ブログ[教育の原点を考える]
1 名前: サムライ 投稿日: 2005/06/17(金) 04:24:41
サムライと申します。藤原博士の著書『教育の原点を考える』の題名をお借りして、ブログ[教育の原点を考える]を立ち上げましたのでお知らせ致します。このブログは、小学生の子どもを持つ父親のユニークな教育論ですが、社会事件も書評の形で時々取り上げていく予定です。今朝は、『神戸事件を読む』を書評の形で取り上げました。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/

今後も、宇宙巡礼の掲示板の訪問者に関心を持っていただけそうなテーマをアップしたらお知らせ致します。宜しくお願い致します。

2 名前: ナニワのダルマ 投稿日: 2005/06/17(金) 19:25:56
サムライさん、「神戸事件」は確か神戸新聞の広告欄か何かで見つけ、大雑把に一読したと記憶していますが、冤罪がテーマでした。この国の刑事事件・有罪率はご周知かと思われますが約99.8パーセントと実にずば抜けて優秀である事が数字によって物語られておりますね。ハリウッドの映画にもあったように確か民主主義の国では「推定無罪」の原則が大変重要視されるはずなのであの犯罪大国と云われる米国ですら50%にも達していなかったはずです。他の先進国然り。カフカの短編小説「律法の門前」に自ら犠牲者でもある愚鈍な官僚と光を求めやがて挫折する男(ヨーロッパ人)が描かれているようです。アジアの近代国家である日本国は国民の権利・尊厳に関する限り中国、北朝鮮サイドに属すと欧米人にもし質問される事があったら儒教圏だから政治観、人間社会観が通底するのだと率直に訳す前に何かいい説明は無いものでしょうか。

以下参照

http://www.liberal-shirakawa.net/idea/policestate.html

3 名前: サムライ 投稿日: 2005/06/18(土) 05:01:31
白川議員が渋谷で“貴重”な体験をした例の事件ですね。愚生もインターネットだったか新聞だったかで読みましたので、その件はよく知っています。日本の場合は儒教圏に入るというよりは、鵺的儒教圏に入る国と言うべきでしょうね。ともあれ、戦時中の隣組が消えた今日でも、“目に見えぬ”隣組は健在です。

なお、以下は『神戸事件を読む』の著者である熊谷さんからのメールをいただいています。熊谷さんの承諾を得た上で、以下に転載します。

サムライ 様

メールありがとうございます。
また、私の文意をよく汲み取っていただき、感謝いたします。
あの本では、奥付にアドレスを載せたお陰で、多くの方々からメールをいただきました。
読後感は、まさに百人百様で、いまさらながら、さまざまな考えの方がおられるのを痛感いたしました。
と同時に、自分の筆力の至らなさも、あらためて思い知った次第です。
なかなか自分の考えを正確に人さまに伝えるのは難しいものです。
たとえば、真犯人のくだりなどは多くの読者に誤解を与えたようです。
実際問題、インサイダーでもない限り、どこまで情報を精査しても、しょせん推測の域を出ません。
しかし、それでも真犯人の可能性については言及すべきだと判断しました。
私の知人などでも、少年は冤罪だというと、じゃあ犯人はだれなの? と必ず訊き返してきます。
神戸事件を考えるうえで、避けては通れない問題だからです。
しかも神戸事件の場合、真犯人を考えることが事件の本質を問うことにもつながると私は思うからです。
あの事件を契機に、日本の社会はみるみるうちに変貌を遂げてしまいました。
まるでグリコ・森永事件を契機に、日本全土が(事件を象徴するかのような)バブルの狂乱に見舞われたように。

今回は、神戸事件そのままに、強者が弱者を踏みつけにしても、それが平然と許される社会になってしまいました。

じつに憂うべきことです。
でも、そうなってしまった責任の一端は、間違いなく私たちにもあるはずです
たとえ微力でも、言うべきときには言い、行動すべきときには行動しないと、いつまでたっても何も変わりません。

そうした意味でも、今回のブログの開設には敬意を表します。
充実したブログになるといいですね。

熊谷 拝

4 名前: ナニワのダルマ 投稿日: 2005/06/18(土) 21:55:28
サムライさん、レス有難う御座います。鵺儒教的という表現は言い得て妙ですね。ふと思ったのは江戸時代の武士階級の教育理念には儒教の影響が色濃く反映されていますが、その背景には宇宙精神や自然観が内包されていて単なる道徳説法ではなかった訳で少なくとも現在の為政者より心と精神の余裕、そして教養を感じ取れなくもありません。だから時の統治権力を超えた新たな社会建設に向けて反対勢力の中から「回天」が説得力を持ち得たと理解するのも全くの間違いではないと理解します。

 しかし、近代化を達成した西洋諸国の生み出した諸々の制度を付け焼き刃も兼ねて導入していく中で何というか後発性の近代国家であるがゆえに統治権力サイドの一方的な指導のもと儒教の宇宙観や自然観といった過去の人材を育んできたソフトの領域が軽視されたとすれば我々の先祖が失った知恵が何なのか一つ浮かび上がりますね。つまりテクノクラートとして必要不可欠な存在ではあるが「技術の知」に走りやすいとりわけ法家の伝統を汲む人材が最優先に評価され、西洋が発明した国民国家といった統治の部分(特に日本の場合プロシア型の国家権力並びに教育理念の尊厳観と法家的支配にとって都合のいい封建道徳の残滓)に結びついた経緯が現代日本における現在進行中の情報集約型社会への移行へと漂流する中で、賞味期限を露呈すると考えるとサムライさんの鵺儒教と言う表現に合致するのかもしれません。

