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「石油危機と日本の運命」を書いた時代
1 名前: 藤原肇 投稿日: 2003/06/13(金) 13:43
今の段階では「補説」「まえがき」「第9章:迫りくる石油危機」しか読んでいませんが、恐らく20年ぶりくらいにこの本を読み直したわけで、色んなことを思い出して懐かしさを噛み締めています。誰でも処女作が出版になった時には感動して、興奮して本を眺めたりすかしたりするでしょうが、私も嬉しくて仕方がなかったことを思い出して、あの頃は若かったなと考えて苦笑してしまいます。
初版が発行されたのは1973年5月21日であり、パイプラインが放射状に朝日のような感じで、朱色と銀色の表紙のハードカバーが眩しかったが、確か初版は3000部の印刷だったようです。「まえがき」によると執筆を開始したのは1970年の秋で、三島事件に対して「精神異常をきたした小説家の愚行」と書き、「まったく狂気の沙汰としかいいようのない叛乱劇に全注意力を奪われていたのが日本の姿だった」と批判しているのは、「まえがき」の文章にしても一つの歴史の証言でしょう。
第9章を読んだ限りではこの内容は今でも有効で、現在誰かが同じように危機の警鐘を鳴らさないのは、実に不思議だという気持ちになると共に、これを31年前に34才の私が書いた事実に対して、何となく嬉しいような気分に支配されます。ただ、この本の出版に至る道は苦難に満ちたもので、十社以上に断られて二年の歳月を無駄にしたのは、誰も石油危機が来るなどとは夢にも思わず、私は気違い扱いされたからで現在とよく似ています。
それはいずれ紹介する書評を見るだけで、なるほどと理解してもらえるだろうと思います。

2 名前: 藤原肇 投稿日: 2003/06/27(金) 12:38
誰もが失敗を体験して反省をすることで教訓を身に付け、その積み重ねを通じて少しづつ実力をつけて行くのであり、その典型的な例が「石油危機と日本の運命」の第一章で、この執筆は1970年の秋から冬にかけて開始し、71年の春頃に書き上げたような感じがします。その時の私はカナダに住んでいたこともあり、レポート用紙に万年筆でぎっしりと記事を書き、それを月刊の「文芸春秋」に寄稿したのだが、私はそれが当たり前の寄稿方式と思っていたようです。しかし、それが日本の常識から大きく逸脱していたことは、数年後になってから教えられたのであり、寄稿してから半年くらいは何の音沙汰も無しでした。
半年以上も過ぎて訪日したときに文芸春秋社を訪ね、副編集長だった西永さんに会って事情を聞いたら、興味深い内容だが誰も石油危機が来ると考えないし、これは空騒ぎだと編集部で反対する人もいるので、少し細工して準備しなければ活字に出来ないから、暫く預からせて欲しいという返事を貰ったわけです。71年の段階では石油危機が来るといえば気違い扱いで、私もそうした気違いとして日本では扱われたし、四日市などの製油所の排気ガスの公害を除いては、そもそも誰も石油のことに関心がなかったのです。確か「石油は日本のアキレス腱」というような題で、「文芸春秋」に掲載されたのは72年の春だと思うが、
手元に資料がないので正確な号数は分からないけれど、私の記事が出る前に石油の重要性について、八幡製鉄だか新日本製鉄だかの藤井丙午による、談話記事か何かが先行したように記憶します。私のような若造が石油の重要性を訴えても、読者に与える説得力に乏しいと考えたらしく、財界のボスに先鞭を切らしたのが件の細工だったです。それにしても、この記事が日本の大手のメディアに登場した、私にとって最初の論調であったという点で、初舞台が「文芸春秋」で私を発掘した恩人が西永達夫さんであり、彼とはその後の長い交際が始まることになって、「オリンピアン幻想」の腰帯に推薦文を貰っています。
月刊「文芸春秋」で西永さんが私を担当したのは短く、彼は「文学界」の編集長になって去ってしまい、その時の人事異動で「諸君」の田中健五編集長が、今度は「文芸春秋」の編集長として横滑りし、それから「文芸春秋」の反動路線が始まりました。私の寄稿記事を歪んだ形にして記事にするとか、寄稿した私の原稿を七割使って他人の記事に仕立てて、デタラメなことをやられて泣き寝入りをさせられ、73年に「田中が編集長でいる限り文芸春秋には書かない」と絶交して、それから四年間は縁を切ったエピソードもあります。「文芸春秋」だ登竜門になったのは事実とはいえ、石油危機への認識は未だ定着しなかったのです。
そして、「石油危機と日本の運命」に収録した記事は、ほとんど71年から72年の春までに書いたのに、それから出版になるまでには一年以上かかり、おそらく10社以上も出版を断られていますが、その辺については次のときに書くつもりです。

