『史』 1976.12月号



ロッキード事件と自民党


藤原肇 (石油地質学専攻、カナダ在住)



腐蝕の構造

 戦後30年間保守政治として長く続いた自民党による政権の独占支配は、腐敗現象を伴い常に疑惑がつきまとってきた。石炭疑獄、昭電事件(芦田内閣)、造船疑獄、保全経済会事件(吉田内閣)、グラマン事件、売春汚職、インドネシア賠償疑獄(岸内閣)、九頭流ダム汚職、吹原産業事件(池田内閣)、田中彰治事件、共和製糖事件、日通汚職(佐藤内閣)、金権選挙、田中金脈(田中内閣)といった事件は、数ある自民党疑獄史の中の幾つかの例でしかない。だが自民党と密着した疑獄事件のどれひとつを見ても、事件の内容や背後関係が徹底解明されることがなかった。それだけではない。疑獄によって一番甘い汁を吸った黒幕的人物は不正を養分にして成長し、確実にカネと権力を手に入れて、覇者として日本の政界に君臨した。自らの手で勲章を飾り立て、あげくの果ては国葬や国民葬で莫大な国費を浪費し、政治の舞台から消えた者もあった。しかも獄死した者は一人もなかった。

 そして欺瞞と背徳がまかり通り、吉田、鳩山、石橋、岸、池田、佐藤、田中といった人物が、自民党幹事長や日本国首相を歴任した。彼らが首相になり、施政方針演説の巻紙を読み上げ、カメラマンのフラッシュを浴びて得意の絶頂にある時、身代りの子分達が刑務所を往復し、気の小さい役人が生命を犠牲にし、虚妄の独裁政権が続いたのであった。

 自民党総裁と日本国首相。その共通パターンは、カネをバラ撒いて子分の陣笠にミコシをかつがせ、自分はその上にふんぞり返っている姿だ。それは派閥を操る神輿政治であり、御祓と祝儀に基礎を置く「オマツリゴト」であった。

 戦後政治における疑獄の数々は、長期にわたり政権を独占した自民党の体質から生れた不祥事であると云われ、政界、財界、官界の癒着に温床があると考えられている。だが、一連の疑獄事件を史眼に従って整理し、時の流れの上に置いて観察すると、問題の本質が明白になる。利権を取り囲んだ腐敗構造を、政党的な装いで飾り立てたとき自民党が誕生し、自民党の存在自体が、国益を合法的に私益に還元するための政治的マジックボックスであることが明白になるのである。これは自民党の源流である戦前の政友会や民政党の遺伝子が現在の自民党の組織と細胞を規定しているからだ。その意味からは、国益が私益に従属するその性格に変りがなくても何ら不思議はない。そうである以上、白民党が存在する限り疑獄が絶えないのは当然だろう。

 疑惑の霧が発生するたびに、党員の中から粛党の声が上るにもかかわらず、それが実現したためしがない。それは粛党によって利権集団である自民党の存在理由が、喪失するという自己矛盾があるからである。自民党を本当に粛党できるのは外部の力だけであり、それに誘発されて体制の内部から呼応する謀叛の軍勢による粛清だけである。

 ギボンが詳述するローマ帝国の滅亡やツアリー・ロシアの終焉、そしてビスマルクによって堅固な地歩を築いた第二帝政やムッソリー二のファシスト体制の崩壊。歴史は多くの興味ある例を外圧と内応の関係で示し、歴史における共通パターンの繰り返しとして現わしている。そして現代における自民党体制の末路も、この歴史の教訓を通じて理解が可能になるのである。


