「Mid-America Guide」1994年01月号
新春特別寄稿

藤原肇

●ふじわら・はじめ氏は国際政治コメンテーター。在カリフォルニア。「カンサス州ウイチタに会社を持っているので、Mid-Americaの一員です」とはご本人の弁。




21世紀への日本



誰も目を向けない病巣を除去してこそ

 故国を遠く離れてアメリカを活動の舞台にするわれわれにとって、政治も経済も混迷の中で亡国の度合いを深め、指導性を失って窒息状態に陥った日本の姿は、心苦しいだけでなく目を閉ざしたくなるほどだ。あれだけ経済大国だと胸を張って世界中に進出して、ダイナミックに工場建設や商品市場の開拓を試み、ショッピングセンターや企業の買収に熱をあげていたのに、ロスやニューヨークで耳にする日本企業のトップの話は、本国引き上げや利益の低減という暗いものが圧倒的であり、最近訪れた東京の話題と奇妙に通底していた。それでも、日本のメディアはいつもの通りノー天気であリ、バブルは既に弾けて景気の回復が期待出来るとか、ファッション化した浮薄なゴシップ騒ぎや、アメリカの崩壊といった景気付けの話題が、タレントや御用評論家によリ派手に取リ沙汰されていた。

 しかし、バルブはこれから本格的に弾けるのであリ、日本の金融機関が持つと推定される不良債権は、国内は40兆円だが海外では90兆円に及んでいる。しかも、GNPが500兆円で国家予算が70兆円強の日本が、国債の残高として政府は200兆円の借金を抱え込んでいるのだ。『ファイナンシャル・タイムス』がスクープした日銀の資料では、1992年春の銀行業界の不良債権は50兆円前後だったので、これは経済ニュースとして大いに注目されたが、この数字も不動産関連だけで30兆円の焦げつきからすれば、驚いて騒ぎ立てるほどのものではない。


低迷と萎縮のステージに突入した日本

 肝心な行政改革はかけ声だけで実行せず利権漁リの民活で土地投機を日本列島に蔓延させ、日本をバルブで包み込んだ中曽根政治はリクルート事に見られた政財官の骨がらみの腐敗で、社会の信頼をすっかり損なってしまった。国民全体が煽られたカジノ経済に興奮した後で、熱狂から醒めて見ると狼籍と不始末の山が残リ、経済大国の抜け殻と見えるほどの破産状態が露呈して、全く様変わりした時代が始まっているのである。

 日本人は歴史を総括して責任を追求するのが苦手な民族であり、太平洋戦争の責任も自らの手で始末しようとせず、戦勝国による報復的な軍事裁判に委ねたが、中曽根が犯した前代未聞の亡国政治の病理について診断し、次の世代に歴史の総括を残す必要があるのではないか。そう考えた私は証言として活字にした文章を一冊の本にし、『平成幕末のダイアグノシス』(東明社刊)と題して世に問うた。診断を意味するダイアグノシスをなぜ題名に使ったかというと断末魔に似た苦しみを迎えようとする日本に対して、どのような措置を取るべきかを議論する前に、生理が病理になった理由を正確に理解し、健康状態の内容を知ることが必要だと考えたからである。


黙殺に撤した日本のメディア

 生理や病理の基本も分からないヤブ医者が、武者ぶるいしてメスをふるって患者をいじリまわせば、切り刻まれる者が喘ぎ苦しむのは明らかだ。ところが、この常識が通用しないのが日本であり、いかがわしい自称外科医が政治の舞台に続々と現われ、日本の憲法や行政機構をメッタ切リにして、彼らに都合のいい状態をでっち上げようと企てている。しかも、日本の政治体質がいかに腐っているかの診断を抜き、ヘボ医者たちが声を張リ上げて『平成維新』や『日本改造計画』などのゴタクを並べ立て、とにかく大手術を施せと安易な宜託を下している。こうして、大声に煽られてメディアまでが騒いでいるが、手術や改造をする前の手続きとしては、まず正しい診断を試みるのが医療の常識ではないか。

