『ニューリーダー』 2005.10月号



《対談》歴史角発掘(下)
正慶孝 明星大学教授
藤原肇 フリーランス・ジャーナリスト




国家の興亡は一にかかって人材≠ノあり
使命感と緊張感に漲った「明治の留学生」



「上り坂の頂点」としての日露戦争

藤原 二○世紀とともに始まった日露戦争は、ペリーが浦賀沖に来て大騒ぎした日本が、半批紀で近代的な国民同家を形成し、ロシア世界帝国を相手にやった近代戦争です。ハードの側面で見ると「富国強兵」だが、ソフトで見ると「文明開化」であり、啓蒙思想から専制支配への移行の形で、フランスの大革命からナポレオン独裁期までに、小規模だが歴史の相似現象が読み取れます。

正慶 上り坂の頂点の位置に日露戦争があったから、司為遼太郎は『坂の上の雲』と名づけたのだと思うが、日露戦争から後の半世紀が大日本帝国の衰亡期です。見上げた雲に日本人はロマンを感じるし、無謀な負け戦だった太平洋戦争よりも、日露戦争に郷愁を感じて感情移入するのです。

藤原 そうですね。同民国家の形成という観点でとらえれば、確かに国づくりへの上り坂だった。だが、「国家は個人という目的に奉仕する」というロックやルソーの思想からすると、上り坂の後半は自由民権運動や思想を弾圧して、薩長による藩閥政治が君臨した強権支配の時代でした。

正慶 国を中心にするか個人を中心に見るかで、明治時代についての評価が異なるが、藩閥という言葉は政治について使われ、その弊害についていろいろと言われている。それに、日露戦争の主要な発場人物では、ほとんどが薩長出身者で構成されている。山県有朋や児玉源太郎を筆頭に乃木希典や桂太郎は長州閥の軍人だし、大山巌や東郷平八郎は鹿児島の出身です。

藤原 ほとんどが戊辰戦争や西南戦争の体験者で、幕府側の人間はジャーナリズムに陣取り、政府に対して批判的な原論活動をした。しかも、興味深いのは二〇世紀が始まった一九〇一年に、福沢諭吉と中江兆民が亡くなっている。福沢諭吉は日本のヴォルテール役を演じたし、中江兆民は東洋のルソーと呼ばれた思想家だが、日露戦争の直前に亡くなったのは意味深長です。

正慶 今の指摘は非常に承要だと思う。日露戦争の直前、明治の上り坂の時期に、日本の啓蒙活動の中心的役割を演じ、「富国強兵」と「文明開化」を指導した二人の、巨人が死んだことは象徴的です。
 二人は幕末の混乱に巻き込まれないで、ともに長崎に留学した体験を持っている。外国に出かけて見聞を広めた体験を生かしながら、明治の日本人に絶大な影響を与えた。英米派の福沢が実学を強調したのに対して、フランス派の中江は哲学や社会思想が中心でした。

藤原 明治の日木が国づくりをするに際して、情報や思想というソフトな向で見た場合に、英米派とフランス派の違いは興味深い。しかも、政治や軍事はプロシアの影響を強く受けて、日露戦争にのめり込んだ。つまり、人材育成のための留学について論じることで、日露戦争のソフトな面を浮き彫りにできるわけです。


福沢ヴォルテール対中江ルソー

正慶 それは簡単に片づけられる問題ではないが、福沢と中江をヴォルテールとルソーに比較すると、年齢的にも世代が半分くらいズレていて、一五年くらいの差の先輩と後輩の関係ですね。しかも、ルソーはヴォルテールを手本にして学んだのに、ヴォルテールはルソーを小僧扱いして嫌っており、中江も福沢に尊敬の気持ちを抱いていた。だから、中江の『一年有半』の「近代非凡人三一人」に、西郷隆盛や勝海舟とともに福沢が入っているが、福沢は中江に関しては不思議にも黙殺しています。

藤原 あの、三一人の一覧表にある顔ぶれが痛快だ。義太夫唄いや相撲取りが半分も占めるが、リストに伊藤博文や山県有朋は人らないと、わざわざ断わり書きをしているのが面白い。あれがフランス流のエスプリであり、『一年有下』はモンテーニュやパスカル的な随想録なんですよ。

