『ニューリーダー』 2005.08月号



《対談》歴史角発掘(上)
正慶孝 明星大学教授
藤原肇 フリーランス・ジャーナリスト




「日露戦争」の時代性検証で「今」が見える
あの時も財政破綻で増税政策が始まった



常に背景を見抜く歴史眼が必要

藤原  数字合わせをするわけではないが、二〇〇五年は色々な意味で歴史の節目です。戦後政治の五五年体制ができて五〇年目だし、第二次世界大戦の終了から六〇周年であり、日露戦争のポーツマス講和から一〇〇年目だから、歴史を振り返る意味でタイムリーな節目になる。「歴史を軽視する者は歴史に足をすくわれる」というが、五五年体制は風化してすでに解体しているし、第二次世界人戦はまだ最近の事件に属するので、生々しすぎる。総括は次の世代の仕事です。
 だが、日露戦争は一世紀を超えて歴史になったから、パースベクティブな目で総括する時期が来ている。また、世界史の流れの中において日露戦争を見れば、まさに帝国主義の代理戦争だったのに、日露戦争についての本は、ほとんどが戦闘行為や会戦が中心であり、その背景を作る時代性についての考察が少ないですね。

正慶 日露戦争は戦闘場面で見る限り、大勝利したことが明らかです。とくに「日本海海戦」や「旅順の攻防戦」では勝ったから、誰にでもわかりやすくて勝利の快感をじっくりと味わえる。しかし、戦争は戦闘行為だけの問題で終わらないし、その背景には政治や経済の間題がある。また、戦争をやった当事国を取り巻く国際関係について、はっきりとした位置づけをする必要があるのに、日本人はどうしても派手な戦闘行為に熱中しがちです。マクロの視点から物事をとらえようとしないで、部分的な届面に感情移入してしまうのです。
 そのほうが訴える力がはるかに強く、日本人には歓迎されるのでしょうが、日本とロシアという、一か国の間題ではなく、世界史の中で位置づけて考えることが必要ですね。

藤原 日露戦争があった二〇世紀の冒頭の時期は、帝国主義的な領土分割が国際政治を支配していた時代です。しかも、「眠れる獅子」の清国が日清戦争であっけなく敗北し、息も絶え絶えの老衰帝国だとわかった。そして、列強による領土分割の対象になって、弱肉強食の争奪戦が繰り返されたわけです。そんな中で、最も獰猛で野心的なロシア帝国が、満州に支配権を確立しようと膨張政策を取ったので、それが英国の世界支配の利害と対立した。
 本来は「名誉ある孤立」を国是にするイギリスだったが、インドとシナ大陸の支配権をロシアから守るために、例外的に日本を相手に「日英同盟」を結び、日本を番犬役に使って代理戦争をやらせ、大英帝国の権益を守った。それが歴史の真相です。

正慶 当時のイギリスはロシアが南下政策を推進したために、清帝国、チベット、アフガニスタン、イラン、トルコ帝国、バルカン諸国などの地域で、つまりイギリスが収奪の宝庫としていたインドを取り囲む地域でロシアと対立した。また、ドイツとフランスが割り込む形で権益の拡張を狙ったし、それに日本と米国が一歩遅れて続いてきた。しかも、イギリスは南アフリカを侵略してボーア戦争をやり、ゲリラ戦に巻き込まれて非常に苦労していた。だから、極東におけるロシアの膨張政策に対して、自力でそれを阻止する余裕がなかった。
 そこで、どうしても日本を味方にする必要があり、「日英同盟」も英国側から日本に話が来たのです。

藤原 それでも、老檜な英国は日本と対等な同盟を結ばずに、日本とロシアが戦争をした時に中立を守るということにした。もしフランスがロシアの側についた時には、日本の味方をして参戦するという取り決めです。だから、危機は中国大陸だし狙いはロシアだったのに、日本人は世界を支配する大英帝国と肩を並べ、列強と対等になったと感激したわけです。

正慶 それでも日本にとっては百万の援軍でした。ロシアとフランスは歴史的にも仲がいいうえに、ロシアはフランスで起債した巨大な資金を使い、軍隊の整備とシベリア鉄道の建設に乗り出し、フランスとロシアが清国とプロシアを挟撃する。この図式が英国とドイツの利害に反していたので、ドイツが英国に攻守同盟の話を持ちかけ、最初の段階では「英日独」の三国同盟で話が始まった。が、最終的にドイツが抜けて日英の二国同盟になった。


