『財界 にっぽん』 2003.09月号



特別対談−− [歴史の証言]
藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)
佐藤肇(霞山会員・故人)




日独枢軸同盟時代のうたかた(下)




虚偽で固めた陸軍の情報

藤原 当時の情勢をふりかえって見ると陸軍は完全にドイツかぶれに陥っていたし、一九三九年(昭和一二年〕七月七日の盧溝橋事件を契機に、中国大陸への侵略が本格化しています。近衛首相の「民国政府を相手にせず」という愚劣な声明が、国家総動員法を経て日本を泥沼にひきずり入れ、完全な戦時体制にのめり込ませてしまった。しかも、翌三八年(昭和一三年)の二月に、ドイツがオーストリアを併合していて、陸軍とその手先の大島浩は、大あわてで日独防共協定をまとめている。そして、次には三国軍事同盟の締結に狂奔していくわけで、その過程を通じ良識派の東郷茂徳大使を追放して、その代りに軍人の大島が駐独大使に就任するクーデターが成立した。これは軍による外交権の乗っ取りであり、こんなデタラメが有り得るようなら世も末です。
佐藤 それはちょっと違うと思います大島武官が大使に昇格したのは昭和一三年十月であり、英米に対しての配慮から防共協定反対の東郷大使がベルリン駐在であることは、ドイツとの外交関係を損うという配慮がありました。たとえ陸軍が圧力をかけたにしても、東郷大使が更迭されたのは外務省の人事であり、大島武官によるクーデターではなかった。それに、外務省自体にナチス追従者の台頭がありました。
藤原 牛場信彦や甲斐文比古などの革新官僚の台頭がそれで、有名な宇垣外相への対英米軟弱外交に対しての突き上げをやっている。しかも、東郷大使更迭に先立って宇垣外相が辞任しています。
佐藤 それは外務省から対中国外交権を奪うために、陸軍が工作して興亜院を作ったことへの、反発のせいです。
藤原 しかし、一連の陸軍による外務省に対しての圧力と干渉は、伝統的な霞が関のやり方として見る限り、仕掛けられたクーデターといえます。当然、ベルリンの日本大使館にはそれがアンプリファイして伝わり、特命全権大使職の簒奪人事を発生させ、上司の東郷大使をモスクワに追払った大島は、自ら武官から大使にと成り上ったのです。
佐藤 追っ払ったという表現は正しくなく、陸軍と外務省が話し合った結果、正式な手続きに基いてドイツ駐在大使館の陸軍武官である大島浩中将が、特命全権大使として任命されたにすぎません。また、大島大使はいかにも無念そうに、「佐藤さん、私は職業外交官としての訓練を受けたわけではなく、陸軍のあと押しで軍人から外交官を拝命したのですが、その陸軍が私を騙したのです」と一言うのでした。
藤原 一九三九年九月に発足した阿部内閣で、知米派の野村吉三郎海軍大将が外相に就任した時に、三国軍事同盟の元凶だった大島駐独と白鳥駐伊の、両大使を更迭しています。その事実からしても、海軍にしてやられたというのなら分るが、どうして陸軍に文句を言うのか理解できませんね。
佐藤 それはノモンハン事変の時の話で、内容はこんな具合です。「私は陸軍出身でもあり、外交暗号に関しての外務省との取り決めで、同時に陸軍からの情報も受け取っていました。ノモンハン事変に関して陸軍からの暗号電報は、一貫して日本軍の優勢を伝える内容でした。その頃のリッペントロップは未だ外相ではなくて、ナチ党の外交委員長であり、日本人使館の近くに事務所を構えていたので、三国軍事同盟の草案をもらったりして親しく付き合っていました。彼がよくノモンハンの状況を訊ねたので、まさか陸軍が私に嘘をついていたとも思わなかったから、日本側が圧倒的に有利だという情報を提供しました。そのうちヒトラーの特使として彼のモスクワ行き決定の発表があると、直ぐに東京から暗号電報がきて、リッペントロップの訪ソにあたって、一種の停戦を提案させるようにとの依頼です。そこで彼に会ってその旨申し入れると、あなたが言うことだし、日本軍が有利なら話は至って簡単だということで、気軽に引き受けてくれました」。
藤原 一九三九年〔昭和一四年)は世界史にとって大変キナ臭い年で、五月に起きたノモンハン事件は八月二〇日にはジューコフ元帥麾下の赤軍機甲師団により、関東軍は小松原師団全滅の惨敗です。服部卓四郎中佐や辻政信少佐などの作戦参謀が、幾ら強がってみたところで大勢は大負けだった。ところが、陸軍はベルリンの日本大使館には、虚偽の情報を送ったのですか。
佐藤 そういうことだったらしいです。



