『財界にっぽん』2002年11月号



ロスの日米文化会館騒動に見る日系コミュニティの混迷

藤原肇(フリーフンス・ジャーナリスト)在米





日米文化会館(JACCC)誕生の蔭の恩人

 日米関係の歴史や経済的な重要度で見れば、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコなどが代表であり、ハリウッドやデズニーランドが幾ら有名でも、観光都市ロサンジェルスを遥かに引き離している。だが、これらの大都市は中心部で働く日系人は多いが、居住者の多くが周辺の町に分散しているし、核になる日本人街も余り発達していない。
 北カリフォルニアが誇るシスコの場合は、米国で最も詩情あふれた文化の香りの高い町で、ケーブルカーや霧の中に浮かぶ金門橋があるが、三五%を占めるアジア系住民の六割は中国系で、日本人の存在感はかなり低減してしまう。それに対して、ロスの下町には日本人街の「リトル・東京」があるし、広大なグレーター・ロサンジェルス内の衛星都市に日系住民も多い。ロスのマイノリティーではヒスパニック系が最大だが、韓国系、中国系、アフリカ系に続いて日系も多いので、北米大陸で唯一の日米文化会館がある。
 だが、ロスが日米文化会館を持った理由には日系人の数と共に、アメリカ側に設立への協力体制があったためであり、キイマンだったフランクリン・D・マーフィー博士の存在は、日本人にとって忘れ得ないものといえる。日本文化への深い造詣と強い愛着を持つことで、日米文化会館設立の礎石を敷いたマーフィー博士は、芸術、教育を始め科学、ビジネス、行政などの分野で、優れた指導性により不滅の名を残している。一人の卓越した人間が存在することで、ある町の性格と評価が飛躍的に高まる場合があるが、マーフィー博士はそんなタイプに属する人物だった。
 「彼は二流を一流に育てる名人で、UCLA(カリフォルニア大ロス校)と同じようにロス市を世界の一流に仕上げた」(アーマソン財団理事長ボブ・H・アーマソン)、「マーフィーと一緒なら、常に問題の解決策がある(LA・タイムス]の社説)」、「誰に何をさせるかを知り人材を活用して動かす点では、マーフィーは天賦の才に恵まれていた」(ハンチントン図書館スコセイム理事長)という具合に、多くの指導的トップが口を揃えて誉め讃えており、マーフィー博士の声望はロスに鳴り響いていた。
 ロスの飛躍的な発展は一九六〇年代に始まったが、マーフィー博士がUCLAの総長に就任して、カンサスからカリフォルニアに移ったのは、九六〇年だった。医者とピアニストの子供として一九一六年にカンサスシティで生まれた彼は、医学を修め一九四八年に三二歳でカンサス大の医学部長になったが、米国商業会議所はアメリカの若手トップ一〇名の一人に選んでいる。しかも、三五歳でカンサス大の総長に就任しており、大学を卒業して十年後に総長に抜擢された点を含め、四四歳の若さでロスにスカウトされた経歴は、日本ではとても考えられない足跡であり、指導者として彼の優れた資質を証明している。
 米国の大学や研究所のトップを任される人は、学問的な才能だけでなく組織経営の手腕が問われ、対外交渉や募金能力を含む指導性によって、組織発展のための貢献が期待されている。そこで間われる指導性の具体的な内容は、判断力、感受性、知識力、直観力、献身性、熱意、洞察力、実践力、信頼感、趣味の良さなどであり、彼は若き日にゲッチンゲン大学に留学しているので、芸術への素養と国際性でも突出していた。


