『ニューリーダー』 1990.05月号



「日米緊急サミット」で何が起こったか?

インサイド・レポート パームスプリングス発  藤原肇




砂漠の中のゴルフのメッカ

 避暑地というのは幾らでもあるが、「避寒地」の良い例が日本には無いので、具体的なイメージを思い浮かべるのが困難かもしれない。その困難な避寒地の米国における代表が、実はカリフォルニアのパームスプリングスである。ここは冬の厳しい寒さとは無関係で、一年中ブ ーゲンビリアや爽竹桃の花が咲き乱れ、三月の頃はレモンやグレープフルーツが、街路樹として色付いた実をたわわに付けている。
 この周辺は砂漠の中のオアシスを囲んで、人工的に緑地を作り上げたという、いかにもアメリカらしい場所である。琵琶湖の大きさに似た南北三〇キロほどの盆地に、何とゴルフ場だけでも七〇か所以上もあるので、アメリカのゴルフのメッカとも呼ばれている。
 同時にここは、アメリカの金持の別荘地でもあり、「フォーチュン誌五〇〇社」のトップの八割以上が、パームスプリングスの周辺に保養のための別荘を持っている。しかも、ここを頂点にしてロサンジェルスとサン・ディエゴを結ぶと、二等辺三角形が出来上がり、共に二五〇キロの距離にあるので、南加の二大都市の住人も別荘を持ち、週末の休暇をゴルフやハイキングで過ごすために遊びや保養に来る人も多い。
 とくに、パームスプリングスが全米から注目されるのは、三月終わりの春休みの季節である。アメリカ中の高校生や大学生が四万人近くも、太陽を求めてここに集まるのがスノビズムで、若者の間では三月にパームスプリングスに行ったことが、一種のステイタス・シンポルになっている。ただし、大量の若者が集まってストームをやり、酔っ払って自動車をひっくり返したり、カンバンを壊すことが例年繰り返され、警官隊と学生の乱闘が社会問題になっている。そこで、今年は春休みの間だけホテル代に四ドル加えて、それを特別警備費用の税金にする議案が、地元の賛否両論をかき立てていた。
 そんな所へ、突然、三月二日と三日の週末に、ブッシュ大統領と日本の海部首相がここで会い、「砂漠のサミット」が行われると発表されたので、ほとんどの入が怪訝な顔をして何事かと首をひねった。


腹に据えかねた大統領の電話

 このところパームスプリング周辺は地震が頻発し、震度四から五ていどの小さいのが、予告無しにぐらぐらと来るので、馴れない観光客が大騒ぎをしている。地震でびくついていた住民や観光客が、サミットの話で別のエキサイトメントに驚かされたが、今度はその震源地が遠い東京であり、ナマズをつついたのはホワイトハウスの主人公だったわけだ。
 東京で行われ二月二三日に終了した日米構造障壁協議の結果が、余りにも期待外れだったので、米国側の代表が日本政府の態度に不満を表明し、その報告を東京から受けたブッシュは、一時間後には自ら海部にホットラインで電話した。大統領はよほど腹に据えかねたのだろうが、これはまさに、海部が仰天するほど早い反応だった。
 三月第一週のパームスプリングスでは、恒例のビンテージ・クライスラー国際コンペが行われる。ビジネス一筋の哀れなアイアコッカは来ないが、これは米国でも令名の高いゴルフ大会だから、アメリカ中の人が集まって、一種の慈善を主体にした社交の舞台になる。
 ブッシュはかなり前からこの時に招待され、元駐米大使のウォルター・エネンバーグの邸宅の「サニーランズ」に滞在することになっていた。だから、ブッシュは海部にパームスプリングスに来てもらい、サニーランズで首脳会談をしようと申し入れたのである。
 海部首相としてはイエスと返事するしかなく、こうして砂漠のオアシスでの会談が決まったが、一番びっくりしたのは日本の海部自身だった。何しろ、当時は第二次海部内閣で決まりそうな閣僚は、首相一人だけだったからである。しかも、たとえ第二次海部内閣が発足しても船出は楽ではなく、足を引っ張ったり落とし穴を掘って、基盤の弱い首相を陥れて混乱させ、その隙を狙って権力を手に入れたい策士は、自民党の各派閥の頭目を始めとして、ゴマンと存在しているのは自明だった。お蔭で組閣の人選は難航、前代未聞の明け方の決定になったのは周知の通り。新首相はサミットを控えたパニック状態の中で、とりあえずは外相と蔵相だけは決めて置こうと、能力には無関係に再任して置くことで、飛行機に飛び乗った。
 海部は疲れ果てて、座席ベルトを閉めると同時に眠りに落ちたかも知れないが、精神分析の状況診断からすると、アメリカの大統領から呼び付けられた以上は、まな板の上の鯉に似た心境で、首相はとても安眠できなかったはずである。


