『財界 にっぽん』 2010.07月号



国際舞台で存在感を喪失し続ける日本

大局観とデコンストラクション思考
に欠けた日本の悲劇

坂田英雄(画家・リラ会長、ロサンゼルス在住)
vs.
藤原肇(慧智研究センター所長、台湾在住)



情報革命による
地球村の誕生

藤原 現在われわれが体験してい る情報革命の核心は、世界中を結 ぶインターネット網を瞬時に流れ る情報効果であり、空間と時間が ほとんどゼロになってしまったの で、場がモノやコトの在り方にモ ロに影響を及ぼしている。具体的 には地球上が一つのコミュニティ になったことで、世界の中で会社 や個人が直接的に繋がりをもち、 コミュニケーションや取引などの 交通関係を確立したことです。人 間が動かなくても情報が瞬時に動 く効果によって、地球が一種の村 のような存在になっており、世界 は人類にとって一つの村と言えま す。
 『世界がもし100人の村だっ たら」(マガジンハウス)がグロー バル時代の民話として、絵本にな り多くの人に感銘を与えベストセ ラーになったが、これはインター ネットのフォークロア(民話)で あり、「ネットロア」と呼ばれて います。

坂田 子供が見ても大人が読んで も感じるものが多く、実に優れた メッセージに富む独創的な絵本だ と感心しました。
 私がこの本を開いて中身を見て 得た印象は、取り扱う事柄が数字 として百分比で構成されていて、 色も比率で塗り分けられていると いう配慮がある。だから、子供た ちに構図や色感の基礎を教えるだ けでなく、描かれている子供の顔 が表情豊かであるせいで、大人に も想像力の秘める魅力を感じさせ ます。

藤原 アイディアは『成長の限界」 を書いた環境学者のドネラ・メド ウスらしいが、オリジナルな発想 が現代版の「ガラス瓶の中の手紙」 としてサーフィーンして、情報の 海のインターネット網を通じて人々 にメッセージを伝え、「星の王子 さま」(岩波書店)に続く久しぶ りの素晴らしい絵本です。そして、 受け取った人が自分流に付け足し たり削ったりしながら、地球市民 の間をEーメールで送られたこと で、より普遍的な内容を持つネッ トロアに変身したのです。その点 では、作者と観衆の間の相互反応 で完成度を高めた、シェークスピ アの演劇脚本の出来上がり方に似 ています。

坂田 絵画を含めて芸術作品の持 つ永遠性の秘密は、作者と鑑賞者 の間の相互反応によって完成度を 高める点で、良い作品は作者と愛 好者の間の作用と反作用であり、 インターネット時代はそれが世界 に向けて開かれています。

藤原 そうですね。しかも、この ネットワーク網は外に向かって開 くだけでなく、従来の一方向性か ら双方向性を経てネットワーク型 として、総ての相手と結びつきを 持っている点では、最高のコミュ ニケーション機能を果たしている。 何でこの絵本の話を引き合いに出 したかというと、 米国のゴア元副 大統領が「情報 スーパーハイウ ェー」と呼んだ ものは、インター ネットによる情 報網として世界 に張り巡らされ、 国境の意味が形 骸化して世界が 地球レベルの共 同体になり、現 代におけるロー マ帝国が生まれ ようとしています。

坂田 アメリカの覇権主義が世界 を支配しているので、それを現代 版の世界帝国だと理解する限りに おいて、20世紀全体が帝国主義の 時代でした。だが、21世紀の今の 時代にローマ帝国がなぜ復活する のでしょうか。


帝国主義に続く
帝国の誕生

藤原 その答えはイタリア人のア ントニオ・ネグリが用意していて、 彼がマイケル・ハートと共著で出 した『帝国」(以文社)の中に書 いてある。
 それを一言で表現すれば、グロー バル化の世界秩序はマルチチュー ドで支えられ、「帝国主義が帝国 で置き換わる時代」が訪れたとい うことです。国境をもたない帝国 という言葉には新しい概念が伴う が、それは帝国として内部と外部 の区別が消え去り、帝国がマルチ チュードによって特徴づけられる ことによって、多様性の集合体と しての存在になる。
 また、歴史的には19世紀から20 世紀にかけて発展した国民国家は、 帝国主義的な侵略戦争を展開した ために、国境線に基づく国家中心 の世界秩序を定着させました。だ が、それは束の間の現象に過ぎな いのであり、情報革命の進展と経 済の世界化で国家の役割が低下し、 高貴な人の責務(Noblesse oblige)で漲る21世紀型の帝国として、 情報網による脱中心化で人民主権 が実現するのです。

