『New Leader』 2010.03月号



暴政支配とどう闘うか
連帯意識の再形成と
政治判断力が不可欠(下)

慧智研究センター所長 藤原肇
オタゴ大学人文学部准教授 将基面貴巳



経済活動を下位に置かなければ
政治的、公共的な価値は生まれない

藤原 私が昨年夏の衆議院選挙の結果を知 ったのはシンガポールでしたが、現地で買っ た中国語の新聞には「回天」という大活字が 躍り、英字新聞には「レボリューション」と いう大見出しが並んでいた。外国では自公体 制の崩壊を革命と見ていたのです。ところが、 インターネットで日本の新聞の電子版を開い てみると、「民主党の大勝利」「自民惨敗」と いったものばかりで、勝ち負けのレベルでの 認識がほとんどでした。「革命」という問題意 識が皆無なのには落胆しました。

将基面 日本では「革命」という言葉はタ ブーでした。孟子の政治論には、徳を失った 君主を討伐、放逐する「湯武放伐」の革命思 想があるという理由で、『孟子』を読ませない 伝統が続いていた。しかも、『孟子』を積んで 日本に向かう船は沈むといわれ、日本人にと って「革命」は呪われた言葉として、忌み嫌 う伝統が未だに続いているのです。

藤原 同じ態度は「暴政」という言葉にも あって、調べてみたら明治以来の日本の出版 物で、暴政をタイトルにした本は四冊しかな かった。だから、言葉があるのに本の題名に 使われていない点では、「暴政」はその代表と いっても間違いない。ところが奇妙なことに、 革命は『脳内革命』とか『人間茱叩』という 具合に、胡散臭い内容を誤魔化す糖衣錠の役 目を果たしている。シンボリックな形で巧妙 に使われています。

将基面 神業とか人間離れしたというイメ ージを生かして、「革命」という言葉を使うこ とがベストセラーを作るノウハウになってい る。そこで、過去を徹底的に克服して新境地 を開く革命が、社会ではなく個人のレベルに 綾小化されて、神秘体験の有難いプロセスの 開示の形で使われる。そして、革命が嫌いな 日本でも怖いもの見たさから、お化け屋敷の 宣伝用の調い文句のように革命が愛用される ……と見たらどうでしょう。

藤原 それは面白い。日本の外では革命は 政体の大変革を指し、ピューリタン革命、フ ランス革命、ロシア革命のように、人民の力 で古い支配体制が転覆されて、数学的なカタ ストロフを起こす高次元の大転換を意味する。 しかも、革命は天文用語の公転に由来してお り、自転を意味するローテーションとは異な る。そこに公と私の違いがはっきり示されて いる。将基面さんはアリストテレスの定義を 引用して、「政治に関しての議論が公共的で、 経済活動についての議論は私的なもの」と指 摘したが、そこに公と私の違いが明白に表明 されています。

将基面 金儲けなどは私的な領域での労働 であるのに対して、政治に関しての議論や公 開討論が公的な労働という、このアリストテ レス以来の思想を文明は継承した。だから、 モンテスキューやトクヴィルは産業革命の進 展によって、人間が私的な領域に追い込まれ てしまった結果、公的な領域が失われて行く のだと論じた。また、ハンナ・アーレントが 分析したように「人間が孤立化することで、 政治的な領域が人間活動から奪われて行き、 その成果として現在がある」ということにな る。そう見ると全体主義的なものの温床とし て、資本主義や産業革命が背景に存在する以 上は、経済活動を知識人が上位に置かないで、 下位に置くべきだという考え方が浸透しない 限り、政治的とか公共的な価値は生まれてこ ない。

維新とはクーデターを意味する
意味論オンチ露呈した鳩山首相

藤原 日本はもとより世界中が金儲けに血 道を上げ、賎民資本主義が地上を覆い尽くし ているので、古代にあった高貴な精神の復活 は困難です。それに一八世紀に較べて政治的 な指導層のレベルにおいて、教養や精神的な 面での意識低下が著しいし、自分の言葉で政 治理念を語る能力の点で較べても、意味論オ ンチの酷さは目に余るほどです。