ロスを世界的にしたマーフィー博士の貢献

 一九四六年のフルブライト教育計画に準じた過程を作ったので、大学町ローレンスに世界各地から留学生が集まり、カンサス体験を持つ日本人のフルブライト留学生も多い。そして、施設の拡充や教授の質を高める努力が成果を生み、田舎町にあるカンサス大学が目覚ましい発展を遂げたので、彼が打ち出した機構改革に全米が注目した。
 若い総長の卓越した手腕は基金作りの面で絶大で、それに着眼してスカウト工作を試みたのが、ロスで足場を築いた未来指向の財界人だった。一九八四年のロスの民営五輪にピーター・ユベロスを委員長に選び、四二歳の無名の男に実力を存分に発揮させ、税金を全く使わずに大黒字で成功を実現したのも、同じ発想をするロスの新興財界人たちだった。
 アメリカ文化の原点は過去ではなく未来にあり、成果を効果的に実現する能力の持ち主を抜擢し、その手腕に託すシステムを生かしている点で、伝統や肩書きにこだわる旧大陸や日本とは異なったフロンティア精神が見事なまでに躍動している。それにしても、ヨーロッパの影響を誇る東部の文化的な差異は、西部に対し質的な優位と伝統を誇るが、カリフォルニアでも知識人が多い北部のシスコに比較すれば、南部のロスは芸能人が中心の娯楽が主要ビジネスだ。だから、「スキャンダルに満ちた安っぽい金ピカの町」という形容が、ロスに向けて下される評価の典型なのであり、成金趣味というレッテルに甘んじるのでは能がないから、その克服を目指す希望がロスに広がっていた。
 実際問題としてカリフォルニアの金融の中心は、銀行も証券もシスコであってロスではないし、大学もUCLA(加州大ロス校)は衛星校のひとつに過ぎず、州立大学の旗艦バークレイ校が君臨して、スタンフォード大と共に優秀な学生を吸引していた。
 ロスを中心にした南カリフォルニアの発展は、砂漠の荒野で発見された石油によって始まり、二〇世紀の冒頭には全米第一の産油州になるが、一九二〇年代の自動車と映画による繁栄で、カリフォルニア・クレージーと呼ばれる狂乱の時代を迎える。そして、大不況による米国経済が陥った悲惨な混迷の中で、「怒りのブドウ」が描く自動車による移住時代を経て、戦時中の軍事産業ブームによる好況が始まる。また、戦後の高速道路網の建設に伴って建築ブームが生まれ、かつては流れ者の吹き溜まりだったロスは、戦争を境に幸運な男女の住む新天地に変貌したが、映画を越える伝統文化の推移が求められていた。
 マーフィー博士がUCLA総長に就任した一九六〇年代は、各地の大学で学園騒動が荒れ狂った時期であり、若者のパワーをいかに宥めて秩序を回復し、大学を学問の場として発展させるかが、総長にとって最大かつ最優先の課題だつた。日本ではサンフランシスコ州立カレッジのS・ハヤカワ学長が、学園紛争の時にタカ派の武勇伝で有名だか、行政手腕ではマーフィー博士が遥かに卓越していた。
 マーフィー総長の手腕は期待された通りで、集めた基金でビルを四〇棟も新築して優れた教官を迎え、総合大学として、流と評価される努力によって、バークレー校の遥か後塵を拝していたUCLAは、対等のパートナーにまで地位が高まるに至った。
 だが、二七八億ドルから二三一億ドルに削減という、レーガン知事による教育予算の大幅削減に対決した後で、マーフィー博士は総長の辞任を決意したが、彼は医者、教育家、管理者、事業家、芸術愛好家であり、アメリカが誇るフィランソロピストとしての名声は、辞職の段階で全米的に認知されていたのである。


