『日本が本当に危ない』1994.06.25発行



小沢一郎のイカサマ政治がなぜまかり通る


国際政治コメンテーター・藤原肇






*米国から見ると小沢一郎は欺臓だらけなのになぜ誰も指摘しないのか

 クリントン政権は東京に送りこんだエージェントから、腐り切った自民党体制は放っておいても自滅するし、「金竹小」の疑惑トリオの小沢一郎は裏切り者として、自民党を割るしか活路がないという情報を得ていたので、自民党の独裁政治の崩壊が実現した時でも、大したショックを受けなかったそうだ。あれだけ強靱に見えた一枚岩のソ連でも、経済危機であっけなく解体したのだから、腐敗の度合いからしてソ連と似た状態にあり、国家を政治家たちが食い物にしていた以上は、自民党政治が崩壊しても驚くに値しない。

 また、殿様政治家の細川は田中角栄の子分だったから、男爵内閣と呼ばれたドイツのぺーパン政権と似た性格を持つし、本質的には自民党と同じ対米従属であり、密室政治と裏取引が得意な小沢が陰で操っているので、アメリカにとって扱いやすさでは大差がない。しかも、小沢はホワイトハウスではなくてCIAの管轄だから、小沢でねじれた新政権を手玉に取るのは難しくないと、クリントン政権は考えているのである。また湾岸戦争の時の幼稚な国際貢献論や対米土下座外交を演出した小沢の手口に対してアメリカ在住の日本企業のトップや心ある教授たちは、日本の主権という女神を米国の手ごめにさせた点で、小沢をポン引き役の政治家だと見る人が増えている。

 日本の政治にとって小沢は一種の〔トロイの馬〕であり、スターリンに似た性格の権力の亡者を放置して、キレイごとのキャッチフレーズを並べる男に運命を任せれば、日本の行く手には警察国家が待ち構えるだけであり、絶望的な締め上げは狂信にはけ口を求める法則に従って、弾圧による秩序の維持の時代が再来しそうである。

 権力の中枢に潜んでいる限りは身の安全が保て、検察の追及から逃れ続け得ると知っている小沢は、腐敗政治の改革を小選挙区制度にすり替え、護憲勢力を粉砕する手配を既に完了したし、後は小選挙区制の結果を待つだけだから、日本の運命は累卵の危機(積み重ねた卵のように危ない状態のこと)に置かれているのである。

 孔子は「小人貧しければここに約し、富めばここに騎る」と言って、度量の狭い卑小な人間は貧しければこせこせし、富めば思い上がって驕慢になると指摘している。金丸が逮捕されて不正貯蓄を押収された時は、隠し財産を求めて外国にまで出かけて行き、二週間ほど金策で行方不明になった人物が、今度は創価学会がスポンサーに付くと居直り、新聞記者の取材に対して高圧的に出たところに、『礼記』が予告した小沢の態度豹変の背景がある。

 こんな状況が太平洋の対岸から丸見えだが、日本のマスコミは細川政権のトロイの木馬に目を塞ぎ、〔小沢のミソギ問題〕を棚上げにしたまま、小沢を大物政治家のように持ち上げている。『日本改造計画』とかいう本が日本でベストセラーで、小沢が書いたと信じられているようだが、これは田中角栄の『日本列島改造論』と同類であり、権力者のまわりを囲むブレーンたちが書いたものを、本人が書いたと称しているにすぎない。こんな入試の替え玉受験のような行為がはびこり、政治家の能力を粉飾するのは政治詐欺だが、この程度のインチキでも日本ではまかり通って、イカサマ政治のオンパレードが続いている。

 土建屋あがりの田中角栄に本を執筆する能力はなく、通産官僚を中心に国土庁や自治庁の役人たちが、田中のゴーストライターをやったのであり、その中に私の読者がいて嘘のカラクリを教えてくれたので、その話を拙著の中に書いたことがある。

