『財界 にっぽん』 2003.08月号



特別対談−− [歴史の証言]
藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)
佐藤肇(霞山会員・故人)




日独枢軸同盟時代のうたかた(上)


古い対談の活字化への弁明

同志としての藤原肇

佐藤肇さんは政界や財界の実力者から強い尊敬を受け、日本を腐敗から守るために私財を投げ出して動き、霞山会員として誠実な活動を生き甲斐にした、戦後の日本における最後の清廉な国士の一人である。「文芸春秋」の一九八三年四月号に私が発表した、「誰も知らない第二の安宅事件」と題した記事を読んで、佐藤さんは何時間もアメリカまで国際電話を掛けて来て、石油公団の八○○億円の浪費の真相を知りたがった。彼の熱意に感動した私は東京に飛ぶことにして、事件について詳しく解説してあげたら、彼の仲間の政治家を動かして国会に小委員会を作り、知人のジャーナリストを動員して記事にし、不正事件として問題化した記録は、「無謀な挑戦」(サイマル出版会)として残っている。当時、佐藤さんが憂慮して全力を傾けていたのは、瀬島竜三がKGBで中曽根康弘がCIAの使者であり、その証拠を固めるという調査への情熱で、拙稿が縁で知り合ってから私は多くのことを教わり、佐藤さんの人脈と情報力に舌を巻いたのだった。彼は鞍馬天狗と同じで素顔や本名を出すのを嫌い、精緻な「昭和陸車"阿片謀略"の大罪」(山手書房新社)も、藤瀬一哉という合成筆名で発表している。佐藤さんは皇軍の内情に精通しており、その関係で一九八四年一一月二九日に対談して、纏めたのがこの大島浩中将についての証言だった。歴史の証言として重要な問題を含むので、私は活字にして残したいと希望したのであるが、佐藤さんは生きている間はダメと拒否された。現在の日本が再びファシズムに向かって傾斜を強め、長く病状に伏して亡くなられた佐藤さんの遺志を生かして、ここに歴史の教訓としてこの対談を活字にすることにした。合掌。





「構造改革」の本当の意味を知らず

藤原 戦前の日本史を読んで思い当るのは、大日本帝国の運命を最も基本的な所で狂わした元凶として、陸軍が一丸となってナチスかぶれに陥り、日本の政治を中国侵略路線に引きづり込むと同時に、《日独防共協定》から《日独伊三国軍事同盟》へと続く、東京・ベルリン枢軸路線の存在が指摘できます。これは明治の開国以来わが国の基本路線であった、英米と友好関係を維持する国是と、その具体的なものとしての日英同盟に反する、狂気に日本人が支配された結果と言えます。そう考えると、この親独路線をかつぎまわった張本人として、ベルリン駐在武官だっただけでなく、遂には駐独大使にまでなり、日本をヒトラーと共に地獄に陥るよう結ぶつけた、大島浩という軍人の果した役割と責任について、われわれは改めて追及する必要がある。だが、当の本人はすでに亡くなっているし、回顧録なども見かけないので、大島大使と親しく交際していた佐藤さんに、今日は現代史の証言としていろいろうかがいたい。とりあえずは、どうして佐藤さんが大島浩と親しくつき合ったのか、また、それは何時頃の話かというあたりからお願いします。
佐藤 私の親友の父親と大島大使の父上が、非常に親密な友人同上だったのです。その父上は大正時代に陸軍大臣をやった大島健一中将です。それで昭和三〇年(一九五五)頃から、大島さんが亡くなるまでの一〇年ほどの期間、月に一度か二度くらいの割合で茅が崎の中海岸にあるお宅にうかがって、いろいろと昔話を拝聴しました。お訪ねすると「お待ち致しておりました」と丁寧なことばで迎えてくれ、帰る時には「御気嫌よう、お休みなさい」といった口調で、玄関まで見送るような大変几帳面な人でした。
藤原 いわゆる軍人タイプの人柄を保って隠棲していたという感じですね。
佐藤 しかも、「お訪ねいただいて大変嬉しいのですが、今日は夕刻からサイが外出するので、おもてなしもできなくて恐縮です。それさえ御諒承いただければ、佐藤さん、どうかごゆっくりしていってください」といった調子で、非常に礼儀正しい人でした。
藤原 ドイツ派のコチコチといった印象がするし、そうであるが故に、ヒトラーに完全に心酔してナチズムを盲信したのでしょう。そういうタイプの人間は外交を担当する上で最も不適任であり、中曽根のように二枚舌を使い分ける不誠実な人間の対極にいるように見えても、結果として一国の運命を大いに損なう点で、共通する亡国の輩の役目をするだけだという気がします。