軍事独裁よりも警察独裁の方が悪質

藤原 八月一九日にベルリンで、独ソ通商協定を結んだあと、モスクワに飛んだリッペントロップはなんと八月二三日には独ソ不可侵条約を調印しています。そして、九月一日にはドイツの機甲師団がポーランドになだれ込み、第二次世界大戦が始まって大変重要な時期でした。
佐藤 リッペントロップは喜んで仲介を引き受けてモスクワに飛びしかも、スターリンとポーランドを山分けして、不可侵条約を手みやげにベルリンに戻って来ます。大島大使が仲介の件はどうだったかと打診したところ、話は全く逆で自分は面目を失ったと言われたとか。リッペントロップがスターリンにノモンハンの停戦の話を持ち出したところ、執務室の壁に貼ってある大きな極東地図の前に引っ張っていき、微に入り細にわたって戦況を説明したのです。総ての報告を軍部から正確に受けていることは疑いなく、スターリンの説明は実に明白で、リッペントロップも眼を見張ったほどらしい。これは完全なシビルコントロールですよ。
藤原 見事なシビルコントロールです。今の日本のように、警察が自衛隊をコントロールして、軍隊を機動隊の予備隊化したり、警察官僚が国防会議を牛耳っているのとは全く違う。歴代の首相が国防会議の事務局長の手玉にとられ、適当に情報を与えられて操られている日本の現状に較べると、官僚を指揮したスターリンの方がはるかにまともです。
佐藤 スターリンにしてもヒトラーにしても、アメリカと同じで完全にシビルコントロールでやっています。
藤原 かつての中曽根内閣ぐらい警察官僚がのさばった政権は先進国には他に例がないほどだったし日本の内閣は官僚に操縦されて省益なしです。軍事独裁よりも警察独裁の方が更に悪質でして、幾らソフトでもこのファシズムは危険です。
佐藤 それで、スターリンは独力でノモンハンの戦況を説明して、赤軍がこれほど圧倒的に勝っているのに、こちら側から停戦を申し入れるのはおかしいと言ってから「自分はソ連邦の赤軍大元帥であると同時に、政治家としてこの国の最高責任者でもある」と胸を張ったそうです。そして、次に「ソ連邦の首相として、このたび同盟国になったドイツの外相からの申し入れでもあるので貴殿の顔を立てて同時停戦ということなら受けてもいい」ということで、停戦の内諾を受けたということでした。大島さんの述懐によると、「陸軍のバックがあると信じていたのにそれが裏切られた感じでショックでした」とのことで、これが陸軍が大島中将を騙した話の筋書きです。
藤原 何かの本で、東京からベルリンの日木大使館に送られた暗号電報は、モスクワによって総て解読されていたという記事を読んだ記憶があります。当時の日本人は情報感覚だけでなく情況判断の面でも甘かったのではないか。事実でも都合の悪いことは隠し虚偽の情報で失敗をごまかすやり目は、大本営発表に最もよく現れています。敵を欺くために味方も欺いたというのではなくて、責任逃れの木っ端役人根性の典型といえます.
佐藤 大島大使はヒトラーなどのナチ党幹部に会う度に、勝利を自慢していたでしょうから、それが嘘だったと知った時の無念さは強烈だっただろうと思う。あの人は昔の軍人に共通する実直で命令に忠実な性格でした。



