間脳幻想
1988年10月04日初版発行 本体価格2800円+税
東興書院
絶版
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まえがき
交友関係などと形容したら、藤井さんに叱られてしまうかもしれないが、本書は10年近く続いた私と先生との友宜の結晶である。そしていつもマイクロコーダーを脇に置いて、野に在る二人の人間が自由に交わした、楽しい会話のエッセンスが活字になったものである。
最初の頃は、私の問題意識の乏しさと実力不足から、析角先生がつき合って下さったのに、話題をほり下げることが出来ないで終わったことが多かった。そして、何年が経ったあとで同じテーマに遭遇した時に、辛うじてその問題に食いつけたことが幾度もあり、同じ人間同士が取り交わすお喋りでも、内容がこれほどまでも違ってしまうものか、という印象を抱いたものだった。私には何を論じているのが見当もつがない、あの難解なジャッ
ク・ラカンの著作を愛読する藤井さんは、意味論をマスターした人として日本人には珍しい存在である。
10年近く続いた対話のお陰で、百科全書派の流れをくむ先生の博識と厳密な定義づけにより、混乱気味の私の用話法ががなり整理できたことは第一の収穫であった。それと共に、会話を通じたヒラメキと思索の意味に開眼できたことが第二の収穫であり、その成果は読者と分かち合うことができると思う。
また、本書は教科書的な知識や解説とは程遠く、一度目の通読では先生の発言の背後にあるものが掴めないかもしれないが、藤井先生という日本が生んだ鬼才の横顔は、その思想と共に幾分なりとも浮き彫りにできたという気がする。
日本に医者と呼ばれる人は幾万人と存在するにしても、医師・法学博士という名刺が示すように、古典的なマギストルとして錬金術までやってしまった医者は、そうざらに居ないのではないか。
テープからの書き起こしは延べで数カ月を費やしているが、それを編集して師のたまわくという古典スタイルを思い出しながら、私はソクラテスの思想と対話したあのプラトンの喜びと共通するものを味わったことを冒頭にまず記録しておきたいと思う。
私が藤井先生に初めて御目にかかったのは、一九八〇年の秋に日本を訪れた時だった。
その頃、内容が過激にすぎるということで、どこの出版社も活字にしてくれなかった原稿を、『虚妄からの脱出』という題名の本にして下さった東明社の吉田社長が、「銀座内科の藤井先生があの本を読んで、面白いと言って二○冊も買ってくれました。あれだけの名医が良いと診断した本を出版できたのは、当社の名誉だし、藤原さんも安心したら良いです。そこで提案だけど、記念に二人で対談してもらい、それを私が関係している月刊誌に掲載したいのですが、御願い出来ますか」と半ばおだてられて、私は対談を引き受けた。
そして、吉田さんに連れられて銀座の交差点に近い藤井先生の診療所に行ったが、その日のことは、まるで昨日の出来事のような新鮮さで記憶に蘇ってくる。
激しい地あげ屋攻勢にさらされているので、一年後にはどうなるか分がらないが、本稿執筆の時点では銀座内科は銀座に健在であり、診療所の様子は今も昔も少しも変わっていない。その間に10年の星霜が移り変ったことが嘘のようだが、吉田社長が私を藤井先生に紹介したあと、対談が始まったのは午後二時半だった。
気さくな口調で先生がいろんな話をするのだが、正直に白状してしまうと、最初の五分間というものは、先生の話の10%しか私は理解できなかったのである。
日本人同士が同じ日本語で喋り合うのに、そのほとんどが理解できない、という局面に遭遇して、私は大いに当惑した。それでも、何とが相づちをうっているうちに10分が過ぎた。吉田さんが心配そうに私の顔をのぞきこむのだが、私は庄倒されたまま上ずった声を出していた。過剰分泌のアドレナリンに刺激されて、エンドルフィンまで出始めたのか、私の頭の中には幻覚まがいの効果が拡がって、先生の姿が普通の人間の三倍も大きく見えていた。
ストレスを専門にしている先生のことだがら、私の心が金しぱりの中で呻吟しているのを読みとり、トークダウンしたに違いない。話の内容の15%までが分かるようになった。私は自分の頭が氷結から解放されて、何となく精神の融解が始まったと感じた時には時計は三時を過ぎていた。
更に一時間が経過して、話の25%まで理解できたと思う頃は時間切れで、吉田さんは次の約束のために、席をはずさなければならなかった。
そこで、私は対談の企画はやめることを認めてもらったのだが、それ迄幾度も雑誌や新聞の対談を体験していたというのに、これだけ圧倒されたのは生まれて初めてだった。鍵屋の辻で荒木又右衛門に対峙した、河合又五郎が抱いた感慨もこんなものだったのだろうか。
吉田社長がテープレコーダーと共に立ち去ったあとは、より気楽な気分で会話が進み、出会いがら5時間が過ぎた夜7時半には、何とか35%位は分かるようになっていた。
