近代日本の基盤としての「フルベッキ山脈」

人材育成が東亜ルネッサンス≠ヨのキーワード

小島直記(伝記作家) vs 藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)



韓国の晩餐会で受けたショック験

小島:藤原さんの生活の中心は、アメリカのカリフォルニアですか。

藤原:まあ、そう言ってもいいのですが、月のうち半分は世界中を雲水のように旅をして、会いたい人や訪れたい場所へ行く生活をしているのです。私は20年ほど前までは石油会社を経営していたが、それを最後に半失業者みたいになりましたから、自由な時間を好きなようにいくらでも作れるので、もっぱら旅をすることで余生を楽しんでいます。

小島:それは羨ましいですね。私も昔から旅行するのが大好きです。体の自由さえ許せば大いに旅をしたいのですが、70歳のときに直腸ガンの手術をしたので、後遺症のために歩くのが不自由な体になってしまいました。だから、70の坂を自分の足で歩くこととの闘いで過ごし、今は80の坂をユックリ歩み続けていますが、わが身の衰えに耐えて生きることで、老いて挫けないで生きる意義を実感しています。また、ビジネスを20年前に辞めたとおっしゃいましたが、なぜ40代に仕事の一線から身を引いたのですか。

藤原:42歳のときに韓国の大韓石油協会に招待されまして、年次総会のオープニング講演でソウルに行き、ものすごいショックを受ける体験をしたのです。当時の韓国は全斗喚大統領の軍事政権下で、民間企業でも社長や副社長のほとんどは元軍人であり、財界人や政治家たちの接待を受けました。
 ある日の晩餐でひとしきり話題に花が咲いてから、日本語がとても上手な申さんという元自動車会社の会長に「藤原さんいくつだね」と聞かれた。「42歳です」と返事をしたら、「40過ぎてビジネスをやっているのは人間のカスだよな」と言うのです。それを聞いてムッとした私は座りなおして、失礼な言い草に反論しようと身構えました。なにしろ、人生の夢であるテキサスで石油会社を起こし、これから大々的に石油開発をしようと意気込んでいたので、コチンと来たのです。
 そうしたら、私が反論する前に申さんがしみじみした口調で、「40歳を過ぎて人類のためになることをしなかったら、生きている甲斐がないよな・・・」と言ったのを聞いて、ハンマーで殴られたような衝撃を味わったのです。韓国にこんなことを言う人がいると夢にも思わなかったし、物質主義のアメリカの生活に慣れ親しんでいた私は、人類のために生きろと言われて愕然としました。

小島:よくもまあ、そんな意表を突くような発言をしたと思うが、考えてみると実にまともな考え方ですね。相手にそれだけの発言が出来る基盤があるなら、実にすごい思想の持ち主だと言わざるをえない。明治が遠くなり覇気を持つ人が少ないとはいえ、今時の日本にそんなことをズバリ言う人はいないから、あなたのショックの気持ちがよくわかる。

藤原:実践に裏打ちされた骨のある発言あったと知って、申さんの言葉の意味することを噛み締めて味わいました。

小島:そんなにあっさり相手の発言を承服したのは、具体的にどんな裏づけがあったのですか。

藤原:申さんは両班(朝鮮の貴族)の家系の出身であり、小学生のときに学習院に入ったが、いじめられて一年だけで朝鮮に戻ったそうです。そして、朝鮮戦争で破壊された民族文化の遺品を集めたり、戦後は新聞社の幹部を経て実業界に入って、自動車会社のトップになった経歴の持ち主です。しかも、自動車メーカーの会長を40歳で辞めて、全財産を投げ出して奨学金財団を作り、韓国経済研究所まで設立していたのです。

小島:なるほど。財産を投げ出してそういうことをした人なら、人間として極めて大きな視野を持っているうえに、優れた発想の持ち主であると考えられる。財産を築いたりビジネスを大きくするだけでなく、自分が築いた資産の使い方を心得ている点で、きっと素晴らしい志の持ち主なのでしょう。明治時代の日本にはそういうタイプの人がいたが、あの倉敷紡績を経営して社会問題研究所を作った、大原總一郎の韓国版を思わせる感じですね。


日本人は時間と中流意識の奴隷

藤原:申さんが実現していたことで興味深いのは、ソウル大学に隣接して4階建てのビルを作り、一階が事務所と談話室で2階を自習室、3階の図書室と4階が理事長室と応接間です。そして、申さんは経済界や官界の世話人として、遊軍的な役割で自由に動き回っており、面会したい人や外国からの客の相手をするし、余生を人材育成のために使っているわけで、このような生き方には感心させられました。