責任感が欠如した政治家たち

藤原 実直性という点で、戦後の大島浩の人間像についてのエピソードはどうですか。
佐藤 大島大使は野村外相の時に大使をやめさせられ、後任には栗栖三郎が任命されたが、次に、野村が駐米大使として日米交渉をした時に、栗栖駐独大使がアメリカに転出し、そこで再び駐独大使を拝命して二度ほど大使を経験しています。それがもの凄い嵐として霞が関を襲った松岡人事の松岡旋風です。
藤原 東郷茂徳駐ソ大使が免官を拒否した、あの松岡旋風の時に二度目の大使になったのは妙な因縁ですね。東郷大使の後任は統制派の政治屋軍人の建川美次中将がモスクワ大使をやっているし……。
佐藤 二度目の駐独大使として大島さんが着任した時には、欧州ではすでにヒトラーのロシア攻略が始まっていて、彼はそのまま敗戦まで日本には戻れず、昭和二〇年(一九四五年)の春からアメリカに拘留されました。また、昭和二三年(一九四八年)の一一月一二日に、東京裁判の判決でA級戦犯として終身刑になります。そして昭和三〇年頃に巣鴨から出獄した時に、吉田茂から連絡があって国会議員になってもらいたいと頼まれたそうです。
藤原 しかし、大島と吉田は犬猿の仲だったはずです。確か、大島が駐独大使として三国軍事同盟締結のために策略していた時に、駐英大使だった吉田茂はロンドンからベルリンを見て、軍事あがりの大島大使の暗躍をニガニガしい気分で注目していたと思う。それなのに、なんで吉田が戦争犯罪人の軍人を代議士にしようと考えたのは奇妙ですね。
佐藤 大島大使がこう言ってました。「吉田君から、参議院に出てもらえないかと頼まれました。しかし、それは筋違いです。勝者が敗者を裁くという前世紀的な東京裁判の復古劇は認めないが、私は日本の国民として運命を誤らせた責任者の一人であることについては、絶対に否定できない。国民に戦争責任を取れと追及されたら、一切文句を言えない人間に、国会議員をやらせようと考えるなんて全くどうかしています。われわれは、連合国に裁かれて獄中生活を強いられたにしろ、誰が判決しようと罪を犯したことは十分に反省して、こうやって巣鴨を出て来た。過去に大きな誤ちをしてしまった私のような人間が、議員になって、一体なにをするというのですか。残る人生は自分の過去の罪を反省するためであり、国家と国民に与えてきた幾多の大失敗は、幾ら謝まっても謝りきれるものではないです……」
藤原 そこまで強く自分の罪を自覚していたとすれば、巣鴨での体験が役に立っているわけです。岸信介や賀屋興宣には、そういう反省の片鱗もない。そして、政界に復帰すると見果てぬ夢を追って、再び反動政治の旗振り役をしていましたね。



派手に踊った売国奴と責任を感じて隠栖する差

佐藤 だから、「賀屋君なんかは政治の表面で再び派手にやっているが、私のような軍人にはあの気持ちは理解できません」と眉をひそめていました。同じ陸軍でも、戦後に見事な転向をやってのけた将軍たちとは一味違ったものがありました。
藤原 鎌田詮一中将や有末精三中将のように、国を売って華やかな転身をとげた将官クラスもあれば服部機関や日高機関のように、外国の謀報機関の下請けになった黒幕グループもあった。もっと下っ端になると児玉誉士夫のような自民党のフィクサーや笹川良一のように博打の親玉になった者もいます。しかし、旧軍人の大部分は大島浩型のパターンで隠栖しており、たとえ犯した罪は大きくても、人間としての誠実さでは格が上かもしれない。
佐藤 そして、ほとんどが貧乏して死んでいっています。大島大使にしても散々悪く言われたが、戦争責任を心から感じていたが故にほとんど弁明せずに口を閉じたまま死んでいきました。巣鴨を出て以来二○年近くの間、茅が崎海岸の松林の中にある父親の別荘に、老夫婦と女中の三人で淋しい生活を送ったのです。
藤原 昭和史の中における、三国軍事同盟の意味を考えると、大島浩という軍人の役割は大変重要なわけだが、彼は日記か回顧録のようなものは残さなかったのですか。
佐藤 あの人はそういうものを残すタイプの人間ではないが、漢詩はよく作っています。八五歳で亡くなる数年前に、ほとんど眼が見えないということだったので、私はあわてて紙を買ってお訪ねし、巣鴨の獄中作を書いてもらいました。

天祥臨死有歌辞
囚裡二田亦和之
正気三篇光万丈
朗吟幽●1独軒眉

1 てへんに監

この詩は獄中に独り死刑を覚悟しつつ、正気の歌を朗吟して、藤田東湖と古田松蔭の二人の偉人たちを偲ぶ、昂然とした心境を詠じたものです。また昭和二三年(一九四八年)、一二月二二日に、東条英機以下七名の戦犯が、巣鴨で絞首刑になった日の朝方に詠んだ作品もあります。

妖雲鎖獄朔風腥
昨夜三更●2七星
暴戻復讐還太古
雪●3何日靖忠霊

2 いちたへんに員
3 冤罪に使われている冤の旧字?

この絶句の忠霊のところがどうもひっかかるが、これは表装してわが家で人切に保存して眺めています。大島大使は号を晶山といったのでその印があり、これは慶応病院で白内障の手術を受ける直前だったので、ちょっと文字に乱れが見えます。大体、私への手紙もほとんど全部が奥様の代筆であり伯爵か小爵の娘さんとして大変筆が立ちましたが、子供が無かったので、晩年は非常に淋しい生活をされていました。
藤原 長時間ありがとうございました。



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