サニーランズの白亜の大邸宅

 パームスプリングス周辺で最も高級な町は、大邸宅とカントリー・クラブで構成されたランチョ・ミラージュであり、その中でも飛びぬけているのがサニーランズだ。このウォルター・エネンバーグの広壮な白亜の邸宅は、ボッブ・ホープ通りとフランク・シナトラ通りの角に位置して、二五万坪の屋敷の中には、九ホールのゴルフコースまである。
 芸能人の名前を道路名に付けているのは、世界で余り例がないことだが、芸能人なら誰でもいいわけではなく、ランチョ・ミラージュに邸宅を構える他に、億の単位の資産を持っていて、大きめのミリオネヤーであることがその必要条件だと言われている。
 そこで、フランクとボッブ以外の芸能人では、今のところ歌手兼女優のダイナ・ショアーと歌手のジーン・オートレイが、自分の名前がついた道路をこの町に持っている。ジーン・オートレイはアメリカ人なら誰でも知っているように、ウエスターン・シンガーの第一号であり、歌うカウボーイとして戦後の四〇年代末に売り出し、数多くのヒット曲をものにしている。彼に少し遅れて登場したジョン・ウェインやロイ・ロジャースと並んで、この三人は五〇年から六〇年代にかけての、ウェスターンの黄金時代のトリオとして有名だ。
 ランチョ・ミラージュにはエネンバーグの他に、フランク・シナトラや引退したジェラード・フォード元大統領、監獄帰りのアグニュー元副大統領やマフィアの親分などが住むが、ほとんどがゲート付きだから、外部の人間は立ち入り不可能だし、住入の名は電話帳に出ていないから、住民の誇りが高いこの町は日本人には未だ知られていない。
 最初にランチョ・ミラージュを訪れた時に、私もこの町の奇妙な通りの名前と共に、ボッブ・ホープ通りに面して広大に続いている、爽竹桃の垣根に取り囲まれたエネンバーグ邸の規模に驚いた。何しろ、屋敷の中には九ホールのゴルフ場や、テニスコートやプールは言うまでもなく、大小さまざまな一二の池と馬場があるし、四室の寝室を持つ二軒のゲストハウスが、一〇メートルを越える天井を持つリビング・ルームを持つ、白塗の母家に隣接して並んでいる。
 持ち主のエネンバーグは元ロンドン駐在のアメリカ大使で、新聞・雑誌・テレビなどによって、フィラデルフィアを中心にメディア帝国を築いた、ドイツから移民したユダヤ系の億万長者である。彼の支配した一番よく知られている雑誌は週刊『TVガイド』であり、これはアメリカのスーパーなら何処に行っても、出口のキャッシャーの所に並んでいる。
 毎週二〇〇〇万部のテレビ番組の雑誌の他には、若者向けの『セブンティーン』の九〇〇万部があり、すでに引退している彼自身としては、トライアングル=パプリケーションズも売却したので、今は専ら慈善事業が最大の関心事になっている。
 彼が屋敷の中にゴルフ場を作ったのは、ある日、大事なお客と突然ゴルフをしたくなり、飛び入りでゴルフ場に行ったところ、二時間も待たされたので腹を立てて、自分専用のコースを作ったのであり、彼は自分のやりたい通りに生きるタイプの男だ。
 同じようなエピソードは未だ幾らでもある。ニクソンが大統領になった時に、ウォルターは米国大使としてロンドンに赴任したが、大使館の外見は立派だが内部の老朽化が激しかった。彼は「こんなむさくるしい所では仕事は出来ない」と不機嫌に言い、ワシントンに改造費を要求したが、送って来た金額は五万ドルだった。そこで彼はいつもの癖で腹を立て、自分が理事長をするエネンバーグ財団から、一〇〇万ドルの慈善資金を政府へのお恵みとして提供させ、大使館の内部を自分の好みに大改装した。しかも、各部屋には彼の美術コレクションから、ゴーギャンの「母と娘」やセザンヌなどの傑作を取り寄せて飾り、まるで小型美術サロンのような雰囲気にして、ロンドンの社交界の目を見張らせたのだった。
 また、彼の父親のモーゼスはやり手の男で、ハースト系の新聞の販売員から始めて、独立した新聞を築き上げ、特に競馬予想紙で成功しているが、脱税で刑務所暮らしをしたり、差押えを食らったりの荒れ方だった。だから、ウォルターの貰った遺産の公式目録は、「現金五万五〇〇〇ドルとキャデラックが二台、それに、ウイスキーが二箱」となっていた。
 しかし、名うてのビジネスマンの父親の仕掛けで、破産同然の遺産相続は数千万ドルの価値を持っており、それを彼は年商数億ドルのビジネスに育てたが、昨年トライアングル出版社を三二億ドルで売却したし、現在までに一〇億ドルを慈善事業に寄付している。