日米友好の絆と文化交流の使命

 日本ではフィランソロピーという言葉が定着せず、寄付金による慈善行為と考えられているが、これはギリシャ語の博愛や人類愛に由来し、一般的には社会貢献という意味を持つ。個人が寄付やボランティア活動に参加するだけでなく、文化を始め教育事業や医療などの分野で、会社が企業市民としての責務を果たすために、社会に利益の一部を還元する伝統が米国では定着し、要請対応型の日本と異なる社会風土を作っている。
 フイランソロピストの名声を持つマーフィー博士が、一九六八年にUCLA総長を辞任したと同時に、財団や一流企業から、次々と招請の声が掛かった。一九八○年まで一二年間も会長を務めたタイム・ミラー杜(LA・タイムス」など八つの新聞やテレビ網の親会社)を始め、社外重役としてバンク・オブ・アメリカ、フォード自動車、ホールマーク・カード社など幾つもあるし、理事長としてはワシントンの国立美術館、サミュエル・クレス財団がある。また、ポール・ゲティ財団では評議委員だったが、理事を引き受けた組織は数えられないほどで、その中に日米文化会館の理事の肩書きもある。
 ロスに日米文化会館を作りたいという動きが、一九七〇年代後半に日系人の間で起きた時に、土地の提供やアメリカ側のまとめ役として、惜しみない支援をしたのがマーフィー博士だった。博士の名声を活用して寄付を集めたお蔭で、彼の斡旋でアーバイン社による寄贈の日本庭園を持つ、五階建の日米文化会館が一九八○年に設立された。広場を挟んで千席を誇る日米劇場も出来たし、タイムミラー社から寄贈された書架には、日系人の寄贈を主体に集めた本が揃ったので、二階の半分を占める施設は[フランクリン・D・マーフィー図書館]と命名し、日米文化会館はリトル東京の中心になった。
 忙しい博士は名前だけの理事に就任したが、彼の名前を図書館に付けたことによって、UCLAの名所のフランクリン・D・マーフィー彫刻公園と並んで、日系人はその遺徳を讃える施設をロスに持ち、日米文化の懸橋を記念することになった。宗教書や歴史書のコレクションを誇るこの図書館には、希少価値を持つ戦前の初版本も多い上に、新聞や雑誌で日系人に情報を提供することで、日米両国の利用者の知識の源泉として機能した。
 私は著書を十冊余り譲り書架に並べて貰ったし、作家の米谷ふみ子も著書を寄贈しているが、在住三〇年の坂田画伯は愛蔵の円空仏を提供して、図書館を訪れる人たちに貢ぎの雰囲気の演出を試みた。異国に住む人が故国の文化を本で味わうことは、比類のない大きな喜びと満足の源泉だからで、この図書館は期待に包まれて晴れやかに船出した。
 民間の非営利組織の運営を支えるためには、堅固な基礎基金の確保が必要であるので、日本側四〇〇万ドル米国側六〇〇万ドルの比率を決め、一九九一年に一〇〇〇万ドルを目標に基金が始まる。文化会館の寺沢元理事長と桜井理事の努力で、八尋経団連副会長の基礎基金募金委員長就任が実現し、不況とはいえ日本の企業の献金協力体制も整った。
 六年後の一九七七年夏に口本から送金があったが、円高による為替差と集金の諸経費が予想外で、日本からの受け取り額は半減してしまった。また、理事長や専務理事の能力の限界のためらしいが、米国側の募金は一〇〇万ドル集まったに過ぎず、基金の総額は四〇〇万ドル程度だといわれており、目標額の半分にも達しなかった上に、毎年のように三〇万ドル近い赤字決算を出していたので、かなり減額しているという噂も流れている。
 しかも、文化会館の運営実態が不透明だったので、コミュニティ新聞や会員が経理の公表を要求したが、明細を公開しない状況が続いたために、文化会館に対して不信と不満が蓄積した。文化会館がテナントから取る家賃は高く、日米劇場の使用料は他の施設の数倍もして、チャリティ公演でも収益が会場費に消えるために、年間の利用率は二割に達しない状態が続いていた。しかも、文化会館が機能不全に陥っている事実や、一部の日系人が施設を利権化してしまい、利用者の便宜が二の次になった状況に対して、理事会の内部で対立や不正の告発が始まり、誠実な人物が理事を辞める事態が継続した。
 そんな状況が進行した一九九〇年代の半ばに、資金不足が理由でこの図書館が閉鎖されたので、秘書室長に施設利用について尋ねてみた。すると、三〇〇〇ドルほど運営費があれば開館が可能だが、当面はカネが無いので閉館しており、予約があれば土曜日だけ開けてもいいとの返答だった。博士の功績を讃えて名前を冠した図書館なのに、目前の立派な施設を活用せず何年も閉館したまま、ロス市民の税金で運営される好意に頼り、日系人は市営の図書館リトル東京分室を利用して、日本語の新聞や本を読む破目に陥っていた。
 しかも、「まるで共産圏のお役所みたいだ」と批判された通り、使用料が高くて不親切な日米劇場への忿怒の声や、会館を一部の理事が利権にすることへの抗議に対し、適切な措置はほとんど取られない状態が続いた。そのために有志による草の根運動が動きだし、理事のリコールを要求する署名運動を始め、不正を告発する裁判沙汰にまで発展した。