将基面 専門化を強めていったことで科学 は深いが狭くなってしまった。だから「学際」 が今では画期的なことだと思われている。し かし、かつては多岐多様な学問を修めること が、知識人や読書人にとっての基礎素養とさ れていました。しかも、学問的な枠組みが流 動的だったので、修辞学や意味論に習熟して いることによって、叡智を持つ人として評価 され、指導者に連なる人物として見る価値観 が、現在よりはるかに強かった。

藤原 漢字もまともに読めない麻生さんに 較べたら、所信方針演説を自分の言葉で述べ た鳩山首相は、政治理念では何万倍もまとも でした。しかし、最後のところで「無血の平 成維新」と喋りボロを出し、「画龍点晴」を 欠いた。維新は政治用語としてはクーデター のことで、これは権力内での支配権の争奪を 意味し、革命とは似ても似つかないものです。 鳩山首相が維新という言葉を使ったというこ とは、彼が自公体制が暴政だったとは考えて おらず、政権交代のレベルでの認識しかない ことを露呈した。あれではとても民主革命は 出来ないと感じました。

将基面 症状のレベルでの異常については 感じるが、疾患がどんなものかについては分 からない、そんな程度のヤブ医者だったせい です。だから、自公体制が社会の健康を徹底 的に損なって、瀕死同然にしているという認 識がなく、医者が交代すれば直せるという程 度の考えで、政権交代への自負を表明したに 終わった。そこが藤原さんが、一番もどかし く感じられているところですね。

藤原 そうです。過去の暴政を徹底的に批 判することで、われわれは全く新しいやり方 で日本を作り変え、健康で民主的な社会にす ると世界に宣言して、自公体制の政治のやり 方と決別する必要があるのです。そのために は議員による法案上程を奨励し、強行採決な どは絶対にやらないと宣言して、民主党政権 は民主主義を実現するために、全力を上げる と国民に対して堂々と誓うべきだ。ところが、 そんな気配が鳩山内閣には感じられません。

将基面 藤原さんの主張は共和制の発想で すね。つまり各社会階層や集団の相互の意見 や利害の調整に、議論と法的な手続きで解決 を図ることで、体制の安定と健康を追求する。 しかし、日本には共和制は根付いていないの です。マキャヴェリは『君主孤亜で有名です が、彼にとっては共和制が理想的であり、君 主制は軽度の病的状態を意味しました。

藤原 それを将基面さんの『政治診断学へ の招待』で読み、実に.「目から鱗が落ちる」 思いがしましたが、彼の三部作を改めて説明 してもらえますか。

将基面 彼の古代ローマ史論である『政略 論』は、共和政体の健康状態を如何に維持す るかを論じており、『君主論』は比較的軽い 病気の君王体制が、重症にならないための君 主用マニュアルになっている。『フィレンツェ 史』は重症の政治診断で、無秩序で放縦状態 の政治体について書いた本です。藤原さんが 上梓した『さらば暴政』は、さしずめマキャ ヴェリの『フィレンツェ史』に相当し、瀕死 の日本の診断書であるだけでなく、自公体制 の死亡診断書に当たるかも知れません。

共同体の異常性を示せない
政治診断学の難しさと必要性

藤原 それにしても、日本には政治学者や ジャーナリストが沢山いるのに、自公体制の 暴政について誰も論じようとしない。アメリ カでもブッシュ体制の暴政を正面から取り上 げて、徹底的に批判した『暴政論』が出てい ない。実に不思議です。