大統領を送り込む男

 パームスプリングスで休暇を過ごすことは、アメリカ人のありふれた夢だが、サニーランズに招かれて週末を過ごすのが、著名人にとってのステータス・シンボルでもある。
 ニクソンが三三歳でカリフォルニアの下院議員になった時に、ウォルターの母親が、「あの若い男は見所があるから、目をかけてやりなさい」と言ったのが始まりで、ニクソンは時々ここに招かれて、最後にはホワイトハウスの主人公になった。
 レーガンもカリフォルニア州知事の頃から客の仲間入りをし、毎年親しい友人たちを集めてやる年越しのパーティーには、ナンシーと共に過去二二年間続けて招かれ、その間に大統領にもなった。また、英国のエリザベス女王もお客になったし、逃避中のイランのパーレビ皇帝にも、避難の棲家としての提供があったことは有名だ。
 そして、大統領になったブッシュとバーバラ夫人に、最良の季節の週末休暇の招待状が届き、ジョージは三月の第一週に招待の休暇を過ごすことになっていた。
 そんなときに日米構造障壁協議の失敗の連絡が届き、朝九時にホワイトハウスでそれを知ったブッシュは、日本語の達者なブレーンを使い、シチュエーション・ルームと海部の居たホテル・オークラを電話で結び、翌週の週末にパームスプリングスに行くから、そこでサミットをやろうと伝えたのだった。この段階では海部は首相に指名されていないし、閣僚も未だ決まっていなかったが、泡を食った海部は駆け付けることを約束した。
 こんなドタバタは外交常識では考えられないが、過去十数年間の日本は政治的アナキーだから、円熟味の無い海部のあわてた決定でも、国を挙げて遂行のために全力を傾けた。国際政治を国会対策のレベルで考えているので、日本では外交がまともに機能しないし、ルールが何かを思い巡らす頭脳が欠落しても、誰も不思議に思わないままである。
 面白いエピソードがある。ウォルターという男は、駐英大使に任命された時に、ガンコ者で外交的な儀礼を弁えない男だと皆が心配したものだが、女王陛下の所で磨きをかけただけあって、この緊急のサミットをサニーランズで行うと聞くと、ウォルターはジョージ・ブッシュをたしなめて、こんな内容のことを言ったそうである。
 「ブッシュ大統領はウォルターのお客だから、お客が招待主の所に別のお客を招くのは、アメリカ人同士としても礼儀に外れている。外交官をやった人間の判断からすると、日本人の中にもこの非礼を怒る人がいるだろうし、ヨーロッパの連中の軽蔑を受けかねない。お膳立てをし直して上げるから、段取りは自分に任せてくれ」
 さすがにヨーロッパで外交界の空気を吸っただけに、この八二歳の悠々自適の老人は、酒落たアドバイスを大統領に与えたものだ。これは年の功の威力であると共に、帝王学が教えるマナーを知るということである。若い頃にジャジャ馬として鳴らした彼も、ロンドンでの滞在経験が役に立ち、その後は随分洗練されてしゃれた人物になったわけだ。
 ジョージ・ブッシュはイェール大卒のエリートだし、戦時中は海軍のパイロット将校をやった上に、中年前期にはテキサスで石油関連のビジネスに関係して、山師的な素早い決断力を持っているが、彼にはヨーロッパでの修行が欠けている。だから、同じ一九世紀的でも砲艦外交の無骨さは分かるが、宮廷外交の味わいを首脳会談につけるには、彼は余りにもテクサンだしアメリカ的である。
 そこでウォルターに総てを任せ、宮廷外交のプロにお膳立てを頼むと、元大使はサニーランズから八〇〇メートル離れているモーニングサイド通りとフランク・シナトラ通りの角の、「ザ・クラブ」のオーナーのエド・ジョンセンに話を持ち掛けて、緊急に頂上会談の座敷を提供してもらい、サミットの会場がモーニングサイドに決定した。
 この連絡は直ぐに東京に届けられて、二月二七日にはロスの日本領事館員が現地の下見を行い、ジャック・ニクラウス設計のゴルフコースのあるこの「ザ・クラブ」で三月二日の夕方と三日の朝の会談が確定した。
 同じ頃の東京では難航した組閣で、辛うじて明け方に第二次海部内閣が発足したばかりだから、話は全く逆立ちした状態で始まったことになる。
 それから後の準備が大変である。会場になるクラブハウスは徹夜で内部の改装が行われたし、満員のホテルに懇願して部屋を空けでもらい、日米両方の随員や記者のために、最低で五〇〇室は確保する必要があった。とりあえず、パームスプリングスのヒルトンとウインダムの両ホテルに、日本側はどうにか一五〇室を確保したが、最大の問題は電話回線の増設であり普通なら五週間かかる大工事を、大統領命令で電話会社は四日でやりとげた。


