『史』 1980年45号

●対談●



早川聖vs.藤原肇



敗戦後の日本(2)




陛下のおぼしめし

藤原 変な質問をしますが、普通宮中から下賜されるものとしては、ブドウ酒が使われるということを本で読んだことがありますが、どうして東条大将にブドウ酒が贈られなかったのでしょうか。

早川 それはその次の段階のことなんですよ。プドウ酒の下賜というのはオダブツ寸前の時でして、死ぬのが確実だという時に用いられるんです。

藤原 でも、東条の場合はオダブツとほとんど同じであると、連中は考えていたのではないでしょうか。

早川 いや、それが彼らには真偽のほどさえ分らなかったというのが本当だったらしいです。第一、米軍では東条が自殺を企てて収容したと発表しているが、果して本当にそうだったのかは誰にも分っていないし、当時はあらゆる流言飛語が洪水状態でした。

藤原 そうだとすれば、疑心暗鬼で何も信じられない心理状態だったでしょうね。

早川 また、東条の自宅周辺はMPが警戒して訪問客をよせつけなかったでしょうし、おそらく面会できた日本人も無かったと考えた方がいいかもしれません。そこで自殺したのか、ピンピンしていたのを連行したのか、はっきりしなかったと思われます。だから日本側としては、自殺をはかってうんぬんという報道の真偽をまず知りたかったに相違ありません。

藤原 当然でしょうね。

早川 それからついでに、未だ息があるかどうかもさぐりたかったということでしょう。何も確認できないうちに勝手に危篤と判断してブドウ酒を下賜してしまったのでは、東条がもしピンピンしていたら、彼が目を白黒させてしまうに決ってます。

藤原 でも、果して東条がそのような宮中の習慣を熟知していたかどうか、は疑問になりませんか。

早川 そんなことはあり得ないです。彼はそれくらいのことは、首相を長年やって来た人間として知りつくしてます。

藤原 それもそうですね。

早川 仲間でも、上官でも、部下でも、そうやって下賜の品をもらった例を、彼は沢山知っているはずですから……

藤原 それではもうひとつの質問をしますが、そのリンゴに例えば砒素のような毒物が入っていて、誰かが東条を毒殺してしまおうとする可能性については皆無だったのでしょうか。

早川 それは無くは無いでしょうね。

藤原 無くは無いというより、有り得たのではないですか。実際に東条を殺した方が都合がいい人間もいたはずですから……

早川 それは後になっての推量として可能なことでして、あの当時、東条を殺しておいた方が都合がよかったか、それとも悪かったかという問題が関係してくるでしょう。東条の口から、自分の仲間としてこいつもあいつも居ると喋られると、A級戦犯になる人間の範囲が大きくひろがってしまう危険があるのは確かですが、それはなにも彼一人の口をふさげば事がすむという問題でもありません。

藤原 あの段階で、すでに四〇人近い人間がA級戦犯として指名されていますしね。

早川 A級戦犯の対象がひろがるのを懸念した連中の誰かが陰謀をたくらんだということは、あとになって推理小説風に考えれば可能性としてありうることでも、あの時の私は想像さえもしませんでした。

藤原 でも、占領軍の方では違った考え方をしたとしても不思議はありません。現実にオーストラリア軍の医者が指図して看護婦がリンゴを一つ取って持ち去ったという事実がありますね。これは事によると税関がよくやる抜き取り検査と同じやり方を適用したのかもしれません。そしてこの行為の背景には、リンゴを使った東条毒殺をチェックしたという意味がありそうです。

早川 そうかもしれません。私の目の前でリンゴをひとつ持ち去る必然性は、私が退散する前に結論を出すために、大急ぎで検査するという動機があったことの傍証になるでしょう。でも、相手が東条でなく、普通の患者としてもあり得るかもしれませんよ。無条件降伏したばかりの敵国の高官を収容した野戦病院という特殊性を無視しても。もし病院の規則で外部からの訪問客が持ちこむ見舞品は検査することになっていれば、目の前で検査するのは常識的なことかもしれません。

藤原 そうである以上、宮中と東条という組み合せが出来上っているので、余計慎重な配慮をしたと予想するのが自然ではないですか。

早川 仕方がありません。

藤原 東条を消してしまいたいと願う誰かが、猛毒の入ったリンゴを宮中の名を編って送り、運を天にまかせて東条にガブリと一口かじらせようと試みたとしたらどうですか。

早川 宮内省関係者にはそれだけの気概と頭脳を持った人間はいなかったといっていいでしょう。彼らは実際には御殿女中と大差のない連中でして、大それた真似はとてもやれません。