最もこれらの現象は東アジアにおいては日本だけの問題とは云えず技術集約型の産業化にタイムラグがあるにせよ隣国にも共通する問題で「賢者のネジ」の第9章「明るい未来社会の建設と経済市場主義の克服」の対談の中で藤原博士はホウ・栄治氏に対し・・「権力を長期支配し役割を終えたものに、国家を食い物にしていた独裁的な政党として、日本の自民党、台湾の国民党、大陸の共産党があり(付け加えとして北朝鮮の労働党)」・・という下りに繋がってしまいます。

5 名前: ヒロイエ 投稿日: 2005/06/21(火) 19:31:11
話は、脱線しますが,福島大学に川本という陸上の監督がいます。
HPを立ち上げ、選手の育成方法などを公開されていたようでしたが、
事情で閉鎖されています。
理由は

http://www2.educ.fukushima-u.ac.jp/~kawamoto/index12.html

を見ていただきたいのですが、日本の教育は加速度的に崩壊に向かっていくのではないでしょうか。
私は、最近よく耳にする言葉で、大学のブランドを確立(高める?)ということが
言われ、大学も効率を重視という言葉の犠牲になったと考えています。

かって、学生時代に大学祭で同級生が研究発表の場でアイデンティティから
ユニバーシティアイデンティティ、そしてユニバーシティロイヤリティという
概念を打ち出し発表しておりましたが、これに噛み付いて大顰蹙を買った記憶があります。
噛み付いた理由は、もはや大学のブランドの時代ではない。個々の問題であり、
行き着くところ教師の問題に他ならないのでいまさらそんなことを言ったら
創立者に笑われる。ついては創立者をどうやって乗り越えるかが、学生に
求められているのではないかという主張でした。となるとぼろくそでしたが、
ありがたいことに追放まではされませんでした。

いま、日本中にはびこっているのは効率、実績といった目先のことばかりです。
大学というところは、基本的には物事を考えるところであって、その中から成果を生み出すわけで、できるだけその成果は公開され、それを更によりよくしていく必要があるにもかかわらず、成果を出すために隠す必要が生じるとは悲しいことであり、これが高校、中学と波及すれば行き着くところは悲劇でなく喜劇になるでしょう。

私の恩師は、かってこう言っていました。今勉強したものをすぐ使う必要はありません。何年か先に何かの時に、ああこれだと言う形で使えればいいのですと。

6 名前: ナニワのダルマ 投稿日: 2005/06/22(水) 13:43:36
ヒロイエさんが仰せのようにここ数年間に大学は急に実学ブームというか資格に繋がるコースを設置して生徒を集めたり、教えている先生は変わらないのに学部の看板だけが変わって生き残りをかけるなどいろいろ競争が激しいようですが、その一例として藤原博士の「ジャパンレボリューション」に鉱山学部を資源工学部に名前をかえたある大学の事が紹介されていましたがそれ以上に佐久間象山が言った「東洋の道徳、西洋の芸術」には当時日本が植民地にされないためにはメカニカルアーツ(機械学芸)とリベラルアーツ(自由学芸)の両方が必要と認識していて、今以上に官僚システムが出来上がっていなかった頃、つまり江戸や明治生まれあるいは昭和の軍国主義が台頭してくるまではそういう教育の伝統が少なからず生きていたのかもしれませんね。実際よく耳にするのは戦前の大学制度で学んだ人の方が総じて教養の質が高いという事を聞いたりもしますし、前回の総会の議論の一つにも教養の問題がでました。博士の発言の中に・・・「将来、もしアメリカが破産したとしてもアメリカには世界に誇りうるものがあるそれは小規模だけど非常に質の高いリベラルアーツスクールがある事です。翻って日本の場合は国債でしょう(笑)。」・・・というお話だったと記憶しております。「技術の知」に対して「哲学の知」ですが上記「ジャパンレボリューション」にて・・<藤原>「・・・「フィロス」は「愛すること」を意味し、「フィロソフィー」は「ソフィア(知恵)を愛すること」ということです。しかもその「知恵」は「多様な知恵」を意味しています。」・・にもあるように教養を知性の消費から心を豊かにする修養の問題に結びつけて考えていくとサムライさんのブログ「教育の原点を考える」にも繋がって行く事と愚考致します。ただ「哲学の知」といってもその前に考えねばならないのは私たちが生きている時代や生活は高度に発達した技術の時代の上に生き、それを前提にして失いつつある伝統を明らかにしたり現在に合う形でアレンジできる方向性が何かを現在の立場から批評している訳です。少なくとも私は上記・佐久間象山の(自由学芸)、(機械学芸)の対比でどちらを選ぶという形式をとれないと考える立場です。表の矛盾が裏を生み、裏の矛盾が表を生み出すというような陰陽動態変化の相で捉えてしまいます。最期にフランスのある経済学者のコメントを付け加えて置きたいと思います・・「愛は消費の最期の目標であり人間の最初の狂気、人類の究極の防御柵。」・・

