『週刊ダイヤモンド』 1992.07.25号



蜃気楼の情報大国・日本の行方

経済の基盤支える情報システムに致命的な障害




国際問題コメンテイター  藤原肇(在米)



なぜ日本は景気の読みを誤ったのか。なぜ日本は世界一の黒字国でありながら豊かではないのか。その根源は情報の風通しの悪さと情報の意味を正しく判断する"インテリジェンス"が日本にないためだ。だから世界のなかで日本が置かれている立場の深刻さに明確な認識を持てない。石油開発の専門家としても活躍中の藤原肇氏は知識集約の情報革命の意味を正しくつかんで蜃気楼的な経済大国を克服すべきであると説く。


情報社会の生きたソフトウエアとは

 新しいタイプの問題がいくつも発生してきている。しかし日本人は、こうした問題のスムーズな解決ができるのだろうか。
 例えば、知識集約型の経済社会がすでに始まりつつあり、知的所有権、行政単位を超える電波メディア、ボーダーレス経済などはその枠組みのなかから出てきた。
 こうした未来型の問題に対処する決め手は、新しい産業社会をマネージするソフトウエアだが、ソフトウエアはコンピュータを動かすプログラムだといまだに多くの日本人が思い込んでいる。情報に対する日本人の問題意識が甘く、情報とは何かという議論も体系付けて行なわれていないし、それが人々の間でコンセンサスを得るに至っていないからでもある。
 日本語の情報という言葉には2つの意味がある。まずこの区別からスタートすることが鍵になる。英語のインフォメーションに相当している素材としての資料や生のデータによる一次情報と、それに区分や評価を加えシステムにまで組み込んだ処理済みの二次情報としてのインテリジェンスを識別すること。日本では情報はほとんどインフォメーションの意味で捉えられているが、そのこと自体にしても日本人の情報についての理解と運用は偏っており、図示したように情報の流れも情報後進型のパターンを示している。
 情報の流れには、図のように3種類があり、しかも社会の歴史的な発展段階に対応している。
 左側の絶対主義型は情報の流れが一方的で、トップが吸い上げる力が強ければ情報は速く流れるし、上意下達として命令も素早く伝わる利点があるので、独裁型の政治体制はこのシステムを基盤とする。だが情報は一方通行でフィードバックがないから、伝達速度は速くても頭脳中枢に相当する部分の質がよくないと、情報の循環が阻害され急激な破綻が起こる。
 このパターンを維持しているのは旧ソ連や中国、北朝鮮などだが、戦前の軍国日本やナチス・ドイツも同様だったし、官僚統制の強い全体主義国はこのモデルを好む。
 旧ソ連崩壊は経済的な行詰りが決め手になったにしろ、その経済の基盤を支える情報システムに本質的な問題があった。伝わるべき情報が支配層の独占で流れなかった結果、システムとしての社会が貧血と窒息状態に陥って、経済破綻の顕在化を通じて"ご臨終"に至ったのである。情報がまともに流れなければ経済は機能しないが、それは金融制度や国営企業といった次元ではなく、産業社会の生理という基本にかかわる、情報のフローとフィードバックの機能障害の問題なのである。
 地球の生態系におけるフローとしての水、人体の生命現象における体液と神経機能の役割を考えれば、地球と人体の中間に位置する社会の情報フローの問題は、最優先で考えるべきテーマである。