乱脈経理と人事支配を巡る奇妙なゴタゴタ騒動

 理事会の内部紛争が公然化したのは一九九七年の夏で、役員推薦委員会は理事長と次期理事長の候補として、ミノル・トウナイとフレッド桜井に決定したが、一ヶ月後に病気でトウナイ候補が推薦を辞退した時に、桜井候補に理事長候補の受諾を依頼した。次期理事長にほぼ決まった段階で抱負を語り、杜撰な過去の金銭管理を指摘した桜井候補は、経理をガラス張りにして公開すると共に、コミュニティの信頼を取り戻したいと発言した。
 この意思表示は幹部理事たちに強いショックを与え、桜井降ろしの工作がいろんな形で進展したが、既得権の侵犯への反発が根底にあった。しかし、一九九七年一二月二一日の委員会の投票では、桜井一四票トッド九票その他四人で六票であり、民主主義の基本である多数決原理に従い、翌年二月一〇日に桜井理事長の推薦が満場一致で決った。
 それでも、不透明な形で経理を私物化する一部の幹部や、四〇〇万ドルの基金を預かる日系銀行を中心に、経理の公開を阻止する裏工作が進んでおり、二月一七日の理事会で三菱商事のロス支店長が緊急動議を発し、桜井に代えて突然トッド候補を理事長に推薦した。この異常事態に抗議声明を述べた桜井候補は、「……一六年問も同じ専務理事が経費を使ってきて、一度も第三者の明細な監査をしたことがない。……不透明な運営を隠す人を理事長に選ぶのなら、私にはできないので就任を辞退する」と発言して退席した。
 それまでも多くの理事が機構改革を試みたが、既得利権の厚い壁に阻まれて熱意を挫かれており、桜井候補の辞退宣言は改革の腰砕けを示し、その結果ワリを食ったのは利用者たちだった。あっけない辞退による番狂わせの発生で、多くの理事が奇妙な結末に荘然としている中で、日系三世のキャサリン・トッドが新理事長になり、納得しないトヨタ代表の理事などが続々と退出したから、お家騒動のニュースは一瞬のうちに広まった。トッド新理事長は郡判事だから募金活動は行えず、非営利組織の発展のための募金活動で貢献する面で、マーフィー博士が演じた役割を望みようもない。しかも、新理事長の最初の決定が「機密ポリシー」路線であり、過去の不透明経理の究明の棚上げと共に、理事が任命する執行委員会が絶対権限を持ち、理事会の役割が全く奪われてしまった。
 このクーデタ的な会議の経過が報道されたので、ロスの日系人コミュニティーは騒然となり、及び腰ながらメディアが真相解明に乗り出した。コミュニティの日本語新聞や雑誌を始め、テレビやラジオもこの混乱を報道したが、ナンセンスだったのは全面を使った「LA・タイムス」の記事で、日本語と英語の対立が原因だという粗暴な解説は、南カリフォルニアの何百万もの読者に対し、お家騒動で日本人が騒いでいるという印象を与えた。
 多くのメディアが問題を取り上げたことによって、「機密ポリシー」の壁の背後に潜んでいた、内部資料の一部や情報が洩れ出るようになり、密かに行われて来た慣行の一端が露呈し始めた。それまで一六年間も君臨した日系三世の専務理事が、週に数日の勤務で年俸一四万ドルの高給を取り、年間二七万ドルの旅費や九万ドルの交際費を支出し、赤字運営の公費天国だった実態が発覚した。しかも、辞任した後もコンサルタントの名目を使い、毎月七〇〇〇ドルを受け取っていたのだから、露呈した経理の実態は酷いものだった。
 米国最大の慈善運動の醜聞として一九九四年に摘発された、ユナイテッド・ウェイのビル・アラモニー会長の乱行は、給料四七万ドルと一〇代の愛人を秘書に仕立て、飲み食い豪華旅行のしたい放題だった。また、日本で最近その超高給の寄生ぶりが報道された[あしながおじさん(交通遺児育英会)]の理事たちの醜聞に似て、慈善事業の募金を食い物にする幹部たちがたくさん現存し、非営利事業の名の下に略奪が大流行している。
 長く続いた混迷に近い文化会館の運営によって、内部は乱雑になったまま半ば放置された状態で、フランクリン・D・マーフィー図書館は閉鎖されて来たが、予算難を口実に利用者が閉め出されている間に、専務理事や有給幹部は高給を謳歌していた。