サミットヘの緊急集合

 アメリカの問題点は東部の人間たちにあり、彼らは仕事に追われて神経過敏で、サミットを政治問題として大騒ぎする。この点、日本人やドイツ人の気質と共通している。それに対して南部や西部の住民は、普段からストレスによる疲れはないので、比較的のんびりしている。だから、緊急サミットの大騒ぎも、私の所へは東方のカナダやウィチタの記者たちから押し寄せてきた。そんなわけで、自分の住む町で日米サミットがあると知ったのは、やっと二月二七日のこと。そこで大急ぎでテレビやラジオのニュースを集めて、やっと状況を把握した。実際問題としてサミットのある二日には、私はサンディエゴで人と会う予定だのに、ジャーナリストの友人が来るという連絡が届くし、地元のテレビ局はインタビューしたいと言う。テレビなどに出るとプライバシーが無くなり、人生がつまらなくなるのでテレビなどにかかわりを持ちたくないのに、無理やりビデオ撮りだからということで、地元のテレビ局で五分ほど喋らされた。そして、この会談が「びっくりサミット」であり、海部首相が慌ててここまでやってきて、役人の入れ智恵で細かい弁解をするのが心配だし、詰まらない約束をさせられたら良くないという話をした。
 それが終わってスタジオから出たところで何気なく見たテレビのニュース番組で、東部のキイ・ステーションの報道は、ここで行われるサミットに関して、ワシントンの議員が日本の市場の閉鎖性について愚劣な文句を並べているだけでなく、日本人が弁解している姿が映っていた。日本人の発言者は市場がオープンだと主張していたが、自分の立場を言うだけだから説得力が全くない。東部にいる日本代表がこんな程度なら、海部首相の発言も似たようなものになり、アメリカの狙いにやられる恐れがある。自民党や首相が叩かれるのなら、自業自得だから一向に構わないが、日本文化や日本人が攻撃されたのでは迷惑だ。そう思いながら何か良い案がないかと考えたが、どうやら、東部の連中のフラストレーションが、サミットに集中しそうな感じで、これは大変だと思った。


弱みを強みに変える戦法

 家に戻ると、今度は地元の新聞杜からの電話があり、翌日に開かれるサミットに関して、私のコメントを取材をしたいと言う。この段階での私の心の中は、すでに、サミットの路線変更の必要性を痛感しており、とくに、アメリカ中からここに集まるジャーナリストと、ブッシュ大統領へ宛てたメッセージを、タイムリーに発信することが必要だと判断していた。翌日の三月二日はサミット開会日である。米国の中核人物は地元の新聞を嫌でも読むから、『デザート・サン』紙に的確なコメントを提供すればイニシアチブは握れるに決まっていると考えて、電話でインタビューをする相手に私は慎重に喋る言葉の順序を組み立て続けた。
 まず第一に必要なことは、今回のサミットが狙っている路線の修正であり、通商関係や二国間関係からテーマを移し、問題の焦点を国際関係全般の方向に持って行き、グローバリズムとナショナリズムの対立関係として、明確に浮かび上がらせてしまうこと。同時に日本の問題とされていることを日本政府の問題として捉え直し、味方の弱みを強みに変えて、相手にゲタを預けてジレンマに追いやり、仕掛けた作戦を修正せざるを得なくする方向が、高等戦術としてこの際は肝心だと考えて、私は自制しながら用心深くしゃべった。
 こういった戦術展開は役人には不向きであり、組織に属して正攻法が原則の正規軍は、昔から自分の武器を使うように訓練され、相手の武器を逆用するゲリラ戦法は出来ない。私はウイーン会議のタレイラーン・ペリゴール(フランスの政治家)の教訓を生かして、多分に危険な賭けになる恐れもあるが、起死回生を狙ってジレンマ戦法を試みた。
 また、別のテレビ局から電話が入り、生のニュース番組に出て欲しいと頼まれたが、私は作戦の効果を考えてそれを断わった。時限爆弾は決定的な瞬間だけに有効だし、その前触れがないことが肝心であり、私の目的は路線変更を訴えるメッセージである。最初は驚いて嫌悪を感じた人も、長期的には日米両国民の友好に役立つことを理解し、後になって喜ぶはずと自信があったので、狙いをひとつに集中することにした。