 同じように、小沢には本を書く能力も暇もないくらいのことは、まともな新聞記者なら誰でもが知っており、この愚劣な本はタカ派の官僚の作文にほかならない。その中心は小沢が国粋官僚を集めた〔21世紀研究会〕や、金丸から継いだ〔日本戦略センター〕のグループであり、訪米した小沢がニューヨーク大の佐藤隆三教授を訪ね、まとめに手を貸してもらうのを頼んでいて、国内しか見えない日本の記者には分からなくても、アメリカからは小沢の手口は丸見えである。

 しかも、小沢親衛隊と呼ばれる新聞記者が関係し、朝日、読売、時事などの記者が軒並みだから、マスコミが小沢が書いたと称して持ち上げても、その欺購性については誰も指摘しないのが日本の実情である。権力に擦り寄る記者と官僚たちの作文なのに、それを政治家の思想だとする嘘を批判し得ないのは、ジャーナリスト自身がデッチ上げに加担し、仲間がゴーストライターをしているからだが、こういう馴れ合いが国の運命を誤らせるのである。

 また、小沢が書いたという本の内容は実にお粗末で、文明的な視野で日本の未来を位置づけしたり、産業社会としてT型からK型に移行する日本が、その中に持っているも型の強い部分をT型に変革し、未だ不十分な発達しかしていないK型の分野で、そのシステムの変革をどうするかという視点で見ると、全く幼稚で中学生の作文のレベルでしかない。

 また日本新党の結党宣言や首相の施政方針演説も、学習院大学の香山健一が書いたことは衆知であり、内容的には空虚な美辞麗旬の羅列だけである。自分で政治思想をステーツする人間がステーツマンであり、ゴーストライターに書いてもらうのは政治家ではなく政治屋だし、売名に本をでっち上げるのは政治業者に属す。だから、田中栄角に政治操作を学んだ、細川や小沢の政治の本質が裏取引だと見抜いたが故に、「USニューズ」誌は細川政権の実態を、ホース・トレイダー政治(いかさま取引の馬喰政治)と決めつけたのである。


*日本の新聞がつまらなくなった理由

 最近の新聞で痛感するのは内容の低俗化であり、読むに値する迫力や洞察を感じる記事が少なく、どの新聞を読んでも大差のない記事が、巨大な面積を占める広告の中に挾まっている。その理由は閉鎖的な記者クラブ制にあり、自由な取材競争をしようという努力をせず、官僚の下げ渡し情報のメッセンジャーになって、要領よく活字にすることが仕事だと思う記者が増え、記事を作る過程で談合が行われているからである。

 また、ジャーナリストが懐疑の精神を忘れてしまい、批判的に情報の意昧づけをして書く代わりに、事実報告を至上とする風潮に従い、お為ごかしの作文ですましているためだ。それに、情報や事件の背後にある社会的条件や政治的意図について、分析を通じた総合的な理解への努力を欠き、新聞が雑誌や放送とは性格が異なるメディアで、役割が違っている点を見失っているからでもある。

 最近の若い新聞記者の中には「われわれは報道の早さの点でテレビにかなわない」といった、自分たちの役割を取り違えたお粗末な発言をして、敗北主義に陥っている者が現れたりする。テレビ報道は分や時間の単位で仕事をし、事件や出来事などを素早く伝達するので、現象の背景を見渡して全体を展望したり、いくつかの異なる視点で問題を複眼で捉え、総合的な解説をする点で新聞にかなわないのに、新聞記者がテレビに白旗をあげるのでは情けない。

 報道のスピードを見て質の内容を考えずに、新聞がテレビにかなわないと嘆くような人物が、一線の記者としてジャーナリストのつもりなら、新聞記事に迫力や説得力がなくなって、記事の質が低下するのは当然ではなかろうか。

