●シルバー対談 「賢く生きる」
『財界 にっぽん』 2001.04月号



躾て「けじめ」を持つことは賢く生きる上での基本です

正慶孝(明星大学教授)
藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)



翁と呼ばれる世代が持つ知恵の価値

藤原 私は40代の初めまで石油会社を経営していたが、ビジネスを辞めた理由は人生の残り時間を考えまして、ビジネスは若い世代に任せたらいいので、人間にとって最大の財産が時間だと悟り、別の生き方をしようと思ったからです。人間には二種類のタイプが昔から存在しており、時間を支配する自由人と支配される奴隷がいて、子供を育て上げるまでは仕事をするが、子供が独立したら義務を果たしたことになるので、余生は社会への恩返しだと考えました。また、自分に与えられた時間は寿命として限られ、40歳を過ぎて時間の価値に目覚め得たという意味で、男の厄年が節目だったと実感しています。

正慶 アメリカで会社を経営していた藤原さんが、40代の半ばでビジネスから引退したというのは、凄い決断をしたものだと驚いています。しかも、韓国に行った時にショッキングなことを体験して、それでビジネスを辞める決断をしたのだと、「ジャパン・レボリューション」(清流出版)の中に書いておられたが、日本の常識ではちょっと早すぎた引退ですね。

藤原 20代いっぱいを学問の世界で生きたし、40代半ばまで存分にビジネスを体験して、テキサスで石油を掘る夢を実験したので、自分のやりたいことは果たしたと納得できました。だから、後は人材育成に役に立ちたいと考えて、人類が残した知恵を世に伝えるために、自由人として生きようと思い立ちました。

正慶 そうでしたか。『徒然草』を書いた吉田兼好が生きた時代は、人生は40年だと言っていたようだし、明治時代の日本人は人生50年と考えたから、軍人などは50歳が定年の目安になりました。また、夏目漱石は「即天去私」の境地に至ったし、あれだけ優れた作品を多く書いていて、「巨星落つ」の印象を残して亡くなったのが49歳の時でした。

藤原 ずいぶん若かったということですね。

正慶 そうです。また、福沢諭吉の絶筆の「福翁自伝」は63歳のもので、今の私より二歳若かったことになるから、先輩の藤原さんは藤翁ということですね。

藤原 私は6年前に還暦を迎えているので、福沢諭吉よりも長生きしていることになる。日本は世界一の長寿国になっており、平均寿命からして未だ暫くは元気にやれそうだが、知恵を大切にする年代に入っているので、いかに毎日を善く生きるかが大きな問題です。20代から40代にかけての私の人生で、若輩の私を育て導いてくれた人々を思えば、老人の知恵が実に貴重だったと感じるし、そのお陰で今の私があることが良く分かる。そうであれば今度は私がそれを受け継ぐ番であり、40を過ぎてからはそれが使命だと考え、過去20年余りは世界に散在する賢者を訪ね歩いて、その知恵を世に伝えることを試みました。だから、経験豊かな老人と対話することにより、知恵を持つ人の薫陶と薀蓄を受け止めることを通じて、その対話の活字化に生き甲斐を感じています。

正慶 藤原さんが活字にして来たものとしては、対談が圧倒的だという印象を持ちますが、これは藤原流の対話する悦楽の境地というか、醍醐味に相当しているということになりそうですね。


対話をすることの喜悦と味わい深さ

藤原 そうです。自分と違う考え方をする人と議論して、何かを学んだり閃きの火花が飛ぶのを体験する時に、得も言われない充実感を味わうのです。   

正慶 異なる意見を持つ人と出会って見解を述べ、それが討論として正と反のぶつかり合いになり、最後により高い次元で合に至れば弁証法です。だから、古典はプラトンも孔子も対話編であり、聖書や仏典も師と弟子の間の対話でして、対話によって人間は常に自分を発見するのです。その発見の過程が自己実現に繋がるのだし、いかに生きるかはいかに自己実現するかであり、キケロの本に、『老境について」という題のものがあるが、いかに賢く美しく老いるかは大テーマです。それにしても、対話の面白さを知ると病みつきになるが、藤原さんは対話に深く魅せられているようで、最近の著書の多くは対談集のようですね。