3 名前: 藤原肇 投稿日: 2003/07/13(日) 17:14
一冊の本として纏められるだけの記事が出来たので、出版したいと考えて最初に原稿を持ち込んだのは、雑誌に記事として活字になった関係もあったので、文芸春秋社の編集部だったのは自然の成り行きです。ところが、ものの見事に断られたその理由というのが、「雑誌だから石油危機が来るという記事でも出すが、単行本にする以上は確実な話しでなくてはダメで、石油危機が来るという荒唐無稽な内容のものは、わが社の信用に関わるからとても出せません」というものでした。それから幾つかの目ぼしい出版社に原稿を送って、出版の可能性を検討してもらったのですが、石油は幾らでも買えるから誰も関心が無いとか、石油危機などという無責任な話には興味が無いということで、どこの出版社からも色よい返事は貰えませんでした。
何番目かに持ち込んだのが日本経済新聞社であり、元ニューヨーク特派員だった関係もあって、外信部の次長だった大原進さんが原稿を読んだ上で、出版部に取り次いでくれたのですがこれもダメ。彼が言うには「日本の財界人が先見性を持つと褒めたり、日本経済は絶大なバイタリティーがあるのだから、石油開発でも世界に発展できると書いてあれば、わが社のスタイルにピッタリだから関心を示すし、喜んで本にして大いに宣伝もするでしょう。ところが、藤原さんの原稿だと財界人は先見性が無く、政治家は無能で利権漁りばかりに熱中して、日本の石油開発能力は世界の三流であり、アメリカに50年も技術的に遅れているという。プロの目からすればそれが事実であるにしても、日本の財界を相手に商売をするわが社としては、こんな本はとても出せないと分かるでしょう」とのことでした。
そこで更に幾つかの出版社に持ち込んで断られ続け、全く八方塞になっていた時に大原さんの紹介で、「日経」の「経済教室」への執筆の話が舞い込み、それがバネになって大原さんが親身になってくれ、「自分も何冊か翻訳した関係で出版社を知っているから、藤原さんの本を出しそうな所を当たって見るよ」と言って、何人かの編集長の所に持ち込んでくれました。そして、二人とも東京外語の英語学科を卒業生だが、私の中学と高校の同級生として親しい、NHKの主計局で仕事をしていた斎藤勝治君が、一緒にサイマル出版会を私のために訪問して、原稿を田村社長に手渡したというのです。そうしたら、最初の数ページをパラパラと読んだ田村社長が、「これは大変なことが書いてある。大至急これを出版します」と言って、その場で本の出版が決定したのだという話でした。
私はそれを聞き田村勝夫という編集長の見識に対して、何と凄い洞察力の持ち主かと感嘆したのだし、これは素晴らしい出会いだと天にも昇る思いでした。おそらく10社以上も断られたでしょうが、ほとんどの編集長の頭脳が本の出す波長を受け止めず、共振作用を起こさなかったにもかかわらず、田村さんだけは共鳴現象を起こしたのです。本は編集長が出すか出さないかを決めるのか、編集長の脳波を本が受け止めて共振することで、出版に至るのかどうかは未解決の謎です。それにしても、当時は未だファックスも無く郵便だけでしたが、カナダと日本の間を手紙のやり取りを使い、半年くらいの時間をかけて編集作業が進み、1973年の5月にハードカバーの本として、「石油危機と日本の運命」と題した私の処女出版が、初版3000部で日本列島で誕生したのでした。

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