借金で戦い 財政難で増税政策へ

藤原 しかも、フランスは国家予算の数倍の資金を投入して、ロシアの国債を買って戦費の用立てをしてやったが、ロシア革命で債権がすべてパーになった。紙屑になったロシア国債を持つフランス人が未だに大量にいる。それと同じことで、いまの日本は米国の財務省証券(Tボンド)を買い、アメリカがやる侵略戦争の戦費を提供している。また、「日米安保」は「日英同盟」とねじれた関係だから、一〇〇年後の今の日本人はフランス人と同じ立場にいる。明治政府の外債に投資した国際金融資本は、日本が勝ったのでフランスと同じ失敗はしなかったが、現在は国際金融資本の位置に日本が立っている。しかも、今のアメリカはロシアと同じような借金大国であり、軍事的には圧倒的な力を誇っているが、他人のカネに頼らないと経済的に破綻してしまう。
 一〇〇年前と現状の比較は興味深い。「日英同盟」があったから開戦に踏み切ったが、もし「日英同盟」がなかったら日露戦争が起きたでしょうか。

正慶 歴史にイフは禁物だといいますが、「日英同盟」がなければ状況は違っていたでしょう。実際に日本政府の内部でも意思統一がなく、伊藤博文や井上馨などは日露協商路線であり、山県有朋や桂太郎は反ロシアに立って、小村寿太郎や有力外交官が英米派という色分けでした。また、ロシアの皇帝ニコライ、一世は侵略的だったが、財政的には軍備増強とシベリア鉄道建設のために、ドィッに借金を求めた。ところが、それを断わられたので、伝統的に仲のいいフランスに外債を買ってもらった。だから、惜金で富国強兵路線を椎進したのであり、財政的には外債発行で戦争をやる状況だった。
 同じように、日本も軍備を整えるのに精一杯であり、海市の軍艦を整備していたので軍事支出が膨張し、国家予算の半分近くを占めていた。そのため、外債を発行してカネを借り集めるのに四苦八苦でした。

藤原 だから、明治の最大の怪物といわれた杉山茂丸が渡米し、モルガン商会から一億トルの借金の交渉をしたのに続いて、高橋是清日銀副総裁が戦費調達のため英米を訪れ、ユダヤ人のジャコブ・シフの知遇を得て起債に成功した。この有名な借金工作物語の背景に財政難があり、日露戦争の前史として存在するわけですね。

正慶 しかも、財源がないのに大きなことを企てる時には、枕詞として「税制改革」という。言葉を使うのが昔からの定石であり、その背後には必ず「増税」が隠れている。日露戦争の前年の明治三八(一九〇三)年には、農商務省ではなく大蔵省が醸造試験場を作っているが、それは酒税が関係していたためで、当時は最大の間接税が酒税収入だったのです。

藤原 酒税収人が主要な問接税だったとは驚きですね。

正慶 今から見るとこれは実に面白い出来事です。しかも、伝統的な杜氏による酒造りの技術に代えて、駒場や札幌の農学校で新しい醸造法を学び身につけた人材を中心にして、近代的な方法で醸造した。ところが、酒が腐って酢になって税収が激減してしまった。それで困った大蔵省は醸造試験場を作り、間接税の増収を図ろうと試みたわけですが、歴史の変わり目に必ず税制改革がくる。実際問題として、「非常時特別税法」で直接税も。挙に二倍に跳ね上げて、臨時という口実で戦費の補充をした。


円はアッシニア紙幣≠ノなる運命

藤原 徳川時代の三大改革は税制改革だったし、それに金や銀の比率を下げた通貨の鋳造が伴い、貨幣価値の切り下げが行なわれている。もっと極端な形は徳政令や棄捐令であり、借金を踏み倒す形の「預金封鎖」になるわけですね。

正慶 それは経済学の用語を使えば「モラトリアム」です。また、税金を確実に取るための巧妙なやり方もある。それは、戦時体制という特殊な条件を口実に使い、昭和一五(一九四〇)年に取り入れた源泉徴収制度で、会社を税務署の窓口にしたものです。税務署員が兵隊になって人手が不足するといって、会社を税務署と直結してしまったのだが、これはドイツの勤労税の考えを真似したものであり、未だに日本の税制は戦時体制のままだ。

藤原 今の日本はひどい財政破綻に陥っているから、増税と「預金封鎖」が次にくるプログラムだ。小泉の構造改革は税制改革の別名であり、郵政民営化の英訳はモラトリアムという言葉で、これは国政を舞台に使った信用詐欺にほかならない。
 フランス革命の時に発行して大暴落で廃止になったアッシニア紙幣が日本円の運命を暗示している。また、ロシア政府が発行した戦費調達の外債の運命が、郵便貯金の未来と相似現象でつながる。