 こんな状態を放置したら日本は滅茶苦茶になるだけだから、急遽まとめて観察から、引き出したカルテとして書いたのが拙著だが、診断は一般にサイエンスの手続きに従って精密な観察を行い、仮説作りをすることが基本にある。書店に横積みになるあリきたリのベストセラーなら、高校卒業ていどの学力で95%理解できるが、プロの世界の訓練とは縁遠い大衆にとっては、診断を含むタイプの本の理解はせいぜい60%位が関の山だ。最初の章が「日本列島を制覇したヤクザ政治とカジノ経済の病理」で始まり、途中に「アメリカから読んだリクルート事件の深層」の記事を含み、終章が「亡国の淵に立つ日本と世界平和研究所の陰謀」で終わっているこの本は、純粋な病理学上の診断書として書かれためで、大衆が簡単に理解できなくても止むを得なかった。なにしろ、最近の日本ではインテリでも古典に遡らないし、九鬼周造や下村寅太郎の名前も忘れられて久しく、全体像の考察を鍛練する本がほとんど存在しないから、多分にジャーナリスティックで拡散的な展開をしていても、タブーに触れた本が受け入れられないのは不思議ではないのである。

 それにしても、出版から半年が経過した段階での反応が、書評も紹介もゼロというのは日本の時代精神を強烈に反映しており、拙著への根強い反発の気分が理解できた。日本ではタブーに触れることは厳禁であリ、私の指摘事項をメディアが拒絶するために、常套手段である黙殺を敢行したに違いない。全ての思考が観念の水準に留まっていて、反省や批判を通じた概念化に至らない日本では、言論の自由もこの習性の前では無力になりがちだ。そして、国内のレベルでは確かに黙殺が威力を発揮して、コップの中の平静を維持できるにしても、世界のレベルでは全く威力を持ち得ない。だから、ロスの『羅府新報』とシカゴの『ミッド・アメリカ』の米国の二つの邦字新聞が、『平成幕末のダイアグノシス』を取り上げて書評をしたのは興味深かった。アメリカの日本語新聞がこの本の内容に関心を払ったのに、日本では反応がゼロだったという対照的な違いには、問題意識だけではなく心理の深層における差があり、そこにわだかまりのメッセージを読み取リ得たのである。

 私の著書を日本のメディアが総力をあげて黙殺を試みた理由は、この本の中に「アメリカから読んだリクルート事件の深層」という記事が収録してあったからで、これは1988年から1989年にかけてロスの『加州毎日』新聞に連載した、次の世代のための歴史の証言としての記録だが、この記事は日本でのタブー基準に抵触していた。詳しいことは本文の記述を参照してもらうことにするが、倒錯精神に支配されたグループの犯罪として成り立っていたのが、リクルート事件であった点をこの連載記事が論証していたのである。


閉鎖社会を抑え込むタブーのお化け

 この記事を十分に読み込んで全体像を捉えるなら、リクルート事件には4つの闇の世界に連なるグループが関連し、その構成は暴力団(ヤクザ)集団、ホモ人脈、同和グループ、朝鮮半島人脈が複雑に絡み合っていたことが分かる。この4つの集団は日本における暗黒世界を構成し、これを下敷きにしないと問題の核心に追れないが、このグループを正面から扱うのがタブーであるために、日本のメディアは崇りを恐れて触らぬ神にしてきた。それでも、最近は[暴力団新法]の関係で多少メスが振われるようになり、暴力団に関してはタブーの力が比較的に弱くなったが、同じ地下集団でも直接に犯罪と結びつかない場合が多いので、厄介な差別問題が絡むホモ、同和、半島などの系列は、その一部がたとえ犯罪と直結していても、タブーのお陰で犯罪の追及や摘発を免れがちであった。

 社会学的に見ると差別には二種類のタイプがある。それは少数者が多数によって不当な差別を受ける場合と、少数が秘密結社的に行動して多数の利益を損なう場合であリ、どちらも無原則な強行は不当な差別行為になるが、差別用語という砦の陰で犯罪が陰蔽され、犯罪者たちに不当な聖域を提供したのがリクルート事件に他ならなかった。

 自然科学に基づく思考訓練を身につけた後で、20世紀の支配者である石油産業の中で生涯を過ごし、情報の活用を通じてインテリジェンスの価値を知る私には、シカゴ大学でのスピーチ(『ミッド・アメリカ』93年9月号)で述べた通り自然科学の方法論がまともで、経済学や社会学などは疑似科学の仲閻にしか見えない。それでも、ワルラスやシュンペーターの理論を読むのは楽しいし、民族論において国家は部分社会に過ぎないという、ラスキや高田保馬の多元的国家論に賛成である。だから、現象をいくら大量に並べても事実の羅列に過ぎず、問題は事実を統括して新しい仮説で体系づけ、鍛練した思想で問題の本質を見抜き、ジグゾーパズルを組み立てて全体像を作ることの方が、証拠主義よリ肝心ではるかに価値ある仕事に属すると考える。

