「彷徨えるオランダ人」の偉績を呼び起こせ

近代日本の基盤としての「フルベッキ山脈」

小島直記(伝記作家) vs 藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)



人材教育が導いた幕末の改革

小島:私は80代の半ばという年齢に達しているから、新たな挑戦の仕事はもっと若い人に任せて、側面からのアドバイスをする程度がいい。しかし、フルベッキ博士を中心に明治の歴史を書く仕事は、言うまでもなく実に興味深いものです。岩倉具視の息子たちまで留学させたことからもわかるように、教育者としての彼の貢献は偉大でした。長崎で生まれてフルベッキに英語や歴史を習った人には、枢密議員議長になった伊藤巳代治をはじめ、郵便制度の父と呼ばれる前島密もいる。長崎における教育者としてのフルベッキは、確かに明治の人材に絶大な影響を与えています。

藤原:教育者として人材を育てたという視点が重要であり、西欧文明に根を生やすフルベッキという幹から、横井小楠をはじめ大隈重信や勝海舟の枝が伸びた。そして、幕末にかけて育った人材が葉や花となって、われわれに近代国家の果実を約束したのに、普仏戦争の幻想に迷ったプロシア派の日本人が、ドイツ産の幹を接木したのは悲劇でした。

小島:藤原さんも私もフランス派に属す日本人だから、プロシアの仇をフランスで討つにしても、フルベッキ先生はオランダ系のアメリカ人です。確かに、日本がプロシアに幻惑された最大の理由は、軍事力と工業力という目に見えるものだったが、フルベッキは宣教師として日本を訪れたのであり、目に見えない影響力で文明の精神を伝えたのです。

藤原:そうですね。私は日本人では佐久間象山と横井小楠を敬愛していますが、横井小楠の場合は富国強兵だけでなく、それに士道を加えた三本柱で考えており、「国是三論」の思想を構成しているからすごい。富国・強兵・士道の三本柱がヨーロッパ精神で、富国強兵だけで終わったのがドイツだと私は考えており、日本がドイツ派に席巻されると発狂するのです。
 これは『日本脱藩のすすめ』(東京新聞出版局刊)に引用しましたが、英国の歴史学者のA.J.P.テーラーは『ヨーロッパ・栄光と凋落』(未来社刊)の中で、「ドイツ人は合理的秩序を保つために、常に鉄のような規律を求めてきた。ドイツ人はこの枠組みがなくなるとニーチェのように発狂する」と書いているように、今の日本でもドイツかぶれが発狂し始めています。士道は志道≠ナ正しい政治をするということであり、横井小楠の思想の高邁さと広さに感銘して、人をあまり褒めない勝海舟でも絶賛している。幕末から現在まで日本では、士道が行方不明なのです。

小島:武士道ではなくて小楠の言う士道は良いですね。英明君主といわれた越前藩主の松平春嶽に三顧の礼で迎えられて賓師になった小楠は、実学を通じて経世済民を実践することを通じて、優秀な人材を数多く育て上げた。その弟子として藩の財政立て直しを実行したのが、机上の学問ではなく実地調査を行った三石八郎であり、彼は由利公正と改名して明治政府に出仕しています。彼は五か条の誓文原案を書いているが、有名な第一条の「万機公論に決すべし」という言葉は、横井小楠の思想を受け継いだものです。

藤原:勝海舟はその横井小楠を義弟の佐久間象山より評価していた。小楠はフルベッキの世話で甥をアメリカに留学させたが、海舟も息子の小鹿を、海軍が重要だからとアナポリスに入学させるために、渡米させたのでしょうね。

小島:そうでしょう。勝海舟は大ボラ吹きだったから信用がなく、奥さんは一緒の墓に入るのを嫌がったそうですが、坂本龍馬は日本一の偉い人と尊敬して、この海舟に弟子入りしたのだから面白いです。また、海舟に会う前の龍馬はコチコチの攘夷論者で、開国論を唱える勝の暗殺を考えていました。そこで、幕府の政事総裁だった松平春嶽に面会し、勝への紹介状を書いて欲しいと頼んでいます。

藤原:幕府の政事総裁といえば首相の立場だが、当時の厳しい身分制度の壁があったのに、どうして龍馬が面会できたのか実に不思議です。脱藩した一介の浪人である龍馬が会って、紹介状まで書いてもらったというのは、普通ならとても考えられないことですね。

小島:面会して紹介状まで書いてもらった話は、ことによると小説の中のことかもしれません。もし事実なら松平春嶽の包容力の証拠であり、龍馬が海舟を殺そうとする気配を知りながら、あえて紹介状を書いたなら大した心意気です。しかも、龍馬は海舟に会って攘夷思想の愚かさを知り、勝海舟に弟子入りして開国派に転向し、同時に横井小楠に傾倒して指導を受けた。それで人物としてさらに大きく成長していくのです。


龍馬もフルベッキに学んだ?