7 名前: 佐々木和 投稿日: 2005/06/22(水) 18:00:47
明治時代、リベラル・アーツを「藝術」と訳したのは西周先生だそうですね。
古代ギリシャ時代から「自由人のための教養」を指し、それは、手工業者や商人のための
「職業訓練」とは区別されてたリベラル・アーツはラテン語でアルテス・リベラーレスartes Liberales、
ここで古代ローマ以来西洋文明において、まずアルスarsとは何であろうか疑問します。
アルスarsを「技術」と訳したところから、本質から少しはずれていくもどかしさを感じます。
またアルテス・リベラーレスとアルテス・メーカニカエは完全に区別されたものであり
アルテス・リベラーレスとはあくまで自由人のための諸技術であり、手工芸的技術とはまったくちがう
「技術」であるということを日本人は今一度見直すべきと考えます。
アルテス・リベラーレスは中世時代に「自由七科」と定義され、始めに文法・修辞学・弁証法という言語学系を学び、
その次に算術・幾何学・天文学・音楽という数学系の四科を学ぶことができたといいます。
そうして初めて哲学を学び、この7科を統治でき、さらにその上に神学があった。
私は教育において、このことの意味を今一度しっかり見つめなおし思考してみるべきではないかと思っています。
そして自分が今「どの位置にいるのか」、また日本人が「どの位置にいるのか」を観れば
おのずと何が足りないのか、が見え、学ぶべきことに気付かされます。
確かに現代は高度な機械技術の時代ではありますか、欧米にはリベラル・アーツの素養が
しっかりと身につきそれを意識した人間の層がエリートとして確立されていて、
例えばMBAなども高校・大学を通じてリベラル・アーツの素養があった上で学ぶ「職業訓練」な
訳だから、日本人が現在の日本の大学を出てアメリカでMBAを取得できたところで、
所詮それだけでは真のエリートとしてビジネスの世界であっても国際的に通用する人間は
できにくいのではと考えたりもします。

8 名前: 楼 暫濡 投稿日: 2005/08/02(火) 12:02:22
スイスの湖畔やフランスのパリ郊外にある(世界レベルの)ビジネススクールは支配階層の貴族が若くて優秀な(将来の)“(ビジネス界の)番頭さん”候補を集め、教育し、試し、リクルート(選抜)する場だ。日本人に馴染み深い人物としては米国版高級番頭さん養成所ハーバード大学在学中にフリッツ・クレーマー教授に見出されたキージンガー(英語読みではキッシンジャー)青年が居る。日本人?網にひっかかり(かすりも)しないから、問題外。

9 名前: 弟子A 投稿日: 2005/08/13(土) 13:46:58
久しぶりに珪水先生と面談をいたしました 一つ気になるお話をされましたのでご紹介をいたします。先生は「宇宙を語れなくなる」と仰っておりました、また幾何学がなくなるとも。文部省では円周率を3にするとかしないとか?(1)3にした場合コンパスで円を書いてください(2)中に正6角形を作り3角形の一辺を1Aとします(3)1A+1A=2A これに3をかけて下さい弦と弧の長さが=になります。先生はこれで「日本は終わり」になると 皆さんお考えになってください

10 名前: 田代穫 投稿日: 2005/08/13(土) 15:25:53
弟子Aさんへ
貴殿の言い方は面白いですね。そこで簡単な論理を考えました。
宇宙は幾何学で出来ている。日本は幾何学で出来ている。
円周率3を文部省が確定したので幾何学がなくなる。
ゆえに日本は終わりになる。宇宙を語れなくなる。
おっしゃりたかったことはこんなことでしたでしょうか。

11 名前: 相良武美 投稿日: 2005/08/16(火) 09:06:23
久しぶりですが、9.10に関し、思い出したことですが、
円周率が3であることを証明できれば、丸く収まります。
しかし、絶対できません。
2年位前の東京大学の入学試験問題に、円周率が3.05より大きいことを
証明せよとの問題があったはずです。
3が正しければ、円はこの世に存在することは無くなるわけで
幾何学が存在できなくなり、王道がなくなるということですか。
そして、世界共通の言葉で語ることができなくなり、抹殺されるのでしょう。

12 名前: つまびらかなのが好きな私 投稿日: 2005/09/03(土) 14:35:09
 こんにちは。サムライ様のブログ「教育の原点を考える」の読者で
「つまびらかなのが好きな私」と言います。同ブログを毎日楽しく拝読させて
いただいています。 
 このスレッドを含めこちらの掲示板に投稿するのは初めてでして、
不慣れなことをお許しください。もし私の発言の内容およびその仕方に
場違いな印象、スレッドや掲示板の趣旨にそぐわない印象、等がある、
これを読む方がそのように判断される場合は、
その旨ご指摘いただければ幸いです。
 さて9月3日付けの「教育の原点を考える」には藤原肇博士
と堺屋太一・元経済企画庁長官(1980年当時は通商産業省職員)
の対談(http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/
article/sakaiya02.htm)が紹介されておりました。
 まず私のこの投稿の趣旨から申し上げますと、
サムライ様がどのような意図でもって上記記事を紹介されているのか
が知りたい、ということです。サムライ様は同ブログで、
「堺屋太一氏と藤原肇氏が今から四半世紀前に1980年代を予測した対談
であり、官僚である堺屋太一氏と国際ビジネスマンである藤原肇氏
との間には、発想に大きな開きがあるのがよく分かると思います。」
と発言されています(2005年8月27日 (土)1980年・日本の破局(上))。
しかし、同記事についてのサムライ様の見解・意見自体は
少なくともブログ「教育の原点を考える」には書かれていないようです。