坂田 何となく分かったような気 分になるが曖昧さが残り、イメー ジとしてしっくりしたものが捉え られない感じだが、それがどうし てローマ帝国に繋がるのですか。

藤原 ローマ帝国が誇った三大イ ンフラストラクチャーは、街道、 上下水道、ローマ法だと言われて いる。
 また、ローマ帝国ではインフラ 作りは公共事業だったが、ローマ の街道はネットワークとしての 情報網でもあった。だが、現在の アメリカ人は「情報スーパーハイ ウェー」として、人工衛星とコン ピュータを組み合わせてインター ネット網を構築したが、それは軍 事技術の応用で情報革命の副産物 でした。しかも、米国の覇権によ る帝国主義的な世界支配の構造は、 国境の存在価値と役割が著しく低 のにこれから変貌せざるを得なく なります。

坂田 「全ての道はローマに通ず」 という言葉の通りであり、大変な 道路網をローマ人は作り上げてい まして、アッピア街道などは20 00年後の現在も健在です。それ もおっつけ仕事ではなく計画的に 設計しており、平らな石を敷き詰 めて両側に歩道までつけて、公共 事業に巨大な税金を惜しみなく投 入している。確かに、アメリカが 作ったインターネット網は軍事目 的だったが、民間も利用して世界 的な規模で普及したので、帝国主 義的な性格は薄まっているのは確 かなようです。

藤原 帝国主義における支配網に ついて見れば、世界市場の制圧に 水路を全世界に張り巡らした英国 が、商船隊と通信網で植民地を支 配している。この海を支配した英 国型の帝国主義に続き、アメリカ が道路網と航空網を世界に築き上 げた。
 また、軍事目的の人工衛星を使っ てインターネット網を作り、帝国 主義の覇者になった米国の世界支 配の方式は、公共事業としてイン フラを作ったローマの帝国とは違 い、資源を確保するための世界制 覇になっていた。
 ローマ人が作ったのは文明世界 としての帝国だが、英国や米国が 作った帝国主義は収奪体制であり、 極端な形がネオコン的な弱肉強食 のスタイルです。だが、ローマ帝 国は人材も帝国領内から抜擢した し、属州を差別しないで同じ方式 でインフラを建設しており、ロー マの水道として有名なセゴビアや 二ームのポン・ドゥ・クレにして も、実に立派な石造りの水道用の 橋を建設しています。


南国と北国に見る
文明と世界観の違い

坂田 そういう捉え方をすると隠 れていたものが見えて来て、アン グロサクソン型の文明とラテン文 明の違いが浮かび上がってくる。 それは建築や絵画の世界ではっき りと現れており、 寒くて神秘的な雰囲気が好きな 北海型というか、霧や闇の中に光 が差し込む北方の画法に対して、 ズボラでも太陽が光り輝く南国の 陽気さを持つ、色彩感に富んだ明 るい雰囲気を湛えた地中海型の画 法は大違いです。

藤原 ヨーロッパでは語幹にアー トを持つ職人をアルチザンと呼び、 工芸的な仕事ぶりを職業としてメ チエと名づけているが、職人気質 が今でも生きているフィレンツェ の町に行けば、手作りによる工芸 品の良さを心から楽しめます。そ れはイタリアのランボルギニを始 めとして、フェラリやランチアと いうメチエに属す自動車工房があ る。日本の自動車会社でその系統 に属すのはスバルとホンダだろう が、トヨタやニッサンは米国のビッ グ・スリーと並んで、工業的な大 量生産型のシステムによる車作り です。

坂田 工房には親方という一流の アルチザンがトップにいて、その 下で何年も弟子が修行して腕を磨 くシステムだが、21世紀はメチエ が評価される時代の復活です。だ が、トヨタやキャノンは従業員の 三分の一が派遣やパートであり、 ロボットや奴隷的な作業員を使っ ているために、品質は良くても個 性の無い製品の生産が主体である。 フェラリやベンツを見て痛感する のは顔があるという点だが、トヨ タやニッサンは品質や値段は良く ても、トヨタが誇るレクサスは私 には個性が感じられません。

