『New Leader』 2010.02月号



「拝金主義」と「独善」を促した
ネオコン暴政支配の正体(上)

慧智研究センター所長 藤原肇
オタゴ大学人文学部准教授 将基面貴巳



コンピュータ時代の文盲が「社会の劣化」を招いている

藤原 将基面さんとは本誌二〇〇二年八月号での対談『どう建て直す?どん底に堕ちた日本の大学教育の改革は、九五%の無能教授の解任から始めよ』以来、八年ぶりです。その後、日本の国立大学は独立行政法人化されて、高等教育はガタガタになってしまいました。

将基面  あの時以来、八年ぶりの帰国になりました。藤原さんも長らく帰国せず、〇九年春にアメリカを引き上げて久しぶりの帰国だそうですね。

藤原 アメリカの資本主義の終焉を見届けたので、三〇年ほど住んだ米国から台湾に移る途中に日本に立ち寄りました。五年ぶりの帰国です。将基面さんはさらに長い八年ぶりということで、帰国の第一印象はいかがでしたか。

将基面  第一の驚きは、電車の中で本を読む人が激減したことです。昔はコミックスや週刊誌程度であろうと電車で本を読んでいる人が多くいた。ところが、今回の訪日では本を開いている人があまりいない。ほとんどがケイタイの画面に向かってゲームか何かを熱心にやっていました。

藤原 あなたは学者だから本を読む価値を重要視している。ケイタイばかりで本を読まないと嘆いている。実は私も最初は同じ印象を持ちました。
 ところが、その風景は情報革命の反映です。確かに九八%はゲームやマンガをケイタイで見て楽しんでいる。しかし、残りの二%はケイタイをパソコン代わりに使い、グーグルで情報検索をして外部と接触し、世界の新聞や雑誌を読んだり、国境の枠を乗り越えて世界と結びついています。こうした人たちは、精神的に頭脳の国際化を満喫している。時代の最先端を生きる側にいるのです。

将基面  問題はコンピュータ時代の文盲かどうかですね。

藤原 そうです。マスコミは年収や生活費などの経済的な面や、正社員と臨時工の違いに注目して貧富の格差を論じ、「ネットカフェ族」とか「蟹工船」と騒いでいる。が、それは物質的な貧富の問題です。
 一方で、ゲームやマンガをケイタイで読む若者に対して、同じケイタイを使って世界の情報にアクセスし、精神的に世界と結びつきを持つ若者もいる。両者の間には絶大な意識の差が生じている。この精神的な格差こそが非常に重要な問題です。二一世紀における国力の源泉の違いにも繋がります。

将基面  もう一つ印象的だったのは、テレビをつけるとどこの局でも似たお笑い番組を放送し、しかも、ほとんどが何かを食べたり飲んだりして、食欲本能を丸出しにしている。古代ローマの「パンとサーカス」と同じように、人々の関心が公的なものから離れ、食べたり金を稼ぐといった私的な欲望に集まっています。しかも、そのようなムードが圧倒的な勢いで日本の社会を包み込んでいます。これは社会の劣化の典型的な症候です。

藤原 先ほど申し上げたように、ほとんどの人がケイタイを娯楽のために使い、本当の意味での情報化に対応してない。いまお話しになられた、社会の劣化も、情報の意味や理解における文盲となってしまっているからです。二一世紀は軍事力や経済力よりも情報が、一国の生存の決め手になるのは確実なのですが……。

社会に蔓延した金儲けや享楽「パンとサーカス」の愚民政策

将基面  同感です。アリストテレスは「奴隷や召使だけでなく、労働ばかりに励む人は単に生きているだけで、よく生きる人間ではない」と言っている。「よく生きる」とは労働に全生活を費やすのではなく、政治共同体の問題に関心を持って参加し、考える時間的なゆとりを持つことで、これは「パンとサーカス」という暴政の逆です。
 そんな日本の現状に対して、藤原さんが自公体制の崩壊に共振したかのように『さらば暴政』を上梓されたのは、実にタイムリーでした。

藤原 この本は二年前に書き上げていたのに、一〇社以上もの出版社に断られたお陰で、タイムリーに総選挙の直前に出版できたのです。でも、出版から三ヵ月経っても、新聞や雑誌の書評はゼロで黙殺された。五年前に出した『小泉純一郎と日本の病理』も同じで、紙のメディアから完全に黙殺されて、書評ゼロの日本新記録を作ってしまいました。
 しかし、ネット上で大いに話題となり、三週間で五万部近くの読者を獲得しました。妨害があって出版三ヵ月で書店から姿を消しましたが、今では古本屋で定価の一〇倍以上もしています。