13 名前: つまびらかなのが好きな私 投稿日: 2005/09/03(土) 15:01:25
>>12の発言の続きです。

さて、サムライ様はブログ「教育の原点を考える」にて、
「教育と関連させて心に留めておくべきなのは、
世の中の風説に惑わされることなく、自分自身の目と足とで確かめ、
関係者とのインタビューを積み重ねたり資料に当たったりすること
の大切さであり、さらにはそれらを基に自分の頭で考え、真実を地道に
発掘していくというプロセスがいかに大切かという点でしょう」と
発言されています(2005年8月31日 (水)「フルベッキ写真」の連載を終えて)。
 こうしたサムライ様の姿勢は、2005年8月12日 (金)付けの記事
「研究社の英和辞典を巡る“論争”」からも読み取られ、私はここに
サムライ様の首尾一貫した議論を読み取りました。
 さて私が問題にしている藤原・堺屋対談についてです。
上記のサムライ様のブログのレビューから、「事実に基づかない議論を行うことは
戒められるべきことである」という命題を取り出しても矛盾はないと
思います。そのような前提で話を進めると、どうも対談記事を読む限り、
事実に基づいて話をしているのは堺屋氏のほうであり、藤原氏の発言は
、堺屋氏の発言を参照する限り、こう言ってよければ推測の域を出ない
ものが多いと感じたのですがその点についてどう思われますでしょうか。
堺屋氏の発言というのは、例えば以下の部分です。
「それはかなり事実認識を誤っている。
日本の大陸棚の石油採掘権の申請は外資系企業も多いし、
現に国際的な問題のないとこは探査を許司しているんですよ」
「それは政府の得ている精密なデータからみて、
まったく事実に反しています。 」
「やっぱり痛感するのは情報の間題ですね藤原先生ともあろう人でさえ、
政府の政策や、あるいは政府が考え、議論していることについて、
これほど情報不足に陥っていらっしゃるとは、やっぱり我々の
PR不足なんだな。」

14 名前: サムライ 投稿日: 2005/09/03(土) 15:19:36
ブログ「教育の原点を考える」を読んでいただいているとの由、ありがとうございます。
最初に、毎週土曜日に藤原博士の記事のアップをブログで紹介している目的は二つあり、ブログ「教育の原点を考える」を訪問してくれた人たちに対して、藤原博士をはじめとする脱藩人が集う本掲示板「藤原肇の宇宙巡礼」の存在を知らせること、および本掲示板で自由闊達な情報・意見交換を行う切っ掛けとなって欲しいと思っているからです。よって、本日紹介した堺屋太一氏と藤原肇博士との対談に関する見解なり意見は、私がでしゃばってアレコレ書くよりも、皆さんで積極的に進めて欲しいと思っている次第です。なお、私自身の意見については、近々ブログ「教育の原点を考える」に「エネルギー」という新カテゴリーを設ける予定であり、その中で今回の堺屋太一氏と藤原肇博士との間で意見を戦わせていたテーマの一つ、石油についてシリーズの形で筆を進める予定です(但し、仕事との兼ね合いがあり、中止になる可能性もあります)。ところで、「つまびらかなのが好きな私」さんの投稿番号:13に対する回答は、簡単に言ってしまえばインフォメーションとインテリジェンスの違いであると私は思っていますが、いずれ新カテゴリー「エネルギー」で書きたいと思います。こちら本掲示板では、西條さん、尾崎さん、あるいるは他の人たちから独特の意見が出てくるのを待ちましょう。


サムライ拝

15 名前: つまびらかなのが好きな私 投稿日: 2005/09/03(土) 15:26:37
>>13の発言の続きです。

もっとも堺屋氏の発言が全て事実であり、意図的な情報の操作や
文脈の歪曲がないかどうか、私自身がきちんと調査したわけでは
ないので、結局私のこの投稿も印象論という話になり得ますが、
現役(当時)の政府職員がマスコミ上でそのようなことを行うとは
考えにくいし、少なくとも私の知る範囲では上記の堺屋氏の発言が
真実ではなかったという報告はなされていません。
(私のほうに情報の欠落および誤解があればご指摘いただければ幸いです)

 それが正しいとすれば、上記の対談において先に述べた命題、
サムライ様のブログに貫かれている一つの原則といっても良いかと
思いますが、に則っているのは、少なくとも上記の対談においては
藤原博士ではなく堺屋氏ということになるかと思います。いかかでしょうか。

