『ニューリーダー』 2005年3月号

《衝撃対談》<下>



西原克成 西原研究所所長・医学博士
VS
藤原肇 在米・国際コメンテーター



「軍医」森林太郎と「文豪」森鴎外 捩れた人格 虚飾の栄達≠ニその贖罪に見る日本人の貌



乃木将軍は鴎外が殺したも同然

藤原 森鴎外が東京大学を卒業してドイツに渡ってから不品行になり、西原先生がいう女癖が悪くなったとしたら、軍隊という特殊な環境のせいかもしれません。『ヰタ・セクスアリス』の最後の部分にそれが現われていて、ドイツ各地の町を追想する描写があり、そこで出会った女たちのことに触れていますね。

西原 森林太郎軍医は女癖が悪いうえに人がとても悪い。文章を書いては秘密を暴いて筆誅を加える性悪な面があり、時には本心が現われてしまう破目にも陥った。

藤原 そういえば、最初の妻と離婚して独身だった時に、児玉セキという妾を囲って氷屋かなんかをやらせ、この妾の生活観察を『雁』のお玉に投影して、彼一流のロマンチシズムで仕立てて美化したとか。われわれは『雁」を読んで、学生の岡田に対して、若き日の森林太郎ではないかと思っているが、実は鴎外の立場は金貸しの半造だったのであり、高利貸が氷菓子のメタファーとはさすがですね。

西原 もし、『雁」を書いた背景にそんなことがあったならば、読者は完全に手玉に取られたということですが、そこまで読みぬく読者も少ないでしょう。いずれにしても、森林太郎は出世のために多くの人を裏切った。その代表が脚気で死んだ多くの兵隊であり、陸軍の衛生問題の責任者が持つ偏見と自己主張のために、戦死ではなく病死としたのだから気の毒な限りです。
 当時はビタミンについてはまだ知られていなかったが、ビタミンBが完全に欠乏すると細胞のミトコンドリアが働かなくなり電子伝達系が止まって、シアンや一酸化炭素中毒と同じように、心臓が停止して死んでしまう。それが森林太郎の「白米万能王義」の犯罪です。乃木将軍は森のベルリン時代からの親友で、この「白米主義」を信じたので兵隊が脚気で倒れた。乃木将軍は二〇三高地のまずい作戦による責任を感じて、明治天皇に殉死している。いうならば、結果として、乃木将軍は森が殺したようなものです。


『高瀬舟』にみる鴎外の倒錯した妄想

藤原 乃木さんの殉死のショックを契機にして、森鴎外は『奥津弥衛門の遺書』のような殉死を扱った作品を書き、その後は本格的な歴史物に手をつけた。また、評伝を書いたから鴎外は日本を代表する作家になり、文豪としての栄誉にも輝いたことになった。

西原 でも、彼が本当に文豪の名前にふさわしいかは疑問です。文学という狭い世界の中に閉じ籠もっていた若い頃の私ならば、森鴎外に感心して愛読することもできたが、本職の医学における彼の無責任さを知り、その人となりがわかった後は読む気もしません。

藤原 文学らしいものは明治になって始まったが、その代表が留学体験を持つ夏目漱石と森鴎外です。2人は時代を超えていたので高踏派と呼ばれたが、文学という面では日本は小説だけの国であり、バルザックはおろかトルストイやドストエフスキーもいません。だから、近代的な国づくりを始めた日本にとって、文学という領域で森鴎外が果たした貢献は、どうしても高い評価をしなければならない。また、それなりの仕事は残していると思います。

西原 だが、不毛な日本で文学としては一流だからといって、彼が人間として一流だったわけではないし、医師としても二流だった事実は確かだと言える。

藤原 森鴎外はそういう自分の実態を意識していて、それを『妄想』の中に自己批判の形で表現し、「自分のしていることは役者が舞台に出て、ある役を勤めているのに過ぎない」と書いている。だから、鴎外は自分がやっている仕事は仮のもので、その背後には何かがいて振り付けをしている。その脚本に従って芸を演じたのが自分だった、と慙愧の思いで意識していたと思います。