 この意味において、リクルート事件の顛末は中途半端な誤魔化しであり、下位集団が秘密結社的な結束力を用いて、上位集団である社会の利益を損なうふるまいをした点で、正義に反した犯罪として糾弾するに値していた。公の利益と私の権利の調整は憲法が規定しているが、秩序はより大きな枠組みと整合するものだし、民族におけるプライオリティーは社会が持っている。リウルート事件はその逸脱したケースだったが、日本のメディアも司法当局も全く怠慢であったために、タブーお化けの肥大化を放置してしまい、現在見られる混迷を日本列島の上に蔓延させ、遂に亡国現象を社会に顕在化させたのである。


過去の遺産としての読者人脈

 日本メディアを賑わしているゼネコン汚職や政官界の疑惑の多くは、大きな枠組みではリクルート事件の延長線上にあり、呼成幕末のダイアグノシス』で明らかにした下敷きを使って照合しない限り、背景にあるものが絵として結像しない。なぜ自信を持ってこう断言するかといえば、訪日の度に意見交換をする昔からの読者の情報や、彼ら独特の分析と鋭い問題意識に加え、鍛練した私のインテリジェンスの相乗効果のお陰である。

 閣僚経験者を含む議員や官僚のトップ層はもとよリ、経済界や報道界の上層部に連なる人とか、特派員や外国の指導層が読者を構成しているので、私には噂とは違うレベルの情報が入手可能になる。しかも、情報源を絶対に漏らさないと信用されれば、秘密はインテリジェンスのポテンシャルが高い側に向かって流れるのが、情報を支配している流体力学の法則でもある。だから、秘密を護る人たちよりも秘密に精通すれば、目に見えない素粒子で量子力学が成立するように、情報の相対性理論も厳然と成立するのである。

 20数年前の私はカナダに住み石油産業の中にいたが、石油危機の襲来を予告した『石油危機と日本の運命』を書いたお陰で、数年の間に30人以上の記者の訪問を受けたし、何百人かのジャーナリストと知り合いになった。そして、歳月の経過を通じて皆が組織の中で頭角を現し、眩しいほどの肩書きや責任ある地位に立つ人も増えたが、著者と読者の関係で始まった友誼は嬉しいもので、情報のプロとしての付き合いは継続しているし、極秘の情報でもけっこうスムーズに流れてくる。それに、噂と違って私の

 情報筋は精度と確度が高いから、複数の情報源が共通の問題に触れている場合に、その信愚性は非常に大きいことも確率的に証明できる。だから、これまで政治や経済に関しての社会病理学的診断を行なう時に、情報源の秘匿に対して全力を傾けながら、私は自信を持って判断を下して来たのである。リクルート事件の場合もその例外ではなかったが、私は人脈の秘密だけは絶対に公開しなかったが故に、それがより確実な情報の入手を保証してくれたのである。

 1973年秋の石油危機の襲来を予告して以来、日本の産業体質の問題点について診断して、造船王国の没落や鉄鋼産業の蹉鉄を警告し、それを適宜まとめて発表して来たお陰で、日本の運命を心から憂う人々が私の読者に多い。その多くは第一線で活躍するジャーナリストだったし、中には司法や警察などの体制の中枢にいる人もいた。だから、現象を体系づける仕事として仮説を立て、時閻の流れの中でその有効性を実証する上で、私は限られたプロだけのためにものを書き、大衆を相手にしないでいて生きて来れたし、その典型が『加州毎日』に記録を残した記事である。リクルート事件が日本の朝野を驚愕させたので、30冊余りの本が日本で刊行されているが、事件の全体像に肉薄した記録という点では、拙稿が屈指の存在になった理由もここにあった。タブーのために誰も虎の尾を踏もうとしなかったが、リクルート事件の主役の江副は同和とホモの人脈が絡んでいて、それが株のばら撤きルートで重要な役割を演じたのであり、この視点が脱落すると何も見えなくなってしまう。また、中曽根バブルの背景を構成していた人脈には、これに加えて暴力団と半島グループが深く結びついており、「中曽根民活」と呼ばれた国有財産の叩き売りには、日本の政界、財界、官界、学界、報道界の上層部に食い込む、この4つのグループが利権漁りを演じた構図があったのである。