将基面  政治や社会問題を扱った本が出版できず、言論活動が低下すれば、市民の正義や道徳観がマヒして、金儲けや享楽が社会に蔓延してしまう。政治を常に監視して権力の不正を追及しなくなれば、無責任や放縦がまかり通って、偉大なものに対して不感症になります。その結果、俗物と卑小な専門家ばかりが跋扈し、社会は腐敗して生命力が衰退する。これも、社会の暴政化を示す典型的な症候です。

藤原 暴政というとローマ帝国のネロを始めとして、ヒトラー、スターリン、毛沢東のように、国民を拷問や収容所に送り込んで、何百万の単位で人民を殺すケースを考える。また、富の分配を不均衡にして、食うために働く生き方を強制することで、人々の生きる権利を奪う政治を考えがちです。
 だが、それは肉体を中心にしたハードなものです。それより危険な暴政とは精神的な堕落や苦痛を招く、人問の尊厳や自由を奪ものです。それを世界的な規模でやったのが、つい最近まで君臨したネオコン政治でした。

将基面  藤原さんが上梓された『さらば暴政』ば、ネオコン政治に対しての批判と総括ですね。それは日本を格差社会にして、腐敗を横行させた小泉内閣に続き、日本のネオコン代表として登場した安倍元首相に対する徹底的な批判でした。

藤原 それと同時に、近代社会は政教分離を基盤にしているのに、自公政治は政教非分離だった。創価学会という宗教団体の政治部のような公明党が、連立政権に加わったことで、日本は非近代国家の形になってしまった。創価学会だけでなく、宗教組織が、自民党の中に入り込んだことで、日本の社会の生命力を弱め、正義、信頼、誠実、責任、節度、寛容などの価値観を変質させた。その結果、拝金主義に毒された独善が横行し、国民の連帯意識や道徳観が劣化したのです。

将基面  「法律に触れなければいい」とか「見つからなければいい」という具合に、官公民の全域でモラルが劣下して、貧欲に私欲を肥やす風潮が蔓延しました。これは「パンとサーカス」という愚民路線によって、市民が思考能力を失った証拠でもあります。

藤原 それは資本王義が拝金思想に汚染され、賎民資本主義になってしまったために、ネオコンという毒キノコが群生して、社会が自家中毒になってしまった。
 知識人を育てる大学が金儲けに夢中になり、デリバティブを含む仕組み債に投資して、慶応大学でも四〇〇億円近い評価損を出した。公益法人や自治体までが投機で破産寸前です。また、ホリエモンのようなカネの亡者を持て囃し、タレントが次々と知事や議員になっている。日本の政治は発狂状態に陥っているのに、それを異常だと感じる人も少なくなっている。

将基面  それがネオコン政治の実態であり、そこで狂った政治の診断書『さらば暴政』が出来上がったわけですね。

藤原 ジャーナリストや学者は社会の木鐸として、政治を監視し、政治の不正や腐敗を追及し、告発して、社会の健康状態を診断する責任がある。ところが、これまでの日本では、記者クラブなどの馴れ合いが示すように、知識層は権力に取り込まれ腐敗し、責任を放棄し、正義感をマヒさせたまま愚民政策を防ぐこともしなかった。

将基面  しかも、権力による愚民工作は巧妙に準備され、気がついた時には慢性病と同じ「死に至る病」です。それを逆手に取ったのがマキャヴェリであり、共和国の健康をどう維持するかを『君主論』の中で、過去の先例から法則性を導こうとした。
 だが、二〇世紀の権力者は愚民政策を通じて、大衆が考えないように享楽の自由を与え、金儲けを追求するために仕事に励むことを生き甲斐にするよう仕向けました。

異常が常態化しても不感症
暴政を診断する視座が必要

藤原 それが仮面をかぶった全体主義だし、愚民政策を行う時の常套手段です。それを見抜く眼力と洞察力がなくなった時に、診断力は欠如し、暴政が君臨するのです。中曽根首相時代のバブル経済がそれだったし、小泉劇場のような演出に酔い知れ、汚職や政治腐敗が日本中に蔓延した。

将基面  同時に町の至る所に監視カメラが増え、情報の中央集権化が勢いよく進んだ。情報化時代における『動物農場』ともいえる状況ですが、それが異常だという声も出なくなった。