爆発した利用者の不満と日米文化会館の秘密主義

 二五〇キロほど離れた砂漠のオアシスに住み、手作りの明治豆腐の購入と国際便に乗るために、ロスには月に三度くらい行く私にとって、図書館の閉鎖によって迷惑を被ったとはいえ、日米文化会館問題は遠くの出来事だった。だが、文化会館の利用者の積年の不信と不満が爆発して、有志がサービス改善を求めて署名運動を行い、一万人を越える多くの賛同者を得たという情報に続き、経理の開示要求と質問状が無視されたので、有志が上級裁判所に提訴したというニュースが届いた。
 そこでロスに行く機会を作って事情を調べたら、理事の選出は会員の投票によるという規定が、一九八四年以来ずっと無視されて来たこと。また、理事長や旧理事が勝手に理事を指名したり、メンバーに対して会計報告が一度も行われず、総べてが幹部理事だけで処理されていた事実。そこに改革を求める草の根運動の動機があり、「幹部の給料は相場の倍だ」、「劇場の使用料が異常に高い」に始まって、「理事長の地位が利権になっている」に至るまで、思わず耳を疑いたくなる証言が続々と集まった。
 日米劇場の八時問の使用料を具体的に例にとれば、地元の非営利団体が一三二〇ドルでその他が二一五〇ドルが基本料だが、それに人件費や器材使用料が加算されて、スポットライト七五ドル映写スクリーン七〇ドルに始まり、スピーカー二〇ドル映写機二五〇ドルという具合に、七〇項目の器材のレンタル料が追加される。だから、日米劇場で六〇〇〇ドルの使用料が掛かる公演が、他のコミユニティ施設なら半額で済み、それが稼働率二〇%という惨状の原因を生んでおり、経営上の失敗が至るところに露呈していた。
 だが、この運営上のミスは氷山の一角に過ぎず、高いテナント料を払うパイオニア・センターや補習校は、家賃が安い場所に移りたがっていた。また、一口一〇〇〇ドルで[菊資金]という形の会費を集めて、年間三万ドルの募金を行うというのに、会員には一度も会計報告を送ったことがないそうで、噂の断片が実証されて不信が高まるばかりだ。
 地元の記者に疑惑の実態について問い合わせると、「サービスの悪さで確かに不満は強いが、日系社会のコネクションは血脈で繋がり、文化会館の幹部が新聞の所有者の身内だから、どうしても真相に触れられない」と言う。また、名前を出さないという条件で喋った文化会館の職員は、「催し物が好きな羅府新報の元主幹には、いつもキップを届けて喜んでもらったので、文化会館を批判する記事は出なかった」と教えてくれた。
 次の段階で今度は理事の何人かに取材したら、「文句をいうグループは被害妄想であり、苦労をしてサービス向上の努力をしているのに……」と嘆く人や、「文化会館を乗っ取ろうと考える連中が、悪宣伝をして大騒ぎしただけであり、せっかく築いた和の精神を損なって残念だ」と強調する人まで、いろんな発言があったが説得力に乏しかった。
 というのは、会館の運営の改革の必要性を主張したので、煙たい存在だと判断されて留守中に理事を辞めさせられた経験を持つ、日本電装アメリカの天野元社長にインタビューした時に、「日本人ムラをその連中に追い出されました」と苦笑を伴う証言を得たからだ。三〇年以上も駐在員として海外生活を体験し、補習校作りを中心にコミュニティ活動をした彼は、南カリフォルニアの日系現地法人の組織体である、JBA(南加商工会)の会長を務めた経歴もあり、人望と功績はロスで良く知られていた。