尾を曳いているリクルート事件のごまかし

 東京地検が行なった公式発表に従うなら公開前のリクルートコスモス株に関係したのは、衆議院リクルート問題調査特別委員会に提出された、未公開株の譲渡者リストの約160名が総てということになる。内訳は直接譲渡の76人と還流ルートの83人で、マスコミ関係は10人前後しか含まれていないが、複数の情報筋によるとこれは全くウソの数字であり、本当は少なくとも百人を越すようである。取材を国内に限れば公式発表で済むだろうが、枠を広く国外の日本ウォッチャーや東京に赴任する情報筋に求めれば、より興味深いデータの収集が可能になる。有楽町に集まる外国の特派員には私の読者が多いが、ディスインフォメーションに用心して情報を取れば、祖国の安全にとってプラスになる場合も少なくない。それに加えて日本の鋭い意識のジャーナリストと共に、警察や司法当局の内部情報を加えて検討すれば、蓄積したデータベースはさらに興味深いものになる。こうして表に出なかった名前を探索すると、日本のメディアのトップが軒並みに近く、組織の責任者たちの名前がキラ星のようだから、リクルート事件は予想以上に根が深いと分かるのだ。

 司法当局が公表を抑えて秘匿したと伝えられるものと、衆議院に提出されたリストの間には、マスコミ関係者の名前に大きな断絶があるようだ。秘匿リストの中には、『朝日新聞』の一柳東一郎社長や中江忠利専務、『読売新聞』の丸山厳副社長と渡辺恒雄専務、『文芸春秋』の田中健五社長や『サンケイ』の鹿内春雄議長を始め、その部下や系列会社の代表たちの名前があったとか(肩書きはいずれも当時)。このデータベースは情報公開の壁に遮られて、国民は自らの手でその正否を確認できないが、この情報が本当でないことを祈るばかリである。しかし、ここに名が出た人たちは自らの名誉を守るためにも、己の潔白を立証することが先決問題であり、いわれない懐疑を一掃する義務を負うのではあるまいか。

 それにしても、この情報の持つ意味を痛感させられたのは、1988年5月に起きた『朝日』のサンゴ事件の顛末であり、一柳社長の引責辞任は奇妙な印象をもたせた。こんな写真の捏造事件は写真部長の引責か、せいぜい編集責任者の譴責で済むのに、社長が引責辞任をしたというなら、責任を取る立場に近い中江専務がなぜ社長になったのか。不自然な動きは第三者に疑惑を招くものだが、連載した検事総長伊藤栄樹の回想記を『秋霜烈日』と題した本にし、巨悪と闘う検事総長のキャンペーンもあったから、そんな時に信頼できる司法筋からある情報を聞いた私は、『朝日』の上層部への疑問を払拭するのが困難だった。問題のリストにマスコミ界のトップが並び、特に『朝日新聞』の関係者が余りにも多かったので、本格的に手をつければ報道界が壊滅しかねない事態を前にして、司法当局は困惑せざるを得なかったというのだ。役人ではないから職務権限が関係しないので、マスコミ人は収賄の対象ではないといえ、世論が疑惑に対して厳しい判断を下すなら、日本の報道界は信用喪失でガタガタになってしまう。そうなれば既成の秩序が大混乱を起こし、これは体制の維持にとって大問題になる。しかも、リクルート事件は川崎で問題があるとされた段階で、検察が事件として取り上げずに見送ったのに、『朝日』の横浜支局が事件を調査報道で追い、汚職を摘発して手柄を立てていたから、恥をかいたのを救われた借りも検察にあった。あくまでも仮定の推論の上に立つ疑問になるが、もし検事総長が取り上げないための理屈を考え、司法当局が譲渡リストの漏洩を抑えることで、マスコミヘの貸しにした取引が行われたとしたなら、これは司法の自殺行為だといわざるを得ないのである。