正慶 中江兆民が得意にした漢文調の文体が、実学を主張してわかりやすい文章を好んだ福沢には、きっと生意気だという印象を与えて、黙殺ということになったのかも知れません。ヴォルテールも貴族や知識人と交友して、上流社会と深く結びついていたが、福沢も実業界や政界に知人が多かったから、反権力の立場で過激だった中江には、親近感が湧かなかったのかも知れませんね。

藤原 二人は同じように長崎に留学しているし、中江は江戸に出てフランス語を勉強して「岩倉遣欧使節団」が伴った学生の一員になり、フランスでの留学体験を持つことになる。それに対して福沢諭吉の場合は、横浜でオランダ語が通じなくて、あわてて英語に切り替えたエピソードが有名だが、幕府の著書調所に入門して英語を学び、アメリカに行くチャンスをつかんでいる。

正慶 チャンスが転がり込んできたのではなく、「咸臨丸」がアメリカに行く話を聞いた福沢は、どうしても外国を見たいと考えて、蘭学の先生の箕作阮甫に紹介状を書いてもらい、軍艦奉行の木村攝津守に頼み込んで、家来として連れて行ってもらった。同じような挑戦を中江兆民も試みており、政府が欧米視察団を派遣すると聞き込み、中江は大久保利通の門前に日参して、留学生の一員に加えてもらう努力をしている。

藤原 皆がそうやって苦労して海外に出かけたし、志を持って留学したのに較べると、今の留学はあまりにも簡単すぎる。ロスアンジェルスなんかでの留学の実態はまったくひどいものですよ。


時代が生んだ逸材たちの「志」

正慶 危機の時代は人間を奮い立たせるが、幕末から明治の初めにかけての時期に、あれだけ若い人が勇気を持って決起し、学ばなければいけないと志を立てたのは、カルチャーショックを受けたせいですね。

藤原 それは幕末に限らずあらゆる時代に共通で、大陸文明からカルチャーショックを受けたから、遣隋使や遣唐使を派遣しているし、使節団とともに留学生を送り出している。空海の場合はあまりにも実力があり、二○年の留学予定を、一年で切り上げて戻っているが、あれも時代が生んだ逸材のケースです。

正慶 留学で科学や技術を摂取しただけでなく、向こうから優れた人物を教師として招き、お雇い外人を活用して技術移転をして、実に相互的なんですね。

藤原 仏教は古代におけるサイエンスと哲学であり、それをシステムとして制度の形で導人したので、日本の文明化の原動力になった。

正慶 テクネ(技術)とテーミス(正義)の問題として、空海は土木技術と密教の両方を持ち帰っている。このバランス感覚がとても大事なんですね。

藤原 テーミスという意味では憲法の問題が象徴的で、聖徳太子は「一七条の憲法」を作っており、伊藤博文や金子堅太郎は「明治憲法」を作っている。

正慶 憲法はコンスティテユーションで国の形を決めるもので、文明の高い所から低い所に理念が移動するから、聖徳太子の思想は向こうからきた可能性がある。

藤原 でも、今の日本の改憲論には理念やビジョンがなく、第九条を変える租度の技術論に終始して、新理念の「国の形」とは無関係だ。また、今の日本人の留学生は修士課程が圧倒的で、教養より技術習得に偏向している。知識人として吉備真備や阿倍仲麻呂のような、留学先の水準を超える人は少ないですよ。

正慶 阿倍仲麻呂は船の難破で帰れなかったが、日本人で科挙に受かった第一号だと言われている。国立図書館長として李白や王維と交わり、玄宗皇帝に仕えたのも有名な話で、日本人の留学生の代表的な存在でした。

藤原 阿倍仲麻呂と関係あるかは知らないが、安倍晋三は、ロスアンジェルスの南カリフォルニア大(USC)の単位取得はゼロで、外国人学生向けの英語のクラスだのに、USCの政治学部留学としていた。また、小泉純一郎は、ロンドン大学(NCL)の取得単位はゼロだのに、ロンドン大学経済学部留学としたように、世襲政治家のハクつけ留学が目立っている。