藤原 対談はやり始めたらやめられなくなる。40歳頃までは論文調の記事が圧倒的で、経済誌や『文芸春秋」などに見解を発表したが、論文はある意味で自己主張の活字化なんです。現象についての記述や背景を解説したり、自分はこう思うと説明するのは自己主張だから、それが段々と虚しく思えてきました。それよりも対談する時に感じる閃きとか、行間に秘められた知恵や溢蓄の魅力の方が、遥かに味わい深いと思い始めました。そして、いつの間にか対談にのめり込んだという次第だが、自分は未だ若いと思っていたせいもあり、より年配の人を相手にしているうちに、老人の知恵に魅せられてしまったのです。

正慶 われわれの出会いは20年以上も昔だと思うが、あの頃の藤原さんは小室直樹さんと対談して、確かダイヤモンド社から対談本が出ましたね。


・正慶孝氏の主な経歴
1940年(昭和15年)生まれ、
東京都出身。早稲田大学大学院経済学修士課程修了。経済学修士。現在は明星大学教授。著書として「遊戯人の政治経済学」(時潮社)、「新大陸ヨーロッパの策謀」(学習研究社)などの他に、共著の「ジャパン・レボリューション」(清流出版)やダニエル・ベルの「二十世紀文化の散歩道」(ダイヤモンド社)の訳書がある。

・藤原肇氏の主な経歴
1938年(昭和13年)生まれ、
東京都出身。グルノーブル大学理学部博士課程終了。欧米の多国籍企業で石油開発に従事し、米国で石油会社を経営してから、国際問題のコメンテータとして現在に至る。著書として「宇宙巡礼」(東明社)、「ジャパン・レボリューション」(清流出版)、「賢者のネジ」他多数。




藤原 それは『脱ニッポン型思考のすすめ』という本であり、ダイヤモンド社に小川三四郎という名編集者がいて、彼は私と小室さんの共通の友人だったので、二人の対談をまとめて出版してくれたのです。小室さんは正慶さんと並んで生きた意味論の使い手だから、対話が躍動して打てば響く感じが強くて、三時間の対談で一冊の本が出来上がりました。

正慶 昔 から「琴瑟相和す」といって夫婦関係に限らず、話が弾んで楽しい対話を持つことは素晴らしく、人間同士の付き合いとしては最高ですね。

藤原 正慶さんとも『ジャパン・レボリューション」という共著を出して、そこに幾つも楽しい対話を収録しましたが、知恵を感じさせる味わい深い会話は、人類が時間をかけて育てた貴重な文化です。だが、最近はこの知恵が秘めている価値を忘れて、知識ばかりを評価する傾向が強まり、老人の知恵が若者の知識の前で圧倒され、萎縮しているように見えるのは残念です。

正慶 確かに現代は知識偏重が目立つ時代だし、ファッションにしても今は若者文化が支配的で、祖父や祖母が孫を見習ったりしています。

藤原 だけど、形や数量に現れる現象界ではそれが目立っても、目に見えないインタンジブルの領域は知恵が支配し、この世界では老人が伝える知恵の伝統が、何と言っても絶大な力を持っていますよ。

正慶 相承として形に表れた世界は「流行」だから、祖父母が孫に見習うことも多いけれども、本質的に目に見えない「不易」に相当する分野は、祖父から父を経て息子にという具合に、時間の流れと共に過去から未来に向かいます。

藤原 その通り。それは文明の次元で受け継がれた遺産です。若い時代に知識を仕込んで学習するのであり、人生経験を通じて豊かな人間性を育て上げ、内面から円熟すれば醗酵して知恵を生み出し、それが文明に文化の味付けをするのです。この味わい深い知恵を自らの中に体現し、若い世代に伝えるのが老いた世代の責務であり、それが祉会への恩返しになるのです。


文脈と行間を読む能力と〔しつけ〕の価値

正慶 本当の意味で「知的財産」というものは、社会が蓄積している知恵のことであり、「パテント」や「著作権」のようなものではない。だが、知識偏重で新知識が大手を振っているので、知恵がうまく伝わらず世代の断絶が起きるし、知恵を生むための素材に過ぎないのに、知識の多さばかりを誇りがちですよ。