藤原 それではまた質問ですが、東条がある種の悟りの境地に達したのはいつでしょうか。戦争は総て自分の責任であって天皇には無いと云い出すようになったのは、彼の意識がすっかり回復して東京裁判が行われた段階です。僕はそれ以前には彼は戦争の全責任を背負うつもりは余り無かったかもしれないと何となくそんな感じがするのです。

早川 そうでしょうかね。

藤原 おそらく幽界をさまよっているうちに、悟りの気持が湧いて来て、非常に達観したことも云えるような心境の変化が生れてきたのではないかと思うんです。

早川 しかし自殺直後に私が見舞いに行った段階では、未だ悟りの段階には程遠かったと思いますな。病院お仕着せの寝巻をきて、虚ろな眼を開いて捻っていた様子からすると、戦争時代の悪夢にうなされていたというのがピッタリです。

藤原 それは云い得て妙ですね。

早川 これは私の想像ですが、生死をさまよったあとで意識を取り戻した東条は、自分が銃殺されていなかったことに大変なショックを受けたのではないかと思うのです。それに、鈴木局長を通じて東条健在という私の復命を伝え聞いて、重臣達も大いに驚いたに違いないという気がします。

藤原 どうしてですか。

早川 矢張り銃殺されていなかったからですよ。



★武士道と発作死

早川 あの当時の重臣達はたとえ降伏文書に署名しても、占領されてしまう以上は戦時下と大差ないと考えていたらしいですね。特に敗軍の将の責任追求は徹底的に行われて当然だと、頭から決めつけていたみたいです。

藤原 それは重臣に限ったことでなく、将星から兵卒を含めて日本人の総てが、そう思いこんでいたのではありませんか。

早川 そう云った方がいいです。と云うのは、占領軍に逮捕された場合は捕虜と同じですから、簡単に二時間か三時間調べられて壁ぎわにならばされ、バンバーンと銃殺されても仕方がないと思っていたのですよ。戦陣訓や軍人勅語をうのみにしていたために、捕えられることは一番恥ずべきことで、耶決で殺されても文句は云えないというのが一般の空気でした。

藤原 なにしろ、ついこの間まで鬼畜米英と絶叫してたのですから。アメリカ人やイギリス人が日本を占領すれば、日本人は畜生以下に扱われると信じて疑わなかったらしいですね。

早川 それはもう救い難い程でした。

藤原 なにしろ、一般市民の段階では日本人は総て捕虜になって、男は去勢され女は暴行されるといった噂が本気で信じられていたくらいですから。

早川 そこで米軍や英軍の進駐は神奈川県でくいとめて、東京には一兵も入れるなというわけで、われわれも横浜に連絡事務局を持っていった次第です。神奈川県民は現代版の唐人お吉を押しつけられたのでして、全くいい面の皮ですよ。

藤原 それで多摩川がコルドン・サニテール(防疫線)ということで…。

早川 国家が無条件降伏で敗けてしまった以上、民草は何をされても仕方がないという諦めと、それでも帝都だけは守り抜けという気持が複雑に交錯してまして、実に大変でした。しかし何と云っても占領されたということで、強迫観念は鬼神の迫るものがありました。

藤原 そういった状況こそ記録として次の時代に伝え残さない限り、生きた歴史は継承されませんね。

早川 そうです。終戦直後の日本のトップの精神的混乱状況は、幕末をはるかに上まわる物です。しかも坂本竜馬や大村益次郎はおろか、西郷隆盛や勝海舟に相当する人物さえも存在しないのです。

藤原 明治維新の時には尊皇攘夷だけでなく、開国派の日本人もいましたが、昭和の敗戦には国をあげて鬼畜米英でしたでしょう。これでは去勢と暴行しか自分たちの運命と結びつかなくても仕方がありませんしね。

早川 それにドイツの戦犯裁判のことなど、日本では知る由もなかったのです。

藤原 ニュールンベルク裁判の準備はヤルタ会談の時に基本線が決っていたし、第二次大戦の戦争犯罪人は刑事裁判で行う原則は、サンフランシスコで発足した国際連合やポッタム宣言にも、明白に示されていたはずでしょう。