日本人ムラを支配する因習と変革の動き

 熱心にボランティア活動をするある二世の指摘は、日米文化会館をめぐる確執の背景に潜む対が、世代と出身にまつわる点を私に気づかせた。ジャーナリストヘの信頼が喋らせたのだろうが、実に興味深い心理的な分析を含んでおり、この理論の生みの親にクレディットをあげたいが、残念ながら名前は伏せて欲しいと懇願された。
 多くの発言者たちが匿名を条件にした理由は、ロスの狭い日本人コミュニティにおいて、立場を鮮明にすると村八分を受ける危惧と共に、人間関係がギクシャクするのを恐れるためであり、その傾向は駐在員や二世の間に顕著だった。
 この二世の所説のサワリの部分を紹介すれば、日米文化会館の幹部の多くが二世と三世であり、彼らにとってステータスは文化より重要度が高く、既得権や身内優先になる原因を作っている。興味深い観察と指摘だと感じた部分は、「われわれ日系アメリカ人は一枚岩ではなく、両親の出身県や職業によって差別があり、[一世は竹、二世はバナナ、三世はタマゴ]と形容するように、外側と中味の色に白と黄の比率が違う。竹のように外圧に耐え忍んで生きて来た一世は,外も内も日本人だから竹と同じ黄色だが、アメリカ生まれでも両親からの影響を受けた二世は、半分日本的で半分アメリカ的なために、外は黄色でも中身は白く帰属意識は中途半端だ。また、外も内も白いがタマゴの中心に黄身がある通り、身も心もアメリカ人になり切っている三世は、幾ら日本が祖先の国に過ぎないと言っても、ギリギリの所で黄身の要素が働いてしまう」という実に明瞭な内容だった。
 しかも、収容所で苦労した日系アメリカ人の深層には、戦後に進出した日系企業の駐在員や家族の多くが、一時滞在を目指す新参者でしかないのに、札束の威力で閨歩していることへの反発があり、屈折した感情が排他的なムラ意識を生む。だから、歴代の理事長は二世三世のアメリカ人が占め、慶応卒の桜井医師はアメリカ国籍を持つが、無言の掟を破る機構改革を口にしたために、ムラから排除されたプロセスを明らかにした。
 そうなるとお家騒動としての性格が出てきて、ガラス張りの経理やサービス改善を求めた、草の根運動の趣旨とは全く別の次元において、日米文化会館問題が政治と結ぶ利権に関わってくるので、別の側面についての考察が必要になりそうだ。
 そういえば、米国生まれの日系アメリカ人理事の解任を求め、街角に立って署名運動の先頭に立ったのは、七〇代前後の白髪の人ばかりだったが、戦争を体験した世代に属しているせいか、草の根の中核は日本生まれのアメリカ人が多かった。サービス改善や経理の公開を求める運動は、誰の目にも分かりやすく共鳴できるが、正義感が[恒産あれば恒心あり]を反映するなら、日本人の中流意識は何と頼りないものだろうか。
 船長を二〇年以上もやったキャプテン浅見は、主要港のコンテナ―施設の管理会社の元社長で、南加全県人会協議会長の立場で草の根運動を支える人だ。「米社会はカネや権力があれば好き勝手ができるが、日系社会なら少なくとも信義が認められて、アメリカ的なものがのさばらないようにと希望した。だが、文化会館の腐敗体質と私物化に関しては、何を言ってもダメで絶望したくなります」と声を落として嘆息した。
 日系最大のブタ肉の輸出会社を営む渡辺会長は、訴訟を起こしたグループの中心人物であり、自らビジネスを指揮して来た経験に基づき、「末端がダメなのは幹部に責任感がないからで、現場ではなく上のマネージメントがおかしいし、自分が苦労して作ったのではない寄付金だから、好き勝手に使いまくって恥とも思わない。しかも、不透明な経理に対して批判が出れば、臭いものに蓋の考えで隠すだけでなく、自分たちに好都合なように規則まで変える始末だから、自腹を切って訴訟する有志に加わった」と心情を述べる。
 こうした批判に対して三井物産の須藤ロス支店長は、「ゴタゴタについてメディアが面白可笑しく書いたが、急いで改革しようとしても人材難だし、これから良くするのに協力するしかない」と諦め調だが、彼はJBA会長で文化会館の理事でもある。また、最高人事に絡む最もクリティカルな局面で、緊急動議でトッド判事を理事長に推薦して、議事を紛糾させた三菱商事の野田ロス支店長に取材したら、「日本人の一部がゴテゴテ言ったが外国人は何も言ってないし、一番いいと思った人を推薦したに過ぎず、私は人事などには余り興味がありません」と至って無責任な返答で取りつく島がなかった。