藤原 それは物量崇拝が生んだ弊害であり、その典型が数字を並べて得意なる悪弊です。横丁のご隠居さんは知恵で尊敬され、53.44%とか1億3500万人などとは言わずに、およそ半分とか1億人余りと言うものです。

正慶 それは面白い指摘ですね。概数で言うのと正確な数字で示すことの違いは、知恵と知識の差だと言ってもいいでしょう。現在は数量信仰が支配しているために、概数が好まれないという時代性もあり、何でも細かい数字で表現すればより正確であり、科学的だと思い込む傾向が濃厚なのです。

藤原 論文を書くのを20年前にやめた理由は、私が「およそ半分」と書くと編集者が決まったように、「正確な数字を書いてくれませんか」と言うので、「条件が変われば数値は幾らでも変わる」と主張してもダメだったからです。条件や仮定を変えれば数値は自由に作れるのに、詳細な数値を科学的だと有難がる習慣のために、概数が受け入れられないのは悲しいことです。

正慶 本当に数理科学のエッセンスを身につけた人は、数字を使わないでも文脈で総てを表現できます。現代は文脈を読む力がとても衰えていて、言葉の味わいや意味を読めない時代になりました。実にさびしいことだと思います。

藤原 書いてあることを読む力が衰えた上に、行間を読める人が少なくなっているし、何が書いてないかを読みぬく人は皆無です。読書の楽しみは何が書いてないかを読むことであり、筆者の頭の中を読むのが読書の真髄ですよ。

正慶 私はそれが読書の醍醐味だと思いますよ。余白とか空白という隠れた次元を読むことは、教養に深く関係していることであり、教養には教育と修養という二つの概念が潜んでいるのです。修養が欠けていると知識ある人にはなれても、知恵を持つ賢者になることは出来ないし、修養は正座するという堅苦しいことではなく、体を使って全身で経験するという営みです。

藤原 体験を通じて自信を持って言えることは、若者が誇る知識は理論の基礎になるが、理論は重要でも当てはまらない例も多く、その時には経験に基づく判断力が決め手になる。要するに、理論のべースの上にさまざまな経験を経て、教訓として抽出したものが知恵になり、「亀の甲より歳の功」が生きるのです。

正慶 それが若人の知恵の由来だと思うが、日本人が苦手なものに経験論があり、イギリスから学ばなかった代表が経験論です。経験は実験と違い全身で学ぶものだし、時間を生産財と思わずに消費生活の中に埋没してしまったし、経験の重要性を見失ってしまいました。

藤原 その通りです。生活の知恵を生み出す上で最も基本になるのは、若い時に生身を使って身につけた「しつけ」であり、この「しつけ」は人生の先輩であるより歳を取った世代が、若い人たちに伝える価値あるものです。大阪の船場の名家には家訓というものがあって、「しつけ」の次に来るのは「けじめ」であり、「けじめ」が「名家」であるための条件だそうです。

正慶 なるほど、それは面白い。大阪の船場は商売の発祥の地といわれ、昔から店員が住み込み生活をした伝統を持ち、丁稚は何年も修行してから手代になり、最後には番頭になってノレンを分けて貰い、それが商売人としての人材養成でした。その基本は掃除に始まる「しつけ」があり、根気とやる気を育てて手抜きしないことを学び、整理整頓を通じて「けじめ」を身につけたのです。

藤原 いい伝統をわれわれの祖先は持っていたのに、それを忘れて「けじめ」のない人間を育てたら、実に惜しいことだと言わざるを得ません。技術の本質は如何に途中の工程を簡略化して、能率よく手を抜くかということだが、大事なことは手を抜かずにきちんとやり、全体として完壁に仕上ることです。だから、技術至上主義を盲信してしまって、それに振り回されてはいけないのです。

正慶 「気を入れない」ことや「手抜き」は堕落であり、きちんとやるための「しつけ」が如何に大切かは、着物を縫うときの「仕付け糸」と同じです。それに、「しつけ」は「躾」で身に美しいと書く国字で、これは美しく見繕いするという意味だし、「働く」もニンベンを付けて作った国字であり、ただ働くのではなく人のことを配慮していて、はたの人を楽にするから「はたらく」です。