藤原 トヨタやキャノンの会長が 日本経団連の会長になったが、看 板としては経団連だが実態は収奪 路線の日経連の系統であり、これ は平成日本における「カンバン方 式」の蔓延です。
 それは自民党を名乗っても中身 は大政翼賛会であり、弱肉強食の ネオコン政治の日本版が君臨した ように、体質は旧態依然であるの が最近の日本です。

坂田 残念ですね。トヨタは外貨 の稼ぎ頭だと評価されているが、 職人気質というのは気が済むまで 徹底的にやる熱意を持ち、金銭的 な価値によって手抜きや妥協しな いのであり、人間を大事にしない 職場からいいものは生まれません。 メチエは人に説明するためではな く自分との闘いだし、自分の心眼 で見たものを形にする厳しいプロ セスです。

藤原 自動車の主体は中級品で生 活に使う道具であり、一台が百万 円とか三百万円レベルの値段によっ て、多くの人が自分に見合ったも のを選んで、消耗品として実用の ために買っている。従来の日本の 産業は大量生産の品物が中心で、 趣味の製品は民芸品や手作りの工 芸作品だったが、独創性のある顔 のあるものを生産することは、工 業製品の分野にとっても必要な進 化だと言えます。

坂田 中級品は労賃の安い発展途 上国に追い上げられ、高級品と共 に個性的な商品の開発に全力を挙 げない限りは、日本の産業社会の 未来はジリ貧になる。また、高級 品を指向するためには芸術性や個 性との調和が問題で、経済問題と 趣味の融合が決め手になるのです。 藤原文明社会論の正慶孝教授が 論じたことだが、資本主義には三 つのキーワードがあり、第一の産 業を意味するインダストリーは勤 勉を意味し、第二のビジネスは忙 しいという言葉に由来しており、 第三のネゴシエーションは暇でな いことを言うので、資本主義の特 徴は「勤勉で忙しく暇が無い」こ とを指すとか。だが、21世紀の社 会のライフスタイルは、遊び心を 持ったホモ・ルーデンスが主役に なり、人々が余裕を持って生活を 楽しむ時代の自動車の作り方は、 フォード主義からトヨタ方式を経 てボルボ主義になるそうで、とて も興味深い指摘だと思って感心し ました。

坂田 その指摘を『ジャパン・レ ボリューション」(清流出版)で 読んだ時に、私はなぜトヨタより ボルボの方が進んでいるのか不思 議だったが、部分と全体を見る視 点の違いだと分かって成程と思い ました。製品としての自動車だけ を見るのではなく、製造工程まで 展望するとそういうことになると 納得したのです。


イタリアの自動車会社の
トップの自信と世界観

藤原 イタリアを中心にした南国 のルネッサンスに対して、アルプ スの北側の北方ルネッサンスの違 いとしては、地中海的なメチエヘ の執着が芸術の伝統と結びつき、 北方は工業化によるデザイン指向 をもたらせている点です。機能性 が重要度を増す工業製品や建築も そうだが、絵画の世界でも南と北 の差は興味深いですね。

坂田 イタリア、スペイン、フラ ンスの絵には魂が篭っており、北 方ルネッサンスに影響を与えたデュ ラーはイタリアで学んでいるが、 デュラーやホロバインの絵は頭で 描いたもので、そこに風土や文化 に根ざしたものが読み取れます。 エンジニアリングで幾らトヨタが 品質の良さを誇っても、それはあ くまでもテクノロジーの問題であ り、メチエの作品としてのフェラ リやランボルギニとは全く違うの です。

藤原 フェラリの名が出たので興 味深い話を思い出した。フェラリ の社長で今はフィアット・グルー プの社長になっているコルデロ・ ディ・モンテセモロは、「自動車 の生命力は品質とデザインと構造 の三つであり、日本人やドイツ入 はエンジニアリング指向だが、わ れわれの勝負はこの三つの特徴を 生かすことで、特に内装でサロン (客間)の居心地の良さを保持し ていく」と言っています。
 彼の視点で見るとレクサスは優 秀な高級車であり、ステレオにナ カミチの高級アンプを付けて努力 しているが、内装ではフェラリや ランボルギニにはとても太刀打ち 出来ない。