正しいか正しくないかは別問題としても、以上が私の見解です。
サムライ様はブログ「教育の原点を考える」とこの「藤原肇の宇宙巡礼」
掲示板とをリンクされたわけですが、上記のような見解をもつ私にとって、
このリンクにどのような意図があったのかもう一つ読み取りづらい、
というのが感想なのです。

 この掲示板はどちらかといえば、藤原博士の言論を積極的に世に知らしめる
という方針の方たちが多いようにお見受けします。また日本国の統治機構の
あり方について、こう言ってよければ批判的に、鋭敏な議論を交わしていこう
とされている印象を受けます。とすれば、少なくとも上記の命題からは
藤原博士よりもその対談相手に軍配があがる25年前の記事を、
いまこの時に、この掲示板とリンクしてアップされたことにどのような
意図があったのか、もうひとつ私にはわからないのです。

 石油問題については全く素人の私ですから(職業は半導体分野の技術翻訳
です)上記の私の見解に重大な誤解がある可能性も大きく、またこの対談記事を
語るにあたって前提となっている情報が私には不足している可能性もある
のですが、ブログの一読者として、ここに質問させてください。
サムライ様の上記の記事に対する見解はどのようなものですか?
また、上記記事のアップおよびこの掲示板とのリンクはどのような
意図に基づくものですか?
お答えいただける範囲で構いませんのでレスポンスをよろしくお願い
申し上げます。長文失礼致しました。

なお私がこの掲示板のこのスレッドにに投稿させて頂きましたことについて、
このことは「この記事について述べたいことがある方は、掲示板[藤原肇の宇宙巡礼]
に積極的に投稿してください。」というサムライ様による発言
(2005年9月 3日 (土)1980年・日本の破局(下))の方針にしたがう
ものです。

16 名前: つまびらかなのが好きな私 投稿日: 2005/09/03(土) 15:31:45
すみません14の記事を読む前に15を投稿してしまいました。
14の発言の趣旨、了解いたしました。
迅速なご回答ありがとうございました。

17 名前: サムライ 投稿日: 2005/09/03(土) 15:43:24
とんでもありません。ともあれ、投稿番号15に対して、西條さん、尾崎さん、ナニワのダルマさん、エネルギー問題に関心の強い海原さんなどから、何の意見も出ないようであれば、「つまびらかなのが好きな私」さんの意見が正しいと、彼らが暗黙のうちに認めたことになると思います。

ところで、半導体をご専門に翻訳をされている由、ちょうど明日、ブログ「教育の原点を考える」に翻訳をテーマに投稿します。お楽しみに。


サムライ拝

18 名前: 田代穫 投稿日: 2005/09/03(土) 20:39:58
つまびらかなのが好きな私さんへ
<少なくとも上記の命題からは
藤原博士よりもその対談相手に軍配があがる25年前の記事を、
いまこの時に、この掲示板とリンクしてアップされたことにどのような
意図があったのか、もうひとつ私にはわからないのです<
この掲示板の読者です。サムライさんが上記の対談記事を紹介されたのは
本に収載されなかった雑誌記事を掘り起こして古い読者、新しい読者の
ために復刻されているわけで、あなたの言うような軍配がどうのこうのと
いう話ではないでしょうね。対談はそもそも勝ち負けの類ではないですし。
ちょっと色眼鏡が過ぎるのではないでしょうか。
藤原さんの愛読者なら藤原さんの固有の思考パターンをよく承知しています。
それが言いか悪いかは別にして刺激を受ける人が氏の書いたものを求め続けて
いるわけです。
あなたのようなどっちが勝った負けた式に読む人こそ稀ですよ。

19 名前: つまびらかなのが好きな私 投稿日: 2005/09/04(日) 01:46:14
>>サムライさんが上記の対談記事を紹介されたのは
本に収載されなかった雑誌記事を掘り起こして古い読者、新しい読者の
ために復刻されているわけで
>>藤原さんの愛読者なら藤原さんの固有の思考パターンをよく承知しています。
それが言いか悪いかは別にして刺激を受ける人が氏の書いたものを求め続けて
いるわけです。

なるほど。そのような背景があったのですね。やはり事情を知らずに
物を書いていたのだなと痛感するとともに、
教えて下さった田代様に感謝いたします。

ただ、誤解を解いておきたいので、少し追加いたします。
>>どっちが勝った負けた式に読む人
ということについて、
おそらく「軍配」という言葉を使ったのがまずかったのでしょうね。
別にどっちが勝ちだ、どっちが正しいということを強調したいわけでは
なかったのです。したがってこれは不適切な表現でした。

私はサムライ様のブログの記事には原則のようなものがあるのでは
と思い、それを「事実に基づかない議論を行うことは
戒められるべきことである」と、上の投稿番号13では表現しました。
そしてそれが正しいとしたら、
「上記の対談において先に述べた命題、
サムライ様のブログに貫かれている一つの原則といっても良いかと
思いますが、に則っているのは、少なくとも上記の対談においては
藤原博士ではなく堺屋氏ということになるかと思います。」
ということを言いたかったのです。

