『史』1979年09月号



日本人を孤島の住人にするな

―― メートル法と元号の法制化 ――

藤原肇(評論家・在カナダ)



(1)メートル法の重要性
 
 日本の産業界が持つダイナミズムは、大量生産のメカニズムにより工業製品を国内に氾濫させ消費社会を誕生させただけでなく、メイド・イン・ジャパンの商品を世界の隅々に進出させた。そして時には経済秩序を破壊したり、地場産業の不振をもたらせて外交問題にまで発展することもある。しかし交易を通じて日本が外国と結びつくことは、相互理解を確立する上で最も有効であり、産業国家としての日本のイメージは、かつてのような武力侵略を伴った日本に対する反応とは全く異るものを、印象づけることに成功している。
 日本経済がこのような飛躍をとげ、世界の多くの国々からうけ入れられている理由の第一は、平和国家路線の中で各国とできるだけ摩擦を少なくするように心懸けながら、貿易中心の政策をとっていることであろう。日本人が勤勉で働き続けて来た点を指摘する人も多い。多くの世論調査の結果がそのことを明示しているし、政策的にもこの方向で国民教育が推進されている事実からして、そうなるのは当然であろう。
 そして平和路線や勤勉さは確かに重要なものであるが、それに優るとも劣らない要因として、1950年代にわが国がメートル法の全面採用に踏み切った事実の重要性を見落とすことができないのではないか。と云うのは、メートル法を産業界を始めわが国のあらゆる分野に一般化したことは、日本を経済大国にする上で最も重要な路線をひき、日本列島の上に存在するあらゆるものを定性化する第一歩として定量化し得たからである。まず日本が作り出す全工業製品を世界市場に通用する規格品化して、量産だけでなく品質を管理する道を作った。また人的資源としての日本人を、国際社会とコミュニケートできる人間として文明化した。
 メートル法で義務教育を終えている以上、当人が意識するしないにかかわらず、日本人は共通の尺度で世界の多く国民と意志が通じ合える人間になっていたのである。この点で固有の文化にしがみつかず、世界から孤立せず、自ら外部世界と共通のものを積極的に採用したことは偉大な決断だった。日本の経済界が最も評価しなければいけないのはメートル法記念日であり、日本国民全体が5月3日の憲法記念日によって、平和国家路線への誓いを新たにしなければならないのと同じだと云ってもよいのである。
 世界にはアメリカ人やイギリス人のように古い尺度を捨てきれず、メートル法が一般化できないままの国も存在している。だが、学校における物理や化学ではメートル法を採用するが他の分野は古い尺度を使うという方式もいろいろな面で行きづまりをみせた。そこで彼らも古い習慣を放棄し、メートル法の仲間に加わる努力を払い始めた。英米の産業界がこのところ低迷気味を呈している理由のひとつが、世界で孤立した古い尺度にしがみついているせいだと気がつくようになったからである。イギリスはかつての大英帝国の名残りの中でひとつの世界を築きあげて来たし、米国は一国で十分にひとつの世界を構成することのできる広大で豊かな国土を持っている。
 だから、自分達独自の尺度を使っても小世界の中では十分にやっていけるのだが、文明が世界的な規模で共通基盤を確立し、産業活動が多国籍企業の登場を通じて汎世界的になってくると、もはや小世界にとじこもっていることはできない。脱皮できない蛇の運命と同じで、衰退と自滅以外の選択がないと意識せざるを得なくなる。特に大きな力を持つ対抗勢力としてソ連の台頭があり、ソ連自体が完全にメートル法への転換を終え、ヨーロッパと同一のコミュニケーション・レベルに立っている。それを考えると、米国やイギリスもそこまで自己変革を遂げることを至上命令と考えざるを得なくなったのである。