「弱い海部」に戦意喪失

 早朝の電話で叩き起こされて、サミット当日の三月二日が始まった。電話の相手は『デザート・サン』に出ている記事が、物凄い強烈なパンチカを持っていると教えてくれた。そこで新聞を買って来て読むとなるほど凄まじく、われながら大いに驚いてしまったが、電話がひっきりなしに鳴って悲鳴を上げたくなった。
 私にインタビューした記事は大扱いで、幾つものコメントがクォートとして連なり、一つの論調スタイルとしてまとめられ、概略は次のような具合の記事になっていた。

 このサミットに海部内閣の運命がかかっており、ブッシュが通商問題にこだわって、海部に強い圧力を掛けすぎると、海部内閣はたちまち崩壊してしまう。海部は余りにも基盤が弱い政治家だから、アメリカ側の圧力に耐える力も、スマートさも持ち合わせていない。しかも、与党の中の反対勢力は失敗を種にして、権力奪取の口実に使おうとしている。海部は余りにも少数派であり、派閥争いをコントロールして指導する点で、完全に無能だと言わざるをえない。日本政府の内容は非常に分かり難く、アメリカ人はそのことが理解出来ていない。
 三四年間政権を握ってきた自民党の上層部は、収賄疑獄に連座してガタガタであり、海部は六か月前に浮上してきた。そして、スキャンダルで汚染されていなかったので、彼は少数派閥に属していたにもかかわらず、与党議員によって首相に押し出された。彼が汚職に巻き込まれなかった理由は、彼がとるに足らない人物だったからだ。汚職に関与した政治業者たちは、ブッシュが海部をお粗未に扱えば、それを口実に日本人の説得を試み、失地を回復して権力を奪い返すだろう。もし、ブッシュが日本叩きに加わって、勝利者になろうとするような真似をすれば、海部はたちまち一巻の終わりである。日本にはアメリカを嫌悪する政治家がいるが、彼らはブッシュのそういう姿勢を悪用しようと、手ぐすね引いて待ち構えている。海部を通商問題に追い詰めないで、東欧やラテン・アメリカの援助などで協力し合う方向を、ブッシュは追求すべきである。日本はこの方面で貢献できるが、しかし、日本の企業と政治業者たちは、金が儲かる場合だけ関心を示す手合いである。また、ブッシュとアメリカ人はグローバリストだが、海部を倒して登場するのは国家主義者である。そして、これは非常に危険きわまることである。

 この記事がサミット特集の冒頭に出たので、読んだアメリカ人たちは仰天したらしい。特に、海部は余りにも少数派閥であり、派閥争いをコントロールして指導する点で、完全に無能だと言わざるを得ない、という私のコメントは、後半の英語の文章を切り捨ててしまった。そのために、海部はちっぽけな男であり、完全に無能力であるという表現になっていた。その結果、海部の存在はとるに足りないものになり、ブッシュに対してのグリーンメール効果は絶大で、アメリカ側は完全に出鼻を挫かれた形になった。アメリカ人は相手が自分より強いと、闘志を剥き出しにして挑むが、日本人と違って弱い者苛めは好まないから、彼らのファイトが雲散霧消したという意味で、日本人はこの記事を書いたスペンサー記者に感謝すべきかも知れない。