日系人の枠組みと新しい「二つの祖国」問題

 コミュニティ誌の記者に真相追求を持ちかけたら、広告を貰う上での利害関係が強いために、幾ら取材して記事を書いても紙面に出ないし、下手に動くと首でメシの食い上げですと肩をすくめられた。そこで多忙を承知で朝日や日経の特派員に、日本人コミュニティにとって大事な問題だのに、どうして真相を報道しないのかと聞いたら、刑事事件にでもならない限り報道できない、と各社とも似たような返事だった。
 そこで、最も熱心に文化会館問題を取り上げていた、「USジャパン・ビジネス・ニュース」に担当記者を訪ねたら、全員が辞めたし経営も別の人の手に移り、松浦新社長に今後の取材方針について聞くと、記事にする予定は全くないと断言された。
 仕方がないのでロスに数日ほど滞在して、調査報道のやり方で取材を進めて行くうちに、予想もしなかった新しい方向での収穫があった。既に紹介した匿名を希望した二世の人から、日系人社会の内情を教えて貰ったことで、日系人という概念を正確に捉える必要を感じて、ロスの日本人総領事館の小松領事に問い合わせ、日系人の公的な定義を聞いたことで突破口が開いた。
 公式見解では日本国籍を持つ者を日本人とし、日本人の血筋を持つアメリカ人に対しては、日系アメリカ人という呼び方をしている。また、グリーンカードの保有者や元在日外国人だった人を含め、二重国籍の人までを日系人の枠に入れており、国籍より血脈で考える人類学的な概念に近い。これを武器にしてロスの日系人コミュニティについて調べたら、興味深い二つの系統の構成が浮かび出し、それが次の前進への大きな足場を提供した。
 ロスの日系社会には二つの経済団体があり、歴史的に古い日本人商業会議所(日商)は、ビジネスを営む日系アメリカ人の組織であり、商人だけでなくセールスマンや弁護士を含む、南カリフォルニアで事業を営む人の集まりだ。日商のメンバーには叩き上げの成功者が多く、山崎豊子の「二つの祖国」に描かれているように、苦労してクリーニング店や食堂を経営した人も多く、その系統の顔ぶれから頭取が選ばれる。だが、日本の商業会議所には全く無関係であり、日系アメリカ人が参加する経済団体として、米国社会への貢献を目指して活動している。ただ、大学を出て文化面に関心を持つ人の多くは、どうしても日本的なものへの傾斜が影響するために、日米文化会館の理事になるといわれている。
 JBA(南加商工会)は商社、メーカー、銀行を始めとした、日本資本の企業の現地法人の親睦団体であり、一時は八〇〇社を越えたが現在は五〇〇社余りで、日系企業の連絡を中心にコミュニティ活動を試み、子供の補習校の支援を熱心に行っている。日商とJBAは同じ日系組織でも姿勢の方向が違い、お互い存在を無視し合う懸念もあるし、一種の微妙でアンピバレンツ(愛憎併存)な感情を持つが、興味深いことに日米文化会館が共通の場になって、共に幹部を理事として送る慣例が続いている。