西原 軍医としての森林太郎は演技の中で生きた男であり、先進国のドイツに留学して最新知識を学んだので、自分には権威が備わっていると思っていた。だが、実際の彼は非常に視野が狭い医者であり、語学の能力が優れていたので文章は上手だが、人間的には性格が捻じ曲がっていた。そのために、次々とトラブルの種を作る気の毒な人でした。

藤原 彼の性格が捻じ曲がっていたのではなくて、ラジカル(根源的)にものを考えたせいで、それが天邪鬼のように見えたのだと私は思いますが……。

西原しかし、そうはいっても性格的に素直ではない。彼は弟の縁談を妬みのためにぶち壊したこともあるし、次男が悪い百日咳で死んだのに感染して、長女が喘息で苦しんでいるのを見て、安楽死させようとしたこともある。それを、舅の荒木博臣に強く叱られた事実もあるのです。その時の経験を捻じ曲げて小説にして、自己弁護のために『高瀬舟』を書いている。自殺して死にそうな人を幇助して罪人となった男が、小説では高瀬舟で牢屋に入ったことを感謝していると言わせて、実に倒錯した筋に仕立てているのです。

藤原 そうでしたか。『高瀬舟』は安楽死についての問題提起だとして、この作品を高く評価している人もいるが、先生は逆に屈折した鴎外の性格を読むわけですね。

西原 鴎外は罪人の口を借りて、「牢屋に入ったら、こんな良い生活ができた」と言わせているが、江戸時代の牢屋には阿漕な牢名主がいて、よほど丈夫な者しか生き残れなかったのです。それを「牢屋では食事も出た上にカネまで貰った」と感謝させている。これは倒錯した妄想が作り上げたフィクションであり、森林太郎は医する心を失った無能な医者として、心の中に鬱屈した劣等感と憂欝があったのでしょう。

藤原 精神分析に基づいた文芸批評をまとめて、森鴎外の秘められた伝記を書いたら面白そうですね。夏目漱石までは民間人だから試みられているが、森鴎外に関しては小倉の左遷を論じる程度です。
 同級生だった小池正直や海軍の高木兼寛に向けた、森林太郎のコンプレックスを主題にして明治の軍事史を書いたら、画期的なものが書けそうですね。

西原 森鴎外がいかにろくでなしだったかという、『鴎外外伝』でも書きましょうか(笑)。


山県有朋にすりよったのは何故か

藤原 先生がそれを執筆する時に忘れないでほしいのは、あれだけ反骨姿勢を取った森林太郎が、なぜ権力の権化だった山県有朋に擦り寄り、卑屈な態度で晩年を過ごしたかについてです。確かに、山県は陸軍のボスとして君臨しており、そのうえに枢密院から貴族院や警察まで支配して、森林太郎にとっては雲の上の人のはずです。また、通説では友人の賀古鶴所に誘われたというが、日露戦争が終わって戦場から帰ってきた森林太郎は、和歌を通じて急速に山県有朋に接近して、まるで幇間のように身を屈めて追従している。

西原 それは同じ長州の軍人としての連帯意識から、自分の立場を守る強力な庇護を期待したせいでしょう。それでも彼は長州閥の中心にいながら、爵位が与えられなかったのは何故でしょうか?

藤原 森林太郎が生まれた津和野藩は長州藩の隣ですが、小さいけれど長州藩とは別であり、自己の思想で独立した立場を貫きました。だから、森が陸軍省に確固とした立場を作るために、個人的な利益で山県を利用しただけです。ところが、軍医としての森の失敗は脚気問題が致命的です。それを知っている人は森軍医の責任を熟知していたから、爵位に関してはそうスムーズではなかったはずです。
 むしろ、私は「和歌」に問題の鍵が潜むと思っている。それをいつか小説に仕立てようと考えたことがあって、祖父にまつわる情報を集めたのですが、私が若すぎてテーマが未だ熟していないために、もう20年以上も放置したままになっています。

西原 それはどういうことですか。

藤原 しゃべってしまうと発酵しないで終わりそうだが、せっかく今日は鴎外について議論をしたから、ちょっと脇にそれるかもしれないが、私が暖めてきた筋書きを披露することにしましょう。
 祖父は森林太郎の後輩として藩校に学び、廃藩置県と廃刀令で挫折してぐれたらしい。それで、鶯を取り竿で捕まえるような人生を送り、世捨て人だったことはさっきしゃべりました。祖母や母から聞いた話だと祖父は拗ね者で、武士の子として刀を振り回すガキ大将であり、近所の子供たちに恐れられていたが、5歳の時から百人一首を取って歩いたことから、「小倉山の謙助」と呼ばれていたそうです。だから、医者の子供で頭がよくてガリ勉タイプの森林太郎は、年下の私の祖父にいじめられた可能性があり、若い頃の西周は 吉田家で勉強した形跡も残っているし、西家と森家は藩医として姻戚関係があります。