藤原 ジャーナリズムも国民も異常に不感症になり、権力の支配強化に対して抵抗力を失い、自分では閉塞感さえも感じないので、異常が常態化しても気にならないのです。

将基面  福沢諭吉は『文明論の概略』の中で、「病理の診断は学者の職分だが、治療は政治家の仕事だ」と論じている。福沢は緒方洪庵の「適塾」で蘭学を学び、健康体の異常と医学の役割を心得ていたので、診断は学者の領分だと指摘したのです。また、『学問のすすめ』でも福沢は封建制度が暴政で、儒学は親の敵だと断言している。
 徳川時代が門閥政治だったから、彼は世界を知る知識階級の人間として、問題意識を研ぎ澄ませざるを得なかったのです。その意味では、今の世襲政治は門閥そのものだし、歴代の首相も門閥の出身。福沢ならこれは暴政だときっぱり断言します。

藤原 今の日本では学者や報道機関が堕落して、権力の腐敗や横暴を監視する能力が衰え、政治が世襲化して利権に成り果てている。しかも、国会議員が修行不足で無能を露呈して、的確な判断や展望が出来ないために、政治が機能せず社会はガタガタです。

将基面  一二世紀の英国の人文学者のジョン・ソールズベリーは、教育の最終目的は叡智の獲得だと言っています。叡智を得て的確な判断が下せるのです。また、判断力には二種類のものがあることについては、一三世紀末に『君主統治論』を書いたロマーネスが、「王様にとっての判断力」と「政治的な判断力」を区別した。問題は「政治的な判断力」の意味することであり、これは被支配者が支配者のやることに対して、その適否を見抜く判断力を指しているのです。

藤原 市民としての息見が政治への関心を高め、自らの頭で考え公共の分野に参加すれば、支配者に懐柔されたり、おもねるのを防ぐことができる。そうすれば、民主政治は機能を発揮するはずです。

将基面  中世は封建社会で階層性が強くて、上の人の言葉を唯々諾々と受け入れたと思いがちです。でも、政治的な判断力を一般の人にまで、その必要性を求めた社会だった点では、現在が中世より進んでいるかどうかは疑問です。

藤原 残業までして忙しく働き、敗者になるのを恐れるばかりに拝金主義に毒されるいま世界中が賎民資本主義になっています。現在の知識の量は中世よりも多いが、知識人の質の良さという面においては、進歩しているという保証は全くありませんね。

将基面  紀元前五世紀頃の古代において、釈迦や孔子を始めソクラテスやゾロアスターなどの先哲が、人類の古典としての思想を残している。近代は古典時代の復活を目指して積み重ねた、何種類かのルネッサンスの成果です。

藤原 現在が、いくら技術文明を誇ったところで、我々にはピラミットは作れないし、古代巨石文明のノウハウは分からない。ところが、金融取引の数字ばかりは巨大化して、遂に地上に蔓延した賎民資本王義により、地球の環境さえも危機的な状況に陥っています。

将基面  藤原さんの『さらば暴政』のメインテーマは、ネオコンによる「弱肉強食」の拝金主義が、暴政としての賎民資本主義を生んだ。その暴政に対しての総括が必要だと訴えています。国民の幸福を目指す上での共通善が、社会をより健康な状態を実現するには、政治の異常を診断する能力に習熟することが必要なのです。

藤原 その意味で社会の生理と病理に精通し、病気としての異常性を捉えて診断することが、何にも増して重要な作業になります。将基面さんには『政治診断学への招待』という本があるので、次に診断学について話を進めて行きましょう。(続く)


将基面貴巳(しょうぎめんたかし) 1967年生まれ。英国シェフィールド大学歴史学博士課程終了。専攻は政治思想史。ケンブリッジ大学のクレアーホールのリサーチフェローを経て、英国学士院中世テキスト選考委員会の専属研究員、ヘルシンキ大学客員教授、慶応大学客員教授などを歴任。著書に『反「暴君」の思想史』(平凡社新書)・『政治診断学への招待』(講談社選書メチエ)『Ockham and Political Discourse in the Late Middle Age』(Cambridge University Press)。ニュージーランド在住。


藤原肇(ふじわらはじめ) 1938年生まれ。仏国グルノーブル大学理学部博士課程終了。専攻は構造地質学。多国籍石油企業の開発担当石油ジェオロジストを経て、米国カンサス州やテキサス州で石油開発会社を経営。コンサルタント並びにフリーランス・ジャーナリスト。著書に「賢く生きる」「さらば暴政」(共に清流出版)、『Japan's Zombie Politics』、『Mountains of Dreams』(共にCreation Culture)他多数。台湾在住。


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