早川 でも日本では誰も何ひとつ知らなかったのです。われわれの外務省でさえ、日本人は根こそぎ戦犯に指名されると考えて、不安な気持でいたというのが正直なところです。

藤原 矢張り強度な強迫観念による神経症ですね。それは初めて戦争に負けたことから来るものでしょうか。

早川 要するに、日本人がそれまでやって来たのと同じやり方で、相手も日本人の戦争犯罪人や投降者を扱うと信じたのですよ。

藤原 日本人はどうしてもそういった考え方しか出来ないですから……。

早川 人よがりの国民性は事がうまくいっている間はいいのですが、ちょっと自信を失うと疑心暗鬼でパニックや破綻を招くのです。

藤原 それで日本人のやり方というのは即決裁判で銃殺ですか。捕虜の扱いが下手ですね。

早川 日露戦争の頃はそうでもなくて、松山収容所の例にもあるような寛容な捕虜の扱いや、水師営での会談でロシアの降将ステッセル司令官に示した乃木大将のきめの細かい配慮のように、日本の軍塾は戦いに破れた者への血の通った扱いも出来ていたのです。ところが昭和になると軍人の質も低下して、同じ日本人が南京大虐殺やバターンの死の行進のような指弾を招く捕虜の扱いをしでかすのです。

藤原 それは歴史から教訓を学ぶ態度に欠けているためで、日本人はせっかく先輩たちが築きあげた誇るべき伝統を、次の世代が受けつがないせいでしょう。

早川 それもあるし、皇軍意識が驕りたかぶりを生んで、敵は烏合の衆であり鬼畜であるといった誤った考え方が、将卒の総てを支配してしまったことに原因があります。鬼畜ならばすぐに銃殺しても構わないというんですな。

藤原 問答無用で、即決で銃殺ですか。

早川 即決でもないでしょう。日本では二日か三日拘留して監獄にぶちこんで、証拠がひとつでもあれば、これでお前は重罪間違いないということになります。それからそこに立てと云って目かくしをして、バンバーンということになるのが普通でした。

藤原 同じ日本人でも逃亡兵や共産党員も、そうやって葬られたのでしょうか。

早川 逃亡兵は即時銃殺でしたが、共産党員はもっと痛めつけてからです。もっともそれは特高警察と憲兵隊の扱いでした。東条なんかも多分夢見の悪い思い出を持っていたに違いないですよ。

藤原 それで目には目を、歯には歯をで、仇打ちをされると思ったのでしょうか。

早川 自分たちがしたのと同じやり方でやられると、日本の軍人たちは考えていたでしょう。それに今まで話に聞いたこともない新型爆弾で、むかし大本営のあった広島が一瞬のうちに消滅した事件もあったので、一体どんな殺され方をするか分らないという不安もあったはずです。

藤原 ピストルや割腹などいろいろなやり方はあるにしても、人にやられるより自分の手でする方が潔いという、日本人特有の美意識が強くはたらいて、自殺する人間の心情を自己完結としての死に突進させることになったのではありませんか。

早川 東条が自分が死んでしまえばある程度の空隙が出来てしまい、責任が及ぶべきところに責任が及ばなくなって助かる者が出るかもしれない、と考えるだけの深謀遠慮があったかどうかは、私は疑問とします。むしろ発作的にやったのではないかという気がします。

藤原 戦犯に指命された直後のことですから、そうかもしれませんね。

早川 当時の私はどちらかというと発作説でしたが、今ではもう確信してます。

藤原 東条が第一師団の連隊長だった時に、真崎甚三郎第一師団長に、東条は日本一の連隊長だと絶賛されたらしいですね

早川 知りませんな。本当でしょうか。確か東条と真崎は仇敵みたいだったということですが……

藤原 最初はうまくいっていたのではないですか。東条は部下の面倒見のいい几帳面な性質の将校だったらしいですよ。もっとも、すぐにカッとなってどなり散らしたりして、戦時宰相の器ではなかったらしいけど……

早川 すぐに逆上するんですね。憲兵司令官は適役だが、宰相の器ではなかった。それだけに発作自殺は当然の結論です。

藤原 確かにそうかもしれません。 早川それに近衛さんは、確実に発作で自殺しちまったのですよ。

藤原 腹毒自殺は青酸カリだったのでしょう。

早川 あの時の近衛さんなら、砂糖をなめたって息絶えるほどうろたえていたに違いありません。

藤原 当時の日本の上層部の精神状態からすると、近衛的な発作死がノーマルだったということですか。

早川 でしょうな。

藤原 日本人の場合、激情と動転、それに頑固さで発作的な自殺をしたということになるのでしょうか。たとえば中野正剛のように憤死したり、特攻隊の生みの親の大西滝治郎中将のような強情一徹による死も、同じように発作死だったのでしょうか。