将基面 暴政は異常によって社会が病状を 呈し、それを病気だと診断し警告する行為で すが、異常が支配するとそれを感じる能力ま で衰えて、異常をまともだと思ってしまう危 険があります。しかも、政治学には共同体の 異常性を示す用語がなく、せいぜい社会学で いうアノミーがある程度です。あとは道徳の 荒廃や正義感の低下くらいで、破局を迎えて 暴政だと気づくことが圧倒的です。歴史は暴 政を防ぐのに失敗した例の山です。

藤原 それにしても、目の前の政治が暴政 で社会が病気なのに、大部分の人がそれに気 づかないのは、余りにも無力だと思わずにい られない。「人びとが日々の糧を得ることに専 心して、政治の善し悪しに構っていられない」 からだ、とあなたは『政治診断学への招待』 に書いているが、生活に追われれば心にゆと りは生まれない。これは金儲けに熱中する現 代日本の風潮そのものだし、国を挙げて投機 熱に酔う中国人やアメリカ人の姿であり、ネ オコン政治が招いた弱肉強食の世界です。

将基面 その通りです。貧富の差の拡大が 富の一極集中を生み、連帯意識の解体と権力 による搾取が強まることで、民衆は自分の頭 で考えなくなります。それが堕落による衆愚 主義と呼ばれるものだし、ローマ時代から 「パンとサーカス」と呼ばれた現象だが、ケイ タイが四六時中鳴り続けるだけでなく、時間 があればゲームに熱中している状態は、慢性 病化した暴政を示す症状の好例です。

藤原 症状として現れた現象を異常だと診 断して、その背後にある疾患まで特定しない 限りは、次の段階の治療や処方はとても出来 ない。また、今の日本では肝心な診断が行わ れない状態で、治療法や処方箋で大騒ぎして います。暴政が慢性化してしまったために、 診断をする役割を持つ学者や記者が、観察能 力と批判精神を失ったからです。それは体制 迎合の形で言論の上に現れています。

将基面 逆に権力者が力づくで抑圧すれば、 思想統制や言論弾圧の形として現れます。た とえば、秦の始皇帝による「焚書坑儒」を始 めとして、中世の教会による「魔女裁判」や 「禁書」とか、ヒトラーの「焚書」や特高警察 による「赤狩り」です。

藤原 最近でも創価学会による言論弾圧と か、安倍晋三元首相がNHKの報道番組に干 渉した事件を始め、思想弾圧のケースはいく らでもあります。特に自公体制になってから ソフトではあるが、戦前の天皇制ファシズム の時代に似て来た。ただ、情報革命時代の今 は戦前のやり方とは大いに異なり、力による 弾圧よりも愚民化工作を活用し、ソフトな形 で国民の思考力を奪い去ったり、学者やメデ ィアを懐柔するやり方が目立ちます。

愚民政策の常套手段に
取り込まれる言論・知識人

将基面 だから、権力による愚民工作は巧 妙に準備されて、気がついた時には慢性病と 同じ「死に至る病」であり、いま日本の言論 界が半ば死んでいるので気がかりです。戦前 にリベラルな記者だった馬場恒吾が、戦後に 読売新聞の社長になって述懐しているが、戦 時中の情報省は検閲や発行中止を行い、強圧 的な弾圧を繰り返したのは筆実です。
 だが、ほとんどが政府の懇談会において、 メディアの幹部が自己規制したのであり、気 づかないまま腰抜けになっていた。政府当局 が馬場に脅しをかけたのではなく、言論界に 君臨した『中央公論』や『改造』という、有 力な総合雑誌の幹部を懇談会に招いて、そこ で言論統制について指導したことで、裏口か ら発言の場を封じる工作を続け、気がついた ら発言の場がなくなっていたのです。

藤原 いま、若手の記者が閉鎖的な記者ク ラブに陣取り、メディアの幹部や学者は審議 会や政府委員として、権力構造の中に取り込 まれているから、当時と同様に政治権力を批 判する姿勢を失っている。それが仮面を被っ た全体主義だし、愚民政策の常套手段であり、 それを見抜く眼力と洞察力がなくなれば、診 断力の欠如で暴政が君臨する。

