というニックネームをつけられていたように、「巧言令色鮮矣仁」を地でいく人物であることは、自民党の代議士達が一番よく知っていたはずだ。それが首相になれたのは、角栄の"ツルの一声"があったからに他ならない。今回のリクルート事件の顛末を見ていると、中曽根という人物が、自分さえよければ自民党がどうなろうが、国家がどうなろうが知ったことではないという人物であることがはっきりした。宰相の器ではなかったと言うべきだろう。

 中曽根は「戦後政治の総決算」を掲げて、お気に入りの私的諮問グループを利用しながら、やりたい放題のことをしたが、リクルート事件で自民党政治の破綻がはっきりした今こそ、日本の政治はウソでこり固めた政治に訣別し、「御破算で願いましては…」からスタートしなければならない。

 日本は今、"平成景気"に浮かれているが、戦後の日本の経済成長は一貫して国民の犠牲の上に成り立ってきたと言っても過言ではない。『アトランティック・マンスリー』の5月号を読んでいたら、おもしろいことが書いてあった。G7の中で日本は、国道の舗装率、下水道の設備率、持ち家率などにおいて最低にランクされており、そういう国が「経済大国」と言えるのかという内容の記事だ。つまり、日本は国民のためになる国内の社会資本の充実を怠ってきたということだ。日本は国際社会に貢献することも必要かも知れないが、まず国民の幸福を最優先した政治を行うべきだろう。その意味でも日本の政治は一から出直さなければならない。

 私は冒頭で、この腐敗した永田町に抗議の学生も労働者も集まっていないのは不思議だと述べた。集まっているのは、検察に呼ばれる藤波元官房長官を狙うカメラマンばかりというのでは、首を傾けざるを得ないのである。かつての日本には社会の病理をズバリと指摘する"社会の名医"がいたものだが、最近はいなくなった。真のインテリゲンチャは普段は何も発言しないが、重大なときにはズバリと物を言う。そういうインテリがいなくなった。毎月入れ替わり立ち替わり新聞・雑誌・テレビに登場するような評論家は"売春婦"ならぬ"売文婦"である。

 かつての御用評論家や御用学者は政府によって飼われていたが、最近は民間企業がスポンサーになっている。そして、あちこちでオウムのように同じ意見を繰り返す。そのうちに彼らの意見が正論とみなされるようになり、本質をついた少数意見が社会から抹殺されていく。これが情報化時代のファシズムなのだ。1930年代のファシズムは軍隊をバックにしたハードなファシズムだったが、今日のファシズムはソフトな微笑を浮かべながらやって来るのだ。日本にも"スマイリング・ファシズム""ソフト・ファシズム"が忍び寄っていることに警鐘を鳴らしておきたい。

(5月26日・キャピトル東急ホテルにて)


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