利権を生む日本の情報の特性

 図の中央にある封建制型モデルは、日本をはじめイタリア、台湾、韓国、中東諸国まで多くの国で見られる。官僚支配が強いのが特徴だ。図のように下部である程度、横の交流があるから多少のフィードバックが行なわれているが、全体としては上下間の流れが強い。
 この封建型の情報フローを持つ国では、情報それ自体が利権として機能しており、情報にアクセスする機会の多さ=権力となるため、政治家と役人が中心になって支配機構が成立している。
 例えば日本の場合、霞が関周辺に結集している政府官庁は情報センターの役割を演じ、記者クラブ制を背景にメディアを統括している。同時に高級官僚は政府与党の予備軍として、官僚機構が集めた情報を優先的に与党議員に提供することで長期にわたる一党独裁に寄与してきた。与党の族議員はその情報を選挙地盤のどぶ板政治の実現や支持団体の補助金配分に活用し、税金を政治的な権益に仕立て上げてきた。こうした連係プレーが官・政・財の3界を結ぶ三位一体システムの確立に貢献し、設備投資最優先という富国政策を通じて産業界が大きな恩恵に浴した。
 その結果、貿易収支のうえで国富は富んでいても、実感として個人の生活は豊かさを伴わず、中身の曖昧な"生活大国"を政治スローガンにする奇妙な成金国家が出来上がってしまった。その元凶は情報の利権化にある。
 日本の経済システムと税金配分のメカニズムを、巧みに新しい利権に仕立て上げ、いかにも役人が公共財産を公平に管理しているように見せ、利権創出の場をカモフラージュしたのが、役人の天下り先である政府の外郭団体――公団や事業団の名称を持つ組織体だ。
 統治行為が利権の運用になっているため、高級官僚は政治に癒着し、選挙地盤も利権化して遺産相続されている。かくて代議士の過半数が退職官僚と二世議員で占められ、政治家というより政治業者が国会を占拠し、利権の争奪に明け暮れているのが日本の政治の実情では、国民は救われない。
 図の右側の自由制型は理想のモデルだが、情報が完全なネットワークのなかで流れている。この形に近いのは、情報公開の原則が確立している米国その他北米諸国および民主主義を国是とする一部の西欧諸国だけである。公文書に関して国民のアクセス権を規定した憲法を持ち、1766年以来の情報公開の伝統を誇るスウェーデンに比べると、米国はまだ理想モデルを体現しているわけではない。
 それでも、米政府は情報公開への強い伝統を持ち、1946年には政府情報を公開する行政法をつくり、66年には「情報の自由法」が成立しアクセスが承認され、74年には外国人でも請求ができるようになり、75年の「プライバシー法」で市民は自分についてのファイルも閲覧できるまでになった。
 情報は、水や空気や食物と同じコモディティーだから、円滑に流れることで社会が健全に機能すると考え、循環が大事だとするこうした姿勢は、公共の利益に反する場合に秘匿を例外的に認めるにすぎない。ところが封建制型の日本では、情報それ自体が利権になり、アクセスが職務権限と結び付いて権力となる。それは外交問題に影響し、情報が太平洋の上を円滑に流れていないため、日米間に見られるトラブルの種を生み、不必要な緊張を高めてきた。日本の最優先の課題は、情報公開による利権政治の克服である。
 商品は集中豪雨的な輸出を繰り返すが、情報に関しては秘密主義で、外に出そうとせず、わがもの顔でアンフェアなやり方を貫く日本人は、外圧をかけないと態度を改めないと決めつけられている。しかし、日本人の多くは国内のメディアを通して世界を眺めているだけにこの決めつけの持つ重大性に気づいていないばかりか、逆に相手に落ち度があると考えてしまい、問題をさらに複雑にしている。


意味と価値を忘れていないか

 もう1つの問題は、コミュニケーションである。対等な議論をするには、相手の土俵に上り、世界に通用するルールにしたがって、衆目の監視するなかではっきり意見を主張し、自分の正当性を認めさせる必要がある。
 手続きをキチンと踏まない限りメッセージは伝わらないし、主張の背後に明確な根拠や理論がなければ説得力を持ちえない。実力競争が原則になっている国際舞台では、人間としての力量(哲理、実績、誠実さ)が決め手である。
 素材としての1次情報を相手に公開し、自分が主張する根拠と立場を明確にする。実はそれが「ネゴシエーション」のプロセスであり、外交の基本となるものだが、日本の政治家や役人のそれはほとんど「バーゲニング」にすぎない。バーゲニングは自分に都合のいい方向で話をまとめ、取引を成立させることが中心になっている。ネゴシエーションは戦略的に問題を設定し、どこまで相手の立場を認めて歩み寄りを行ない、互いに最大限の利益を確保し合うかが重要であり、その接点を見つけ出す努力の過程を大切にする。
 決定を小出しにするバーゲニングでは、肝心なときに発言を欠いて相手の信頼を損ない、ネゴシエーションにならないで終わる。
 もう1つ見逃すことができない重要な問題として、日本人が軽視しがちな"セマンチックス(意味論)"がある。ある言葉がどんな内容を規定しているか、その枠組みをより大きな次元で位置づける作業において、日本側の訓練不足が目立っている。
 セマンチックスは、価値の議論を内包するもので、歴史のなかで同じような概念がどんな使われ方をし、現在に至るまでどう変化したかという点で、歴史を知ることに結びついている。だから普遍的な価値の意味づけをするためにも、歴史を知りその意味を総括することが大切なのだが、日本人は歴史の総括が苦手な民族である。
 現在、日本では織田信長がブームだが、あれは歴史ではなく歴史物語にすぎないし、最近まで賑やかだった徳川家康や三国志にしても、フィクションと史実を混同している傾向が濃厚だ。歴史と歴史物語を同レベルで考えてしまい、主人公の行動や喜怒哀楽に感情移入するのは、歴史の意味がわかっていないせいではないだろうか。