坂田 その視点は流石に芸術の国 イタリア的な発想であり、日本の 寺院建築の現場において生きてい る精神と同じで、モノよりも心を 大切にする伝統が生きています。

藤原 モンテセモロは今ではフィ アット・グループを統括していて、 「フェラリは客間だがフィアット は台所で必要を満たすのが役割だ。 だから、フィアットの競争相手は フォルクスワーゲンや米国系の大 衆車であり、フィアットとフェラ リの中間の車は寝室的な技術マニ ア用だから、ベンツやレクサスは ドイツ人や日本人に任せる」と言っ ています。

坂田 面白い発想ですね。個性を 開いた形で表現する点で芸術的で あり、フェラガモの靴やエルメス のハンドバッグをブランド品と呼 ぶのは、芸術作品を身につけるに は風格を伴うことが必要だという ことで、それはアイザンがメチエ で作った作品だからです。
 大体、イタリア人はローマ空港 に芸術家の名前をつけ、レオナル ド・ダヴィンチ空港と呼んで喜ぶ のに対して、アメリカ人はケネディ 空港やダレス空港と政治家の名前 だし、技術主義の日本人は成田や 関西と地名をつける通り、趣味と 感性の違いが見事に現れているの です。

藤原 なるほど。かつての米国で は日本製の自動車が多かったのに、 最近は韓国車の進出が目覚しいと 坂田さんは心配しているが、モン テセモロの考え方による区分に従 えば、ヒュンダイやキアを敵視す る必要はなくなる。それは超高級 車であるロールスロイス、ランボ ルギニ、フェラリに対して、ベン ツ、BMW、レクサス、インフィ ニティ、アキュラ、ボルボなどの 高級車がある。次にトヨタ、ホン ダ、ニッサン、米国のビッグ・ス リーの中流車と共に、フィアット やフォルクスワーゲンの大衆車が 共生し、発展途上国が価格で勝負 の大衆車を作るようになったが、 それを脅威だと受け取るのは杞憂 だと言えます。

坂田 そう言われると成程という 感じがする。自動車に限らず工業 が作る機械製品を見る場合に、全 体性の中で生きてくる価値の存在 を見失うと、部分的な価値だけを 注目して流行現象に目を奪われて しまう。
 絵画の場合は一発で大作を試み ても歴史に残らず、たとえばセザ ンヌは見た目には大した印象を受 けないが、彼の絵は見慣れると深 みが出てくるのです。それは欠点 をどんどんと改めているせいで、 作品の背後になぜこの絵を描いた かという哲学が伝わっており、時 の流れを通じて絵の持つ意味が分 かってくる。そうなるとプロの評 論家がいろんな意味づけをするし、 見慣れるに従い絵の持つ味が理解 されるのです。完成品が最良とい う先入観の支配を捨てれば、セザ ンヌやピカソは未完成のものに良 い絵が多く、そうした未完成の絵 を楽しむ人が増えて欲しいし、そ れが全体と部分の調和を捉える視 点を育てるのです。
 良い工業製品にもそうした側面 があり、消耗品として消費する商 品として売るものについては、発 展途上国の人々に任せたら良いこ とになります。


町造りに協力する
投資における
国際化時代の心構え

藤原 トヨタやホンダがヒュンダ イやキアに追い上げられ、ソニー や日立がサムスンに圧倒されてい ると嘆いたのは、坂田さんが日本 を思う心の一断面だと思う。むし ろ、韓国が日本を追い抜いたり肉 薄する商品を生産して、世界の市 場で競争する相手に育ったと喜ぶ 心の広さが、愛国心よりも大切な 国際感覚になります。
 同じことはアメリカにおける日 本人街が姿を消す現象にもいえ、 本国での経営悪化を口実にして資 本を引き上げ、売り逃げをしたの では自慢にもならないし見苦しい。 だが、「リトル東京」や「日本人 街」が町のインフラとして自立し て、アメリカの社会で他の人と共 生し始めたので、別の場所に新し い構想で街づくりの投資をするた めに、今の所有権を手放して新し い挑戦をするのなら、素晴らしい 長期投資だと評価できるはずであ り、そのようにやって欲しいもの だと思います。