私はサムライ様のブログを知り、そこで初めて藤原博士、そして
この掲示板のことを知ったので、先の投稿のような疑問が生じたのです。
>>色眼鏡が過ぎるのでは
とお叱り頂きました。藤原さんの愛読者の方々の
気分を害されたのなら済まなく思います。
ただその「色眼鏡」ということについてですが、上記の質問は
サムライ様のブログ「教育の原点を考える」に掲載された記事として、
その流れの中でアップされた対談についての質問なのです。
しかし自分の投稿を読み返してみれば、確かに「藤原博士が
堺屋氏に誤りを指摘しているのを強調したいのではないですか」
という質問に読めなくもありません。お詫びするとともに、
もしそれが、どっちが勝った負けた、ということをわざわざ
強調した様に見えたのならそういう意図はないということを
申し上げておきます。

20 名前: 藤原肇 投稿日: 2005/09/04(日) 07:57:03
旅から戻って久しぶりに掲示板を開いたら、私が関与した古い対談の内容について、多少だが意見が飛び交っていたので書き込みます。堺屋太一との28年前の対談が電子化されたということを知り、先ずは25年ぶりくらいにそれを読んで、この対談が数年ぶりの帰国の時にのおこなったらしいと感じたが、当時の状況が蘇らなかったという次第。、そこで「記事」のリストで対応関係を調べたら、「世界週報」1977/11/15日号の記事があり、この前半部は「日本記者クラブ」で行った講演だし、後半は石油連盟で行った講演要旨だから、当時の状況が何となく理解できました。
『週刊サンケイ』の記事は紛失して久しく、1980年代の前半まではその英訳で、記事が「Business Japan」という雑誌に出たから、それを20年くらい前まで所有していたが、その後は見かけないことに気がつきました。
私が書き始めると一方通行になるので、皆の議論が賑わうようになった段階から、私も書き込みに参加しようと思いますが、80年代に予想したファシスト革命の件は、中曽根内閣の登場でこれは危ないと思いました。その予防工作が「文芸春秋」に発表した、『天動説の国・日本よ』だったことは、既に掲示板のどこかに書いています。しかも、もっとソフトな状態でファシスト革命が進行し、日本人がそれに無感覚で無抵抗なのが、現在進行の形で進んでいる小泉維新であることに、日本人はなぜ気がつかないのか不思議です。

21 名前: 村山亜紀 投稿日: 2005/09/04(日) 17:15:08
余計なことかも知れませんが、何かが好きな私さんは対談を少なくとも三遍ほど読んで、二度目からは文字面ではなくて、行間を読む訓練をされたらいかがでしょうか。

22 名前: つまびらかなのが好きな私 投稿日: 2005/09/05(月) 01:05:32
>>21村山様
コメントありがとうございました。
「文字面ではなく行間を読む訓練」という言葉で言おうとされている内容は、
田代様の言われた「藤原さんの固有の思考パターン」を知りそれに親しむことと同じ、
という解釈でよろしいかと思いますが、いずれにしても私は藤原博士の固有の思考を読みとれておらず、
そのためにこの掲示板に何か良くない空気を持ち込んだようだということは、田代様や村山様のコメントの
「行間」からも読み取れました。
 しかし、くどい説明になりますが、投稿番号12、13、15は対談そのもの
というよりサムライ様のブログについて、私はかくかくしかじかの原則を読み取ったが、そこからすると
アップされた対談はどのような位置づけなのか、私はこういうことが気になったが、という
ブログと対談の関係についての質問なのです。そしてその答えはすでに投稿番号14、16で得られました。
無論掲示板は多数の方が見るもので、この掲示板また藤原博士に対し結果的に批判的(というか挑戦的に写ったのでしょうが)
になる質問をすれば気分を害される方もいるのは承知ですが、藤原博士の発言に対して何か批判的な
内容を含んでしまうからこそブログ「教育の原点を考える」にコメントとして投稿するよりもこちらの掲示板に投稿したほうが、いっそフェアだと思ったのです。
サムライ様が「私が...アレコレ書くよりも、皆さんで積極的に...」と言われ、対談についてのコメントは、ブログよりもこちらに書き込むよう希望されているのも、
そういう文脈においてだと思ったのです。

23 名前: 山中慎吾 投稿日: 2005/09/05(月) 11:36:57
行間を読むということに関して、「財界にっぽん」十月号の正慶さんと藤原さんの「賢く生きる」という対談で、「文脈と行間を読む能力と躾の価値」という議論は、対談を読むときの秘伝としてとても素晴らしいノウハウが書いてある。対談だけでなく、本はこういう読み方をすることで本当に読んだことになり、普通の人は本をみたということらしいと分かって教えられることが多かったと思った。

24 名前: 吉田春雄 投稿日: 2005/09/05(月) 16:05:16
藤原さんの書いた記事に、「世界週報」の1977年11月号だとあったので、「記事」で調べたら、ダウンロードできない状態だった。ただ、「日本浮沈の条件」に収録とあったので、本を持っていたので調べたら、「あとがき」にこの記事が第一章と第六章と書いてあったから、早速読んでみたらとても素晴らしい内容だった。
堺屋太一と対談した同じ時期に、これだけの内容の記事を書いていたとしたら、凄い違いだと思った。堺屋太一との対談の数万倍の迫力があり、現在のことが書いてある感じがした。もしこれを民主党が読んでマニフェストに使ったら、小泉の無定見な政治は簡単に粉砕できると思う。
だから、この記事を「記事」で誰でも読めるように、管理人の人に電子化するようにお願いしたい。