サニーランズの晩餐の味

 いくつかの地方ラジオ局を相手に電話で質疑応答しているとき、ブッシュは午後三時に大統領専用機で、そして、海部は少し遅い三時一五分に空軍のDC−9でパームスプリングスの市営飛行場に到着して、両国の首脳は儀礼兵の前で握手を交わした。その模様は夕方のテレビのニュースで見ただけだが、随行してきた数十人の役人に入れ智恵されて、海部首相が余計な弁明をしたり、空威張りの演技などをせずに、一生懸命に誠実な姿勢を貫けば、このサミットはうまく行くと感じた。
 これまでの日本の外交の印象は、お粗末な役者を化粧と振付で誤魔化しただけで、訓練された身のこなしや品位が欠けていたが、それ以上に演出の狙いが見え透いていたし、シナリオが幼稚で出たら目なものが多かった。役人や小姓のレベルの発想ではなく、近代を築いたブルジョワジーのアプローチが取れないなら、思い切って捨て身で行くのが有効だが、今回の場合はその手で行けそうな感じがした。
 それから後のことは、随行記者がいろいろ記事を送っているはずだから、私はアメリカ側から見たサミットの模様を書くにとどめよう。
 最初の会談が終わってひと休みしてから、本来はブッシュが招かれていた晩餐に、海部は主賓の一人として加わり、ウォルター・エネンバーグのお客として常連の、マリブに住む元タイヤ王のファイヤーストン夫妻や、カンサスシティから来たグリーティング・カード王国のホール夫妻と共に、サニーランズの食卓の会話に仲間入りした。
 この夜の主賓はブッシュと海部の各夫妻の他は、ビジネス帝国のオーナー夫妻であり、主賓が家来として連れて来ている、べーカーを始めとしたホワイトハウスのスタッフや、中山のような海部内閣の閣僚は、最初はその他大勢の扱いのはずだった。なぜならば、これはウォルターの個人的な晩餐であり、頑固者の彼のスタイルで行う予定だったからだ。
 しかし、世界中が注目しているということで、これも役人根性の現われだが、国務省の行う晩餐の形を取りたいので、食事代を儀典予算から払い戻すから、総ての明細書を提出して欲しいという、実に愚劣なことを言い出した。そのために、億万長者のぺースで豪華にやるつもりだったのに、ブレーキをかけられた感じになり、ホストのエネンバーグ夫妻は気分を痛く害されていた。フランスの年代物のブドウ酒の予定が、カリフォルニア産のワインに切り替えられたそうだが、サミットの周辺で取り沙汰された、会議にまつわる随員や議員の雑音と同じで、役人がお節介をすると碌な結果にならない。
 晩餐はそれなりに楽しく行われたようであり、サニーランズで晩餐に招かれた日本人のリストだと、私が知っている限りでは、海部夫妻は二番目の栄誉に輝いたと思う。一番目にサニーランズに招かれた日本人は、米国の実力者に知己の多い郷裕弘夫妻であり、彼らはブッシュ夫妻と同じように、ゲストハウスで週未を過ごしている。
 だから、いくら小派閥で自民党内で弱い存在でも、これまでの首相が誰も浴していない経験を持つ以上、首相はこの体験で自信を持つといい。アメリカ人を相手に田舎芝居を演じた中曽根や、世界中に札束をばら撒いて歩いた竹下も、サニーランズに呼ばれなかったことを考えれば、先任首相たちの顔色を伺う必要はなくなった。その他の自民党議員はもはや紙屑同然だと思っていいほどで、サニーランズの主賓という勲章は、資本主義体制下では価値がある。
 なにしろ、相手は小物政治家を今まで二人もホワイトハウスに送りこみ、米国の大統領を作った男であり、大統領の黒幕だからだ。もっとも、政治家としては共に二流以下であり、アメリカの名誉と地位をぶち壊したが、ニクソンやレーガンのパトロンの砦での主賓の体験は、一つの財産であるのは間違いない。
 しかも、彼らの日本側のパートナー役を演じたのは、田中角栄と中曽根康弘という希代の姦雄であり、この二人は米国側と同様に、派手に政治をひっ掻き回したが、ともにロクな最後を飾っていないのだから、海部首相には「他山の石」と「反面教師」まで揃っている。


