『ニューリーダー』 2005年2月号

《衝撃対談》<上>



西原克成 西原研究所所長・医学博士
VS
藤原肇 在米・国際コメンテーター



明治の大文豪$X鴎外の隠された真実 「日本最悪の医者」としてその犯罪を裁く



津和野、養老館で繋がる点と線

藤原 西原先生の『内臓が生み出す」(NHKブックス)を読ませていただきました。生命活動においてミトコンドリアが非常に重要であり、口呼吸と骨休め不足と腸に良くない冷たい飲み物の弊害が、健康を損なう最大の原因だとよくわかりました。
 それにしても、西原さんが学位を取って30歳で東大の講師になり、それから30年間に、度も昇進しないで定年になったと知り、世の中には実に忍耐強い人がいると驚きました。私は神田の生まれの江戸っ子で、我慢強くないから、そんなひどい環境でいじめられたら腹を立てて、辞表を叩きつけて他所に移っていると思います.

西原 私が大学に勤めた目的は、20世紀に誰一人として、まともに研究することを考えなかった脊椎動物学を究め、「未知なるもの人間」の仕組みを明らかにすることでした。そして、その環境を整えることができるようになり、文部科学省の研究費で思う存分研究ができたうえに、驚くほどの成果があがったので、腹を立てる気はありません。

藤原 そうですか。私には騎馬民族の血が流れているようだし、江戸っ予で神田明神の氏子だから、祭神は平将門です。ところが、反乱を起こした将門を討ったのが藤原秀郷であり、どうやら秀郷の血が父方の祖先に繋がるみたいです。私の名前は肇で父親が一義という名ですが、私は戦時中だから一の代わりに肇国の字を使い、明治生まれの親父は一に儒教的な義をつけた。というわけで、長男がハジメを名乗るサンカ筋の家系らしい。そして、祖先をたどっていくと東北に住み着いた集団で、平泉に黄金文化を築いた藤原の家系に繋がり、その因縁で私は山師の筋の地質学の専門家として、世界中の山や富鉱地帯で仕事をしたのでしょう。

西原 それでは東北地方に陣取って牧畜や採鉱をしていた、遊牧民的な性格が強い奥州の藤原ということですね。

藤原 遠い先祖をたどればいずれは猿になるのだし、西原学説のネコザメも先祖の仲間になるわけだから、もっと身近な遊牧民族としておきましょう(笑)。親父は髭が濃くてアイヌ的な印象もありましたが、母方の吉田家は、どうも朝鮮系のような感じが濃厚です。というのは、吉田家は島根県津和野であり、叔父が老人になった時の顔が李承晩にそっくりだったんです。顔相から朝鮮系は間違いないと思います。

西原 島根や山口は朝鮮半島に近いから関係が深く、戦国時代の大内氏は朝鮮系だと言われています。多くの日本人には大陸や半島の血が混じり、系統発生から言えば猿やネコザメは言うまでもないが、円口類もホヤも進化の上でわれわれの祖先です(笑)。
 それに津和野といえば森鴎外の生まれた町です。明治の文豪だと祭り上げているが、彼はとんでもない医者で、間違った考えのために兵隊を大量に殺した点では、日本最悪の医者の一人だと私は考えています。

藤原 そうですか。大量殺人とはビックリ仰天の発言ですが、実は私の母方の祖父は養老館という津和野藩の藩校で、森林太郎と同じ時期に学んだらしく、亡くなった母や祖母から幼い頃にそんな話を聞いています。職務は津和野藩の馬廻りだったと言いますが、森林太郎だけでなく西周とも関係があったらしく、西先生の机≠ニ呼ばれた書見台が残っていたので、母が亡くなった時に津和野の郷土館に寄贈しました。