 昔の新聞記者は鉛筆を耳に挾んで夜討ち朝駆けをやり、よれよれのコートを着て現場を忙しく走り回ったし、取材だけでなく書いた記事に命を賭けたものだ。だから、会社の姿勢を見限って転職した記者もいれば、スカウトされて競争相手に移り腕を振るう場合もあり、ジャーナリストはプロとして生き甲斐を感じて、サラリーマンとして組織に従属する者は少なかった。

 ところが、最近の新聞記者のほとんどがネクタイを締め、記者クラブに詰めて役人から情報をもらい、それをもとに消毒ずみの無害記事を書き、アルバイトに精を出す者が激増している。また、ほとんどの記者が定年まで同じ会社で勤め上げ、出世の階段を上って管理職になったり、定年まぎわに大学の教官に続々と横滑りして、日本ではプロのジャーナリストは絶滅しかけているが、これは社会にとって大きな損失なのである。

 時代はT型からK型の社会に移行しており、インテリジェンスが勝負の決め手になっているために、ジャーナリストの冴えた頭脳が要求されているが、多くの新聞社は発行部数の競争に忙しく、ハードの部数の増減に一喜一憂しているのが現状である。

 ゼネコン汚職事件ひとつを例に取っても、記事には業者が役人にいくらカネを渡したとか、その見返りに役人が業者に建設工事の便宜を図ったという、いわゆる事件もの的な記事が氾濫しているが、犯罪の背景についての解説は至って少ない。

 ゼネコン汚職の社会的な状況や歴史的な背景を分析して、ゼネコンが政治家に金を積むシステムの問題点や、汚職体質を生む腐食構造を抉り出すことで、社会のあるべき姿を追求して行くのがジャーナリズムの任務なのに、それを果たしているケースが少なすぎるのではないか。

 大新聞が数百万部もの発行部数を誇っていても、広告収入が減ると経営不振に陥る体質を持ち、広告を集めるために批判的な記事を減らして、公害問題などでペンの鋭さが弱まる場合もあると言う。だが、新聞が広告に頼って大量販売をベースにし、記事の質より広告収入に比重をおいて、営業路線を中心に今後を生き抜こうと思うなら、その方式で言論活動を日本で維持するのは難しい。

 また、自ら作る記事の質を高く仕上げることで、海外に情報を販売しようとする意志を持たず、紙数の販売を伸ばすことだけに熱心だが、質の低い現状から脱却しないなら、国内でも読者は減るだけではないだろうか。だが、記事を外国新聞に売るだけの力を持つ新聞も存在しており、「ニューヨーク・タイムズ」は百万部を超える程度だし、「ル・モンド」などは四十万部前後にすぎないが、内容の濃い紙面作りをして記事の質で勝負し、世界中から一流紙としての尊敬を受けている。

 巨大な発行部数を維持する必要性については、言論活動の点で大いに疑問があるのだし、新聞は社員の記事だけに頼る閉鎖的な姿勢から、外部の寄稿や通信社報道の利用によって、開かれた体質に改めないと行き詰まるだけではないか。

 新聞週間になるたびに〔社会の木鐸〕という言葉が登場するが、この言葉は新聞が民衆の立場に立って問題を捉え、権力を批判の目で見て本質に迫る記事を書く時に、胸を張って使うことが許されている。

 だが、マスコミ関係者の政府との癒着は酷く、審議会などの政府委員には百五十人も連なり、各紙の論説委員や解説委員が軒並みであるが、新聞が市民の立場に立って政治権力を監視し、世論への影響を軽減させたり批判を逸らすことを狙う政治家や官僚に操られることがあってはならない。また、新聞記事が文明次元で社会変化の方向を示し、新しい理想主義が記事の背後に感じられるような、ジャーナリズムの理念が求められているのである。


