『医聖(アディプトゥス・メディクス)−異能医学者列伝』 






アンチ解説―メタサイエンスから見たイシヤのヤブ睨み診断
理学博士 藤原肇



 
 「プロローグ」で著者が既に明らかにしている通り、本書は[自然治癒力とは何かを通奏低音にして、小宇宙(ミクロコスモス)と大宇宙(マクロコスモス)の交感を愉しむために]書き綴った、生命を軸に科学と哲学の綜合に挑んだ試論である。また、生命の実体と医にまつわる思想遍歴と共に、試行錯誤をくり返す知的実践の集大成でもある。
 巨大な全体を扱うこんな途方もないテーマは、現役を退いた医師の終生の楽しみとして、一世紀に僅か数人が取り組むタイプに属している。
 実は、1988年の時点で「マージナル・サイエンティスト」を上梓した著者は、1957年生まれから逆算すれば30代の始めに、既に本書の姉妹編である「異能科学者列伝」を書いて、黄金文書の列伝シリーズの口火を切っていた。だから、この本の著者が未だ30代後半の人間だと知って、驚く人がいても何ら不思議ではないのである。
 本当は一度この本を読んだ後で姉妹編に挑んでから、再び本書に立ち戻るのが正攻法であり、最初の通読で見落としていたものを発見して、再訪の感激を味わえる逍遙の小径がここにある。しかも、そんな小径が縦横に広がるネットワークが、水辺や山稜の彼方に向かって延びていて、障害に見える場所に水銀の鉱脈が潜んでいたりする。

 医学の専門化が極端に進んでいる現在にあって、全体としての[医]の世界とは何かについて、文明の歴史を巨視的な目で展望してみると、新しい趨勢は常に周辺から始まっていると分かる。だから、時代の周辺に位置するマージナルな部分に注目し、そこに次代の主役を発見してきたノウハウの故に、著者が遍歴の軌跡で描く地図には境界がない。
 山や川の相貌には生い立ちの記録があり、時空を平面に凝縮した地図を開いて、存在の全てを一望する時の爽快な気分は、旅の楽しみを知る者にとっては醍醐味である。旅は学問における最も優れた修業の場であり、歴史は旅が人間を作ったことを教えているが、それはエジプトを訪れたピタゴラスやヘロドトスの昔から変わりない。また、イタリアに遊んだハーヴェイ、ゲーテ、スタンダールたちの閃きにしても、大航海時代の幕を開いたコロンブスやガリバーの船出も同じで、自ら綴ったルートマップは次の時代への遺産である。
 知的で健全な好奇心とコンパスさえあれば、森を抜けて山裾に至る小径をたどって、最後にはべーコン卿やゲーテが堪能した、高みの眺望と憩いを満喫できるのである。 その喜びを最大限に楽しむために必要なのは、取りあえず小径の第一歩を踏み出すことであり、Bon voyage! と共に Welcome! が挨拶の言葉にふさわしい。

 最初のワンピッチでたどり着く見晴らしの利く台地で、ドッシー先生と出会って挨拶を交わし得たのは、長い前途を考えると実に幸先がいい。すべての始まりのアルファが終わりのオメガに繋がり、発端と結末が連環するウロボロスの輪(尻尾を噛む蛇)は、イメージとしては数字の0を表しているし、二つ並べば無限で半捻りだとメビウスの輪になる。天空を支配している無と空の領域には、浩然の気を養うエリクサー(秘薬)の香りが漲り、たゆとう律動のリズムが治癒の道に誘うが、決め手は時間を廃棄する力に関わっている。脳が示す忘れ得るという能力の中にこそ、健全な生命力の秘密が隠れているのである。
 人間を電子と銀河の中間的な存在と規定して、健康が宇宙との一体性に基づいている以上は、バイオ・ダンスの習熟が大事だと言うドッシーは、現在の医学のモデルは時代遅れだと断言する。だから、地上と宇宙を遍歴して最後に帰り着く場所が、ストレスのない一体性と調和に満ちた環境で、それがホロコスミックスの次元飛躍だと直観すれば、その瞬間に体内に活力が充満するのである。
 生命のホメオスタシスがきちんと機能すれば、免疫系の乱れや障害は簡単に克服できるから、ロック先生の精神神経免疫学(PNI)の言葉を印籠に詰めれば、瘴気に満ちた谷間へ足を踏み込んでも大丈夫だ。ライプニッツとニュートンあるいはダーウィンとウォーレスの昔から、新発見をめぐっての先陣争いは数多いが、ギャロとモンタニエの間のヴィールス論争は、いかにも世紀末病らしいエピソードで、百年周期で回転する[超フーコー振子]の気紛れの結果ではないか。