早川 中野の場合は憲兵に詰め腹を切らされた。

藤原 そうなると敗戦の時の自決については、改めて次の世代が歴史を書き直さなければならないでしょうね。

早川 そうです。発作自殺史とかなんとか云ってね。しかし、本当に責任を取るために試みられた自殺とは一体何かを考えると、これだという定説を確立するのは困難ですが、それでも相当するものが無いわけではありません。たとえば、陸軍大臣をやった阿南大将や第一総軍司令官の杉山元帥などは、責任を十分に感じて死んでいる点で、近衛さんよりははるかに立派だったと云ってもいいのではないでしょうか。

藤原 そうなるとあわて方の差ですか。

早川 もっとも普段から武士道は死ぬことと見つけたりという精神を鍛えていたのが軍人で、覚悟ができていればスマートに死ねますから、ハンディを考える必要があるかもしれませんよ。ゴルフと同じにね。

藤原 そうなると、死んだ連中のスコアーばかり計算することになるでしょう。それにしても日本人は発狂しないですね。

早川 大州周明くらいです。日本人は精神力が強くないから発狂できないのです。発狂する前に体が持たなくなって死んじやうのだと思います。

藤原 死ぬ話ばかりで辛気臭くなったので話題を変えたいのですが、最後に終戦連絡事務局にまつわる何か面白いエピソードがあったら聞かせてくれませんか。



★マッカーサーの幻の一般命令

早川 それでは一番最初のところで幻のマッカーサー司令部のことにちょっとふれたので、ひとつ「幻のマッカーサー指令」と呼ばれているものについて喋ってみましょう。

藤原 それは例の日本軍の降伏についての指令文書のことですね。

早川 日本軍というよりも日本国についての重要問題を扱ったものでして、これは一号、二号、三号とありました。もしこのマッカーサーの指令というか一般命令が発効していたら、日本の運命は全く予想もつかない方向で大きく変っていたことは確実です。

藤原 そんなに重大な内容のものだったとは知りませんでした。

早川 特に、一般命令(ディレクティブ)第二号は大変な内容のものでした。まず軍用通貨である米国の軍票を使い、日本の-通貨を廃止するという内容です。それから言語は日本語はわけが分らないのでやめてもらって、公用語は英語にするというのです。

藤原 強烈ですね。それにしても森有礼が生きていたら快哉を叫びそうですね。

早川 裁判とか教育は英語を使うことにして、日本語をおいおいに英語に切り替えていくというのです。

藤原 それはマッカーサーが云い出したのでしょうか。

早川 マッカーサーのちゃんとした署名のある命令書でした。

藤原 それじゃ相手は本気ですね。

早川 もちろんです。林さんという人で、確かシカゴの現職の総領事で強制送還された人と私とが寝っころがりながら、この一般命令第二号を翻訳したのでした。林さんは終戦後に外務省をやめて確か鹿島建設に入って重役になったはずです。

藤原 それで一号と三号はどうしたわけですか。

早川 第一号も第三号も似たようなものでしたが、結局、一、二、三号を総括すると、米軍による通貨管理、日本の国語の英語化、米軍の治安維持による直接軍政ということです。

藤原 というと完全な軍事占領という考え方ですね。

早川 いいかえれば、日本政府は進駐軍の憲兵の手足になって働くということです。完全な実力による軍事占領をやるぞということです。それは困るし、とんでもないことになると判断し、そんなことをすればかえって混乱のもとになると云って、必死にこの命令を徹回するようにつとめた。それが鈴木九万局長でして、鈴木さんの功績は非常に大きいのです。

藤原 どう見ても国葬の吉田茂元首相以上の貢献を、日本のためにしたみたいですね。

早川 鈴木さんは人がいい上に、陰にかくれてコツコツ努力するタイプの外交官でしょう。当時外務省にいた外交官は満足に英語も喋れない連中がほとんどで、進駐軍やマッカーサーの相手も出来ない状況でした。そういった中にあって、鈴木さんはアメ公達にとってはっきりした存在で、あの人が全力を傾けたのでマッカーサーも命令を徹回したのです。