*韓国の金大統領に笑われないように政界の大掃除を徹底せよ

 佐川事件やゼネコン汚職に象徴されたように、政界と財界の癒着による腐敗は目を覆うばかりで、四十年近く続いた一党独裁で不正行為が天下を汚染し、日本全体が伏魔殿の様相を呈している。この腐敗を醸成していた自民党政権が倒れて、非自民の立場の新政権が誕生したのだから、悪行の限りをつくした連中を徹底的に洗いだし、旧悪を追及してけじめを付ける必要がある。

 小沢のように新政権に潜り込んで保身を図り、権力の陰に隠れて政界操作を狙う者もいるし、中曽根や竹下のように息を潜めている者もいるが、ここで大掃除をしない限り次のチャンスは訪れない。

 前大統領や軍部の元幹部であろうと遠慮せず、財界や官界のトップが悪事に関係していれば、毅然と摘発している韓国の金大統領に笑われないように、旧悪を追及して政界浄化をしなくてはならない。過去の犯罪行為をうやむやにしてしまい、責任追及をしないのが日本的な政治風土だが、それが歴史におけるケジメのなさを生み、無責任体制を蔓延させる原因になっている。

 政界の腐り切った疑獄の構造を解体して、浅ましい金権政治家の追放に全力をあげるとともに、無定見だった外交の建て直しに全力を注いで、失った政治への信頼を取り戻さなければ、不正行為の食い逃げの悪習は永遠に改まらず、明るい二十一世紀を迎えることはできない。

 先般ロシアのエリツィンが三度目の正直で訪日したが、彼が訪日を延期した理由について、日本ではエリツィンの〔アル中説〕が取り沙汰され、一方的な延期を失礼だとする声が高かった。

 しかし、エリツィン大統領がアル中なのは事実だが、宮沢首相が酒乱で醜態を演じるのも公然の秘密であり、前回の訪日延期があった時の隠れた真相は、エリツィンがホットラインでかけてきた電話に、宮沢が泥酔状態で出られなかったという(一三三頁で詳述)。政治家の恥を日本の恥として国内では隠そうとしたのだが、世界のレベルでは〔悪事千里〕であり、その器でない人間を首相にした点を恥じるべきで、国をあげて宮沢首相をかばう必要はなかった。

 外交は外務省の役人がお膳立てした筋書きに従い、テキスト通りに話を進めてサインすればすむのではなく、政府のトップは自らの外交ビジョンを持つべきであり、日本人がどんな戦略で世界との関係を築くかに、世界の目は鋭い視線を注いでいるのである。また、日本が国際政治の荒波の中を乗り切るためには、危機管理でも万全の手配をしなければならないのに、総理大臣が泥酔していたのでは話にならない。

 外交に必要なルールはきちんと踏むにしろ、次々に展開する新しい状況の中で先手を取り、相手の立場や主張の根拠を逆手に取って、次の布石とイニシアチブを取るところに決め手がある。こちら側に深謀遠慮と余裕があることが伝われば、相手側も真蟄な対応をせざるを得ないし、短期的な利益よりも長期的な利益を考えて、大きな枠組みの中での解決を求めるに決まっているが、それだけの人物が今の日本の政治家にいない。

 大体、外交をやるのに外務省の役入の指図に頼るようでは、後世に残るいい仕事ができるはずがないが、現実は政治家にそれだけの能力がないので、外交が官僚任せになってしまったのである。

 現に、小和田外務次官などはPOK問題の失策や、東京サミットでのクリントンと宮沢の粗雑な合意などで、責任を取って左遷か退官が似合っていたのに、平安時代の藤原家の真似でもしたのか、娘が皇太子妃に決まったお陰で国連大使に栄転している。

 しかも、第二次大戦の遺物の国連の改組に逆行した、常任理事国になる工作を狙っているように、日本人の国連への妄信を使った路線の中で、対米従属の度合いはいよいよ強くなる一方だ。