 ミッシェル・フーコーは陰欝な森の隠者であり、パノプチコン(一望監視施設)の中で神の扼殺を目撃して以来、反人間主義に陥って森の隅に潜んでいる。全体像を見失わないためにも森を駆け抜けて、息を弾ませながら市場のある町に入ると、頭上でガタリとドゥルーズが綱渡りを演じており、解体できないエディプスを超人と呼んでいるが、果たしてここは健全な精神が支配する世界だろうか。
 変容の過程にあるエピステーメーの思考の場は、言葉の魔術としてメタステーメーに柔軟性で劣るし、動態幾何学が示す神鬼出没の魅力の面で、多様体人間であるジャック・ラカンのトポロジー発想の方に、より生命の根源に迫るものが感じられる。
 こういった疑問に解答を与えるのがソンタグであり、そこから高みを目指す登攀の道が始まるし、隠喩を巧妙に使った芸術の領域が眼前に開け、シカゴ学派に特有なエリアーデの薫風がそよぎ出す。山の霊気で冷えた空気を吸い込めば、根源的な問題への懐疑が泉のように湧き上がるらしい。著者は現代医学への疑問を投げかけるが、的確な解答を見つけ出す能力は抜群であり、現代のラビリンス(迷宮)を抜け出して意気軒昂である。
 ここから先は特有の自由な精神の飛翔が始まって、カルダノやノストラダムスの診断に学ぶことで、小宇宙と大宇宙の間を往診する巨人たちが相手になる。著者は無限の可能性を秘めた神聖幾何学を使い、見えないものを見抜くワザを習得することで、メビウスの輪の裏表の照応関係を知ることになる。ヘボン訳の「創世紀」では言霊の営みらしいが、虚の世界の存在とカバラの秘法によって、黙示録的な世界の秘儀をイメージ化するのである。