 米国を飛行機旅行をする時に一番最初に気がつくことは、あの広大な土地が碁盤状に区画され、地上にくっきりと仕切られたパターンが読みとれることである。これは北米大陸のほとんどが古いヤード・ポンド方式を基礎にしたやり方で区分され、道路の建設から町の領界、そして個人の土地所有に至るまで、すべてメートル法の1.6キロに相当する1マイルを基礎にしていることを意味する。1マイル四方が1セクションでその中に4軒の農家が土地を所有するというところに米国の土地制度の土台があり、6マイル四方の36セクションが正方形を作り、その周辺をハイウエーが通って米国の道路網が出来上っているのである。
 このような古い尺度をもとに作られている米国が、新しいメートル法の仲間入りを果そうというのは、革命ともいえる画期的な出来事といってよい。こうしない限り米国は世界の孤児になって、時代遅れに泣かなければならないのだ。英国も同じ理由でメートル法への転換を決断し、新しい文明時代の中で生き抜こうとしている。
 しかもメートル法自体が、新しい時代性の中で大変革をとげようとしているのである。そして世界中がこの際CGS単位を基礎にした古いメートル法を改めて、システム・アンテルナショナルというフランス語の頭文字をとったSIという画期的な方式を採用することに決め、その習熟に取り組み始めた。英国や米国ではメートル法をこえて、直接このSIへの大転換をしようとしているのである。
 ところがメートル法のお蔭で経済大国になったというのに、日本ではSIに対し余り大きな関心が払われず、次の時代への用意が全く出来ていない。SIはメートル法の親戚であるが世代が一つ新らしいものであり、その習得に向けて国民が全力を傾けなければならないだけの重要性を持っている。もし日本人が自分達はすでにメートル法をマスターしてしまったと油断をすれば、1億人の尺度はそのまま時代遅れになってしまう恐れさえあるのだ。
 しかもここに来て復古調の波にのり、わが国には鯨尺の復活を歓迎するムードさえ強くなっている。鯨尺がない限り、着物も縫えなければ床の間も作れないと言って、メートル法でさえなし崩しに空洞化されかねない状況が生れている。
 変化の無い持続性だけに心を奪われたり、文化の独自性を強調する余り、一般性をもたない美意識に酔って文明に背を向けようとする。世界から孤立して自己満足にひたるならば、日本人はとんでもない未来を招きよせることになる。存在するものはそれ自体が刻一刻と古くなるが、逆に古いものにしがみついて文化全体をうけいれるのを拒否すれば、われわれは文明の進歩から取り残されるばかりである。新しいものが常にいいとは限らないが、考える生き物である人間が知恵を結集してよりよいものを考えだし、合理性を基盤にした共通のコミュニケーション体系を作り上げねばならぬ。
 日本人がメートル法を空洞化することは、メートル法を基礎にして作ったJIS規格をバネに使って獲得した経済大国の地位を失うことに結びつくのはもちろんである。しかも、国際社会に仲間入りできた日本人を、再び世界から孤立した人間集団にしてしまうことにもなる。この点で、現在の日本を覆っている伝統主義と結びついた過度の文化偏愛現象は、わが国の運命を大きく損う可能性をはらんでいるといえそうである。
 亡びようとするものを愛し、そこにはかなさや美しさを感じる日本人の美意識は、確かに独自な小世界を生み出すことに成功した。しかし小世界にとじこもることは、次の新しい時代性の中で適応力を喪失し、破滅してしまう可能性を持つことをも意味する。
 古い尺度を国全体に刻みつけ、アメリカという地上最大の産業国家を築きあげたアメリカ人でさえ、新しい時代に適合するためにマイルやセクションを捨て去ろうとしている。このような時代性に気づかず、限定された美の世界にひきずられ、メートル法を空洞化し、SIを見失っている日本の現状は、まさに文明に対する怨念にとりつかれているよう思える。