西原 ちょっと鴎外批判をしたら思わぬ方向に発展して、あなたのお祖父さんが鴎外と同じ藩校で学んだらしいと知って驚きました。世の中は実に狭いというか、奇遇ですね。


生涯一度も訪れなかった故郷と墓

藤原 でも、生き証人はもはや誰もいませんね。母や叔父が元気だった、6年ほど前に、その辺のことをはっきり確認しておきたいと考え、教育委員で郷土史家の池田潔さんや森澄泰文さんと一緒に、菩提寺の永明寺に行って過去帳を見たり、色んな過去の記録を調べるのを手伝ってもらいました。だが、祖父は死んだ年だけで生まれた年がはっきりしません。その母親が死んだのが慶応元年(1865)だったので、産褥熱で死んだのなら慶応元年生まれです。

西原 あの時代は産褥熱で死んだ妊婦が多くて、女性にとって死因の代表だったようですね。

藤原 祖父の父親は四人も妻を持っていたし、祖父も再婚して妻を三人も持つ人だったとわかり、母にそれを言ったら、「昔は子供を産むのは大変だったのよ」と笑われました。
 それはともかく、祖父が慶応元年生まれなら森林太郎より二歳若い。似たような年頃の子供として遊んだにしても、明治四年の廃藩置県で養老館は廃校になったから、七歳の祖父が養老館で学んだ期間はとても短かった。翌年に、森林太郎は東京に出発しているのです。

西原 森家と西家は従兄弟同士の親戚関係だったから、西家と吉田家が深い関係を持っていたのなら、吉田家と森家が親しくしていたかもしれません。

藤原 さっき言った西先生の机が伝わっていたことから、その関係で吉田家と森家に繋がりがあれば、郷上館にある書見台は縁を取り持つ机ですね。その机の裏面には丸文字が墨で書いてあった。「読書百遍而義自見」(読書百篇にして義おのずから現わる)という漢文で、郷土館の学芸員が西周の筆跡だと鑑定してくれました。そんなこともあって、私は中学生の頃に西周の『百一連環』を読んだし、ライデン大学への留学にも憧れた。西周が徳川慶喜のフランス語の家庭教師だったから、中学生の頃から独学でフランス語を学んだのです。

西原 津和野の森太郎に関して何か他に聞いていませんか。

藤原 森鴎外の作品は中学生の時に全部読んだので、子供の頃に聞いた話と彼の小説が一緒になって、どこまでが話か小説か区別できません。『ヰターセクスアリス』は中学生の時に読んだがよくわからず、森鴎外の秘密の自叙伝だと思っただけで、高校生になって読み直して興奮した。『肉布団』も読んだが、数年前に読んだら何てことなく落胆しました(笑)。

西原 一応あれは自叙伝みたいなものですが、格好をつけて上品に書いて誤魔化しているのです。

藤原 そうですか。あの作品の中にだけ津和野のことが書いてあり、私の祖父を感じさせるものがあるかと思い熟読したが、何もないのでがっかりした記憶があります。祖父は武士の子で廃藩置県と廃刀令で挫折したらしく、若い頃は山で鶯を取って、自分で鳥篭を作り、世をすねた一種の風太郎だったらしい。何度か結婚して家屋敷を古橋という造り酒屋に売り、子供の教育のために中学のある浜田に出て、祖母が活版印刷屋をして一家を支えたのだそうです。

西原 じゃあ、森林太郎が津和野を出て一度も戻らなかったように、あなたの母方の家は津和野には残っていないわけですか。

藤原 江戸時代の吉田家は面倒見がよかったらしく、永明寺には永代寄進した広い墓地もあります。そこに30くらいあった墓石を整理して1つにしたが、その中には切腹した三剣士の墓石もあり、叔父が死ぬまでは永明寺の檀家総代でした。それに、観光の名所として造ったのでしょうが、森林太郎の墓も永明寺の中にあります。

西原 しかし、森鴎外は一度も故郷の津和野に戻っていないし、墓地は確か東京の三鷹にあったように思います。故郷に対して何かこだわりがあったとすれば、津和野の墓には骨は入っていないかもしれませんね。遺言に残した「余は石見の人、森林太郎として死せんと欲す」という有名な言葉が、勝手に独り歩きしているかもしれませんよ。

