『岳人』 1994.08月号
中学生時代に丹沢の沢歩きで始まった私の山行は、十代の終わりには北アルプスに舞台の中心が移っていった。そして、毎月のように穂高連峰を訪れていた様子が、この時期に綴った文章(『山岳誌』東明社刊行の復刻版)に残っている。 「20日おきに穂高にやってきて、一週間も山の中をうろつきまわって、そのあげく、やっと東京に帰っていく・・・。 こんな不埒なことが、たてつづけに四回も続いたとなると、学校の成績は、きっと黙っていませんよ・・・。」 (『山岳誌』第三部より) しかも、懸想したのは滝谷の岩場であり、その思い入れは十代の恋心にも似ていた。明るい牧神の午後の陽ざしを浴び、快適な登攀を楽しめた滝谷のあの個性的なルートは、山の高みで満喫するパラダイスの醍醐味だった。鋭く切れ落ちた男性的な岩稜には、カンテやクラックの息も詰まるイニイエーションがあったし、稜線を眼前にした憩いのひとときに、どれほど満ち足りた時間を味わったことだろうか。 「岩稜の登攀。 こんな格好で岩にへばりついている姿を母さんがみたら、どんなまなざしで見つめることだろう・・・? 後日譚 母さんとも一緒に登れるか。滝谷第四尾根のA・B・C・Dの名カンテ。クラック尾根のあの快適さ (『山岳誌』第一部より) その後、渡仏してグルノーブル大学で地質学の論文を仕上げたが、ドフィーネ・アルプスは私にとって新たな穂高連峰になった。 1960年代半ばはウィンパーの初登頂が百年目の頃で、フランス第二の高峰バール・デ・ゼクランには、フランス山岳会員として記念登攀にも加わった。だが、この時期の私を魅了したのは、何といってもラ・メイジュだった。 地質のプロになってからは、全世界の山や砂漠が仕事場だったが、主体は氷河をまとったカナダのロッキーの雄峰だった。 四十代に気持ちが鎮まって山岳巡礼が始まった。青春時代に血潮を涌かせた山々を見てもらう意味で、東京に一人住む母をヨーロッパや北米に招き、かつての岩場を一緒に眺めるために、ベラルド、シャモニ、ツェルマット、グリンデルワルト、ジャスパーなどの逍遙を楽しんだ。そして、過ぎて行った日々。 米国に住む私の所に、突然だが母の訃報が届き、大あわてでロッキー山脈と大平洋を飛び越えて故郷の東京に駆けつけたところだ。火葬直前の母と最後の対面を済ませ、墓所の松江で納骨するために私は伯備線の車中でペンを執っている。 車窓を伯耆大山の山裾が移り過ぎ、目をあげると頭上の網棚に白布包みの母の遺骨の箱がある。網棚、そして岩棚。最後の岩棚のあとには頂上の憩いのひとときが待っていた山行の数々が、走馬灯のように脳裡を横切っていく。 老いたゲーテが青春時代を思い出した山頂の憩いのことばが、網棚と岩棚の結びつきで私に過去の山行の想い出を蘇らせる。 息子の遭難をいつも心配していた頃の母を思い起こすと、親に先立つ不孝を犯さなかったことが、私に出来た人生最大のチャレンジだったという感慨が涌き上がる。 あと30分で母が父の隣で永眠する松江の町に到着だ。人生の頂を登り詰めれば、それから後はくろぎの時間の継続になるのだと思うと、今年の夏はベラルドを訪れてラ・メイジュに登ろうかという気持ちになってしまう。
ドロミテのチマ・グランデを登り終えて(1970年代) | ||||||