『紙の爆弾』 (2019/8月号)
 



悪霊退散の政治学(序説)                      '
日本史上最低の「安倍ゾンビ体制」への引導


藤原肇 (「慧智研究センター」所長)




日本史上最低の「安倍ゾンビ体制」への引導

 優れた使命感とビジョンを身につけ、自らの頭で考えて判断する人は、若い時から批判精神で困難に挑んでおり、鍛えられた実力に基づいた、独立自尊で個性が豊かな人間である。 だから、集団の中に埋没してしまわずに、教養に基づいた大局観を持ち、自信と責任感が漲 (みなぎ)っているせいで、実力のない権力者には嫌われて冷や飯扱いされるケースが多いのである。
 そんなケースが安倍内閣で目立ち、有能な者を排除した結果、残りカスの不適任な大臣の任命が続いて、見るも無惨な結果を生じている。恥のかき捨てを繰り返し、迷走と暴言が果てしなく続く。しかも、安倍晋三の好みを活かそうとして大臣候補の身体検査が甘かったために、スキャンダルが続出し、総務相の夫が暴力団に属していたり、収賄容疑などで週刊誌のゴシップを賑やかせてきた。
 安倍は自信がないために自分より劣った人物を選ぶので、周辺は茶坊主で固まっている。無能大臣のオンパレード現象は歴史の中によく出現することだが、これは政体末期の症候群だ。自分よりも有能な人を抜擢して仕事を任せるのが"実力者"である。 「自分より優秀な人材を集め、その能力の活用法を知る者、ここに眠る」は、アンドリュー・カーネギーの墓碑銘であった。
 他人を説得する議論の能力に欠けて、論理性と問題の抽象化に弱く、理性的な思想がない安倍は、官僚がまとめた作文を棒読みするだけだから、国民にその正体を見抜かれている。国語の基礎学力の不足により自分の言葉で論じられないために、安倍は議会を軽視しているし、閣議決定を好んで活用する。しかし、議会制と内閣制度の枠組みには先人たちの知恵があるはずだ。
 議会制度は英国人が作ったものだが、独裁を阻止する予防措置として、閣議は全員一致という慣例がある。賛成を獲得するためには閣僚の顔ぶれにイエスマンを集める必用があり、結果、手癖が悪くても愚か者であっても日本では構わなくなって、品質管理が無視され、大臣の粗製乱造が目立っている。
 人間が作る社会組織において、似たような仲間を集めて固まると、自家中毒を起こして弾力性を失い多様性を消失し、腐りやすいものになってしまう。しかも、資質や能力を問わないで使いやすい者を大臣に任命し、政策を進めた結果、安倍内閣の出来の悪さは特別だ。
 だから、無能大臣による失態が続出し、大臣が自殺する事件まで起きた。安倍のお粗末な人事力は前代未聞というしかない。人間は法の下では平等だが、指導性や品格では個人差がある。鍛錬や努力により実力を備えて、責任者としての資質を身に着けるものだ。
 大臣さえこんな有様だから、政治家一般のレベルではもっと酷く、古い定義の政治家の下位に属す、新時代に向けた定義が必要になる。