官卑民尊のパラダイス

 この前ブッシュがパームスプリングスに来たのは、副大統領時代の一九八八年だったが、たとえホワイトハウスのスタッフでも、ここでは権力者としての快感は減少する。なぜならば、自由人が最も尊敬される風土のせいで、事業のオーナーや自由業が最上であり、たとえ大会社でも現役はランクが高くなく、日本入には有名なクライスラーのアイアコッカなどは、ここでは砂漠のガラガラ蛇並みの存在である。あんな男は働くことしか知らない、ヤッピーの親方に過ぎないというほどだ。日本では米国通だと言われているソニーの盛田会長だって似たような扱いの存在だ。
 それでもレーガン夫妻は正月の休暇を首を長くして待ち、過去二二年間も続けてクリスマスから正月を、サニーランズで過ごす習慣を持っていた。
 毎年この時期にはレーガンがここに居ると聞き込んで、ロニーが嫌だというのを無理に頼み込んで実現したのが、一九八五年正月二日のロスのサミットである。しかも、日本では大宣伝のロン=ヤス関係でも「パームスプリングスに来い」という声は、信用の無い中曽根には全くかからなかった。
 その頃の私は、ペパーダイン大学の総長顧問であり、サミットの前にヤング総長から相談を受けたが、それはホワイトハウスからの打診で、中曽根に名誉学位を出せないかという話だった。
 当時の中曽根は飛ぶ鳥の勢いだったので、レーガンはロスみやげを何かやりたかったようだが、私は大学の名誉のために止めた方が良いとアドバイスした。
 加州随一の豪邸が並ぶマリブにあるこの大学は、西部エスタブリッシュメントの子弟を集めて、ホワイトハウスの路線と緊密な関係を持っていた。
 知事時代のレーガンもそうだが、一九八四年にナンシーにも名誉学位を贈ったので、レーガンは中曽根にもやって貰いたかったらしい。だが、誰も中曽根を心からサポートしなかった結果、彼は一月二日にレーガンと一時間の会談と、昼飯を一緒にしただけが公式日程の中身になり、あとは到着した元旦にアロハ豆腐を食べただけで、直ぐにハワイに飛びゴルフで気を紛らわせた。
 この点では海部へのアメリカ側の扱いは、はるかに鄭重で友情に溢れていたが、当時の日本人は中曽根の派手な演技政治で、すっかり欺瞞されてその本質が見えなかった。