藤原:坂本竜馬がフルベッキに学んだとは誰も書かないが、あれだけ好奇心の強い竜馬のことだから、彼が長崎で海援隊を動かしていた時期に、頻繁にフルベッキの塾に出入りしていたはずです。長崎奉行所が作った済美館と佐賀藩の致遠館は、ともにフルベッキが校長として教えた教育施設だし、致遠館の逸材が大隈重信と副島種臣でした。だから、大隈が創立した早稲田大学は致遠館が源流で、明治になると、東京に招聘されたフルベッキが大学南校の教頭に就任している。私学と官学の源流に立つ人だったわけです。

小島:しかも、フルベッキから聖書と万国法を学んだ大隈は、明治初年に大阪でキリシタン禁制の談判が行われた時に、英国のパークス公使と大激論をしており、正々堂々と渡り合って相手を感心させています。その話は『一外交官の見た明治維新』に書いてあるが、「初めて顔を見知った大隈八太郎という肥前の若侍が、自分は聖書や祈祷書を読んでいるから、この問題は十分に心得ている、とわれわれの面前で大見得を切った」というのです。この談判が評価を受けて三条実美に抜擢され、大隈は外務次官(外国官副知事)になり、明治政府の官僚として出世街道を駆け上ります。彼は築地本願寺の側に大邸宅を構えたので、そこに豪傑が集まり築地梁山泊と呼ばれたが、大隈邸の隣の小さな屋敷が伊藤博文の家で、その門内の長屋に井上馨が住んでいたのを見ても、いかにも大隈が時めいていたかよくわかります。

藤原:国家としての日本の出発について、廃藩置県や教育制度の整備などが実施され、富国強兵が政策の中心になったという具合に、習いましたが、そういう明治の初め頃の人間関係については、歴史として読んだ記憶はあまりない。日本の歴史は皇国史観や薩長史観に支配されたので、薩長の連中にとって重要だとされたものだけが主体になって、維新以降の歴史が書かれていると考えるのは、江戸っ子の私のひがめでしょうか。

小島:私は九州の福岡県で生まれた人間だから、そんな感じがしないこともない。ただ、東京の人は地方の出身者に偏見を持つから、東国政権としての徳川幕府を倒した薩長の人間に対してとくに反発するのでしょう。

藤原:そういわれると図星だから参ってしまいます。でも、明治政府を支配した長州系の権力者の多くが、吉田松陰の松下村塾の出身者だから、松陰を偉大に描きすぎていると思うのです。確かに、松下村塾からは高杉晋作をはじめとして、伊藤博文や山形有朋などが出ているし、彼らは奇兵隊を指揮して立身出世しています。また、吉田松陰が教育者として孟子をテキストに使い、人材を育て上げたことに関しては評価するが、松下村塾はある意味でテロリスト養成所として、タリバン(神学塾生)に似ているのではないかと思います。

小島:アフガンのタリバンとの比較は奇抜なだけでなく、タイムリーな発想でとてもわかりやすい。しかし、吉田松陰の信奉者たちが聞いたら怒るでしょう。でも、松下村塾の四天王と呼ばれて皆の尊敬を集めていた高杉晋作、久坂玄瑞、吉田栄太郎、入江杉蔵ら全員が、御一新が完成するのを迎える前に斃れています。また、佐世八十郎(前原一誠)は新政府で陸軍大輔になったが、辞任した後で萩の乱の首謀者として処刑された。生き残って明治政府で栄華を極めたのは、足軽出身である伊藤博文と山縣有朋でした。

藤原:この二人は奇兵隊の指揮官として足場を築き、有能な先輩がどんどん死んでいったおかげで、明治になってから位人臣を極めています。また、伊藤の場合は幕末のロンドンに密航して渡り、半年ほど滞在して英国の社会を体験しています。

小島:伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)が訪英したのは、福沢諭吉が訪欧から戻ってから半年後の1863(文久3)年であり、ロンドンで下関砲撃のニュースを聞いたので、大急ぎで帰国したのに英語はかなりできたようです。それからは長州征伐の混乱期だったので、二人は銃の手配に長崎に何度も出かけて、武器商人のグラバーや坂本竜馬と取引しており、このへんが歴史のエピソードとして面白いところです。