様変わりした政界と粗悪人材の集積

 「分類」は理解するための作業である。政治のあり方を整理するために階層図を作り、試案として名前と序列をつけたら、次のような形で並んだ。政治学者が試みないためにこんな分類を作ってみたのだが、退嬰的な空気が支配するので、日本のアカデミアやジャーナリズムは、果たして受け入れてくれるだろうか。
(1) Statesman(立派な政治家)
(2) Politician (政治屋)
(3) Sellectician(政治ゴロ)
(4) Mobotician (衆愚屋)
 (2)ポリティシャンは政治家を指すが、私利を目的にする者もいて、「政治屋」を意味することも多い。それに対して(1) ステーツマンは指導性を持ち、危機を回避する先見力により、既存の枠組みを変革していく、識見を誇る政治家を指すので、尊敬の念を含んでいる言葉だが、最近は例外的にしか登場しない。
「政治は余りに重要な事柄だから、政治家に任せておけない」とは、シャルル・ド・ゴールの名言だと伝えられ、「政治は情熱と判断力を駆使して、硬い板に穴を刳(えぐ)り貫(ぬ)く作業だ」と指摘したのはマックス・ウェーバーである。政治に直接関与する人の生態は、知るとか行動するという形で生態的な観点に立つ方が、リーダーとしての能力に肉薄するから、問題の正しい理解により近くなる。
 だが、情熱と判断力が今の政治家にはたして求められるかは疑問である。どれだけの国会議員がそれに適合し、政治を任せられるといえるかは、大いに検討の余地があると言えそうだ。また、ステーツマンとポリティシャンの違いは、「より大きな全体を向くか」、あるいは「支持者を向くか」であるのかだが、小選挙区制度下の政治家の多くは、良くて政治屋になってしまう。結果、(3)政治ゴロや(4)衆愚屋が圧倒的と言える。しかも、指導性は教わるものではなく、気づくことで身につくものである。安倍には気づいたり気づかせる点で必用な資質に欠けているから、資質なき者がトップに立てる日本の政治システムに問題がある。

カキストクラシーが支配する時代の悲劇

 カキストクラシー(Kakistocracy)は聞きなれない用語だが、これはギリシア語のkakistos (極悪)に由来し、アリストクラシー(優秀な者による支配)の真逆、最悪の人々による政府を意味している。暗愚な人間が好き勝手に振る舞って無頼政治が荒れ狂う点で、泥棒政治(Kleptocracy)と言う人もいる。
 カキストクラシーという用語は、一八二九年に英国のトーマス・ピーコックが、 最初に政治用語として使ったもので、別の言い方には「ゾンビ政治」がある。衆愚政治(Ochlocracy)がさらに悪化して最後に行き着くのがカキストクラシーであり、単なる独裁支配に留まらず、奴隷根性の蔓延を好む衆愚屋(前掲(4))が、その権勢欲を満喫するだけで終わる。
 リーダーはメンバーがビジョンに従って力を合わせ、実現のために協力するための説得力、人々を導き最終責任をとる倫理観が求められる。だが、安倍は外相の父の秘書としてかばん持ちをやった外遊経験で「国際感覚を持つ」と慢心して、定番の出世コースに乗り政界に登場した世襲代議士だ。父や祖父の七光りで森喜朗や小泉純一郎からの贔屓による抜擢が続き、出世街道を登りつめた人生は、首相の印綬を受ける近道ではあっても、指導者の資質とは関係がない。
 官房副長官として官僚の操縦術を学び、三段跳びで幹事長に就任して、自民党議員たちの弱みを握った安倍は、あっという間に首相になった。だが、実戦抜きで歩が成金になった安倍は、閣僚経験もなく、行政的な経験に乏しく、第一次内閣は病気を口実に、発作的に一年で政権を投げ出す醜態を演じている。
 高い地位についている者でも、訓練され鍛えられた資質として、決断力・誠実さ・責任感・適応力というリーダーに必用な能力に欠ければ、それはボスであっても指導者ではない。ビジョンや使命感のないボスが組織のトップに君臨することでカキストクラシーが生まれるが、安倍政権の実態はその典型であり、ゾンビ政治の暴政が続いてきた。
 悲惨な政治状況が続いて日本が世界から取り残され、国民の幸せの度合いが衰えていくのは、豊かな自然に恵まれた国に生まれた者にとり、許し難い悪政の押し付けである。
 呪われたゾンビ政治を突き崩し、日本を健全な社会にするには、まず現実がカキストクラシーだと自覚し、その大掃除に取り組むことである。


藤原肇(ふじわらはじめ)
「慧智研究センター」所長。 世界を舞台に活躍するフリーランスジャーナリスト。 『さらば暴政』 (清流出版)など著書多数。


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