三国軍事同盟と官僚的な小心が犯す過ち

佐藤 大島さんを中曽根のごとき口舌の徒と一緒にしてはいけないのでして、幾ら当時の駐独日本大使館が駐独ドイツ大使館と呼ばれて顰蹙を買う存在だったにしても中曽根のような不誠実な人物は三等書記官にさえ居なかった。戦前の日本では親任官や勅任官は天皇の役人だから、中曽根のような不逞の輩は余りにも恐れ多くて、元老たちが全力をあげて斥ける種類の手合いです。その点で大島大使は陸軍を支配した長州閥からはずれた岐阜の人間であり、父上の大島健一閣下は終戦時に枢密顧問官だったことも手伝い、その長男として責任を意識しながら黙して死についた軍人です。
藤原 でも、ベルリンにおける駐在武官時代の大島少将は、功名心にかられて抜けがけばかりをしたのではないか。だから、武者小路公共大使時代の大島は、日独防共協定の締結に全力を傾けたのだし、一九三六年(昭和十一年〕一一月、二十五日に調印したものは、帝国陸軍とナチスでまとめた約束を政府が追承認させられたと言われています。
佐藤 日独防共協定や三国軍事同盟の成立に関しては、確かに、大島浩中将の果たした役割は大きかった。だが、世間で一般に言われているような形で、彼が日本の対ドイツ外交を勝手に切りまわしてはいないと私は見ている。特に、戦後になって、日本のマスコミ界は大島武官の暴走という決めつけで終始したが、私が本人から聞いたことからすると、それは虚像としての大島浩像といえます。
藤原 しかし、現実に彼がやったことの多くは、日本の運命を大きく狂わしていて、その事実は絶対に否定できない。佐藤さんはどこが虚像だというのですか。
佐藤 いずれにしても、本人は大それたことを考える人間ではなくて、とても実直で小役人的な生き方しか出来ないタイプです。白分でも所詮は軍隊という大組織の人間として、操り人形的存在で大したことはできないと自認していました。大島大使としては一生懸命にやったにしても、大組織の歯車の歯でしかなかったのです。
藤原 でも、組織の中の人間が犯す犯罪の大部分はそのパターンです。殺人狂のヒムラーや二〇三高地の肉弾戦で軍神になった乃木大将にしても、個人としては小心で職務意識の強い役人的人間でした。問題は、その人間が責任者としてやったことが、歴史に対して、どんな犯罪行為を残したかだし、本人がどう反省をしているのかどうかです。佐藤さんが会った段階の大島浩は、自分のやったことに対してどんな自己批判をしていましたか。



ゲルマン民族主義への陶酔

佐藤 自分の人生経験が大変偏ったものであったといって、こんな具合に反省のことばをもらしていました。「まあ、佐藤さん、私は陸軍幼年学校から陸軍士官学校に進むという、人間としてきわめて偏った軍人教育で青春を過ごしました。当時の幼年学校は中学二年から入る訳で、せめて中学校を卒業してからならば、世間なみの常識も出来ているし、人間としてもある程度成熟していたかもしれません。私は西洋史が好きだったが、幼年学校や陸士では歴史の本をじっくり読む暇も無かったし、青年将校時代は軍人として歴史書を愛読するのが難しい雰囲気の中で、軍人としてただ忙しい生活でした」というのが、彼の青春だったらしい。そして、姫路の連隊長をやって砲兵学校に移ったあと、昭和八年(一九三三年)だったか陸軍省から呼び出しがかかった。行ってみると、「実は、国民党の蒋介石からの申し込みで、南京の軍監学校長であるドイツ人将校の任期が来て帰国するので、その後任として日本人が欲しいとのこと。その気があれば、人事局として直ぐに発令したいのだがどんなものか」との打診があったそうです。
藤原 その頃の蒋介石は外国の軍人顧問団を大量に雇いいれて、軍の強化と近代化をしていた。確か、ゼークト将軍が育てた逸材が大分活躍していたはずです。
佐藤 大島さんが言うには、「佐藤さん、実に恥ずかしいことですが、私は即座に断ったのでした。当時のシナは、日清戦争以来日本人がチャンコロと侮蔑的に呼んだように、非常に民度が低く非衛生と混乱が支配して、国家としての統治もまともに行われていなかった。政治は腐敗して軍隊の士気は劣り、軍閥が各地で割拠状態である以上、今さらそんな世の果てのような所に行って、軍人として出世の妨げになることはしたくない、という先入観に支配されたのです」というわけです。
藤原 大島浩がその段階でドイツ人たちと中国で出会っていたら、三国軍事同盟につき走らないで、その後の歴史が大きく変っていたかもしれない。もっとも、歴史にイフを言ってみたところで、過去を書き直せるわけではないけれど……。
佐藤 大島さんは日本人にしては鼻筋が通っていて、昔から鼻メガネがよく似合ったらしい。私が会っていた頃は白内障で眼が悪く、本箱の前でよくメガネを捜していましたが、実に恥ずかしいことをしたものだと、過去をよく後悔する口ぶりでした。それで、ドイツに派遣になる前に、ポーランドだったか東欧の国に駐在武官で行き、一年くらいおいてから、ベルリンの日本大使館付武官として陸軍少将を拝命したのです。
藤原 そうすると、二・二六事件の頃に少将になったなら、暗殺された永田鉄山少将あたりと同期かな?
佐藤 永田軍務局長より一歳か二歳若くて、幼年学校と陸士は東条英機と同期でした。しかも、東条の父親の東条英教中将と大島の父親の大島健一陸相が、これまた陸士の同期だったというめぐり合せです。東条英教は陸軍で兵書を最も読んだといわれた軍人だが、実践には余り役に立たなかった。シベリア出兵で大きなミスをやり、津軽の南部藩士だったコンプレックスも手伝い、上官といえどもズケズケと間違いを追求した実直さのために、少将で予備役に入れられて、本当は中将ではなくて少将で終ったと言われてます。
藤原 予備役編入と同時に中将になったので、現役としての中将は一日もやらなかったのが東条英教の軍歴でしょう。ベルリン時代の大島浩の話はどうでしょうか。