忘れ去られた近代日本への影響

藤原:ちょうど蘭学から英学に移行する時期に当たり、フルベッキはその橋渡しの役目を果たしたが、福沢諭吉も一歩先んじてその体験をしています。

小島:福沢諭吉は長崎で蘭学を学んで大坂に出て、緒方洪庵の適々斎塾で学び塾長になるが、藩命で江戸に行って蘭学塾を開く。ところが、ある日のこと、横浜に行ったら看板が読めず、役に立たないオランダ語から英語に切り替え、ショックで蘭学をやめて英学に変わった話は有名です。しかも、万延元年(1860)の遣米使節団に木村摂津守の従僕として渡米し、続いて遣欧使節団の翻訳方としてヨーロッパ各国を訪れ、その体験から『西洋事情』をまとめて出版した。その後再びアメリカに行く機会に恵まれています。

藤原:福沢の場合は蘭語から英語に時系列で動いたが、フルベッキは故郷のオランダからアメリカに移住し、空間と文化の変化として体現しています。
 幕末の日本では蘭学から英学への変遷があったが、それを一本化した形で欧米文明がある。19世紀半ばの日本におけるフルベッキ先生の存在は、16世紀初頭のエラスムスによく似ている。当時は明けの明星として仰ぎ見られていたのに、100年後にはエラスムスを忘れ去ったのと同じで、今ではフルベッキの名前を日本人で知る人は稀です。

小島:エラスムスとフルベッキを比較して考えることは、ラテン語に対してオランダ語と英語を比べるのに似て、実に興味深い観点だという気がします。面白い符合で二人ともオランダ生まれの人だし、日本との結びつきという意味でオランダの存在は、江戸時代の長崎の出島における関係だけでなく、幕末から明治における西周や榎本武楊を含めて、近代日本に大きな影響を及ぼしています。

藤原:その二人の幕臣はライデン大学に留学したし、母方の郷里が島根県の津和野で、私は西周とは不思議な因縁でつながっているのです。だから、高校時代に『百一連環』を読んだことの影響もあり、ライデン大学に憧れたこともありました。そして、中学生の頃からフランス語をやっていた関係で、フランスのグルノーブル大学に留学しました。

小島:そうでしたか。私はオランダへは碁を打ちに行ったことがありますが、予想もしないほど素晴らしい碁の伝統ができていた。オランダを訪れてみて初めてこの国の性格がわかり、オランダ人についての理解と評価ができました。アムステルダムやロッテルダムのように、個性的な都市が独自の経済活動をしているし、チューリップと運河がオランダを象徴する点で、実にのどかで平和な国だという印象を持ちました。自国よりも低い海面下に国土を造成して、海洋を自国の延長であると考えて海外に進出し、地球の果てまで雄飛する精神は見上げたものです。最初に株式市場と株式会社を作った国だけに、その国際性の面では世界における先進国です。


答えを教えない正道≠守る

藤原:オランダはイギリスより前に世界一の経済力を誇ったのに、海賊国家の英国に呑み込まれる形になった。今も相変わらず帝国主義をやっている英国に対して、オランダはヨーロッパで最も開放的な国です。世界第二の石油会社であるロイヤルダッチ・シェルにしても、ロイヤルダッチがソフトでオランダ人が管理している。シェルは英国だからソフトとハードが半々です。米国の石油会社はイギリスに似た比率構成ですが、日本や中国はソフトが一割ハードが九割になっている。日本の石油産業の実態はハードの固まりです。

小島:藤原さんは石油ビジネスで生きてきた人だから、石油会社の実態について精通しておられるが、ソフトとハードとで理解するというのは面白いですね。

藤原:今から20年前まではそういう視点で産業問題を考え、国際政治や日本の産業構造の将来について執筆したが、日本人が関心を示さないので中止しました。私の本には説明や答えがあり書いてないために、よく編集者から「もう少し具体的に解説してくれれば、わかりやすくてもっと売れる」といわれますが、それでは自分の頭で問題を考えることに反すから、そうした妥協はしません。中学生や高校生だった頃の体験からして、よい先生は自分の頭で考えるように指導したし、答えを教えるようなことはしませんでした。だから、そうやって辛いが厳しく鍛えられたおかげで、自分の頭で考える習慣が身についたことを思い起こし、この伝統は引き継いで若い世代に伝えたいと考えている。本は売れなくても一向に構わないから、人材育成のために自分のやり方を実行しています。

小島:そうですか。考えるために答えを教えないのは正道ですね。たとえ本が売れなくても正道を守る人がいると知るのは、読者に迎合する著者が多い時代にあって、同じように本を書く人間として嬉しいことです。本が大量に売れるかどうかの問題は、営業のレベルで議論すればいい事柄であり、自分のスタイルを貫く著者が少なくなって、きちんとした本を書く人がいないことの方がクリティカルです。
 海を埋め立てて土地を造成した以上は、何十年に一度かは嵐による洪水や高潮によって、国土が水没することがあるかもしれません。だが、オランダ人たちは最悪な状況の到来を恐れないで、運河や風車を活用して、水利のコントロールのために、何世代にも渡って国土作りをしている。人材育成も同じで、目先のことに捉われずに、長期的な展望に基づいて取り組まない限りは、絶対にうまくくいかないのは当然です。損得に結びつけば失敗するに決まっています。