坂田 人件費や土地が安いので中 国に投資したが、賃金が上がった ので更に安いベトナムに工場を移 転するために、日本の企業が右往 左往する状態が起きたのは、アメ リカと同じ全てをカネ勘定で行く 経営方式のためで、結果は産業の 空洞化で国民が貧しくなるだけで す。次の世代のためとか地球に住 む同胞という発想で、自分中心の 利己主義と拝金主義に支配されな いようにして、潤いのある社会を 育てないと行き詰ります。

藤原 25年前に森暁さんと石油掘 削会社をやったが、彼はベンチャー を通じて果樹園経営する夢を持っ ていて、「私はいざとなっても木 を引き抜いて日本に持ち帰るよう な、けち臭い考えでアメリカに来 たわけではない」と言ったので感 銘しました。投資というのは単な る金儲けのビジネスではなくて、 木や人間を育てるのと同じで地域 の発展に寄与し、共に繁栄を分か ち合う社会活動だと考えるべきで す。
 明治の日本には渋沢栄一のよう な経営者がいて、企業や学校の創 設や町のインフラ作りにも熱心で、 理想的な社会を育てるために視野 の広い先駆的な役割を果たし、 『論語講義」のような素晴らしい 本まで書いている。ところが、私 益のために公共の道路を使いまく り、公共性を犠牲にした「カンバ ン方式」を自慢して、利益至上主 義を喜ぶのが今の経営者です。

坂田 全くです。今の日本の財界 のトップには理想を見失って、金 儲けばかりに夢中で会社の売上高 を誇るだけであり、会社は栄える が国は滅んでも構わない感じがす る。

藤原 社会主義は亡んでも社会が 亡んではいけないのであり、文明 的に見ると国家は社会のサブシス テムであるし、会社は国家の更に 小さなサブシステムに過ぎない。 大局観を失ったことで日本人は社 会を弱体化させているのに、それ に気づかないまま拝金主義の病魔 に毒され、明治以来せっせと築い た近代的な社会を破壊し、閉塞感 の中で経済大国の夢を追っている 日本は、共進する世界の動きから 立ち遅れている。同じことは産業 が空洞化したアメリカについても いえ、アメリカ人が買わないビッ グスリーを放置し、一日に500 億円の戦費を浪費して衰退し続け ているが、行き詰った米国の路線 に追従し続けるだけの日本は、政 治のあり方を改めない限り救いが ありません。

坂田 明治時代の日本人は物質的 には貧しかったが、心の中には精 神的な豊かさと挑戦の意欲があっ て、国造りをしようという気概を 持ち合わせていた。だが、政治が 理想やビジョンを語らなくなって 久しく、国民が見捨てられた状態 が続いているが、これは拝金主義 と技術市場主義の中毒を断ち切り、 こんな弊害からの脱却が何にも増 して必要です。

藤原 これも故正慶先生の発言だ が、『20世紀はテクノクラートが 万能として君臨したが、彼らは与 えられた課題を解決する上では有 能だし、解答を一定の方式で出す ことには長けていても過去の功労 者だ。21世紀には複雑性が支配す る変動の時代だから、将来を見通 す能力を持つテレオクラートが主 役になり、過去の歴史を踏まえて 未来を大局的に展望して行くこと が、何にも増して重要になること は確実である。また、エコノミス トは過去からのフィードバックに 力点を置くが、未来を展望しなが ら現在をどう変革するかを考える、 フィードフォーワードの姿勢が重 要だ」と強調しています。

坂田 矢張りフィードフォーワ! ドに戻りましたか。サムスンがそ れに気づいて本格的な変革に取り 組んだのに、日本人はフィードバッ クに重点を置きすぎて後れを取っ た。 だが、この失敗に学んで欠点を 改めて長所に転換すれば、「失敗 は成功の母」だから希望が持てる ということになる。だから、何と いってもフィードフォーワードと 大局観が決め手ですね。

藤原 日本の十倍も人口を持つ中 国人がそれに気づいて、フィード フォーワードを叫びだす前にその 重要性に気がつき、それに加えて 大局観を実につけることにより、 日本の未来はより確実なものにな ると知るべきですよ。 (次号に続く)


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