(2)国際感覚の乏しさを助長
 
 メートル法が日本人に対して、はかりしれないほどのプラスの役割を演じて来たにもかかわらず、余り高い評価をうけていない。同じように日本の平和路線がわが国の在り方を世界に明示しているのに、新憲法が政府からはまま子扱いされている現状とそれは似ている。だが、メートル法や平和憲法にくらべてはるかに悲劇的な様相を呈しているのが元号法制化の問題である。これは日本人を密室の住民にしてしまう危険性という意味で、おそらく日本の運命を最も大きく狂わす内容を持っていると指摘できるだろう。
 なにしろ、これから世界を舞台に活躍していく上で必要な素養を身につけ、誰とでもスムーズにコミュニケートできる国際人に成長しようとする日本人の動きを、現在において封じてしまうおそれが十分にあるからだ。それだけでなく、将来において国際人化を指向する次の世代の日本人を、精神的カタワ者にしてしまう惧れも予想できる。
 国際舞台で活躍しなければならない時に日本人が強く意識させられるのは、歴史的な尺度における時間感覚のギャップの問題である。日本人が世界に通用しない独特な尺度で歴史教育をうけ、日常生活をしているために、他国人と共通の歴史感覚と時間帯についての意識を持ち合せるのが難しいということに由来する。
 歴史というものが継続した流れの中で複雑な因果関係に基づいて変化していくという動的な側面が脱落している。そこに日本人一般の歴史感覚を非常に静的なものにしてしまい、歴史をエピソードの積み量ねと見てしまう退屈な出来事史観を生む背景がある。歴史は現在に光を投ずるために過去を変化の相でとらえ、その特殊な出来事や行為を貫いている一般性の中から、何らかの教訓を掴み出す意味で非常に大きな価値を持つものである。
 ところが、歴史を変化の相で理解する上で重要な尺度が、元号を使って歴史を学ぶ日本人にとっては連続性を持ち得ない。しかもすべての出来事、外部世界の動きと孤立した小世界の事柄として、関連性を絶ち切った状態で理解されてしまう。それも国際化の影響が大きさを増している現在に近づけば近づくほど、日本人の国際感覚はおかしな具合にゆがんでしまうことになる。
 大部分の日本人は自分ではまともな歴史感覚を持ち合せていると信じているが、ある程度はそうであっても、実際にそういえるのは国内にいて身内同士のコミュニケーションの場合においてだけである。同じ体験を共有しない場合には、日本人同士がバベルの塔のまわりで意志疎通にことかく状況を出現させることになる。しかも、ひとたび日本を離れた時には、常に西暦との換算をくり返すハンディキャップの中で、不必要な苦しみを繰り返し、エネルギーを消耗させられてしまう。
 このことを考えると、元号による歴史感覚のゆがみは、日本人として生れたことによって、人間がわざわざハンディキャップを与えられたようなものである。それが人為的なものであるだけに、これから日本人として生をうける子供達にとっては、悲劇的な遣産を押しつけられるということになるであろう。
 この歴史感覚をゆがめる元号の跛行性が日本人の国際感覚の乏しさを助長し、いかにわが国の政治の上に反映したかは、30数年の戦後史だけでなく近代史全体にその影を指摘できる。特にこの歴史感覚と国際感覚の乏しさによって、いかに日本が国際政治の荒波の中で押流され醜態を演じて来たかは、過去十年間をふりかえるだけで十分であろう。
 中国の国連復帰や通貨調整の問題を他人事と考え、中国と米国の関係を日本人独得の主観的な理解の仕方で固定的に捕えていたために、ある日突然国をあげて茫然自失する破目に陥った1971年のニクソンショック。大国意識による油断と国際石油政治への無理解が招いた1973年秋の石油パニック。国際通貨の動揺を利用した金融投機への無策が招いた円高現象。
 このような一連の不祥事は、密室に閉された日本列島を支配している日本人の国際感覚と歴史感覚が、世界のそれと大きくかけ離れた状態にあったことを意味している。
 メートル法に徹底したことにより国際社会の中で優等生になり得たわが国の産業界にとっては、国際人として通用する国際感覚と歴史感覚を備えた人間を大量に必要としている。
 ところが、自民党が元号を法制化し日本人を精神的に島国の中にとじこめようと試みる時、日本の経済界は反対の意志表示をしようとする知性も勇気も持ち合わせていない。将来において日本経済の孤立と没落が始まる時、日本のブルジョワジーが犯した自殺行為のひとつとして、次の世代に恥ずべき愚行として記憶されるのではあるまいか。
 国外に輸出されている日本商品が、日本だけでしか通用しない元号表記による製造年月日の記されている事実によく出くわす。特に食料品の有効期限にこういった無神経な態度が横行するのを目撃する。このような一人よがりを押し通す日本人の国際感覚は、いつの日にか袋叩きにあう種をまくのではないかという不安にかられるのである。
 日本人が少しづつ国際化を強めようとしている時、元号という国際性を持ち合せない時間の尺度を国民に強制するのは、未来を締め殺す犯罪行為と同じである。理想的なやり方で国際感覚と歴史感覚を磨くことは、とりもなおさず日本人の中から国際舞台で活躍できる人間を沢山育て、国家の安全をより確実にする最良の方法である。その可能性の芽をつみ取る方向で作用するのが元号法制化にほかならない。
 現在の日本の支配層を形成している人びとには、日本列島の上に生をうける若い世代の行く手を捩曲げてしまう権利は与えられていないのだと気づくべきだ。そして老人のエゴと感傷に基いて、国際人にと成長して欲しい沢山の日本人を孤島の住人にしてしまうなら、その結果は恐るべきものになろう。権力者が私情をもって公儀を破るのは亡国の営みであり、国際化という文明時代の特性に背を向けた元号の法制化は、1億人の国民をのせた日本のカミカゼ作戦とも言えよう。


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