メデイアに浸透していたリクルートの網

 こんな不埒なことはあリ得ないとは思ったが、『朝日』にはかねて親しい記者がたくさんいたので、内部情報をもとにジグゾウパズルを組み立てるべく、側面から取材をして全体像の構築を試みた。『平成幕末のダイアグノシス』で『読売新聞』の裏面史を書いた時に、引退した長老やOBに秘話を学んだのと同じ手法で、歴史的な系統図を描いて行く過程で古老の知恵が役に立った。鍵になったのは社主家と対立した村山事件騒動であり、経営権をめぐる『朝日』で起きた抗争は、古い結びつきを持つ竹中工務店や住友銀行との関係で、ネポティズムや派閥争いの傷痕を浮上させた。今ではゼネコン汚職が連日のニュースだが、新社屋や有楽町マリオンの工事がらみの弱みのために、『朝日』の経営陣は泰然自若としておられず、リクルート事件との兼ね合いも絡んで、総会屋に連なる新右翼に付け入れられる隙を生んだらしい。それが野村被疑者の自殺事件とどう関係していくかは、社会部の今後における活躍を待つだけだがいかに社内機密を取材して自浄能力に結びつけるかが問題だろう。

 また、『朝日新聞』と『文芸春秋』は親のかたきのようにいがみ合い、まるで天敵のようだと世間では考えているようだが、中江利忠社長と田中健五社長は交友が深く現に親睦のカラオケ会を開いては唱和し合う仲だ。二人は1953年に東大の文学部を卒業して、メディアに職を求めた学友仲間だし、編集担当の佐伯晋専務も中江社長の同輩でテレビ朝日の渡辺邦男社長と共に、最初の任地は八王子支局が振リ出しだった。だから、地検の八王子支部にいた前田宏検事と親しくなり、八王子会の仲間としてその後も交際が続いたので、星霜の流れの中で皆がそれぞれ栄達の道をたどり、一人は検事総長で別の仲間はマスコミ界のトップに並んだ時に、奇しくもリクルート事件が発生したことは意味深長だ。誰がどう交渉したかは歴史のブラックボックスだが、取引として検察がマスコミに貸しを作った過程で、幾人かの検察官が組織を見限って転職し、その時に波風が立った事実があったとすれば、松本清張が健在なら推理小説の筋書きとして見逃さないだろう。『朝日』の社長はサンゴ事件を口実に辞任したし、リクルート事件はスパコン疑惑に発展せず、収賄のボヤだけで鎮火したお陰で巨悪が逃げ切った顛末は、大きな謎を引きずっているといえないだろうか。


ジャーナリズムの自己浄化能カヘの微かな期待

 『朝日新聞』は日本で最も信頼された新聞の代表であり、記者の多くが最も優れた人材である点から、たとえトップの一部でも倫理規定に抵触したとか、所得税法に違反するカネに関係していたとすれば、その背信行為は前代未聞の醜聞である。そんな疑惑を完全に払拭するためにも、リクルート事件の疑惑の徹底的な洗い直しと、サンゴ事件や新右翼の自殺事件の背後関係について、社会部が自らの手で調査報道をする必要がある。『読売新聞』がヤクザ的な体質を濃厚にする点については、すでに『平成幕末のダイアゲノシス』の第一章で総括したし、内閣調査室の使い走りをしていた『文春』の田中社長が、そのコネで目覚ましい栄達を遂げた点については、『インテリジェンス戦争の時代』の中で解明した通りである。

 そして、『朝日』の中江社長が『文春』の田中社長と裏で繋がリ、一柳前社長の辞任の真相や新右翼との取リ引きに関与し、しかも、前田元検事総長との貸し借りの疑惑に包まれれば、自らの手でその潔白を追求するのが義務である。日本のマスコミは同業者の疑惑には口を噤み、その是正を追及しない悪癖を持つし、戦前の戦争協力記事の自己批判はもとよリ、記者クラブ制の弊害の反省もしていないが、メディアの信用は地に墜ちようとしている。

 高給で優遇され職業倫理も高い『朝日』の記者たちが、なぜリクルート事件に限って汚染されたかについては、隠れた人脈の繋がりを見つけなければ理解が困難だろう。しかし、リクルート事件に地検が乗り出した契機が、楢崎代議士に現金を手渡した録画ビデオにあり、リクルートコスモス社の、松原弘室長がワイロを渡し、それを動かぬ証拠として映像に撮られた事実。そして、松原室長の照子夫人が『朝日』の文芸部の記者であリ、懐柔の可能な人名が外に流れた可能性については、スキー部の記者たちがアッピで楽しく滑っており、それを恥じてペンを折る記者たちがいただけに、あながち否定し得ないのではあるまいか。