西原 そのへんの時代考証をしっかりやることが、小説を書くうえで非常に重要な作業になりますが、米国に住んでそれをこれからするのは大変ですね。


少年期のトラウマと隠し続ける死因

藤原 物語が入ったビンの栓を抜いてしまった以上は、誰かがこの話を作品に組み立てればいいのです。松本清張が『ある小倉日記』で芥川賞を取った時に、私は森林太郎が故郷に近い小倉に3年も住んでいたのに、なぜ津和野を訪れなかったのかについて、松本が触れていないのを不思議に思った。小倉から津和野までは半日で行けたが、小倉という嫌な語感に繋がる町に駐屯しているし、幼い頃の屈辱感の原因だった「小倉山の謙助」がいるから、津和野は森林太郎にとっては鬼門になる。だから、結局はその後も津和野には行かなかったし、遺言に「石見の人森林太郎」と書いても、「津和野の人」と書かなかった理由もわかる。津和野には子供の頃の嫌な思い出があって、それが彼にとって生涯のわだかまりになっていたのではないか。自尊心を傷つけた古傷のせいで津和野を嫌い、生涯にわたって故郷を訪れなかったのであれば、私の爺さんは森林太郎にとって悪夢的な存在です。

西原 子供の頃に受けた心の傷(トラウマ)は劣等感になり、その人の一生に付いて回ることは確かです。しかし、何が森林太郎の心を傷つけたのでしょうか。

藤原 鴎外の評伝を書く人は「浦上崩れ」に注目して、乙女峠のキリシタン弾圧と処刑のせいで、森林太郎は津和野を嫌ったと主張しているが、これは幕府の命令に従った追害だったから、津和野藩を恨む理由としては弱すぎる。しかも、森林太郎にとっては間接的な経験だし、彼が直接に受けた屈辱感として封印したのは、秀才少年に対してのいじめだと思うのです。

西原 藤原さんの祖父が町のガキ大将だったから、青なり瓢箪≠フ森林太郎をいじめた記憶のために、鴎外が津和野を嫌ったとしたら新説でしょうね。

藤原 それ以上に重要だったのは百人一首の話であり、森少年は「四書五経」を学んで漢籍に優れていたが、年下の吉田謙助が百人一首の取り手だったので、和歌においてはとても太刀打ちできなかった。だから、その劣等感が潜在意識に定着していて、それが山県有明の和歌を詠む会に森が参加したのだし、古い傷を癒すうえで、役に立ったのかもしれません。

西原 その線は説得力の点でちょっと弱い感じがします。しかし、森林太郎の性格として、嫌なことは絶対に伏せている。
 彼の死因は一般には萎縮腎だとされているが、実は伝染性が強い左肺の結核だった。当時の結核は死の病として嫌悪されており、残された家族が周囲から嫌われるのを恐れたので、自分の病名は親友の賀古だけに教えたが、後は主治医と医者である義兄だけが知っていた。それで、死後30年以上も秘密は保たれていたのです。

藤原 それに関連して知っておく必要があるのは、森の親戚で世話になっている西周のことです。西と一緒にオランダヘ行った幕府の留学生の中に、赤松大三郎(則良)と榎本釜次郎(武揚〕がいた。赤松則良は造船学の大家として海軍で栄達し、榎本武揚は名外交官として活躍したが、オランダ仲間の赤松と榎本の妻は姉妹でした。しかも、森が無理矢理にエリスと別れさせられて結婚した相手は、赤松則良の長女の登志子だったのです。西が仲人をしたが、一年余りで離婚に終わっており、西周との関係にも屈折したものが残ったのです。