25 名前: サムライ 投稿日: 2005/09/05(月) 17:04:53
吉田さん、貴重な情報ありがとうございました。

実は、「記事」に載せている藤原博士の各記事は、アメリカにいる藤原博士から私サムライ宛てに直接送っていただいた記事、さらには相良さんに国会図書館あるいは大宅壮一文庫で藤原博士の記事を探してもらい、発見次第コピーして拙宅送ってもらった記事が大半です。ただ、一部は記事そのものは手許に無いものの、単行本ならある場合もあります。今回のケースがまさにそれでして、吉田さんのいう「世界週報」の1977年11月号は手許にはなく、その代わり『日本不沈の条件』が手許にあります。よって、第1章と第6六章の電子化は可能ですが、文章量がある上に、殊に第6章の場合は大量に青色鉛筆で下線を引いていますので、OCRの認識率がかなり低下することが予想され、電子化を完了するまでに時間がかかりそうです。よって、仕事に余裕が出次第、早急に取り組みますので少々お時間をください。

なお、『日本不沈の条件』の後書きはアップ済みです。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/books/fuchin.html

参考までに、本人に承諾を得ていないので後で怒られるかもしれませんが、電子化プロジェクトに協力していただいているメンバーの一人、海原さんに最近「石油 原子力を頼りにするな!」という記事をチェックして頂きました。この記事は来月アップの予定ですが、その記事をチェックしたファイルを添付してあったメール本文に、以下のようなことが書いてありました。(『サンデー毎日』1979年11月11日号 シリーズ7 80年代の日本 □■石油 原子力を頼りにするな!■□)

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今回の「原子力」記事は、すでに1979年の段階でアフガン侵攻、
湾岸戦争、そして水素エネルギー社会の到来をも見通した、すさ
まじいばかりの洞察に満ちていますね。
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サムライ拝

26 名前: 相良武美 投稿日: 2005/09/05(月) 17:36:34
吉田さんへ、ご指摘ありがとうございます。
なにぶん、暇を作り出しては、記事の発掘をしているため、
記事の目次については、あとがきなどをそのまま利用したところがあります。
そのため、単行本となった際に、改訂等が行われていることは、無視して
行っており、また、未発表の原稿の発表を優先するがゆえに
至らないところが、多くご迷惑を掛けますことをご了承ください。

27 名前: 藤原肇 投稿日: 2005/09/06(火) 02:36:29
事情が分かりました。私の手元に「世界週報」の記事があるので、早速コピーして亀山さんに送ります。また、今回の討論に啓発されて「世界週報」の記事を20数年ぶりに読み返し、報告しておきたいことに思い当たったので、「日本不沈の条件を考える」というスレッドを起こし、そこで議論を進めようと考えました。
実は「日本不沈の条件」を書いた頃が、私のジャーナリスティックな仕事の絶頂期であり、皆さんにきっと参考になるだろうと考えます。

28 名前: 亀山信夫 投稿日: 2005/09/06(火) 03:14:00
「世界週報」の記事コピーを送付していただける由、宜しくお願い致します。また、新スレッド[日本不沈の条件を考える]をブログに紹介しました。ブログ訪問者の中から、一人でも多くの脱藩人が本掲示板に集うことを祈念しております。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/cat4326346/index.html


ホームページ【宇宙巡礼】管理人・亀山信夫

29 名前: 二階堂 投稿日: 2005/09/06(火) 12:45:02
話を脱線させる形になりますが、題目にネタです。
賢者のネジで、山田久延彦さんが、話題にしていた会津大学が
どうしょうの無い状態になっているようです。

http://www.nikaidou.com/column02.html

日本の教育もこうなっては救われないかもしれません。

30 名前: 読者 投稿日: 2005/10/01(土) 22:48:17
教育の原点を考える。情報戦争、日本人論の落とし穴、インテリジェンス戦争の時代、
ロシア人中国人アメリカ人と付き合う法、そして、まだ、アップされていないロッキー鼎談に登場される
早川聖氏に興味が、あります。何か情報が、あればお教え名がいます。

31 名前: 谷津茂利 投稿日: 2005/10/02(日) 09:34:35
早川さんのプロフィルについてはあなたが挙げられた本の中で
十分なデッサンがほどこしてありますので、そちらを見れば
早川さんの人生行路、法政卒、教員、外務省、貿易振興会、
カナダ定住等については分かるようになっております。
「教育の原点を考える」では、藤原さんから僕らは官学の申し子だが、
あなたは私学出だとつきはなされているのが印象的でしたね。
この発言で、藤原さんが自由な思想家、企業家だと思っていた私は
意外な面を見せられた思いがしたものでした。
私学出で官界を目指した人のようですから、随分気苦労があった人
でしたでしょう。なお、これも上記の本中にも出ていますが、故人です。