藤原 全能を誇ったマッカーサーがですか……

早川 鈴木さんのような人は手柄を誇りたがらないでしょう。そこであとになって、野心満々な連中やいかがわしい手合が、鈴木さんの功績まで自分がやったことのように並べたて、名誉を独り占めしてしまうのです。

藤原 万将功成りて一骨枯るですか。

早川 あの人も一将ですがね。それにしても鈴木さんはまだ存命だからこんなことを云ったら怒られるかもしれませんが、ああいう本当に偉い人は国葬や国民葬にはされませんよ。

藤原 勲章だって人並なものでしょう。

早川 それが世の中というものです。鈴木さんが私の直接の上司だから云うわけではありませんが、日本の官吏としてみれば本当は大変なことをやっているのです。

藤原 人臣をきわめて国葬や国民葬で野辺送りをされた連中なんか、祖国の運命への貢献という点では、はるかに見劣りするといわざるをえないですね。

早川 吉田茂も私の上司で、鈴木さんを特にほめるわけではないですが、鈴木さんに較べると吉田さんはぐっと落ちますね。

藤原 でも鈴木さんが宰相の器であるかどうかは別問題でしょう。

早川 それはもちろんです。一般に吉田茂の方がいろいろ功績があったように云われていますが、それは首相としての仕事です。そして鈴木さんの功績の方は隠れてしまっているけれど、日本国のためには最も重要で、しかも根本的な仕事をしているのです。

藤原 そう思います。

早川 当時のような状況の中でサザランド参謀長と膝詰め談判をして、最終的にマッカーサーにあの命令書を撤回させたのですから、これは大変なことをやったのです。

藤原 それでその当時、吉田茂は何をしていたのですか。

早川 何をしてたのでしょうか。東京に名目上存在していた終戦連絡中央事務局の長官は岡崎勝男だったから……

藤原 むろん監獄からは出ていたでしょうが。

早川 内閣の方は東久通大将がいろいろやっていて、吉田は監獄から出て、どういう資格でかマッカーサー指令部にちょくちょく出入りしていたように思います。

藤原 東久通内閣は敗戦の受け皿として一か月半くらいしか寿命がありませんでしたが、あれはひどい内閣でしたね。

早川 そうだ、それで思い出しましたが、吉田茂は確か東久通内閣の外相だったはずです。もちろんこれは児玉誉志夫と同みたいなことなのでしょうが…

藤原 でも、東久週内閣の外務大臣は確か重光葵じゃないですか。彼が、ミズリー号で降伏の調印をしたでしょう。

早川 そうでした。重光外相でした。じゃあ終戦直後は吉田は未だ何でもなかった。重光更送のあとを継いだのです。でも東久逼内閣は10月8日かにペシャンコになっています。それで、そのあとは誰でしたっけ……

藤原 幣原内閣です。

早川 幣原さんの時に吉田は外相に留任したのです。そして兼任で終戦連絡事務局の総裁に就任しました。あの段階では終戦連絡事務局は機構が完全に出来上っていました。

藤原 それで本部は東京ですね。

早川 そうです。初めは官制はなくて非公式に委員会と称したわけです。

藤原 吉田茂を政治の舞台にひっぱり出したのは……

早川 東久適さんだったように思いますが。

藤原 弊原も吉田も共に外務省の英米派だから、気は合ったでしょう。

早川 そうです。二人ともリベラリストでしたし、重光は英米派ではありませんからね。

藤原 いずれにしても、この時代は目茶苦茶に混乱していた時代で、役職が上だった者が最も重要な仕事を遂行したわけでないことは鈴木九万氏の例でもよく分りました。それだけにこの時期のことは歴史上の証言を今のうちに出来る限り集めておかないと、資料がどんどん無くなってしまうでしょう。早川さんの証言はそういった意味で大変貴重です。今回その一端を聞かせてもらった敗戦直後の歴史を、もっと掘り起こしていったら、きっと画期的なデータを含む今様拾遺集が出来ると思うのです。

早川 今のうちなら、未だ生きている証人として役に立てるかもしれません。でも、そのうち死んでしまったら、一巻の終りでシューベルトの未完成交響曲と同じです。

藤原 だからこうやって証言を記録したのです。これだけでも生きた歴史書になりますし、今昔物語としても立派なものですよ。

(おわり)


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