奥底に潜んでいた生存者叙勲の弊害

 社交下手と言葉の壁のせいだけではなくて、遠慮が美徳となっている民族性のために、外部に向かって出るのが苦手の日系人は、どうしても小さく固まってしまいがちである。
 その理由は外に開いたコミュニティ新聞がないので、中国人や韓国人のコミュニティのように、住民の声を結集して政治力にする指導性がなく、日系人が声なき大衆として埋没してしまうことになる。しかも、日本の政治の現状を衛星テレビで見ているせいか、大ボス小ボスを軸にした政治がはびこり、太平洋を間に挟んで鏡像関係を作ってしまう。
 ロスのアメリカ人コミュニティは比較的オープンで、意思さえあれば仲間に加わることが可能だが、日本文化が縮み指向で求心的な性格を持つせいか、外に向かって発展する姿勢に乏しくて、日系人はどうしても仲間だけで固まってしまう。
 十数年前ペパーダイン大学の総長顧問だった頃に、私はアメリカ人の集まりに紛れこんでみたが、欧州系や中国系の人は多く見かけたのに、日系人がほとんどいないのに気がついて、せっかく米国にいるのに惜しいと思った。ペパーダイン大を支えるアソシエートの場合は、百万ドル以上を寄付したロスチャイルドを始め、一〇万ドルも出す南カリフォルニアの財界人や富豪が並ぶが、僅か一〇〇〇ドルで誰でも一年アソシエートになれる。
 大統領時代のレーガンもアソシエート会員で、春になると行われる恒例のパーティの時には、香港や台湾からも中国系の人が参加するが、日本人のアソシエートの顔を見たことがない。おそらく、UCLAや南カリフォルニア大でも、同じように親睦と資金支援のアソシエートが組織され、基金集めの母体を作っているはずである。
 積極的にフィランソロピー活動に参加することは、多くの人と喜びを分かち合う機会になり、自らを精神的に豊かにするという意味で、何物にも代えがたい報酬の源泉である。だから、課長や書記官の頃から社交の訓練を積み、副社長や領事になったら肩書き抜きで誰とでもつき合い、フィランソロピー活動を舞台に信頼関係を築けば、外国で尊敬される交友関係も生まれて来る。
 私の読者で台湾系のコミュニティを指導する人は、同じアソシエートだった関係で親交を結んだが、母親が日本人の彼は言葉に不自由しないし、外側から日系コミユニティを観察して、日米文化会館について興味深い分析をした。「幹部は予算がなくなると海外での文化振興を口実に、カネをせびって好き勝手に使うから、会計をきちんと報告できるわけがない」と断言してから、「日系コミュニティの幹部は勲章を貰うために、高い地位につきたいと争っているそうだし、地位が利権として取り引きされている」という聞き捨てならない発言をしたので、この衝撃的な指摘が謎解きへのヒントになった。
 その意味することは何かを徹底的に調べたら、高い地位につくと叙勲の対象になるシステムがあり、日米文化会館では現理事長が前任者を推薦し、それが慣例化して利権になっている事実が明らかになった。日米文化会館の理事長を歴任した人の場合は、慣例として勲三等か四等を貰うことになっていて、日商の会頭だと勲四等という所が普通で、パイオニア・センターやその他の功労者には、四等か五等の勲章がこれまで与えられて来た。
 だから、理事長に推薦された桜井候補が所信を表明し、民主的な機構に改革して過去の不透明な経理を解明して、責任の所在を明らかにすると述べたことは、古手の幹部に大ショックを与えたのであり、叙勲の推薦を期待する理事長や長老を痛打した。責任の追及で監督の不行き届きが明らかになれば、勲章を貰う終生の希望が消えてしまうから、急いで仲間を集めて桜井降ろしが始まったのであり、基礎基金を預金している日系銀行の理事を始め、関連する系列企業の理事が切り崩されたのだ。
 この突破口を足場に調査水準を更に深部に降ろしたら、「叙勲候補の推薦状を出して貰ったお礼に、一万ドルから二万ドル包むのが慣例で、五〇〇〇ドルしか包まなかった人に対しては、最近は勲章が安くなったと嫌みまで言う」と漏らす事情通にたどり着いた。
 日本人の生存者叙勲勲章は七〇歳以上であり、勲章が欲しい経団連のボスが老害を引き起こすので、日本でも生存者叙勲の廃止を求める声が起きている。しかも、海外では叙勲が日系人社会で利権になっていて、コミュニティ活動の阻害要因になっており、それが不透明な経理を隠蔽する動きと結びつき、スキャンダルが解明されない状況が続いている。戦前の日本紙幣を大量に売りさばくために、勝ち組と負け組が争ったブラジルと違い、ロスの騒動には悪質なサギ行為はないが、それにしても強烈な後味の悪さだけが残る。
 アメリカにおける日系人の名誉と共進を実現し、ロスが日米文化の結節点を演じるためには、マーフィー博士の名を冠して功績を讃えた、あの図書館の再開を優先して手がけることだ。そして、日米文化会館の健全な経営の道を求めて、利権を握って食い物にする幹部を一掃し、日系人全体の良心の発露とするためにも、生存者勲章を二〇世紀の終わりと共に廃止するために、民意を結集する時が来ているのではないか。


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