藤原 その可能性はあります。永明寺の山門をくぐってから左手にある鴎外の墓は、いつも観光客の姿で賑わっているのですが、何となく違和感を漂わせているようです。

西原 彼は上京後に一度も津和野を訪れていない。その違和感は、故郷を捨てたことに関係しているんじゃないかと思います。

藤原 賛成です。喜寿になって知恵がついたらそれを主題にして、小説でも書こうかと考えたことがあるのですが、今の私は未だ若すぎて考えが発酵しておらず、そのうち熟す時が訪れてくるだろうと思っています。

西原 それは楽しみですね。


「日本兵食論」が犯した最大の悲劇

藤原 森鴎外は明治の文壇を夏目漱石と分かち合い、日本最高の文学者としての栄光に輝いており、医者として最高位の軍医総監にまでなっています。そこで気になるのでお聞きしたいのですが、先ほど西原さんがちょっと指摘しかけたことで、軍医としての森林太郎が最悪の医者の一人であり、多くの兵隊を殺したということについて、具体的な内容をもっと詳しく教えていただけませんか。

西原 具体的には、脚気に対しての森林太郎の偏見で、それに基づいて彼が実施した『日本兵食論』の誤りです。脚気の問題で森林太郎が犯した致命的な過ちは、日本の医学史において恥ずべき汚点であり、脚気は陸海軍で日清戦争直前に克服されていました。ところが、白米中心の陸軍兵食にこだわった森軍医は、軍医部長の麦飯給与の進言を退けた。それで、戦闘で死んだ者よりも脚気で死んだ者のほうがはるかに多い、という大失策を犯したのです。

藤原 平時の陸軍と海軍で解決していた脚気が、戦時の陸軍で森の誤った指導で大量病死者を出した――これは、森が固執した白米だけの兵食のせいだとは驚きです。それに、脚気はビタミンBの不足による病気でしたね。

西原 そうです。だが、鈴木梅太郎がビタミンBを発見するのは、米糠からオリザニンを抽出した明治の末だったから、時代としてははるかに後のことです。19歳の森林太郎が東京大学の医学部を卒業して、陸軍の軍医になったのは明治14(1881)年のことですが、西南戦争(明治10年)以降、兵士の24パーセントもかかっていた脚気患者が、明治18(1885)年に麦飯の給食が始まったので、激減して、1パーセント台になっていたのです。
 問題は、森医務官が同じ明治18年にライプチヒで書き始めた『日本兵食論』で、「米食と脚気の関係の有無は余敢えて説かず」として、栄養面のみから兵食問題を論じていることです。当時の彼は文学評で、識者から「軍扇片手の張り三昧線」と囁かれていたが、実はこのように科学論文にも及んでいたのです。彼の論文がいかにいい加減かは、坂内正の『鴎外最大の悲劇』(新潮選書)に詳しく出ています。

藤原 留学中に学術論文を発表するというのは、私の留学体験からして凄い実績だと思います。しかし、ドイツ語能力は大したものだが、論旨が間違っていたのでは誉められません。森林太郎が地質学者のナウマンの講演を聞いて、森林太郎が批判の発言と記事を書いたのは有名ですが、彼は反対意見を言わずにはいられないという、ちょっと変わった性格の持ち主だったような感じもします。坪内逍遥とも激しい文学論争をしていますね。

西原 森は論争好きで言葉がよくできるから利用され、海軍潰しの手先として使われたという説もあります。というのは、海軍の高木兼寛軍医監は日本食をやめてしまい、西洋式の食事に切り替えていたこともあり、それが陸軍にとってコスト高を招いては困るし、伝統的な食習慣に反するので阻止する必要があったようです。

藤原 彼の直接の上司の石黒忠悳が脚気細菌説で、これを後押ししたのが森林太郎だった。高木兼寛といえば海軍始まって以来の秀才です。ロンドンの医学校に留学して常にトップになり、森有礼駐英公使が日本の誉れだと賞賛したし、海軍の医療体制を大改革したことで有名です。
 高木の前では森林太郎も小粒の留学生だし、そうなると、海軍の英国と陸軍のドイツの対立が影響して、森は陸軍の面目のために意地を張ったのでしょうか。