 健全な生命活動の根源を求める遍歴の旅は、ストーンヘンジとピラミットの組合せを通じて、水のクラスターと共通な正四面体の秘密から、バッキーボールやテトラスクロールにたどり着くが、そこは宇宙生命を育む揺りかごでもある。この多元的な統一体は放射エネルギー変換装置として、幾何学的な回転効果によって力を増加し、宇宙が無意識に送る愛のメッセージを送るが、重力は統合性を保つための宇宙の愛である。
 そうなると無意識と宇宙意識が問題になるから、フロイドとユングの両先生のお出ましを願って、性欲と生命のエネルギーに転化する、リビドーの問題を取り上げなくてはならない。だが、あの世から両大家のご足労を患わせるまでもなく、「私の性および生命の体験からすると、性経済的に不安定な時はフロイトの風の夢を、安定な時はユング風の夢をみている」と実に手回しよく、著者は満点の答えを無意識の命令で書いている。
 こんな模範解答を手際よく用意するためには、よほどの秘訣が潜んでいそうだと思って調べたら、その理由が著者の経歴にあると分かった。経済学から始めた逆回りのアプローチを使って、著者は生命問題と対峙するに至ったのであり、医の基本問題を論じて些かもたじろがない理由は、逆回転の渦の威力のお陰だったのである。確かに、経済表のケネーや景気循環のジュグラーのように、医者が経済学の基本問題を論じたケースは多い。だが、経済学の側から医学の領域に踏み込んだ例は、これまで余り見かけない現象であるし、それを地で行くのが著者だったのである。
 それが分かってしまうと寓意の謎も解読でき、ユングの言葉として巧妙に紹介されている、「私たちが秘密を所有しているのではなく、本物の秘密が私たちを所有しているのである」という引用の含蓄が、今更ながら凄い力で迫って来るのである。
 それは謎の沈黙を守った頃のソシュールが、深層の言葉の意味を読み取るために、アナグラム(綴り字謎)に没頭していた時代の再来に繁がる。そういえばROSEがEROSに転換することによって、次に登場するライヒの花道を作ることになり、オルゴン・エネルギーが照らす街路灯の準備ができ、その下で臨死の医学の屋台を張ったスティーブンソンが、香具師の口上を並べ立てた理由の説明になる。転生や幽体離脱の問題は現段階では超常現象だが、メタサイエンスでは自然現象に属すので、そのうち当たり前の話題になるにしても、霊の世界は敬して遠ざけるのが儒者の道である。
 ライヒが異能医学者として超一級であっただけに、著者の入れ込み方も同じように超一級だが、生命現象や医療問題が技術偏重に毒され、魂や心の通った医学の復興が必要な時にあって、ライヒ流のハードウエア主義はいかがなものだろうか。ライヒの対極にあって同じ効果を実現する仙人が、道具や装置などのハードウエアを使わずに、ライヒの夢と願いを実現しているのを思うと、アジアには超特級の無名の人が沢山いて、エネルギー問題を解決していたと思いたくなる。
 ユングは「太乙金華宗旨」を読んで開眼し、錬金術から心的世界に踏みこんでいるが、仮にライヒが「素女経」や「抱朴子」を読む機会に恵まれ、ライプニッツのように陰陽の二進法に習熟していたなら、あれほどハードウエアに執着せずに済み、独房で淋しく獄死しなかったのではないか。ライヒはヒイラーの役をしたつもりだのに、FDA(食品医薬局)から He lied と告発されて、宇宙的な生命エネルギーのオルゴンは扼殺された。
 しかし、彼の螺旋波システム(Krxsystem)の卓越したアイディアは、生命の脈動理論に基づく宇宙統一理論として、新しい世紀に復活する日が近づいている。

 ソクラテスとライヒの生涯を足して二で割る教訓は、[欲望としてのセックスに充足(埋没)してしまわない人間は、エネルギーを蓄積して回転運動を高め、スピンアウトを通じて宇宙生命に共振する]点にあり、この真善美の綾なす字宙絵巻物のスケッチは、レオナルド・ダヴィンチが生涯を賭けた仕事である。宇宙の全体像を比例を通じて捉えた彼は、正二十面体像を描いてバッキーボールに先行し、鏡面文字でラカンの鏡像理論をイメージ化した。しかも、熱心に描き続けた解剖図のメッセージの中に、[血管系の循環を司る心臓と呼吸システムの真相が、生命の流れを支える基礎的な心像の場である]と書き込んだ。また、レオナルドは[サンタレッリ事件]で受けた傷のために、自らの言葉で「智慧は経験の娘だ」と語ったのだし、著者が発見したように智慧と結婚したらしい。
 この万能の天才レオナルド・ダヴィンチを始めにして、著者が訪れたパストゥールやレントゲンなども、知的好奇心が異常に強い科学者だったお陰で、医学の進歩に大いに貢献している。また、パストゥールが確信した宇宙の非対象性は、脳や身体の構造からすれば実に当たり前だが、自然が表出する見えて当然なものを見ないために、人間の歴史は誤解と紛争に支配され続けたのである。
 パストゥールの先輩のクロード・ベルナールは医者を指して、「自分たちでは何も創りだすことができず、ただ、人を攻撃することによって自分等の存在を明らかにしようとするために、常にしつように他人の発見につきまとっている無能なる科学的寄生虫達」とこき下ろしたらしいが、世の中はパレのように悟り切った医者も健在で、「医者か処置し、神が癒す」と爽やかに断言した所に、光明に照らされた医の原点が見え隠れする。