いまだはじけていない日本経済のバブル

 現在の日本で意味論的にまず問題になるのは、すでに「はじけた」と形容されているバブルのことである。希望的観測を好む気持はよく理解できるが、バブル現象に関しての科学的な観察によると、バブル構造は1000や2000の泡から成り立っていて、その表面ではいつでも20や30の泡が炸裂しており、熱の高まりとともに泡が自己分裂を続けるし、さらに熱が加わることで増殖を繰り返すものである。
 表面の泡が10や20個の単位で破裂しているのは、バブルにとっては極めて当然の生理現象であり、表面に現われたいくつかの泡の炸裂を見て騒ぐのは軽率である。 バブルがはじける現象は、泡の発生を支配していた熱力学的な条件がなくなり、内部のポテンシャルが急激に低下するために、それまで何千と存在していた泡が消え去ってしまうことを指す。
 日本型バブルの「財テク」や「地上げ」が本格化したのは、中曽根内閣時代の80年代半ばであり、巨大な累積赤字を持つ国営事業の民営化を口実に、いかにも効率のよさそうな響きを伴った、「民活」というキャッチフレーズで飾り立てられ、腰の重い経団連の土光会長までが駆り出された。だが、それが新しい利権の造成にすぎないものであり、日本の不均衡な投資体質を改めるものでなかった点は、その後に姿の一部を見せたリクルート事件の黒い霧が証明した。国有財産の払下げには必ず汚職が結びつき、構造的な疑獄が繰り返し発生したことは、北海道官有財産払下げ事件のころから続く日本の伝統だ。
 だから,国鉄や電電公社が現代版の「南海会社」として仕立て上げられ、前代未聞の巨大バブル発生のタイミングに合わせ、NTT株の放出が大蔵官僚によって実施された。87年春の第1回の放出は100万円余りの価格だったが、2回目の時は1株200万円を上回る値段で売りに出し、大蔵省は合計で10兆円もの資金を集めた。
 当時は英国のサッチャー内閣も民営化を推進しており、日本のNTTに先立ってBP(ブリティッシュ・ペトロリアム)の株を放出したが、英国では1度に全株を売りに出している。ところが、日本の大蔵省は値上がり具合で小分けに放出するというし、上場を急ぐため証券法の規定を破ったほどだから、うさん臭いにおいが漂っていた。
 それにしても、アラスカや北海の石油利権を持つ天下のBPの資産評価が、NTTの5分の1というのは納得がいかなかった。株の放出量が増えれば需給関係で安くなるが、民営化の放出は英国式に1度にやるのがまともなのに、大蔵省は株屋の向こうを張るようにして、投資家に対して高値で売り抜けて大儲けしたのである。
 国土に地下資源がほとんど存在しないのに、米国の4%の面積に相当する日本が時価計算で4倍もすれば、単位面積で100倍のこの虚妄の数字はバブルである。しかも、国土に社会投資が満足に行なわれていないから、経済大国の実態もバブルにほかならないが、日本人は日経ダウが5000円を割った時になって、やっとその点に気づくのかもしれない。


蜃気楼的な経済大国の克服

 経済という言葉は、経国済民に由来しており、経国は文字どおり国家の経営と統治を意味するが、済民は民の苦しみを救うという内容を持つ。戦後の日本は経済に基盤を置いた平和路線を選び、半世紀に近い努力を続けた成果として、経済大国の栄誉を手に入れたが、豊かな社会の建設という意味での済民は実現したのだろうか。
 産業投資と社会投資が均衡していることが、民主的な経済社会の健康度の指標なら、日本に見るこの投資上のアンバランスの放置は、世界に向けて経済大国だと胸を張るうえで、どれだけ強い説得力を持つだろうか。
 日本は世界一の投資残高を誇る債権国だし、好調な商品輸出で貿易収支の黒字は記録的だが、この輸出代金の過半数は自動車が稼ぎ出していて、自動車産業こそ日本の繁栄を支えているという声が高い。狭い視野で眺めると確かにそのとおりだろうが、広い視野でこの問題を考えると答は違ってくる。交通手段の1つである自動車は、ある地点から別の地点に物や人を運ぶ道具にすぎない。また、輸送システムを全体的な角度から見ると、交通網の1つである道路は社会の主役であり、自動車は道路のおかげで運搬機能を果たしているだけで、主人顔をしていい存在ではないのである。
 米国に大量の日本車が輸出できる背景として、アメリカ全土には2億`もの道路があることが挙げられる。彼らは豊かだった時期にこの道路網を築き上げている。
 道路も情報網も、流れを通じて社会に活力をもたらすチャンネルだとしたら、日本人は自動車の大量生産に熱中する前に、道路や社会のインフラストラクチャーの整備と相まって、情報公開に基づく風通しのいい豊かな社会建設の実現で、蜃気楼的な経済大国の克服を試みるべきではないだろうか。


<著者紹介>
1938年東京神田生れ。
埼玉大卒。フランス・グルノーブル大を経て構造地質学で理学博士。多国籍企業で石油開発にかかわり石油コンサルタントとして独立。テキサス州でベンチャー事業創立、石油開発に進出。最近著に『インテリジェンス戦争の時代』がある。


記事 inserted by FC2 system