西原 森がドイツに留学したのは明治17(1884)年の夏ですが、海軍の高木軍医監は森が留守だった時に、米食から麦飯に替えることを提唱して、陸軍でも脚気の患者は激減していたわけです。だが、森がドイツで『日本軍兵食論』を発表したので、それに陸軍が引きずられたとも考えられますが、森を使い海軍に嫌がらせしたのかもしれない。その結果は実に悲惨で、森が主張した兵食論で帝国陸軍の兵士が脚気を患い、いかに大量に兵士が死んだかについては、坂内正の『鴎外最大の悲劇』を読めばよくわかります。


戦死者を4倍にした脚気死の元凶

藤原 そうなると、森鴎外が隠し続けた秘密は脚気問題ですか。

西原 そうです。森林太郎が医務官として出世したことにより、彼の兵食論に従って麦飯をやめ白米と沢庵に切り替えたために、明治27(1894)年の日清戦争の時には、4万人以上の脚気患者が陸軍で発生している。しかも、この戦争の戦死者が977人だったのに対して、脚気による死者はその4倍の4064人も出ている。戦没者の多くが脚気だという大悲劇を生んだわけです。

藤原 戦闘で死んだ者より脚気の死者が4倍とは……。死ななくていいものを殺している点で、今の小泉内閣がやる経済政策と同じであり、もはや支離滅裂というしかない。日清戦争の時の森は、ドイツヘの留学から帰って、軍医としてかなり偉くなっていたはずで、考え違いだったと訂正できたのではないでしょうか。

西原 日清戦争の時の森は陸軍医学校の校長でしたし、戦争中は第二軍兵站軍医部長だったから、陸軍の医者として五番か六番くらいです。しかも、この誤りが訂正されずに「白米万能主義」が横行し、日露戦争の時には25万名の脚気患者を発生させ、2万8000名の病没者を出している。
 しかし、脚気の病因論に関しては細菌説を強く押し進め、東大医学部と文部省のペルツ緒方の一派に対して、コッホの弟子である北里柴三郎(内務省)との対立があり、それがこの問題を一層複雑にしたのです。しかも、陸軍は東大を仲間にした文部省と組んで、北里の内務省や海軍と張り合ったわけです。

藤原 日清戦争から日露戦争までに、10年もあるのに、その間に脚気に対しての処置が変わらず、同じ失敗を繰り返していたというのは、実にお粗末だと言わざるをえませんね。森は日清戦争と日露戦争の中間の時期に、有名な小倉の第一二師団に左遷されていて、その時は師団の軍医部長だったわけでしょう。

西原 そうです。軍医監(少将)だから左遷ではないのに、彼は同級生だった小池正直に先を越されたので、それが自尊心を傷つけて屈辱的になっており、小池医務局長の人事命令を左遷だと反発したわけです。要するにコンプレックスによる妬みの心理です.また、森は「白米万能主義」の欠陥を意識したが、それを改めて自分の過ちを認めてしまうと、権威が傷つくことを恐れたに違いない。官僚特有の無責任主義で放置したということです。
 だが、平時にはそれほど大きな問題にならなくても、戦時という緊急な事態では簡単に破綻する。過酷な条件の中で病死者が続発するという結果になり、病死者が戦死者の4倍という悲劇になったのです。


舞姫<Gリスにまつわる秘密

藤原 日露戦争の話になって思い出したのですが、かつて橋本龍太郎と石光真清が血縁だと聞いて、陸軍特務だった、石光の手記を熟読したら、日露戦争の初期に彼は第二軍で副官をしていた。その時に第二軍の司令官だったのが奥保鞏で、この間イラクで殺された奥克彦参事官の祖父です。彼は「日本一の戦上手」といわれた将軍だが、第二軍の軍医部長が森林太郎だったのです。第二軍は遼東半島に上陸作戦を担当して、南山攻略に続いて奉天会戦に移ったが、戦力の限界で敵の繊滅はできないで終わり、国力を使い果たした時にアメリカが仲介して、ポーツマス条約で停戦になり、助かった。