小島:昔から時間が最も賢明な相談相手だと言うが、そうやって時間を人に提供できる姿勢というのは、あらゆる人にとって最高のもてなしです。人間は偉くなるとどうしても忙しくなりがちですが、そうやって自分の自由な時間を確保して若い人材を育てるような人生を送れるとしたら、それは理想的な余生の過ごし方だと言える。

藤原:それはプライオリティの発想が出来るからであり、最近の日本は誰もが目先のことに忙殺されていて、時間も心のゆとりも失っている感じです。昔は日本に来たと電話すると向こうから私の日程を聞いて、それに会わせて駆けつける人が多かったが、最近は今忙しいので次はいつ来るかと聞く人が圧倒的に多い。日本人の余裕のなさが実に良くわかります。一日のうちで半分は自分の自由時間でないならば、それは時間の奴隷になっているに他ならない。人間には時間を支配する自由人と時間に支配される時間の奴隷がいると言うが、さらに言えば、最近の日本人は中流意識の奴隷ばかりです。

小島:それは名言だ。心に余裕のある寛ぎに満ちた生き方は、人生を果敢に生きる人だけが手に入れる報酬であり、生活に埋没したら心身の自由はないのです。日本文化には時間のゆとりを楽しむものとして、お茶を飲んだり俳句を作るという遊び心があったし、生活の中に散歩や旅に出る生き方があったが、最近はどうしても仕事で忙しすぎるために、心のゆとりを失いがちな人ばかりだ。人生は食べるために仕事をするのではなくて、有意義に生きるために食べたり仕事をするはずだのに、仕事しか生き甲斐でない人が増えている。社会が貧しくて働くことが不可欠だった時代なら、労働に全力をあげることも当然でしょうが、世界第二の経済大国になっているというのにかえって心のゆとりを失っているのなら、これは本末転倒だと言うしかない。

藤原:私は日本が経済大国だというのを疑問に感じて、25年前からそれを書いているのですが、あまり好感を受けなかったらしく、藤原は日本の悪口を言い過ぎると言われてきました。悪口と批判は全く違う精神の営みであり、批判は叱るのに似て愛情があるからやるし、理性的な判断に基づく行為に属する。これに対して、悪口は怒りに由来した非理性的な感情によるものです。なのに、日本人はその区別を明確にしない。

小島:カントの「純粋理性批判」にしても、フランス人たちが言うクリティックにしても、それはいい意味での批判精神の働きを示し、人間の理知の営みに属している。だから、昔の支配者が判断の誤りによる失敗を避けるために、良師と諌臣を持たなければいけないと言ったのは、ほめたり答えを教えるためではなくて、正しい判断による批判の重要性に由来するのです。それを悪口と誤解するのはとんでもないことで、自己批判や相互批判のないところでは、間違いを訂正するチャンスの放棄になってしまう。私が興味あるのは、どんな根拠に基づいて、日本が真の経済大国でないかという点であり、藤原さんの考えの説明を聞きたいいですね。


歴史のウソと空白部分に迫る

藤原:日本が経済大国だというのは相対的なことで、隣近所の国との差がありにも大きなために、日本が突出しているように見えるだけで、対等に近い立場で批判する国がないから、それが日本人を驕慢にする原因になっている。数学の世界では、問題の解決策は同じ次元にはなく、より上位の次元に解決策があると言います。だから、日本の問題を解決するには東北アジアでとらえ、東亜問題はアジア全体からアプローチして、アジアの問題は世界のレベルで解決策を探すのです。この公理を国際政治の世界に適用するなら、経済大国の虚像による日本の問題を解決するには、韓国や台湾の経済力を高めることによって、相対的に日本を普通の国に戻すことが可能だと考え、この両国の指導者の中に読者がいるのを活用し、意見の交換やアドバイスをしてきました。

小島:でも、一番重要だと思われる中国が入っていませんね。

藤原:中国にも何度か訪問して議論をしたのですが、あそこは援助を欲しがるだけで自助の精神に乏しく、すべてが官僚発想で弾力性に乏しい。私が時間を費やすに相応しい相手だと感じません。だから、レスポンスのあった韓国と台湾に限って、国づくりに役立つようなアドバイスをしたりしてきましたが、私の立場はあくまでも批判的な協力者であり、それをどう受け止めるかは相手側が決めることです。だから80年代は毎年のようにソウルを訪問したし、私の世界観に基づいて、韓国経済の発展のためにいろんな形での提言や批判をしましたが、それもソウルのオリンピックまででした。