お粗末な政治家たち

 サミット二目目の三月三日は、ランチョ・ミラージュはブ ーゲンビリアの花盛りだった。朝六時にテレビのスイッチを入れたが、土曜朝の三大ネットワークは子供のマンガ番組ばかりで、どこもサミット関連の番組をやっていない。新聞を買いに行くと地元の『デザート・サン』は、両首脳が握手するカラー写真が一面にあったが、『ロサンジェルス・タイムス』の一面は小さな記事があっただけ。また、『ニューヨーク・タイムス』の一面のトップは、話題の中心のウォルター・エネンバーグが、五〇〇〇万ドルを黒人大学基金に寄付した記事であり、首脳会談のレポートはその下の扱いだった。
 どうやら今回のサミットの勝利者は、チャンスを最大に生かしたウォルターだったような感じがする。
 朝八時になってやっとABCで報道番組があり、ガーリー・アトレイの「プレスに会う」で民主党のゲパート議員が、ヒステリックな反日論を展開していた。
 アメリカは日本と結婚しているのだから、夫を苦しめるのは許せないという愚論をまくし立て、放送記者のアンドレア・ミッチェルに、嫌ならなぜ離婚しないのかと笑われる始末だ。
 こんなお粗末な人物が議会代表だから困るので、日米問題の行き詰まりは両国の多数党議員の質の悪さに、基本的な欠陥があるという感じがした。日本の市場に問題があるのではなくて、巨大な日本の政府と強力過ぎる官僚機構がガンだのに、それが分からないのだから始末に悪く、こんな人物を相手にするブッシュも気の毒なことである。
 二回目に当たる朝の会談が終わると記者会見になり、いかにも官僚が作文したと分かるステートメントを、海部は日本語で読み上げたが、やはり役人の限界が現れていて、サミットの場を提供した地元の市民や、例外的に好意を示したエネンバーグ夫妻への感謝の言葉が、どこにも見当たらなかった。若い頃に帝王学の修行をしていないから、こんな詰まらないミスをするのであり、二世議員ばかりが増加する日本の将来が心配になる。
 時間がないという理由で、首相は質疑応答も省略してしまい、大慌てで飛行機に飛び乗ったので、敵前逃亡に似た印象をアメリカ人に与え、立つ鳥があとを濁してしまったのは惜しかった。虎の威を借りずに精一杯やった印象を与えたのに、これは海部個人の礼儀のイメージ上惜しかった。
 孤独にプールで泳ぐ姿を随行カメラマンに撮られて、パパラッツァ連れ(取囲きカメラマン連れ)をアメリカ人の前にさらすのではなく、本当なら、ブッシュと一緒にジャクジ(噴流温泉設備)にでも入って、もっと心の余裕を示してもらいたかったが「びっくりサミット」だった以上は仕方がない。
 アメリカ側では「日米構造障壁協議」と呼んでいるSIIを、日本のマスコミはいつもの通りの御都合主義で「日米構造協議」とごまかしの訳を使っている。そして、まるで障壁が存在していないかのごとき扱いをしているが、この協議のメインテーマこそ、日本における各種の障壁の問題に他ならない。
 だから四月九目にワシントンで一応アメリカ側の諒承をうけた中間レポートは、日本側の政治的譲歩を印象づけ、ブッシュ大統領もこれで何とか一息つけると判断したのである。
 しかし、この中間報告以上のものが七月の最終レポートに期待できる訳ではなく、七月の段階で落胆したアメリカ側の憤懣が炸裂して、対日制裁が苛酷になるであろうということも、今の段階で予測できる。そして、その時こそアメリカ側の撃破攻勢が威力を発揮して、官僚が長年にわたって築きあげた統制と支配の体制と、自民党の族議員の利権と結びついたナワ張りを痛打するのではないか。国民の利益を踏みにじって、長期独占によって利権化して硬直化した自民党の幕藩体制と、肥大化してガンのように自己増殖を続ける官僚主義への日本版ペレストロイカがアメリカ人の開国強要によって、新しい突破口が開き始まるのではないか。
 その段階で、虚妄の中曽根政治をひきついで世界中に札束をばら撒いて歩くだけで、金権政治の枠から抜け出すことの出来なかった竹下政治や、空虚な政治感覚を有名人めぐりで飾り立てている安倍政治などによって特徴づけられている自民党政治が空中分解し、新しい幕末が始まるかもしれないのである。その点では、パームスプリングスのサミットに続く一連のホワイトハウスの動きは、ロン・ヤス関係という偽りの日米友好のお祭り騒ぎを総決算して、新しい日米関係の確立への布石でもあった。
 三月一〇〜一三日の竹下のワシントン訪問の実態は、日本で報道されたように丁重なものではなく、外交辞礼の枠の中で適当に軽くあしらわれたものでしかなかった。しかし、それに気づかない日本人は、自民党派閥のレベルでの海部いじめに明けくれているが、ニューリーダーと呼ばれる利権集団や嘘で凝り固まったロン・ヤス関係の時代は、すでにブッシュの頭の中には何の影響力も持ち合わせていないのである。


新しいスターたち

 サミットが私の住む町で行われた記念に、在米の日本人としての立場で、日本の政界の掃除と日米間の誤解を除くために、私が中曽根政治の総決算のメッセージを、アメリカ人に向けて行ったことを報告して置きたい。
 当地で行われたサミットの報道で主役を演じた『デザート・サン』紙に掲載された私のコメントであり、今回のサミットについての発言の最後の部分だが、より良い日米関係の継続を願って書いた。これはカリフォルニア発のメッセージである。

 ジョージ・ブッシュ大統領と海部俊樹首相をメイン・キャストにして、先ごろ開催されたサミット会議で見る限りでは、現在のアメリカや世界が直面している難題について、海部首相は理解が出来ていると思うので、日米両国のより良い関係の復活の努力を期待したい。
 かつて一世を風靡したロン=ヤス物語は、まさに出来の悪い俗悪映画並みだった。
 しかし、新しいスターたちによる次の大作は、最優秀映画賞、最優秀主演賞、最優秀助演賞などで、アカデミー賞のオスカーに輝くかも知れないのだ。一体誰が助演賞の栄誉を獲得するのかを、これから大いに楽しみにして、その結果を待ち望むことにしたい

 アメリカ人向けに工夫したメッセージだから、直訳すると原文の持ち味が消えてしまい、持って回ったようで口当たりが悪いが、米国の読者ならピンとくるはずである。日本が「巨悪」と名付けた中曽根の別名を、私は「ウルチメイト・イーグル」と、この記事で英訳しておいた。
 今回のサミットで、首相のメリットになり、アメリカ側に印象付けるのに成功した、信頼の基礎は誠意だという点を思い出し、これが、日米を友情で結ぶ絆になるようにと希望してやまない。(文中敬称略)


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