藤原 ニンベンが付くのは一人の人間ではなくて、人間関係という意味が込められているから、「仁」という概念とも結びついていますよ。

正慶 それも人間が敵視しているのではなく、支え合っている関係を示していまして、これは陰陽や男女と同じで補充の関係です。

藤原 いうならばコインの裏表であり、メビウスの輪と同じ構造になっています。

正慶 だから、男の中に女があって女の中に男がいる、あのアニマとアニムスの関係であって、対立よりも融合に本質があるという点では、若者と老人と同じで対立概念ではないし、単なるエージング(老化)の差の問題なのです。


エージングと蓄積する毒素の排泄

藤原 エージングの問題を考える上で興味深いのは、フランスの作家アナトール・フランスの言葉であり、彼は「もし私が神なら、青春を人生の最後に置いただろう」と言っている。これを老化物質の蓄積という点で考えて、長年蓄積した老化物質の排泄するなら、歳は取っても青春を取り戻すヒントの点で、興味深いものがあると分かりました。というのはここ数年だが血圧が高くなり、それがストレスになっているらしくて、白髪が増えるし体力の衰えも感じます。

正慶 そうですか。実は私も血圧が高いので用心していますが…。

藤原 私の読者の一人に健康問題に詳しい人がいて、修験道を長年やったという経験の持ち主で、私が訪日すると北海道から会いに来るが、彼によると私の血圧が高くなった最大の原因は、有機溶剤(organic solvent)の中毒だと言うのです。私からの手紙には有機溶剤の臭いが強く、「あなたの寝室には本がたくさんあるでしょう。藤原さんは活字のインクを皮膚呼吸していて、それが高血圧の原因になっているのだから、先ずは寝室から本を追放することです」と言う。もちろん、寝室には書棚があるし枕元には本が山積みで、私の生活は本に囲まれているのは確かだが、それを彼は急いで一掃しろと言うのです。

正慶 なるほどね。お互い様で私も本に囲まれた生活だし、インクの中のPCBによる中毒が原因だとしたら、それで血圧が高いというのは納得できます。

藤原 話はそれで終らずその先が実に興味深いのです。
 「あなたの体の中の毒を抜き方を教えるが、藤原さんはどういう風に洗濯していますか」と聞くので、「洗濯機を使って自動洗濯した後で乾燥機で乾かす」と答えたら、「あなたは汚れが消えて白くなれば綺麗だと考えて、ゆすぎ洗いしたものを乾かしただけで、それで洗濯したと思い込んでいるが、幾らゆすいでも洗剤は衣類に残っており、それを乾かして着れば洗剤が残留するから、皮膚呼吸で体内に再吸収されてしまう」と言うのです。

正慶 じゃあ、洗剤は完全に取り除かれていないわけですか。

藤原 そのようです。そして、「藤原さん、先ずアイロン台を買ってください。そして、洗濯して乾かした衣類にアイロンをかけて、そこに残っている洗剤を高温で気化させるのです。部屋の窓を開けて空気の流れを良くしてから、マスクをつけて蒸気を吸わないようにして、一枚づつ丁寧にアイロンかけして下さい。また、そうやって熱処理した下着を身につければ、体内の有機溶剤は下着が吸いだしてくれるが、下着は木綿(コットン)に限りナイロンはダメ」と言う。

正慶 なるほど。天然繊維のコットンの下着だけならば、話の筋道としては論理的で納得し易いですね。しかし、アイロンをかける習慣はほぼ廃れていて、家庭でアイロンかけする主婦は少ないでしょう。

藤原 そうだと思います。その人はこれが「しつけ」の基本だと言い。アイロンかけを娘をしつけるのが母親の責任で、毎日きちんと掃除するようにすることが、家庭における子供のしつけの出発点になる。それを奥さんがやらない限り家庭は乱れ、亭主や子供は健康のリズムを損なうので、病気になりがちなのだとその人は強調していました。

正慶 もっともです。有機溶剤とか洗剤は界面活性剤であり、それを作る人は有害だと知っているために、昔からの洗濯石鹸を使っているのです。排気ガスで窒素の酸化物を体内に取り込むように、皮膚呼吸でリンや硫黄の化合物を体内に蓄積すれば、それがエージングを促進するのは当然です。