小島:どうしてオリンピックという形で時間を切ったのですか。

藤原:韓国経済はオリンピック準備を通じて発展したし、社会のインフラ整備を通じて人材も育ったが、同時に日本に学ぶものはないという気分が高まり、民族意識の盛り上がりにつれて驕慢の度合いが目立ち、批判が悪口にとられることが増えました。しかも、日本で進行した経済バブルに目を奪われてしまい、いくらあれがバブルだと指摘して警告しても、真面目に耳を傾ける人が少なくなった。そんな状況に違和感が高まったのです。
 皆が目先のことに目を奪われい、目に見えないことに関心を払わなくなったため、見えないことに注目するのが好きな私の存在が邪魔になってきた。居心地が悪くなったのです。

小島:「帰りなんいざ、田園まさに荒れんとす」の心境ですね。
 藤原さんは若い頃フランスに留学しておられますが、フランス方面への旅行はいかがですか。

藤原:フランスには年に一度くらいの割合で行きますが、今はヨーロッパ全域が面白いだけでなく、地球全体が興味の対象になっています。だから、自分の足で歩き回れる元気な時を活用して、放浪を通じて観察を続けようと動いています。そうすると、自分の知らないことがありにも多いことに気づき、教科書や歴史に書いてあることの嘘がわかる。歴史を事実に基づいて書き直す必要があると痛感するのです。

小島:嘘は当然のことで書き改める必要があります。それより私が強い興味を持っているのは、歴史における空白部分に対しての目配りであり、この「歴史の落穂拾い」をすることによって、歴史の本質に肉薄することへの意義についてです。それをするのが伝記の役割だと考えて、私は人間が生きた足跡をたどって本を書いてきた。そこは多くの教訓を学べる宝庫であり、歴史的な事実の堆積よりもはるかに興味深い、人生の機微と歴史の精髄があると思います。


三宅雪嶺『同時代史』のスゴさ

藤原:日本の歴史は皇国史観や支配者のエゴで、意図的に歴史の捏造が行われて来た過去を持ち、その名人が私の家系に繋がる藤原不比等でした。そのために日本の古代史は支離滅裂ですが、それに等しい間違いが氾濫しているものに、幕末から明治の初期にかけての歴史がある。小説が歴史を僭称していることが原因で、嘘が虚構の形で罷り通ってしまっているために、われわれは祖父の世代の歴史に関して、本当のことを知らないでいると思う。だから、小島先生に書き直しの仕事をお願いしたいのです。あの時期の人物について多くの本を書かれ、伝記作家として時代的な背景を描きながら、そういうバックグラウンドと史眼を持っておられる点で、先生の右に出る人は先ずいない。

小島:そういう点では三宅雪嶺の『同時代史』がいい。彼は日本の歴史を自分が生まれた万延元年(1860年)から始めており、私は読書会でこの本を会員と一緒に勉強したが、実に偉い学者だと実感しました。

藤原:三宅雪嶺は強烈な国粋主義者だというので、私は彼の本をこれまで一冊も読んでいません。どんな風に偉いのかを教えていただけませんか。

小島:一口で言えば、それは彼が大学教授にならなかったことです。京都大学の文学学部長の話も歯牙にかけなかったし、博識で人格高潔な雪嶺は在野精神を誇り、言論人として無冠の帝王として生涯を貫きました。彼は東大の文学部で哲学を専攻しているが、在学中に教室ではなく図書館に通ったと言われ、そのシャープな頭脳には侠気が充満していました。『同時代史』が持つ比類ない素晴らしさには、いまどきの日本の歴史学者がどんなに逆立ちしても、あれだけのものを書けるとは思えません。民族の誇る宝だのに、惜しくも絶版のままです。

藤原:そんな凄い本が絶版で誰も知らないとは、日本人の歴史感覚が衰えている証拠ですね。恥ずかしながら、私もその本の存在を知りませんでした。

小島:三宅雪嶺は当事者の手紙を資料に使っており、明治時代は人と会った後は必ず手紙を書き、会見内容をきちんと整理しておく習慣がありました。だから、この手法を活用することで事実をきちんと押さえ、歴史とはこういう構成で組み上げるのだと、自ら歴史に取り組む姿勢を明示しているのです。その点では、出まかせを並べ立てて平然としていた徳富蘇峰などは足下に及ばないし、言論人としての信念も思想も格が違う。

藤原:徳富蘇峰は変節漢だけでなくインチキ男です。権力に懐柔されて御用言論人になってしまい、政府のプロパガンダの旗振り役でした。だから、弟の徳富蘆花からも変節を理由に義絶されており、行き着いたところはファシストの権化でした。三宅雪嶺が歴史の資料に手紙を活用したように、マリアス・ジャンセンも『坂本龍馬と明治維新』(時事通信社刊)の中で、手紙を使って心理分析と状況判断をしており、幕末から明治維新にかけての時期を描いたものでは最高です。続いて大仏次郎の『天皇の世紀』(朝日新聞社刊)があり、その次には奈良本辰也が書いた各種の歴史評論がある。その後に、萩原延寿の『遠い崖』(朝日新聞社刊)や村松剛の『醒めた炎』(中央公論社刊)になる。しかし、小説は10位以下というのが私の判定です。