将基面 戦前は権力による思想への干渉が 直接的で、天皇機関説の美濃部事件や滝川事 件、森戸事件や矢内原事件などがあった。大 学に対しての思想弾圧が次々と起きたが、学 問の自由を守るために教授たちが闘かってい る。しかし、今の大学教授たちにそれだけの 覚悟があるかというと、実に頼りないという 感じがします。

藤原 一九三一二(昭和八)年に京大で起きた 思想弾圧事件が、いわゆる「滝川事件」です が、滝川幸辰教授の『刑法講義』などが発禁 処分になり、内乱罪や姦通罪を理由に鳩山一 郎文相は免職を要求した。その際、小西重直 京大総長や法学部の教授会は、思想弾圧と大 学醤治違反だと文部省に抗議して、法学部の 全教官が辞表を提出し、また、法学部の全学 生も退学届けを出して抗議したが、これは共 産王義から自由主義への弾圧の転換でした。

将基面 発端はトルストイの『復活』への 解釈が、無政府主義的だということで始まっ たが、その背後には右翼学者や政治家がいて、 思想の自由を誇る京大を弾圧したのです。

藤原 鳩山一郎はヒトラーの崇拝者だった し、義兄の鈴木喜三郎は「腕の喜三郎」と呼 ばれ、治安維持法や特高警察を支える司法官 僚で、右翼政治家として悪辣な選挙干渉で悪 名が高いが、この二人に大野熊雄が組んでい たのです。熊本出身の大野は京大法学部を八 年かけて卒業し、剣道九段、柔道七段、居合 抜き十段、水泳九段という猛者で、大阪高校 の教師、毎日新聞記者、東亜同文書院教授を 経て、文部省の視学官になって鳩山に見込ま れ間諜役になり、京大に学生主事として送り 込まれている。表の歴史には事件の裏面につ いては書かれていないが、内部からの分裂工 作が仕掛けられた。京大事件は「滝川事件」 に矯小化されたが、この裏話については、京 都の政治に詳しい古老から私は聞いています。

将基面 歴史には必ず裏面史がある。その 発掘作業には興味深いものがあります。

藤原 鳩山一郎はハトで平和派と宣伝され ているが、戦前は親ナチスの国家主義者で思 想弾圧したために、A級戦犯に指名されて巣 鴨に行っている。しかも、大野熊雄は同郷の 松野鶴平と無二の仲であり、息子の松野頼三 は細川と小泉の政治指南役で、ロッキード・ グラマン汚職に連座した灰色議員の代表です。
 また、細川も鳩山もロッキード汚職の田中角 栄の子分。鳩山内閣は細川内閣の再来だと言 うだけに、歴史の奇妙な因果関係は実に不気 味ですね。


将基面貴巳(しょうぎめんたかし) 1967年生まれ。英国シェフィールド大学歴史学博士課程終了。専攻は政治思想史。ケンブリッジ大学のクレアーホールのリサーチフェローを経て、英国学士院中世テキスト選考委員会の専属研究員、ヘルシンキ大学客員教授、慶応大学客員教授などを歴任。著書に『反「暴君」の思想史』(平凡社新書)・『政治診断学への招待』(講談社選書メチエ)『Ockham and Political Discourse in the Late Middle Age』(Cambridge University Press)。ニュージーランド在住。


藤原肇(ふじわらはじめ) 1938年生まれ。仏国グルノーブル大学理学部博士課程終了。専攻は構造地質学。多国籍石油企業の開発担当石油ジェオロジストを経て、米国カンサス州やテキサス州で石油開発会社を経営。コンサルタント並びにフリーランス・ジャーナリスト。著書に「賢く生きる」「さらば暴政」(共に清流出版)、『Japan's Zombie Politics』、『Mountains of Dreams』(共にCreation Culture)他多数。台湾在住。


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