歴史における繰り返し

 1929(昭和4)年10月、第3回太平洋問題調査会京都会議の席上中国代表と渡り合った松岡洋右は、日清戦争における李鴻章と満洲問題に対する国民政府を比較して糾弾した。その時彼は「どういうものか歴史は好んで繰り返すものであります」と前置きして、自分の歴史観を披渥している。それは世界歴史は多くの国民または人種の盲目的衝動の錯綜と反応によって作られ、意志ある力が寄与するところは多くないという彼の考えに由来していた。松岡は皇道派青年将校とよく似た正義本能と情熱を前面に押しだした人物で、観念的な傾向が強いが、歴史は似たようなパターンを繰り返すという観察は鋭い判断を含んでいた。それは似たような条件の中で選択できる対応の仕方が限定されると、人間というものはいつの時代でも同じようなことを考え、結果的には同一行動をとることになるという点を喝破しているからである。外務大臣としての松岡もまた、この歴史の教訓の中で悲劇の主人公になってしまった。霞が関の統率者として松岡が構想した日独伊露四国同盟をバーゲニングパワーに使って、米国の力で日中関係の行きづまりを打開するという外交がそれである。松岡構想はルーズベルト大統領の意をうけたコーデル・ハル国務長官による対日牽制と、彼が最も頼りにした近衛首相の反対により破綻してしまった。そして今、自民党の独占的支配体制も、似たようなパターンの中で崩壊しようとしている。それは自民体制を外と内から最も強力に支えて来た、米国と司法当局による反撃としてロッキード事件に象徴的に示されている。

 ロッキード事件がキナくさい臭いをたてて炎をあげたのは、太平洋のはるか彼方、ワシントンの上院公聴委員会だった。しかしその火種を受けついで、日本に存在するボロ屑の中に投げこみ爆原の火にしたのは、国民世論を背景にした司法当局であった。自民党に巣喰う権力者達は、これまで専ら自分達にとって都合のいい番犬に飼い馴してきた司法機関によって糾弾されることになった。検察庁を先頭にした司法当局が自民党による半永久的政治支配という虚妄のパターンに挑戦し、その基盤をゆり動かそうとしている。体制の墓掘り人夫の役割を演ずる強力なグループを、体制自らの内部から生み出すことになった皮肉は、実は自民党自らの手で用意したのである。


選挙至上主義の政治

 戦後30年の全期間を通じて、自民党内閣は憲法に規定されている三権分立の理念を形骸化し、裁判所と国会をほとんど完全な形で従属下に置いてきた。議会の抵抗は、議員定数不均衡を基礎にして、多数決と強行採決という物量の威力を使って粉砕した。また司法の抵抗に対しては、指揮権の悪用と人事権の濫用によって封じこめた。

 これまで自民党の権力者は云うに及ばず国民のほとんどはこの支配体制が機能しなくなるのは、絶対多数支配が崩れ、自民党が野党になる日であると考えてきた。そこに自民党執行部が総選挙至上主義の妄想にとらわれ、金権選挙、タレント候補導入、企業ぐるみ選挙、小選挙区制といった近視眼的な選挙闘争万能の政治に明け暮れた根拠があった。この次元の低い発想法は、興味深いことに第二次大戦で日本軍の参謀を支配した、戦果主義と見事な対応をなしている。戦略的に間題を把えることを忘れ、専ら戦術の次元、それも単なる戦闘の問題に全力を傾注して一喜一憂するのである。もっともこれは単に自民党に限ったことではなく、日本人全体がもつ民族的性格に由来しているともいえる。自民党の独裁体制を打倒し、社会的により公正な関係確立を標榜する社会党や共産党も同じで、選挙至上主義の立場で政治にとり組み、完全にそのぺースに埋没してきたからである。

 ところがロッキード事件に見られる通り、自民党独裁をつき崩す突破口は、議会ではなく司法機関によって開けられた。もはや自民党執行部も三木首相も、司法攻勢を防ぐ手だてを持ち合わせていない。選挙による議席獲得を通じて自民党政権をつき崩す以外他に方法はないと考えていた多くの国民にとって、この司法当局による体制への痛打は、まきに晴天の霹靂といった感銘を与えるものであった。

 実際それは、5・15事件や2・26事件よりもはるかに強力な衝撃波を伴い、しかも体制の基盤をゆさぶるだけの大きな破壊力を内包している。なぜならば、戦前における皇軍の決起部隊はあくまでも天皇の私兵にすぎなかったが、現代における司法当局の決起の背景には、主権をもった国民の期待をになう正義の行動という使命感が伴い、それによって支えられているからである。