正慶 経済が破綻した歴史を思い起こせば、バブルが弾けた時の竹下内閣以降の日本経済は、実におぞましい泥棒紳士の世界といえる。ミシシッピ事件を起こしたジョン・ロウがやったのと同じで、バブル景気を使った投機と信用詐欺の続発により、魑魅魍魎が横行するようになった。今の日本は、経済的な詐欺師に続く政治的詐欺師の天国です。シュムペーターは企業家≠ネどと言って綺麗なイメージを与えたが、次々と泥棒男爵が装いも新たに登場する。これは、その背後にドロドロした世界が広がっているからです。


資金調達こそ補給と兵站の基礎

藤原 。石油ビジネスの世界ではオイル・バロンと呼ぶが、現在ではロシアの石油ビジネスが横領の舞台を捉供している。ロシアの石油会社のトップはユダヤ人で、金儲けとビジネス支配では絶大な力を誇っている。日本でも孫正義をはじめ竹中平蔵や北尾吉孝のように、英米で錬金術のノウハウを学んだ連中の前では、純情な日本のネイティブはとても太刀打ちできないし、『タルムード』の処世術にかなうわけがない。
 そういえば、日露戦争の時に日本の外債を引き受けたジャコブ・シフは、強い影響力を持つユダヤ人の令融資本家で、ロシアのポグロム(ユダヤ人弾圧)に反発していたので、日本を積極的に支援した。

正慶 国際金融資本家から借りた資金を活用して、日本は兵器や軍艦を手当てして戦争をした。その代表が英国から買った戦艦「三笠」であり、ビッカーズ造船所が作った最新鋭艦として、連合艦隊の旗艦になって大活躍した。当時は軍艦を外国に発注せざるをえなかったが、その後、努力して「大和」や「武蔵」を自力で作っている。これはものすごい自助努力の賜物です。

藤原 戦艦「三笠」は英国の造船所で作った船だが、巡洋艦「日進」と「春日」はイタリアの造船所が、アルゼンチン海軍の注文で作ったのを買い受けて、日露戦争のために日本に運んできた。というのは、アルゼンチン海軍がチリとの戦争のために発注したが、戦争が終わり不用になった軍艦があると英国が教えてくれ、日本はシフが提供した資金を使って即金で買ったものだ。ロシアは分割払いのオファーをしたために、結局は現金払いが決め手になったそうです。
 「日進」は大急ぎでペンキを塗り直して日本に回航したが、その時の艦長は竹内平太郎大佐で、パリの日本大使館で駐在武官だった人です。スエズ運河の入り目にはロシアの軍艦が見張っていて、開戦になれば攻撃される恐れもあったが、英国の軍艦に護衛されたから無事だったし、スエズ運河を経由したのでバルチック艦隊を追い抜いた。

正慶 バルチック艦隊はスエズ運河を支配する英国に邪魔されたので、アフリカを迂回しなければならなかった。また、水をはじめ食料や薪炭の補給を妨害されたので、ロシア人は疲労困憊して対馬沖についたことは有名です。これも「日英同盟」が発揮した威力ですが、こういった支援がとてもありがたかったわけですね。

藤原 日本人は普仏戦争の結果を見て考えを改め、陸軍はフランスからドイツに切り替え、海軍は英国を手本にして整備をしていたのに、海軍大佐がパリにいたというのは興味深い。親藩の松江には幕末にフランス人の教師がいて、竹内人佐はフランス語を学んだ侍だそうです。
 また、竹内大佐の部下として鈴木貫太郎が乗り組んでいるし、日本海海戦で山本五十六も「日進」に乗り組み、砲弾の炸裂事故で大ケガをしたそうです。

正慶 あの時の山本五十六は確か少尉候補生だったと思うが、彼が指を失なったのは「日進」で起きた事故でしたね。また、松江といえば小泉八雲をまず思い出すが、その前にフランス人が教えていたという話は初耳です。ナポレオン三世が徳川慶喜に軍服を贈ったりして、幕府とフランスは緊密な関係だったとしても、そういう郷土史の発掘は実に興味深いですね。

藤原 これは松江に墓参に行って掘り起こした話だが、戦争よりもその周辺にあったエピソードの中に、より興味深いものが埋もれている感じです。戦闘を行なう場合でも補給や兵站が決め手であり、昔から「腹がすいては戦はできぬ」というのに、日本人のサムライ精神は戦闘至上主義で、どうしても戦いの場面に熱中してしまう。また、クラウゼヴィッツが言うように、「戦争は他の手段による政治の継続」であり、政治や外交が非常に大事だが、さらに経済や産業の支援がない限り戦争などやれない。ところが、ハードウエア信仰が強い日本人の多くは、兵器や弾薬などを中心に戦争を考え、戦争のソフトな領域に対して軽視しがちだ。それは強兵に変えて富国を国是にしてきた、戦後の日本の社会においても同じです。