 小和田大使は次期駐米大使の順番待ちと言うが、こんないい加減な外交人事が続くようでは、日本は世界から物笑いになるばかりだろう。皇室がらみのタブーに触れるということで、日本のジャーナリストは沈黙を守っており、日本の運命を翻弄しかけているのだが、日本は主権在民で国民が社会の主人公ではなかったのか。


*国会議員が多すぎる。衆院は二百人、参院は四十人で十分だ

 選挙地盤が代議士の利権になって世襲化され、無能な二世議員のオンパレードが蔓延しているが、政治の腐敗防止を求める国民の声を利用して、政治家たちは小選挙区制にすり替えてしまった。小選挙区制は独裁政治への一里塚になりかねないが、これで選挙制度の改革が終わったわけではなく、これから大銘を振るって本当の改革に挑む必要がある。

 日本の議員の問題意識が余り高くない点は、近隣諸国にもよく知られていることであり、国会議員の質をまともな水準に高めるためにも、少数精鋭の思想で発想の転換が不可欠だ。

 現在の日本には五百人を超える衆議院議員と、二百五十人以上もの参議院議員がいるが、思い切ってその半数を切り捨てるのが次の仕事であり、こんなに沢山の議員がいなくても国会運営はできるし、少数精鋭の方が選挙民の声はより政治に反映する。

 たとえば、米国は日本の二倍以上の人口を持つ国だが、下院議員の総数は四百三十人であり、人口比率だと日本の三分の一にすぎない。また、上院議員の数は合計で百人であり、これも人口比率だと日本の五分の一に当たるが、天下り投人やタレント議員の出る幕がなく、少数精鋭主義が政治の上にまともに機能している。

 だから、アメリカと同じ人口比率で考えるなら、衆議院は二百人で参議院は四十人で十分だし、衆参両院の議員定数の半減は過激ではなく、ムダ肉を省いて効率のよい議会運営のために、これを目標にして人員整理をすべきだろう。また、アメリカなど外国の例との比較をするまでもなく、それ以前に日本自体の問題として受け止めて、国会がまともに機能するための議員の適正規模を考え、一体どれだけ議員が必要かを議論するのが筋である。

 政治を議員の特権や利権から解放して国民の手に取り戻すために、まず議員の総数の大削減を実現した上で、政策立案や調査担当のプロの秘書官の定員を増やし、議員を議会の頭脳集団に改造することが急務だろう。なにしろ、時代はT型からK型に社会が移行しており、日本のようにM型発想の議員が中心になっていれば、新しい時代の要請に対応するのが難しい。だから、中途半端に放置された行政改革を断行し、機能的な政治を日本列島の上に誕生させることで、国民の仕合わせを追求できるようになるのだし、政治では五流国の日本のレベルアップが可能になる。

 最近の日本では社会全体のことを考えなくなって、理想の実現のために政治家になる人間が激減し、政治を栄達の手段と考えて権勢欲を満たしたり、利権を求めるために議員になる者が圧倒的である。その結果、人材がいないのに定員の水増しをしているので、ジャリやゴミのような人間が代議士になって、国会に潜り込んで不善をなしているのだから、国会議員の選抜は少数精鋭に徹するに限るし、〔船頭多くして船山に上る〕状態を改めるのである。

 社会の一形態である国家という枠組みの本質は、多層構造を持つ異質な集団を統合したものであり、血縁や地縁の本能は政治的な本能と相容れないのに、日本は未だそのレベルから脱却しないで、政治が世襲利権の様相を呈している。

 北朝鮮では金王朝が世襲政治で世界の物笑いだが、日本には二世政治家のミニ王朝が百以上も存在し、中曽根康弘、橋本龍伍、小沢佐重喜、河野一郎、佐藤栄作、羽田武嗣郎の息子たちが総出で、世襲議席を保持しているのは、はたして金日成とどれだけ違うというのだろうか。