司法隷属化への戦後史

 第一段階における検察庁を中核にした司法界の自民党に対する積極攻勢は、復権へのモチベーションをエネルギー源にしたものである。当然国民大衆の支援のいかんによっては、政治の穢れを大掃除し日本に真に民主的な社会秩序をもたらせる結果を期待し得るものになる。それは憲法の番人を自認する法曹人の復権闘争を通じて、憲法の理想を蘇らせる「憲法復興」の動きに連なっているからである。

 三権分立の思想はフランス革命の理想と同じもので、それを開拓農民にも理解できるように平明化したのが米国憲法である。日本が戦後新しく生れ変る過程で、それを制度として取り入れたのである。現憲法は米国に押しつけられたといきり立つ国粋主義者が多いが、実は、アメリカ人が自分達の先生の思想を紹介した物に過ぎないのである。日本人はアメリカ人を仲介にして、ブルジョワ的資本主義制度を体制として確立したのであった。もしそれをやらなければ、日本は18世紀的な専制君主体制の殻の中にとり残され、民族の血をもってブルジョワ革命をやるところから出発しなければならなかった。

 こうしてフランスや米国を手本に、日本は敗戦の荒廃の中から祖国再建の道を踏み出した。平和を希求し主権在民を世界にアッピールして、日本人は現憲法を道標にして茨の道を歩んできた。最初の数年間は占領軍当局の支援もあり、試行錯誤の中で日本人は三権分立の政治を体験した。だが朝鮮戦争による、米国の極東政策の転換や吉田内閣の反動化を通じて、憲法の精神は体制側の既成事実や曲解によって踏みにじられ空洞化された。裁判所と議会は、権力による懐柔と力の制御によって内閣と対等の地位を喪失し、事実上その下部機関として従属した。

 議論を司法問題に限定すると、憲法上は司法府は行政府と対等である。にもかかわらず隷属化し、司法は国家権力の支配の道具として政策と行政を正当化するための機構として機能するように操られた。特に治安対策と軍事政策を遂行する上で自民党刑事部としての役割を与えられ、日本の司法当局は憲法を内部から空洞化する方向で利用された。

 最高裁判事の任命では、石田、岸、下田といった政治権力と問題意識を同じくする人物を起用し、都合のよい判決を誘導した。検察庁の首脳人事は首相のタイコ持ちと噂される人物を選び、政治的アポイントメントに終始した。歴代の法務大臣は、名目的にしろ正義の砦であるべき司法当局の長としては、余りにも不似合な人物が少なからず割りあてられた。


抑圧されたエリート集団

 それだけではなかった。最高裁から始まって、法曹界の上層部を制圧した権力者は、余力を駆って残りの部分の殲滅攻勢に出た。それが一般には、司法の危機として世間の注目を集めたものである。青法協に対する偏向攻撃、平賀書簡事件、司法研習生新任拒否、宮本判事再任拒否、刑法改正といった一連の司法権に対する人事介入を中心にした先制攻撃である。司法界は大いに揺れ、一歩一歩あとずさりした。

 権力による司法支配が成功したかの観を呈したが、それが見せかけの制圧にすぎず、砂上の楼閣でしかなかったことはロッキード事件における統制の蹉跌にあらわれている。法曹界の面々は、長い抑圧を通じて蓄積した屈辱感をテコにし、正義への使命感と職業的プライドを賭けて、行政府への戦略的攻勢に取りかかったようにさえ見える。

 エリートとして大蔵省や外務省に職を得ても、官庁の役人はあくまでも行政府と立法府の下請けであり、時の権力に従属せざるを得ない。これに比べ司法府のエリートは、原則的には独立を維持し、行政と立法の府に対等であることを制度上、保証されている。そして彼らのエリート意識と使命感を支える信条の基礎になっているのが、憲法を母体にした日本の法律体系なのである。しかも彼らは全法律の細部にわたって精通するように教育をうけている。

 司法の砦の裁判所や準司法といわれる検察庁は表面的には体制に屈伏した組織のように見えた。しかし組織を構成しているエリート達は抑圧の中で臥薪嘗胆に耐えた。そして今、時はきたのである。果してどこまで、自民党体質の転換に成功するであろうか。


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