西原 陸軍は25万名もの脚気患者を出したというのに、森は責任を取るどころか凱旋して二階級特進し、中将相当である医務局長になったうえに、2年後には帝室博物館館長に任ぜられたのだから呆れる。日清戦争だけでなく10年後の日露戦争でも、陸軍では大量の脚気患者を出したのに、森が編集委員長になって『陸軍戦役衛生史』を編纂した。森はそれをことさらに膨大なものにしたので誰も読めなかった。それで脚気問題は注目されなかったのです。

藤原 それにしてもひどい話だ。

西原 大量の兵隊が脚気で倒れている事実に注目し、私は森林太郎が英国やドイツに操られて、スパイとして利敵行為をしたという仮説を立てました。

藤原 森鴎外がスパイだったという先生の仮説は、あまりに意外すぎて私には信じられません。ビクトリア女王の孫のジョージ五世を軸にすれば、ニコライ二世もウィルヘルム二世も従兄弟関係であり、王室が繋がっているのは事実だけれども、出世主義者で軍人でもある森林太郎が、なぜ外国のスパイになる必要があるのですか。

西原 日本がロシアに勝ちすぎて調子に乗るといけないので、そのために女癖の悪い森を取り込んだ恐れが十分にあります。女癖の悪い軍人を手なずけスパイにするのはわけないことです。戦後のフルブライト奨学生もそうだし、山本五十六の場合にもそれが言われています。二人とも女癖が悪くセックスにだらしなかったから、そこを付け込まれた可能性が高いのです。

藤原 確かに、ベルリン時代の森はドイツ娘と同棲していて、『舞姫』の主人公のエリスが日本まで追いかけてきたし、この事件で多くの人に迷惑をかけています。だが、森がスパイでスリーパーとして陸軍に植え込むなら、ドイツから女が追いかけてくるというのは奇妙で、スパイ工作としてはあまりにも幼稚だと思いますね。

西原 でも、エリスはユダヤ系のドイツ人だったそうです。

藤原 ユダヤ系でもドイツ人であることは事実だし、森の先人としてドイツ女性と結婚した高級官僚には、ベルリン駐在の青木周蔵公使がいた。森はベルリンに到着してすぐに青木公使に会っているので、ドイツ人と結婚しても問題はないはずです。

西原 森を追いかけてドイツ娘がきた時には陸軍は困り、一家を再興しようと考えていた森の両親と協力して、大あわてで森林太郎を結婚させています。日本の文芸評論家や文壇は鴎外を崇め奉るから、一種の聖人としてドイツ時代の森を美化し、日本を代表した留学生として扱っている。しかし、彼の女癖の悪さは知る人ぞ知る事実でした。

藤原 でも、『ヰタ・セクスアリス』を読む限り、彼の品行は悪くなく、「とうとう女というものを知らずに大学を卒業した」とありました。
 鴎外自身がフィクションだと言っているけれど、『舞姫』の中で最初に彼がエリスに出会う描写では、とても真面目でロマンチストの印象が強くて、これは純愛物語だと私は思いました。だから、留学して外国娘と深い仲になって森の二の舞いになったら大変なことになる、と学んで私は慎重になり、プチタミ(彼女)を作らないように用心した思い出があります(笑)。

西原 藤原さんにそんな強い影響を与えたにしても、『舞姫』はあくまでも彼の自己弁明の作品であり、実際の生活と小説はあまり関係ないのです。現にエリスとは同棲して結婚の約束をしており、それで彼女は日本まで追いかけてきた。それだけではなくて、森は女癖が悪くてその道に通じていたから、東京からベルリンにきた軍人たちに女を世話し、後でそれを暴いて筆誅を加えて攻撃している。自分のえげつなさを隠して、他人のことをあばいて騒いだのです。陸軍の誰それはあれをしたこれをしたと暴き、自分はまるで聖人君子のような顔をした。日本人はその虚像に騙されてしまったのです。

(次号に続く)


記事 inserted by FC2 system