今にして思うと、藤井先生の忍耐力は神技に近かったわけで、その日の終電草をつかまえるために、地下鉄の銀座駅に急いだことを思うと、私は真夜中近くまで先生の診擦所にいたことになる。
そして、その夜の思い出は残酷なほど鮮明であり、寝床に入った私の頭の中は、ラスベガスのネオン電球のように、脳細胞が点滅をくり返した。闇の中で眼を見開いても、思い余って閉じてみても、結果は同じだった。まどろみかけて見る夢はネオン電球の点滅であり、脳のフィラメントは細胞を眠らせなかった。私は眠りの瞬間を持ち得たのかどうかも分がらないで目覚めたが、翌朝に味わった疲れは、奇妙な爽快感を伴っていた。
仮に、150億個の細胞フィラメントが、一晩中オン・オフを繰り返していたのなら、その電気料金は大変な金額だったであろうが、私のバッテリーは完全にディスチャージしないで済んだらしい。
数日が経過し、新宿のホテルで開かれた『藤井先生を保存する会』に招かれ、日本全土から集まってきた会員を前に、先生との初対面の体験談を披露して以来、先生との交友が本格的に始まった。
毎年繰り返している春と秋のアジア族行の途中に立ち寄る日本で、藤井先生との歓談が私にとって人生の薬味となり、かけがえの無い楽しみの機会が10年間も継続した。お互いに最新の情報を交換し、新しい思いつきとが、それぞれの時点における時の話題や関心事などについて喋り含うことが健在の確認となり、物理的時間の経過を生物的時間のたゆといによって補い合ったのである。
★★★
藤井先生と私のお喋りの内容は厖大であり、本書で扱ったテーマだけではなく、経済や政治問題についての、輿味深い話題がいろいろとある。今回は特に、先生が専門にしている精神医学に関連して、視床下部を中心にした間脳と神経ホルモンの関係や、二人が共通の関心を分かち合う文明レベルでの現状認識、それに、医学や博物学を根底で結びつけている錬金術的思考法と、生命現象に対しての新しい展望などの話題を抽出して、一書としてまとめてみた。
「私が鉱物や植物や動物を、ある確固とした見地から、特別な愛着をもって観察していたとき、諸君はよく私を嘲笑し、それから私の手を引かせようとした」というゲーテの『イタリア紀行』の中の述懐を錬金術ということばで置きかえると、私と藤井先生の今の気持ちは、その次に、「しかし、今や私は私の注意を建築師、彫刻家、画家に向けて、そして、ここにおいて自己を発見することを学ばうと思っている」という記述とスムーズに結びつく事実を、読者は納得してくれるはずだという気がするのである。
対談集を歓迎する出版社が非常に少なく、また、日本文化自体が、対談の楽しみを伝統として持ち合わせていないために、対談形式の本書に、とまどいを感じる読者も多いと予想する。同時に、本書を世に送ることによって、藤井先生が秘めているものすごい魅力を、読者と分かち合えることが出来て嬉しいと思う。
故武見太郎日本医師会会長と言えば、宮僚や医者を信用しない、独裁者的エピソードを残した、武勇伝的人物だ。この武見天皇と言われた人が、診察料を払って診てもらう医者は、銀座の藤井先生だけだと噂されたほど、藤井さんの毒舌がまき散らす有毒成分は、条件次第ではものすごい薬としてオムネス・コロレス(黄金色)に輝いているのである。私の非力さで、有毒成分が希釈されてしまったのではないかと恐れるが、本書は勝手気盛なお喋りが基調である。二人の会話自体が、知識を掌ぶためではなくて、意味を確認したりヒラメキによる新展開を楽しむものであるために、説明不足なことや、脱線転覆で、読む人に対して不親切だとの印象を与えることが多いかもしれないが、それはそのままにして読み続けられるように、とお願いする。
実は、私にも藤井先生の発言の真意が分がらなかったことが多く、時には、何年か時間が経過したあとになってから、やっと意味が掴めたということも有ったのである。一読すると、脈絡が混乱したお喋りのような印象を与えかねないが、一回目の通読で意味が分からなかったことも、数年後に読み直した時に、その含蓄がやっと分かることになるような味が、藤井さんの話には多く含まれているのだがら、分からないところは読みとばせば良いのである。説明不足を補う意味で、巻末に二人の著書リストをつけておいたので、必要に応じてそちらを参照されるように、おすすめする。
私は博物学の系統に属している地質学を専攻した人間であり、医学に関して正規の勉強をした経験を持ち合わせていない。しかし、藤井先生との対話の機会を生かすために、暇を見てはアメリカの大学図書館を利用して、脳やホルモンに関しての教科書や中世の技術史とが錬金術に関連する本を、幾度となく繙いて来た。そして、興味深い図版をコピーしていたらミカン箱に一杯になるほどの量になり、そのうちから本書にも大分利用させてもらった。原図作製者や保有者に厚く御礼申し上げる次第である。