 意識形態の一方の心が他方の体の誤りを修正して、均衡を司る自己完結的なプロセスをクォンタム・ヒーリングと呼び、そのパイオニア役をチョプラが演じているが、この思想の土壌には古代の叡知を大量に含む、体質医学のアーユルヴェーダが軟膏状の膜を張る。加熱すればインド流の錬金術になるし、希釈すれば神秘のオイル療法で威力をふるうので、好奇心の強い筆者はさっそく自ら人体実験を試みる。山の中腹で見つけた野天温泉の楽しみに似て、旅の疲れを癒して心身爽快になる理由は、魂の座として潜在意識を司る交感神経が、間脳のマッサージで活力を取り戻すところにあるらしい。
 現代医学が器官医学や組織医学の傾向を強め、今を時めく分子生物学が持つ外見のように、精緻な科学を装って空虚さを弥縫術で隠しても、個体としての生命の意味を見失いがちな時代には、インド的な混沌術が効力を示すことになる。アーユルヴェーダの遺産を医学の中に取り込む代わりに、道を迷ってサイババの門を潜ってしまえば、これは聖地を舞台にした新興宗教のインド版で、巫者が守る祈りの世界に埋没することになる。
 山も中腹も越えると空気が澄んで薄くなり、天と地の間で気の交換が活発になるし、山に住む人が仙人で谷間に住めば俗人だから、雲上の場所が老賢者の安住の地に他ならない。「養生訓」の貝原益軒もそこの住人にふさわしく、最後の図に老人として現れると見立てれば、中国のメスメルという沈昌は子供であり、「十牛図」の中で牛の相棒がお似合いである。貝原益軒との出会いに最もふさわしい場所は、腹八分目に対応する八合目あたりだろうし、山頂を遠望すると医聖の濫觴のイムホテップが見え、少し手前にギリシャの医神アスクレピオスの姿もある。山頂はピラミットと同じ三角錐の形だし、黄金分割を使った石積みの神殿の構造は、フィボナッチ数列のオンパレードに決まっている。
 聖なる神域は黙祷して拝むのが山伏の伝統であり、[六根清浄]を唱えて下山にかかるのが礼儀だが、ガレ場を横切り反対側の尾根に取りつけば、遠くでイムホテップの高らかな笑い声が響いている。不思議な巡り合せで著者も同じ体験をして、シンクロニシティの妙に感銘したらしいが、神界では何が起きても驚くことは無いのである。

 「ツァラトゥストラ」の第二部は洞窟に戻って寛ぐ彼が、レム睡眠で遊んだ夢の続きで小児に会い、鏡を見せられて驚く場面で物語が始まる。丸と十字を組合せたカタカムナの寓意が、宇宙が螺旋と一体化した鏡のシンボルなら、平十字という名の猟師は小児のメタファーで、カタカムナ文字は地上に像を結んだ、トーラス体の射影図ではないだろうか。
 固体、液体、気体の三相を体現するミトロカエシが、現象が秘めている潜象の表出だとすれば、楢崎皐月のイマジネーションは特筆ものだ。しかし、ツァラトゥストラが鏡の中に見たのが、小麦の名を騙った雑草の姿だったことを思えば、ことによると夢の中だったのかも知れない。それなら夢からいち早く醒めて身支度を調え、EM(有用微生物群)やオーラメーターの屋台の横を抜けて、至福の島が散在するエーゲ海に行けば、医聖ヒポクラテスの故郷のコス島があり、大理石のアスクレピオンが診断の価値を教えてくれる。
 日本の現状は亡国の危機に瀕した症候群が目立ち、政治も経済も僅かな理性が崩れてゆらぎ出し、制度疲労が全域に拡大したために、警告反応の果てに疲憊状態に陥っている。
 機構改革を叫び武者奮いする政治家や評論家が多いが、病状をしっかり観察して全体把握をして、正しいダイアグノシスを誰も試みない点で、診断の基礎をコス島で学び直す必要がある。正確な診断を抜きには何ごとも出来ないが、ソフトな内科よりハードな外科が流行り、技術主義が蔓延する土壌には名医は生まれない。そのメカニズムを確認するためにコス島を訪れ、筆者はヒポクラテスの教えを再確認したらしいが、[自然こそ疾病の医師である]と肝に命じて悟ることで、医聖と異能医師を訪ねる遍歴は完結したのである。