紳士の仮面をつけた俗物♂ィ外

西原 若気の至りで脚気を伝染病と考えた森は、ドイツ語で論文を書いたことを得意に思って、せっかく陸軍が麦飯を採用したというのに、「脚気が減ったのは伝染病の流行が終わったからだ」と言い張って、「白米至上主義」を無理強いし続けた。また、日露戦争の時には前線の軍医や将校たちによって、麦飯による給食の提案があったにもかかわらず、森は海軍に対して反発する気持を抱いていたし、最先端のドイツ医学を学んできた自負のために、強引に問違ったやり方で多くの兵隊を殺した。だから、次には自分の誤りの隠蔽に終始したのです。彼の人生の後半が後ろめたさを伴い、爽やかな気分になれないのは当然です。鋭敏な人にはその暗い影が読み取れるのです。

藤原 しかも、それに少年時代のコンプレックスが加われば、どうしても爽やかな気分にはなれませんよ。

西原 そうです。しかも、乃木将軍が殉死したことにショックを受けて、森林太郎は歴史小説を熱心に書き始めた。
 また、若い頃から上昇志向が強烈だったこともあって、その後は最高位の軍医総監にと栄達した。森林太郎が、脚気問題の隠蔽の工作をし続けたのは当然ですね。

藤原 森鴎外の文章は上手だというほどでもないし、考え方において思想の独創性はない。だが、低俗を排して文体と言葉遣いが端正だから、今頃の作家の幼稚な文章とは風格が違う。それが多くの読者を満足させているのです。最近の日本の作家は饒舌になり過ぎたために、トルストイなら「彼はその日の午後に放蕩した」と書き、わずか一行の記述ですませてしまうことを一冊の本にして、その売り上げで食う薄利多売主義に走っている。その点では森鴎外は日本的なタイプの大文豪ですよ。

西原 まあ、それはそれで各人の好みだからいいでしょう。ただ、私は医者として人々の健康を守るのが仕事だと思うから、自分の診断や処置が間違っていたとわかれば、間違っていたところを明らかにして訂正するし、それがプロとして守るべき倫理だと考えます。ところが、軍医としての森林太郎にはそれが欠けていて、文豪という虚飾に逃げ込んでしまっている。この誤魔化しを日本人が放置しているので、私は医者の立場からの批判を加えてみたわけです。 そうしたら藤原さんがお爺さんの話を持ち出し、ガキ大将にいじめられたことが森少年のトラウマになり、百人一首を取って歩く故郷の子供のイメージが、森鴎外の和歌に対しての傾斜を生んだという。世の中は実に面白いと痛感した次第です。

藤原 森鴎外は確かに日本における文豪だが、彼の歴史評伝が優れているといったところで、注目に値するのは『渋江抽斎』だけであり、『井沢蘭軒』も『北条霞亭』も実に退屈な作品です。森鴎外が書いた史伝小説の中身よりは、彼の言う「歴史離れ」ということのほうが、文学的にははるかに興味深いと私には思えます。
 また、彼が言った「普請中」とか「かのように」という表現が、森林太郎が生きた時代精神を表現しているし、現在にも通用する優れた洞察を含んでいるので、文明評論家としての側面は非常に興味深いです。

西原 でも、脚気を医学的に間違った理解をしたことで、たくさんの兵隊を殺したのに口を噤んだことは、文明における医学史上の大失敗と言うべきです。

藤原 それに、彼は爵位をもらえなくて反発したらしいが、そこに木っ端役人的な名誉欲が読み取れるし、人間的には官僚的な反動主義者だった。いくら日本の他の作家が戯作者に属すとしても、鴎外を安易に「高踏派」とするのはよくありませんよ。

西原 一言で要約すれば「紳士の仮面をつけた俗物」です。彼は外国語の能力があったから優れた翻訳者であり、言葉の面では比較的に誤訳が少なかったが、概念の理解はかなりいい加減だった。その点で、日本文学の本質と繋がっているのでしょう。

藤原 それは文学に限らず日本の輸入品の特徴であり、科学や芸術をはじめ医学も技術もすべてが舶来物です。独創的な発想をする人は西原先生のように、黙殺とか村八分にされてしまうのが日本です。だから、学問の多くが未だに横のものを縦にしたに過ぎず、現在に至っても「普請中」ということになり、森林太郎の青春時代は今に続いている。
 ということで、どうやら結論が出たような感じですね。興味深い議論ができて、どうもありがとうございました。


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