宇宙空間をメディア化した初の戦争

正慶 それが「戦記もの」の氾濫を生んでいて、日露戦争というと「日本海海戦」や「旅順要塞の攻防戦」になり、東郷元帥や乃木大将の神社までできてしまう。それだけでなく、奉天大会戦で勝利した三月一〇日が陸軍記念日になり、対馬沖で大勝利した五月二七日は海軍記念日になった。戦前の祝日は戦勝の日を記念する形で、近代化の一つのシンボルにしたわけです。
 また、日露戦争で日本が勝ったとはいえ辛勝であり、勝利は戦場において決まるわけじゃなくて、情報や外交とか戦場の外で決まる。実際には、日本軍は予備の兵力も資金も枯渇した状態にあり、国力を使い果たす寸前だったけれど、米国のセオドア・ルーズベルト大統領が仲裁してくれたおかげで、かろうじて戦勝国の立場で休戦できたわけです。

藤原 しかも、敗戦国のロシアは十分な余力を残しており、皇帝のニコライはこれからが本番だと思っていたから、賠償金や領土の割譲は拒絶し続けていた。また、常備軍ではロシアが日本の五倍だったから、満州に一〇〇万人も結集して再挙を図っていた。しかも、兵器の量でも質でもロシア軍が圧倒的な差をつけ、機関銃まで駆使してはるかに優勢だった。
 一方、日本兵は森林太郎の誤った医学的判断のために、脚気の死者が戦死者の四倍もあったという。

正慶 あの森林太郎のミスが乃木大将を死に至らしめたのに、責任追及は行なわれなかったのはひどいことだ。一〇〇年経った今頃になってやっと告発されたのは、いかに官僚の無責任を放置しているかを物語るものです。一〇〇年という長大な時間の経過を経、歴史のフィルターを通して判断しない限りは、正しい総括が始まらないということでしょうか。

藤原 日本としては勝つだけで精一杯だったし、ロシアに勝利したという満足感に陶酔して、きちんとした総括をしないですませてしまった。しかも、戦争に勝っても日本は国力を消耗し尽くしていた。海軍が対馬沖海戦で大勝利して、勝利の気分が盛り上がってはいたが、弾薬も戦費もすっかり使い果たして、戦争を継続する力はもう残っていなかったのです。

正慶 だが、政府はその事実を国民に隠していた。そのために日本が勝ってロシアが惨敗したと思い込み、ポーツマス条約が調印された日に、賠償金が取れなかったことに激昂した国民は、暴徒化して大臣官邸や交番を焼き討ちした。これが五日間も荒れ狂った有名な「日比谷事件」であり、軍隊が出動して戒厳令の発動になっている。

藤原 右翼の頭山満や河野広中代議士たちが扇動して、政府を腰抜けだと決起大会を組織したわけです。情報の隠蔽と噂によるデイスインフォーメーションの横行が、こうした騒擾事件を生む原因になったという点では、情報操作の恐ろしさを実感させられる。

正慶 情報の面で日露戦争はエポックメーキングであり、バルチック艦隊がどこを目指して進むかを想定するとともに、現在位置がどこかを知ることが死活問題だった。二〇世紀とともにマルコニーが新しい通信技術を発明し特許を取ってその実用化がちょうど始まっていた。それが海上における船の通信手段として使われ、日露戦争の死命を決したのです。
 有名な「信濃丸」がバルチック艦隊を発見して知らせた「敵の艦隊見ゆ」という通信とか、東郷元帥が大本営に打った「天気晴朗なるも浪高し」の無線は、すべて新時代の技術(テクネ)を最大限に使ったものです。今の時代で言うとインターネットの始まりで、原始的な携帯電話の元祖に相当する。まさに情報化時代の幕開けを告げるものでした。

藤原 人問が自然などの外部経済に働きかけるために、文明を通じて発達させた技術がメデイアであり、タイムリーな無線電信の発明と普及が、日露戦争の勝因の大きな要素だったといえる。しかも、その新技術が情報だという意味において、空間をメディア化した日露戦争の果たした役割は、情報化時代の夜明けを告げるものでした。
 折りしもフロイトの精神分析が登場したばかりだし、電子時代の主役の真空管も発明され、マスメディアが支配力を奮い始めた時代です。情報の側面で日露戦争を掘り下げることによって、二〇世紀の本質が解明できるのではありませんか。

(次号に続く)


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