ドイツ流の民族主義に日本の国家主義者が幻惑

佐藤 駐独大使館の武官になった段階で、余暇を利用して西洋史の本を初めてじっくり読めた、と大島さんはいつも言っていました。「私はギリシャやカルタゴにも行き、かつてヨーロッパで最も文化が高く、繁栄した場所を訪ねてみました。ソクラテスやプラトンが活躍した遣跡はあっても、今は往時の面影もなくギリシア半島は落ちぶれ、カルタゴの名前と史跡はあっても、国家はもはや存在しない。そう考えると、歴史の移り変わりと世の流れをしみじみと噛みしめたのです」という話でした。
藤原 「夏草やツワモノどもが夢の跡」という芭蕉の句を実感として味わったに違いない。地中海岸特有の白亜の石灰炭の崖や、抜けるように青い空と海をバックにした遺跡で、過ぎし日を思いかえすなら、誰だって昔の光いまいずこという気分にならざるを得ない。
佐藤 それに似た感慨が彼の民族環境を刺激したようです。過去の没落がある、方で、ヨーロッパで一番若い民族がゲルマンだと確信した大島さんは、ドイツ人に対しての彼の気持をこんな具合に表現しました。「ドイツ人は第一次大戦であれだけ巨額の賠償を払わされ、世界の経済史上であれほど酷いものは無いといわれた超インフレで破綻を体験した。ところが、ナチスが政権をとって国家社会主義をおし進め、僅か数年で財政を立て直しただけでなく、軍事力も目を見張るものとして作りあげてしまった。これはナチスの政策論というよりも、ゲルマン民族の大団結の結果だと訳すなら、人間個人にも国家にも盛衰があり、英仏の旧大国が斜陽化していることからすると、早晩ヨーロッパの諸大国は老衰して、ゲルマンが制覇するのではないか……」。
藤原 大分ドイツ人を買いかぶったみたいですね。
佐藤 仕方がないでしょう。話はこう続きます。「アジアにおいては、江戸時代末までは中国が大きな力を持っていたが、維新によって日本は中国を追いこした。かつて日本の師匠だった中国は、国中が混乱して無秩序に陥ったことにより、今や列強の植民地になり果てていて、民衆は塗炭の苦しみに泣いています。そうなると、日本はヨーロッパにおけるゲルマン民族と同じように、アジアの盟主として英米の老大国から、アジア民族を解放する歴史的使命を果さなければならない。私はナチスではなくてゲルマン民族のエネルギーを評価し、ゲルマンとヤマトの両民族の結合により、ユーラシア大陸の中心に巨大な帝国を築いた、共産国ソ連に対抗する防壁を作るのが最良だと判断しました」。この発言に見る限りでは、大島浩という軍人はナチスそのものよりも、ヒトラーが利用したゲルマン神話に陶酔していたようです。
藤原 アリアン民族の優秀性を看板にしたドイツ流の民族主義に、日本の国家主義者が幻惑された訳です。おそらく、中途半端な形で歴史主義の洗礼を受けたために、国粋的な日独枢軸志向に毒されてしまったのでしょう。
佐藤 当時の職業軍人としてはやむを得ない限界だと思います。


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