正慶 外国に留学して何かを学ぶのはいいが、最近は使命感や緊張感に乏しくなっている。中には相手国の影響に完全に染まったり、手先のようになってしまう留学生も多い。しかも、教育という言葉が誤解されており、知識を教えて育てると理解されているが、エデュケーションの正しい訳は開智です。

藤原 開智という言葉の背景にある思想は、セルフ・ヘルプの自律自尊です。

正慶 そうです。開智は自然治癒力と同じ免疫力の一種で、エデュケーションは免疫力を高めるための営みだ。昔の日本人は免疫力を高めために留学したのです。


危機意識と力ルチャーショックと

藤原 面白い観点ですね。国家の興亡はすべて人材にかかっている。人材育成で免疫力の強い人間を育て上げ、優れた人物が「適材適所」で場を得れば、どんな危機でも乗り切れる。しかし、ダメな人物が率いると亡国になる。幕末という危機の体験で自らを鍛え、実力をつけた指導者たちが育った。そこへ日露戦争という人材活躍の場が生じ、あれだけの国難が乗り切れたのです。

正慶 危機の時代は人間の心を奮い立たせる。幕末にあれだけ若い人材が志を持って脱藩し、自ら学ぼうと覚悟を決めた背景には、カルチャーショックを体験した緊張感があった。それが内発的なエネルギーを生んだのです。

藤原 その第一波が蘭学による西欧文明との出会いだ。時代に鋭敏な日本人が長崎に留学して学び、その蘭学者が江戸や大阪で蘭学塾を開き、それが適塾や慶応義塾になっている。そして次に、欧米に直接出向く留学になる。 その意味では、福沢諭吉の人生がその標準モデルだが、権力を利用した福沢諭吉に対して、個人の力だけで留学体験をした日本人に、京都で同志社大学を作った新島襄がいる。彼は海外に出るのが国禁だった時期に、函館から密航してアメリカに渡っている。これは破天荒の海外雄飛だと思います。

正慶 新島襄は船底に潜り込んで上海に渡り、次にボストンに行き、アムハースト大学を卒業してから神学校まで出ている。彼を「遅れてきた吉田松陰」と呼ぶ人もいる。吉田松陰はペリーが浦賀沖に来た時に密航を企て、国禁を犯した罪で処刑されている。松陰の密航の失敗が一八五五年であり、新島の密航が一八六〇年だった。この五年の差には大きな意味があると私は感じるのです。

藤原 そうでしょうか。明治政府が薩長の藩閥政治であったし、伊藤博文や山県有朋が松下村塾と関係したので、吉田松陰のエピソードは失敗が美化されている。佐久間象山に松陰が相談している時点では、世界に出て見聞を広める目的もあったが、それは気持ちの半分ではないだろうか。そして、もし艦長と会うチャンスがあったなら、思い切って刺そうという狙いを持っており、松下村塾はタリバンと似た教育をした一種のテロリスト養成所ではないかと思いますが……。

正慶 それは面白い見方ですね。その点では、吉田松陰はブランキストの一派であり、革命家というより一揆主義者という感じです。

藤原 孟子を読めば「湯武放伐論」になるわけだが、吉田松陰は激情家ですぐに行動に移すから、優秀な久坂玄瑞や高杉晋作は自爆したし、伊藤博文はイギリスの公使館を焼き討ちしたうえに、国学者の塙次郎を暗殺したテロリストでした。


「密航留学」で育った人材たち

正慶 攘夷思想が燃え上がったあの時代には、何があっても不思議でない。グラバーの手引きで井上馨と英国に密航し、留学生として短期間だが世界を見たことで、ものの見方が変わった可能性もある。それにしても、密航の手引きをした長崎のトーマス・グラバーは、貿易商社のジャーディン・マセソン商会の代理人だが、幕末の黒幕として実に重要な存在ですね。

藤原 そうです。長州の伊藤博文や井上馨の密航に加えて、薩摩の若者を一五人もロンドンに密航させている。そして、二つの留学生集団がロンドンで出会うが、薩摩組がロンドンに到着した一八六五年の春には、前年に起きた下関砲撃事件のために、伊藤と井上はすでに日本に帰っている。

正慶 じゃあ、すれ違ったわけですね。薩摩藩の密航組は串木野から出発して、その中には森有礼や五代友厚などがいた。森有礼はロンドン大学を卒業しており、日本人で最初の法学士だと言われている。