 それを克服して二十一世紀に有効なものに、政治の体質を改めることが何にもまして必要なのである。


*日本はハード偏重のT型体質を改め、ソフト指向の人問を活躍させよ

 われわれは情報革命という変革の時代に生きており、これからは情報化が決め手になるK型の時代だから、二十一世紀を構想する上で最も大事なのは、情報とは何かをきちんと把握することだ。戦前の日本は軍艦や大砲などを揃えた軍事大国を指向して、ハードウエアの充実だけに力を注ぎ、目に見えない情報の問題に手を抜いたために、〔一億総座頭市〕で大日本帝国は潰れてしまった。

 戦後の日本は軍事を経済に切り替えて再出発したが、戦前の情報軽視による破綻の教訓を生かさず、情報戦争では遅れを取っているために、自動車を筆頭にしたモノ作りでは地歩を確立し、経済大国と呼ばれるT型の産業社会は築いたが、ハードウエア偏重の体質のために多くの問題を発生している。

 情報は新聞や雑誌の記事をスクラップしたり、それを整理してのデータベース化が中心ではなく、分析や評価をきちんとすることが重要だし、インテリジェンス化することに意義があって、決め手は訓練された優れた人間の頭脳にある。

 この卓越した人間の頭脳の働きにより、情報が絶大な威力を持つパワーとして機能し、コンピューターの端末に番号と金額を打ち込むだけで、企業が破産したり国家の破滅も起きるうえに、情報は軍事力や経済力を上回る威力を発揮する。情報はコモディティと同じで自由に動き、スムーズに流れていることが大切であり、血液の流れが停滞すると体調が狂うように、情報やカネは絶えず循環していなければならない。この循環系の情報の正しい取り扱いを知らないために、日本は世界経済の場でカネの流れを阻害しており、国際的な強い非難の声を集中的に浴びてしまい、貿易黒字という帳簿上の強みを弱みに転じている。その原因は官僚による情報の独占にあり、情報が公開されずに特定の人間の利権になって、それに従って政治が国民の利益に反する形で動いている。

 この情けない政治的不始末を克服するには、ハード偏重のT型の体質を改めて、想像力に富む戦略発想のできる人材の活用を図り、世界に通用する高いパフォーマンスを持つ、ソフト指向の人間を適材適所で活躍させることだ。

 また、そのためには監視役としてのジャーナリズムが健全であり、批判精神と洞察力を維持していることが肝心で、インテリジェンスを持つK型への発展が不可欠である。

 二十一世紀までの今後の数年は激動の時代であり、激動という言葉を使うのが陳腐に思えるほど、文明の次元での枠組みの変革が続いていくので、この試練をどうやって乗り切っていくかは、民族全体にとって最優先の課題になっている。また、現在の日本のトップを構成している頭脳の部分が、各種のスキャンダルを露呈した政財界だけでなく、その補完や批判をする立場にある官界や報道界でも、腐敗の度合いが深刻な状態にあることが明らかである。

 日本の頭脳に相当する領域を担う人材が、許し難いほど腐敗に毒されているだけでなく、インテリジェンスの能力で劣っている事実は、日本が直面している危機の深刻さを示している。手始めに倫理観の喪失と自閉症のメディアと官界について、その実情が日本では未報告である点を承知の上で、最近の数年間の問題点に光を当てて見た。

 過去の中に現在があるし、未来が現在に潜むという意味で、新しい時代の展望と構想力を持っために過去を正しく総括し、現状を診断して間題点を勇気を持って修正すれば、これから迎える試練は挑戦への機会になる。

 そして、挑戦する対象が困難であればあるほど、それに応じる人間は偉大なものの価値を理解でき、彼らが綴る民族の歴史は輝かしい内容を持つようになる。いま立ち会っている一つの文明の没落が、黄昏に続く闇の中に秩序を透視する視点を獲得することによって、二十一世紀の輝かしい夜明けにと結びつき、この試練は変革を生む契機にと活用することができ得るのである。


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