藤原 免疫は生命活動にとって最も基本であり、有機溶剤や洗剤は免疫を低下させるから、それが花粉症やアトピーの原因になるのです。

正慶 一般に公害という名前で呼ばれていても、大気汚染は都市化に伴う環境問題だが、洗剤やインクの中の有機溶剤による中毒は、家庭内の個人レベルの配慮で防げるものです。だから、アイロンをかける習慣は大切な「しつけ」として、再評価しなければならないと痛感しました。


健全な家族生活の中にチエの源泉がある

藤原 もう一つの洗濯関連でショッキングだったのは、最近の男は元気がなくてセックスレスの原因に、Yシャツや背広をドライクリーニングに出し、ガソリンで洗って綺麗になったと思うことがある。これも有機溶剤による中毒の一種であり、ガソリンの残留物を襟首から皮膚呼吸して、慢性的なシンナー中毒になっているために、見た目の綺麗さが健康を害しているのです。

正慶 なるほど。サラリーマンは皆がYシャツを着ているから、それでセックスレスや精子減少になっていれば、「沈黙の春」は土壌の汚染の問題ではなく、毎日の生活への「沈黙の春」の忍び込みです。即時的な満足に押し流されて生きていれば、それは「マクドナルド化」の現れであるし、健全な家庭も健康な生活も破壊されてしまう。家庭で母親がきちんと料理しないで、手軽だと弁当を買ってきて済ましていれば、それは食事ではなく「エサ」になります。料理の「理」は筋道をきちんと立てることであり、それを毎日やり続けるのは大変だと感じるが、当たり前のことに大切なものが潜んでいます。

藤原 正慶さんが使った「マクドナルド化」ですが、私はアメリカに今まで25年住んできた間に、ファストフード店で食べたのは二度だけで、行かなかったという理由は至って簡単であり、ファストフードは炊き出しだからです。炊き出しはあくまでも緊急事のものであり、自分の胃袋を「ごみだめ」にするよりは、何も食べないでいる方が気分は爽快ですよ。

正慶 時代がインスタント化の方向に流れており、人々が能率のよさを賛美している中で、汚れを避けて「清流」に臨むことを求めて、藤原流の美学を追い求める生き方は、大衆化に対して背を向けるスタイルですね。

藤原 「清流を枕に石で漱ぐ」であり、夏目漱石と同じ心境だということです。

正慶 その話は「流石」という言葉の語源でもあるが、「さすが」という形容は知恵の存在と結びついているし、これからは知恵の重要性が増すので、老人の役割がいよいよ重要になります。『星の王子さま」の中にある言葉ですが、王子が「見えないものが大事なんだよ」と言っており、これは現代に対しての痛烈な批判になっています。17世紀に始まる科学革命以降の文明は、見えたり数えたり出来るものだけを扱ったので、見えないものに対して軽視しがちでした。

藤原 だが、最近における場の理論の発達により、見えるものより見えない場の方が重要だと分かったし、部分の在り方は全体的な場によって、支配されていることが明らかになっている。同じことは人間や社会についても言え、「気を入れる」とか「身を入れる」ということは、手を抜かないという誠実な心の証でもあり、誠実の美学は「躾」と「節度」の出発点です。

正慶 きちんと「しつけ」て「けじめ」を持つことは、賢く生きる上での基本的なことであり、老人は成熟した文化の担い手だから、その真髄にある知恵を大いに誇るべきですよ。賢く生きることはとても重要なテーマであり、ヨーロッパでも日本でも一歩控えた所にいても、老人の言葉に入々は耳を傾けたものだし、それが文明の生命力になってきたのです。

藤原 若いアメリカは歴史がないから未来志向で、知恵よりも知識を武器に発展しているが、横丁のご隠居さんを大切にするわれわれは、「亀の甲より歳の功」という言葉を生かしながら、知恵に満ちた老人社会を目指して、円熟した社会を作り上げるのが似合っています。味わいある対話が出来て嬉しい限りであり、この続きは「若者論」の形で展開したいですね。本日は長時間ありがとうございました。


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