藤原 ロンドンの森有礼の足跡は実に興味深い。彼はローレンス・オリファント下院議員と親交を深めるが、この人は英国公使館の元書記官で、生麦事件で傷を負ったが親日家なんです。そして、森はオリファントの紹介でトーマス・ハリスという宗教家に会う。神秘主義のスエーデンボルグを信奉するハリスは、新生同胞社(ブラザーフッド・オブ・ニューライフ)の教祖として森をクリスチャンにし、新しい村(宗教コミュニティ)を作るために米国に渡る。

正慶 森有礼は日本語廃止論や契約結婚をしたことで、熱心なクリスチャンとして暗殺された文部大臣だが、ロンドン留学中に入信していたのですか。

藤原 そうです。ロンドンの日本人留学生たちのうちで、森がアメリカに渡る時に一〇人近く一緒に行動し、ニューヨーク州で新しい村作りに参加したが、金銭間題のトラブルを起こして分裂して、それで森は郷里の鹿児島に帰ったのです。ところが、半年後に東京政府から呼び出しがあり、日本で最初の代理公使に任命された。この時にワシントンに来た新島襄が、「自分は国禁を犯して国を出てきたが、日本に戻れるか」と相談して、森にパスポートを発行してもらっている。森有礼も国禁を犯してロンドンに密航しており、そんなこともあって二人は親交を結んだようで、何か若々しい息吹が伝わってくる話です。

正慶 確か新島襄は自然科学を学んでいるが、正規にアメリカの大学を卒業した最初の日本人であり、宗教学の修上課程を終えた秀才です。最近はベンチャーというと金儲けの話ばかりだが、あの頃は知的な冒険家の日本人がいて、精神の冒険に挑む若者が留学生になり、新しい時代を切り開いていった。

藤原 今の日本はベンチャーが詐欺の舞台になり、ペテン師たちが支配しているからダメなんだが、新島襄の密航は自発的だからすごい。しかも、一八七二年(明治五年)二月に「岩倉使節団」がワシントンを訪問した時、新島は森に頼まれて通訳を引き受けて、ヨーロッパ各国を旅行して見聞を深めている。

正慶 岩倉使節団は団長が右大臣の岩倉具視で、その下の副使には参議の木戸孝允をはじめ、大蔵卿の大久保利通、工部輔の伊藤博文、外務少輔の山口尚芳を揃えており、一等書記官から四等書記官を含めると五〇人近い政官界のトップを参加させている。それ以上に興味深いのは六〇人の留学生で、大量の若者を留学生として伴っていた背景には、実に壮大な決断があったと思うんです。

藤原 その通りですね。小学生の年齢の子供まで留学させていますから……。


「岩倉遣欧使節団」の華麗な面々

正慶 公卿や旧藩主の子供も連れていったが、金子堅太郎、団琢磨、中江篤介(兆民)、牧野伸顕(大久保利通の次男)など、その後の日本で活躍した顔ぶれがいる。 また、北海道開拓使が派遣した五人の女予留学生たちの中には、後に津田塾女子大を作った津田梅子の満七歳をはじめ、山川捨松の一〇歳とかすごい若さの少女がいる。津田梅子は一〇年以上もアメリカに住んで帰国し、日本語をほとんど忘れていたそうです。

藤原 彼女は再渡航してフィラデルフィアで女子大を出たが、この町には野口英世、内村鑑三、新渡戸稲造などが留学していて、ボストンと並んで日本人留学生が多かったそうです。

正慶 内村鑑三ぽ新島襄と同じアムハースト大に学んだが、あそこは札幌農学校に来たクラーク博士の母校だし、内村と新渡戸はクラーク博士の弟子だ。

藤原 二人とも博士の影響でクリスチャンになった。クウェーカー人脈なんです。

正慶 だから、日露戦争には命を懸けて反対したのでしょう。

藤原 女子留学生の一人、山川捨松の話だが、彼女は名門のパサー女子大を卒業して帰国し、日露戦争の総司令官の大山巌と結婚したので、英語、フランス語、ドイツ語をしゃべる貴婦人として、「鹿鳴館の華」という評判を得ている。