世界に種を撒く民族 オランダ人

藤原:国籍でその国の人を一般化するのは危険ですが、オランダ生まれのフルベッキ先生の生き方を考えるうえで、参考になることを学生時代に経験したので、グルノーブル大学に留学した時の話を紹介してみます。
 実は、学位論文を書くきっかけを提供してくれたのが、私より一年前に留学していたオランダの学生でした。彼が地質学的に興味深い穴場があるから行こうという。それはナポレオン街道を250キロほど南下した場所で、香水で有名なグラースの町から50キロ北に位置し、ニースから100キロ北に広がる石灰岩山地に、彼のオートバイに乗せて連れて行ってくれたのです。

小島:あのナポレオンがエルバ島から脱出した時に通過して、百日天下を取ったことで有名な山道ならば、カンヌとグルノーブルを結ぶ街道のことですね。

藤原:そうです。アルプス学派の拠点であるグルノーブル大学は、アルプスから地中海にかけての地域が研究領域であり、マルセイユ大学は地中海周辺を領域にしている。二つの勢力圏が接する地域は一種のノーマンズランドでした。アルプス的な山岳地質と地中海型の丘陵が、それぞれの特徴的な性格を失った形で混在し、境界領域として手をつける者がいない。その取り残されている点に、オランダ人が着眼したのです。

小島:そんな場所がフランスに残っていたのですか。そういう取り残されていた場所に目を着けたというのは、さすがにオランダ人らしくて面白いですね。

藤原:彼は一年早く修士論文に取り組んだ先輩ですが、半年ほど野外調査をした頃に私と出会い、現場に案内した後で旅に出て姿を消した。教えてもらった穴場を引き継いだ形で4年を費やした私は、海岸アルプスの仕事で学位論文を仕上げました。

小島:ニースに近い海岸アルプスの石灰岩地帯なら、ドーデの『風車小屋便り』の舞台になったような、羊飼いがいる牧歌的な場所ではありませんか。

藤原:そうです。アフリカから来るミストラルという風が吹き、入道雲が夕立を毎日決まって見舞うような地域で、村民のフランス語もイタリア訛りで歌うようです。

小島:そんな牧歌的な場所で4年も研究をして、青春時代を過ごせたのは幸せですね。

藤原:私もそう思いオランダ人の学友に感謝しています。また、オランダ人の面白さは着眼点の良さを誇るとともに、学位や肩書きなどにはあまり執着することなく、興味深いと思う場所を求めて世界中を渡り歩き、何らかの種をまく形で仕事を残すことです。

小島:種まく人ではなくて種まく民族というのは、いかにもオランダ人らしくていいですね。

藤原:私の青春時代の体験を通じてよくわかることは、フルベッキの生き方の中にオランダ気質が沈積しており、「彷徨えるオランダ人」−−フライング・ダッチマンそのものだという点です。オランダ生まれの彼はユトレヒトの工科学校に学び、20歳の時に新天地を求めてアメリカに渡り、鉄道技師として働いていた。その時に伝染病で倒れたが、病床で宣教師になって布教しようと決めます。ちょうど日本はペリーの黒船に脅かされて開国を決め、帝国主義の勢力争いの穴場に似たところだったのです。彼は布教のために幕末の長崎にやってきたが、日本は蘭学から英学に関心が移る転換期であり、フルベッキは架け橋の役目を果たしたのです。彼は海外での長い彷徨でオランダ国籍を失ったが、肩書きに執着しないからアメリカの国籍も取らず、日本でも帰化しないで地味に暮らしたので、無国籍の世界市民として日本で生涯を終えた。東京の青山墓地に葬られているのです。
 そこで無理を承知でお願いしたいのですが、福沢山脈を探検して記録を残した小島先生に、フルベッキ山脈にも踏み込んでほしいのです。

小島:フルベッキが大隈重信や副島種臣をはじめとして、高橋是清に至る明治に活躍した日本人に、絶大な影響を与えたことは疑いえない。日本人としてその恩恵を大いに感謝したいと思います。人材を育てた恩人としてのフルベッキ先生は、一般には明治のお雇い外国人の一人であるという形で、その貢献に対して評価が行われているが、「彷徨えるオランダ人」という捉え方は実に新鮮です。
 彼が育てた幕末の日本の若者が成長して、その実力と見識によって近代日本が作られ、日本の進路が決まったことがわかった以上は、ライジングサンのフライング・ダッチマン≠フ存在が、これからの仕事にとって大きな励みになります。


記事 inserted by FC2 system