32 名前: サムライ 投稿日: 2005/12/02(金) 06:08:22
最近は本業(翻訳)に追われ、ブログの更新がままならない状態が続き申し訳ありません。
さて、慶大の高橋助教授から新たなフルベッキ写真に関する論文が届きましたので先ほどアップしました。関心のある方に一読頂ければ幸いです。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/cat4229856/index.html

33 名前: サムライ 投稿日: 2005/12/28(水) 07:28:21
編集方針が根本的に変わった『ニューリーダー』について

拙宅に『ニューリーダー』が届きました。しかし、同誌に目を通しながら、余りの変貌ぶりに思わず溜息をつきました。新しくなった同誌は、これから定年を迎えようとしている団塊世代にターゲットを絞った雑誌に成り下がったことは、今号の特集が「ある団塊世代論・村上春樹の研究」であり、次号の特集が「大熟年離婚時代」となっていることからして明らかです。前号までは落合完爾氏の「陸軍特務・吉薗周蔵の手記」の他、草森紳一氏の「勝海舟」、石井清司氏の「ヴェルディ オペラ創“声”期の巨匠」など、非常に読み応えのある記事で満載だったのに、今号の『ニューリーダー』には読むに値する記事が、少なくとも私から見れば、一本もありません。強いて云えば、p.18にあった「男たちの大和」という映画の広告から、ある種のメッセージを読み取り、収穫があったと云えるのかもしれません。もう、同誌の定期購読は止めることにします。

34 名前: 藤原肇 投稿日: 2005/12/28(水) 10:53:05
「ニューリーダー」が未だ届いていないので未見のために、そんなに内容が変化したと知りショックです。私に発表の場を提供していた雑誌が崩れ去り、言論の場がいよいよなくなる時代性を思うと、日本を支配している言論統制と知的荒廃を痛感します。
ところで話題が変わりますが、フルベッキの写真に関しての件では、サムライさんがブロッグで健闘していて、成り行きを楽しく注目させてもらっています。
グリフスが1900年に出した「Verbeck of Japan」は、アマゾンのオン・デェマンドで入手して英語版で読んだが、このたび村瀬寿代さんが新訳考証した「日本のフルベッキ」(洋学堂書店)を入手し、その優れた内容に大いに啓発されました。
これは村瀬さんの修士論文をベースにしたものですが、その脚注の素晴らしさは驚くべきもので、写真の撮影時期の時代考証も見事だし、地方の書店による500部限定出版だとはいえ、グリフス氏の原著が不要になるほどの中身だと思いました。アッパレの仕事だと感じ入った次第です。

35 名前: サムライ 投稿日: 2005/12/28(水) 12:35:39
ブログで取り上げているフルベッキ写真について、藤原博士にご紹介いただき恐縮です。このフルベッキ関連の一連の記事は、慶応の高橋助教授の論文などを精力的に掲載しており、今後も新しい論文が完成次第、アップしていく予定です。それにしても、今までは写真に写るのは大隈重信だとばかり思っていましたが、最近の高橋先生の論文を読むに、もしかしたら大隈重信ではないという疑問が持ち上がり、果たしてどういう結果になるのやらと固唾を呑んで見守っているところです。万一、大隈重信でないことが最終的に判明したら、己れの間違いを素直に認めたいと思います。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/cat4229856/index.html

私信で高橋先生から教えていただいたのですが、上記の村瀬寿代先生も拙ブログの「フルベッキ写真」に目を通しておられると高橋先生からお聞きし、嬉しく思ったものです。尤も、来年の桜が咲く頃までは高橋先生も私もそれぞれ本業に追われ、当面はフルベッキ写真に関する調査は出来そうにないのが残念です。

藤原博士の投稿を拝読し、村瀬先生の「日本のフルベッキ」(洋学堂書店)には今後も色々とお世話になることは間違いなく、大切に保管していきたいと思った次第です。

36 名前: 藤原肇 投稿日: 2006/01/15(日) 10:58:51
サムライさんが#33で『ニューリーダー』の編集内容が変わり、全く溜息するほど変貌したと書いていましたが、20年以上も毎月航空便で届いていた私のところに、いつもより三週間も遅れているのに送って来ず、これまで感じていた危惧を関係者に当たって見て、少しづつ状況の輪郭が浮かび上がってきました。
この背後には『小泉純一郎と日本の病理』の黙殺と繋がる、いかにも日本らしい陰湿な工作があるらしく、その件に関してはそうしたスレッドがあるので、「思想の自由と言論弾圧について」の欄で論じることにします。

37 名前: 兼重主税 投稿日: 2006/01/15(日) 14:32:06
藤原さんの書き込みが途絶えて何かあったのかと気になる後で、予想外で驚くようなことが起きてそうだったのかと思うことが良くありました。前回はまさか小泉のことを書いた本を執筆していたとは思わず、本が出てからそうだったのかと納得しました。
今回もそんな感じでどうしたのかと心配していたら、陰湿な工作があったらしいということなので、きっと言論妨害の内容が明らかになったのだろうと感じて、それについての情報をクビを長くして待っています。
だが、テレビや雑誌に登場している顔ぶれを見るだけで明らかだが、小泉批判の発言をして降ろされた人が多いのが目立つ時代だけに、いろんな形での言論弾圧が行われているに違いないと思います。

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