 ジヤーナリストの丸山昇は七年を費やした力作の『報道協定』の中で、真実を書かないし、報道しない日本のマスコミに対して、「……群れて報道各社、個々の記者の自由な言論・報道・取材活動等を相互に規割・禁止し合うとなれば、これだけでも言論・報道機関の堕蒋である。しかもそこに国家権力の強い意思が働いているとなれば、もはや犯罪的行為でさえある」と書いている。新聞記者たちが自ら取材して真実を書かないなら、国民はどうやって権力を悪用した犯罪行為や、情報操作で隠蔽された陰謀について知り、社会正義と公正な秩序の維持を期待し得るのか。引退記者の告白録や手記が本になったリ、転職検事がベストセラー小説を書く時代だからといって、まさか堀田元検事が小説でリクルート事件の真相を扱ってくれ、タブー破リを期待できるほど世の中は甘くない。ジャーナリストが自らの足と頭を使って、隠された犯罪や陰謀を掘リ起こさない限リ、証拠は隠滅で犯罪を抹消されると歴史は教えているのである。

 リクルート事件といえば岩手県のアッピ高原が関係し、アッピの開発には地元の小沢の存在が取り沙汰され、建設族の「金竹小」と悪名を鳴らしたように、小沢一郎の周辺にはいつも疑惑の霧が漂っていた。また、朝日テレビ事件の椿発言の中心テーマは、[小沢一郎のケジメについては問わない]という取引だったのに、どういう理由かはっきりしないが、メディアも検察も小沢問題には沈黙を保っている。リクルート事件が日本のタブーに密着し、そこに司法当局のサンクチュアリーがあるために、誰も手を出せなかった理由があるのなら、小沢一郎のコネクションを突破口に使うのも有効だろう。なぜなら、リクルート事件の主役の中曽根康弘が巨悪と言われながら、絶対に尻尾を出さないで逃げのびてしまい、政治犯罪の正体を迷宮入りにしてしまったが、もう一度リクルート事件の洗い出しを試みることは、日本がこれ以上の過ちを繰り返さないために不可欠だからである。


下村寅太郎

■現代の哲学者、科学史家。1902年生まれ。京大卒、東京教育大、学習院大教授。西田幾太郎、田辺元らに学び、精神史の立場から西洋哲学、自然科学の哲学に新境地を開拓、数学の哲学的基礎づけともいうべき数理哲学を研究。『科学史の哲学』(41年)では無時間的とも見られる数学もギリシヤ、ローマ以来のヨーロッパ精神史の産物であるから論理学・認識論からだけでは本質をとらえられないとした。戦後は、こうした考察を芸術の分野にも拡大、『ルネサンスの芸術家』(69年)によリ学士院賞。

九鬼周造

■1888〜1941。大正・昭和期の哲学者。パリ万博に文部省から派遣され、のちに帝国博物館(いまの国立博物館)初代館長を務めた九鬼隆一の4男として東京に生まれる。東大卒。ヨーロッパに留学して、フッサール、ハイテッガー、ベルゲソンに学ぶ。35年京大教授。実存哲学的な立場から時間や偶然性の問題を論じ(『偶然性の問題』35年)、また現象学的方法を用いて日本文化を論じる(『「いき」の構造』30年)など、芸術、文芸の哲学的解明にも優れた業績を残した。
Existentzを「実存」と訳して定着させたのは九鬼である。

高田保馬

■1883〜1972。昭和期の社会学者、経済学者。佐賀県生まれ。京大卒。広島高等師範、東京商大、九州大教授を経て、1929年京大教授。43年民族研究所初代所長。戦後は、51年から大阪大学教投。1964年文化功労者。総合祉会学に反対し、人問と人岡の結合のあり方を研究・対象とする特殊・個別的社会学の体系化を企図(『社会学原理』19年)。またマルクス主義の階級闘争史観に反対して人口論的立場から「第三史観」の確立を提起(『階級及第三史観』25年、『国家と階級』34年)。


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