 ギリシャからの帰り道は気儘な観光旅行になり、風光明媚なスイスに立ち寄ることになるが、スイスが独仏に境界を接している町の大学は、近代医学の父パラケルススが教えただけでなく、ブルクハルトやニーチェも教鞭を執っている。パラケルススが教える前のパーゼル大学で使っていた教科書の中には、ベルシァが生んだ中世イスラム最高の哲人である、アヴィセンナの「治癒の書」や「医学典範」が含まれ、同じ遍歴の医師の教えを乗り超えたことが、パラケルススが放浪に出た原因だともいう。
 ツボに当たるバーゼルの町は地球の経絡上にあり、地質学的に重要なライン地溝帯の中で、歴史を通じて不思議な役割を演じて来た。それは死海からアカバ湾を経てビクトリア湖に続く、中央アフリカ大地溝帯に沿うエルサレムと同じで、地湧に似たものが出没する穴でもあるのか、社会変動の震央として波動を伝えるのである。
 16世紀のヒューマニズム運動の拠点だったせいか、有名な長老たちのプロトコールに見られるように、ユダヤ人はこの町でよく国際会議を開催したし、謎の世界組織である国際決済銀行(BIS)の本部もある。また、パラケルススが錬金術師だった伝統を受け、世界最大の薬品工業の本拠地でもあるし、人智学のゲーテアヌムも近郊に位置する。
 ラインの川下りを船旅で楽しんでローレライの岩を眺め、フランクフルトから一時間の距離を東に向かえば、フンボルトの生まれたビュルツブルグに着く。東洋研究に駆られた彼はオランダに出掛けて、東インド会社の軍医に就職したお陰で、オランダ商館の医師として長崎に赴任した。彼が開いた鳴滝塾には当時の英才が集まり、医学を始め自然科学や博物学を学んだことで、高野長英を始めとする幕末の逸材が出たが、国禁を犯したシーボルト事件のために、多くの有能な人材が鎖国制度の犠牲になった。
 著者はシーボルトがスパイではなかったかと調べ、その可能性を真面目に考察しているが、一説によるとシュバイツァー博士もスパイであり、密林の聖者が貰ったノーベル平和賞の陰には、ドイツ国防軍の秘密諜報部員の経歴が潜むという。哲学とバッハ音楽に精通したアフリカの伝導者が、カナリス提督直属の諜報要員と知れば、好奇心の強い著者は医聖歴訪の旅の最後として、マドリッドにベラスコを訪ねたくなるのではないか。

 意外性に着目して活性化を実現する著者の力は、時空を越えて変化自在に出没を繰り返し、相反するものを合一させてしまうだけでなく、別のものを再構築して知らん顔をしているが、それはヘルメス精神が躍動しているために違いない。
 そんなソクラテス的なトリックスターの戯れが、異能医学者を訪ねる遍歴の原動力になっていたから、トワイライトゾーン(薄明領域)に属していた辺境が、いつの間にか時代の脚光を浴びることになり、医師が患者だというトリックとレトリックも発生する。
 現在の医学は余りにも専門化が進みすぎて、医学自体が臨床の意義を過小評価したり、患者や治癒能力についての配慮を忘れがちで、医師が何をしているのか良く分からないことが多いが、そろそろ旅路も終わりに近づいたようだ。強い好奇心と頑丈な思想の歯を持つ著者は、読破した資料の山が象徴しているように、難解な本に挑んで内容をどんどん咀嚼して、エッセンスを抽出して本書を書き上げている。
 先ず目に入るのは時代の申し子の知識であるが、それは多くの良書に共通な特性でもあり、周辺領域に属す非知識を読み抜くためには、行間を含めて二度三度読み直す必要がある。本書もそんなタイプの性格を持っているが、如何に多くの人たちが知識からではなく、非知識から智慧を学び取って来たことだろうか。そして現在では非知識を書いた本が余りに少ないのだが、本書には希少な非知識の香りが封じ込めてあり、その点でユニークな構成を楽しめるのである。