正慶 山川捨松の幼名は咲子だったのだが、母親が渡米前に一度は娘を捨てるが、帰ってくるのを待つ」と言って、捨松という名前にして送り出したという。
 山川捨松は会津の家老の娘で、夫の大山は会津の鶴ヶ城を砲撃した隊長です。そのとき、城内の総司令官であった兄の山川大蔵は戦死し、兄嫁は砲弾のせいで死亡している。上の兄の山川健次郎は東大総長になった大学者で、山川家は捨松の結婚に大反対だったから、結婚は難しいと考えられていた。ところが、大山巌が一目惚れしてどうしてもと言ったので、捨松は決断して後妻になったようです。

藤原 とても強烈だが素敵なエピソードですね。

正慶 大山厳は渺茫とした軍人で、日露戦争の時も、総司令官として、児玉源太郎参謀総長を全面的に信頼していた。その大山はすでに普仏戦争に観戦武官として渡欧し、帰国してから少将になった。それなのに、また留学に出かけている。砲兵ならナポレオンがいたフランスだのに、どういうわけかジュネーブに四年も住み、西南戦争の直前に帰国している。

藤原 ジュネーブの下宿は西園寺公望がいた家だし、リヨンで中江兆民と会っていた形跡もある。岩倉使節団がパリを訪問した時には、パリで大久保利通と会ったりして、実に不思議な行動をした軍人です。
 アコラス教授の私塾に学んだ、西園寺公望は、クレマンソーと親しくつきあったが、最後はパリ大学法学部を卒業しており、中江兆民を同じ私整に通わせている。また、渋沢栄一がパリで実地調査をした話とか、大山巌が西園寺に借金した件など、その頃の留学生たちの体験は実に興味深い。
 それにしても、日本の政治に準じたのか、質的にも量的にも、最近の留学生の質が低下しているのは、成金や世襲議員たちの遊学が関係している。現にハーバードやスタンフォードの教授も嘆く通りで、中国や韓国の留学生に圧倒されている。「明治は遠くなった」と痛感させられます。


言論というソフトが国を救う

正慶 日本が豊かになりすぎたため、危機意識とハングリー精神がなくなり、藤原さんを嘆息させるのでしょうが、行く手に日露戦争並みの危機がありますか。

藤原 もっと大変な危機が待ち構えているのに、国難を乗り越える指導的な人材がいないし、期待できるトリオが不在なのです。大山巌は西郷隆盛の従兄弟の軍人で、大山と児玉のコンビが日露戦争を勝利したというが、私は夫人の大山捨松を入れたトリオによって、日露戦争は勝者の立場を得たのだと思う。
 というのは、日露戦争の時に大山捨松夫人は、アメリカの週刊誌やロンドンの『タイムス』紙に寄稿して、日本の立場について訴えている。ロシア軍と戦う日本の総司令官の夫人が、米国の名門女子大出身だと評判を集め、アメリカから支援の声や寄付金が届いた。これはモリソン記者の女性版の原論活動だ。

正慶 あの『タイムス』紙上で日本を支援する記事を書いて、国際世論を引き付けたモリソン記者に匹敵する。藤原さんは彼女をそう評価するわけですか。

藤原 その通りです。世界の政治は正しい発言を大切にするし、それが国際世論として影響力を持つ。政治家や軍人だけが政治を動かすのではない。
 そのいい例は太平洋戦争が残した教訓です。蒋介石夫人の宋美齢は名門ウェズリー女子大の卒業生で、米国のエスタブリッシュメントに君臨する人の夫人が同窓生として、宋美齢を支援して反日に動いた。だから『タイム』誌のハリー・ルースをはじめ世論が反日でまとまり、大日本帝国を滅亡させてしまった。
 このような言論というソフトを日本人は軽視するが、優秀な人材を留学させて磨きをかけて、国力にするという努力が絶えて久しく、カネをばら撒くことだけ考えている。
 だから、岩倉使節団が留学生を伴って出発し、若い日本人に学ぶ機会を提供したことが、日露戦争という国難の時に対して、貴重な布石になっていたと気づく必要がある。それが「人は石垣、人は城」の教訓だと思う。


正慶孝氏(右)と藤原肇氏(左)

(完)


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