小島:小説はフィクションとして読者に迎合するから、どうしても面白くしなければならないので無理がある。あれだけ国民に人気のある司馬遼太郎でも、かなり嘘を書いているのに、読者はそれに気がつかないで、小説を歴史と取り違えている。小説を書くときの悩みはそれをどう克服するかであり、そこに小説や文学の限界を感じた。そのために、私は同じ小説でも伝記を書くことに人生の路線を改めました。そして、人間を描くことを通じて彼が生きた時代に迫り、歴史の空白部を埋めることができないかと思って、これまでなんとか仕事を続けてきたが、雪嶺の『同時代史』を読んだ時には衝撃を受けました。


幕末史で見直すべきフルベッキ

藤原:三宅雪嶺から徳富蘇峰の話になったので、蘇峰が熊本バンドだった熊本洋学校のことになりますが、これは幕末に渡米した横井太平の発案で、欧米文明を学ぶために作られた学校です。横井太平は長崎で英語と文明を学び、G・H・F・フルベッキのアドバイスに従って、兄の左平太とともに、1866(慶応2)年に米国に私費留学しているが、二人は蘇峰と同じで横井小楠の甥に当ります。しかも、横井小楠もフルベッキから西欧思想や国情を教わり、開明思想を確立する上で大いに役立てている。また、小楠の先見性を最も評価したのが勝海舟です。

小島:そうですね。幕末の歴史で日本人に与えた影響が大きいにもかかわらず、外国人の役割評価が低いが、これまで看過されて来た人としては、アーネスト・サトウとフルベッキがいると思います。英国の外交官のサトウは『一外交官の見た明治維新』を書いたし、西郷吉之助や桂小五郎などと親交を結び、日本文化や日本史の研究において、非常に優れた観察と分析を残しています。

藤原:だが、アーネスト・サトウが書いた記録の中には、長崎における出来事はあまり書いてありません。でも、主に江戸や京都を舞台にした外交交渉を始め、討幕運動についての記録が多いだけに、表の歴史の落穂拾いにはとても役に立ちますね。

小島:サトウが活動した当時の外交交渉の性格からして、歴史の中心は長崎から東西の都に移っていたので、ペリーが訪日してからは長崎の重要性が低下した。それは福沢諭吉の人生のパターンからも言えることですが、人材教育の面でフルベッキを中心点に置いて、明治になって活躍した日本人を捉える観点で見れば、彼の存在が重要だったという意見に大賛成です。

藤原:横井小楠の二人の甥が渡米していますが、兄の横井左平太はアナポリスの海軍兵学校に入学しています。また、勝海舟の長男の小鹿もフルベッキの手配でアナポリス海軍兵学校を卒業しているが、残念ながら二人とも結核のために若死にしています。もし、帰国後にこの二人が海軍の中核になっていたら、日本の明治の歴史はずいぶん変わっていただろうし、海軍が陸軍に従属しなかったかも知れません。

小島:海軍が英式から米式に変わったかもしれないし、アメリカ海軍の恐ろしさを日本人に伝えるうえで、大いに貢献したということも考えられる。それにしても、当時の結核は現在のガンに似て不治の病でして、有能な人材が結核で倒れて若死にしており、血を吐いて肺病を呪った俳人の正岡子規にしても、徹底的に生命力を消耗させられています。

藤原:フルベッキは岩倉具視の二人の息子に英語を教え、彼らをアメリカに留学させるために手配をしており、旭小太郎(岩倉具定)と龍小次郎(岩倉具経)の兄弟は、ラトガース大を卒業して明治の顕官になっています。その関係もあり、岩倉遣欧使節団の派遣も、フルベッキのアドバイスが計画の基にあって、近代化に大きな役割を演じているす。

小島:フルベッキは大隈重信と副島種臣の先生として、万国公法やアメリカの独立宣言を教えているし、明治になって東京に招聘され、大学南校の教頭に就任している。フルベッキが南校の構内に住んでいたので、そこにいた高橋是清は彼から歴史を学んでいるし、聖書の講義を受けてキリスト教の信者になったことが、『高橋是清自伝』(中公文庫)の中に書いてある。高橋是清までがフルベッキ人脈かと驚きました。

藤原:小島先生の本の中には、あちらこちらに、フルベッキ博士の名前が登場している。先生はそういったバックグラウンドをすでにお持ちだから、幕末から明治半ばにかけての歴史として、フルベッキ人脈を中心にまとめてほしいのです。この歳でそこまでできないと言われるでしょうが、それをやれる日本人は先生の他にいないのでしょうか。


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