 私は博物学に属す構造地質学を若い頃に学んだお陰で、部分を強調する実験より全体像を描いて、コスモグラフィーを構想するのが好きだから、著者が得意な列伝のスタイルに波長がよく合う。また、苦痛や悩みを取り去るだけの技術主義が、生命体の多様性を味気なくしていると感じ、名医を求めて歩く著者の発想を好ましく思う。なぜなら、自然を見る目は患者に接する態度と共通であり、対象と一体化することで何が問題かが読めるし、メッセージが自然に伝わってくるからである。
 地上を駆け巡って自然を相手にする機会に恵まれ、診断データを地図に書き込む仕事を通じて、石屋として地球のストレスを診断していたら、いつの間にか「いしや」と「いしゃ」が入り混じってしまった。また、医聖ヒポクラテスの故郷のコス島を訪れ、アスクレピオスの神殿に参拝したのが縁で、著者の足跡を綴った地図を拝読することになり、四角と円の選択の岐路に立たされた。そこで、最も分かり易いメルカトール図法のものを、私好みの極心投影の正積図法の地図にしたら、解説しようもない投影上の差が浮上してきた。

 読者よ、実はこれまでは寄り道に他ならないのであり、本来ここで試みるべき解説の文章は、最後の数行の記述の中に凝縮されている点を、今ここで告白しなければならなくなった。道草のために頁が残り少なくなったが、ストレス解消が健康にとって最も大切であり、寛ぎの時間を共に分かち合えたお陰で、生を養い得た点を誠心誠意ここで喜び合いたい。
 七年振りの会心の本をまとめたと考える著者が、幾ら私の道草を内心で不快に感じたとしても、[後悔先に立たず]は古人の珠玉の教えだから手遅れだ。それに、根が快活なヘルメス精神を体現する著者のことであり、星の巡り合わせが悪かったと舌打ちしながら、ギリシャの空気のように爽やかな気分で諦めることだ。
 いずれにしても、地図は叡知の詰まった人間の虚構の傑作に過ぎず、地球は二次元をメタ化した地球儀の形で立体空間の面で捉えるのが正解だし、型破りでない限り次元の飛躍は難しいのである。
 前回の世紀末を迎えたヨーロッパにおいては、渇仰する超人への熱で脳を痛めた詩人が、[万人に与える書、何びとにも与えぬ書]をまとめ、次の世紀の精神に絶大な影響を及ぼしている。果たして照応がどう成り立つかは知らないが、金文字の表題で最初の列伝を著した著者の手で、今回の世紀末に当たって「黄金の書」が上梓され、賢者の石が地図に露頭として記されることになった。本書を開いたことが既に縁起の始まりだが、衆目に曝されても選ばれた眼だけに意味を持つ、トート神の告げる生命力のシンボルを読み取り、宇宙誌(Cosmic map)の叡知が教える喜悦を満喫して欲しい。石は医師であり時には意思や遺志を顕わすが、ことによると医薬神ISISの秘蹟の神髄かも知れないのである。

 藤原筆(ふじわらはじめ) 1938年、東京都出身。埼玉大学卒業後、フランス・グルノーブル大学で構造地質学を専攻。理学博士。その後、世界各地で石油開発に従事。現在は、カリフォルニア州パームスプリングスに在住し、国際政治経済コメンテーター、メタサイエンティストとして活躍している。著書「間脳幻想」(東興書院)、「宇宙巡礼」(東明社)、「身体と宇宙」(亜紀書房)他多数


記事 inserted by FC2 system