私の基本知識が日本語をデータベースにしていることもあり、英文の医学書を読むにしても、アメリカ人と簡単な話をするにしても、基本用語の不足で大いに苦労した体験を反省して、本書に利用した図面は日本語に完訳せず、出来る限り日英併記にしておいた。
経済に続いてコミュニケーションの世界化が進む中で、日本語だけで大学教育を終えることが出来、一カ国語を知っていればそれで済む、という時代の終わりが始まっている。
私のように20年も外国に住んでも、そこの国のことばに関しては高校生以下、という苦悩を、次の世代に繰り返して欲しくないというのは、私のせつなる願いである。その意味で、本書の図面がアナログ的なバイリンガルヘの布石であり、図面を眺める楽しみも同時に味わっていただけたら嬉しい限りである。
多くの日本人が保存しようとした藤井先生の舌の毒を、私が水を差して薬効を薄めてしまったかもしれないが、少なくとも本書を読み抜いた読者は、私が費やした10年近くの歳月を、数時間の読書によって通過したことになり、イニシエーションに続く沈黙の瞬間を、満ち足りた思いで迎えることになるはずである。
現代文明は一種の混迷に陥っているが、その中に在って、次の時代に引きつぐだけの価値のあるものを見つけ出し、更にすぐれた文明社会を発展させるためにも、単なる骨董品趣味で古いものを掘り出すのではなく、そこに宇宙の真理を秘めているが故に、歴史の中に隠されたままでいる古代の知慧の発掘作業を、各自が得意にする分野で継続してもらいたいものと思う。
一九八八年五月
パームスプリングスの仙谷庵(旧名・山俗庵)にて
藤原肇
目次
まえがき 藤原肇
第一部 生命現象と医学の狭間
宗教と魔術の落とし子“医学”
健康は中庸から
ストレス学説と浴場精神
直観は仮説作りから生まれる
分裂症と管理社会
ストレスとの上手なつき合い方
生命の多層構造とビールス
遣伝子の生体環境としての人間
第二部 間脳機能と実存感覚
多層構造の世界“脳”
脳と教育制度のパラレリズム
大学と大脳
未熟児の時代とR複合体症候群
脳と地球のアナロジー
生命の中心“視床下部と副腎”
バイオリズムとホルモン
太陽脳と月脳
間脳機能と錬金術
第三部 自然と文明を統一する原理
ハイゼンベルグを超えた世界
クスリ九層倍の魔術
ミネラルが支配する生命現象
宗教感情と生の原意識
黄金分割の秘伝
古代人の幾何学的才能と黄金分割の美学
秘密結社の源流
ルネッサンスと科学精神の懐胎
フィボナッチ数列と宇宙の秘密
フィボナッチ数列のダイナミズム
あとがき 藤井尚治
あとがき
昭和34年だったろうが。東京で国際ペンの大会のあった時である。
暮夜近く、私の机上の電話機のベルが鳴り、おそらくは私の耳でかつて聞いたことのないほどのバスが、名乗った。
「私の名は、アーサー・ケストラー。足下は、私の長友、モントリオールのストレス学者ハンス・セリエらとともに、東京で研究を推進しているフジイ教授ですか」
教職には居なかったが、横文字の世界では、プロフェッサーもドクターも、敬称の一部と考えていいから、“ストレスのフジイ”に相違ないと応えると、すぐに会いたいという。身辺に日本人が居て、私のオフィスを教えたらしい。20分後には、ドアをノックする音が聞こえた。
電話の低音に驚いていた私は、今度はケストラー氏自身が、骨格こそ私に比べてやや骨太だが、身長は私よりも二、三センチ低身の小男であることに、もう一度驚ろかされた。
しかし、ユダヤ系というストレスを生まれながらに背負い、国際共産党への参加と転向。G・オーウェルとともにスペイン戦争を“失望のために闘い”、続く第二次世界大戦では連合軍のために、「半ばの真実を以て、百の虚偽を撃て」のスローガンを提供しかつ実行した。大戦終わっては、科学技術さえ含めて、反人間的なほとんどすべての現代の矛盾を提示し、必要に応じ、かつ可能な限り破砕して止まない(後には、その思考と生き方の一部はニュー・サイエンスの名の許に、たとえ試みとしても、現代を未来に結ぼうとする試みの主将となっているらしい)。その年齢とエネルギーは感しられた。
坐して珈琲。タバコは当時多かった新生を、口から離さない。
「足下は、臨床医として、ストレスに苦しむ者を、どう捉えるか」
「コス派の医学が主流となってから、医師は、クライエント(患者。精神分析では、依頼者を意味する、この語を用いる)の主訴は従とし、客観的なデータに依存度を高めるばかりだが、ストレス医としての私は、主訴(主観)と客観性を、両存させて判断し、可能な範囲でその徴調整を手伝いたい。いうなれば、検事役となってしまった現在の医師に対する、弁護士の立場を主張してみたいと思っている。私見では、貴著の『ヨギと人民委員』の主題、ハイゼンベルグの不確定原理は、臨床医術にとっても、もっとも酷しい問いかけではあるまいか。
一光年彼方の惑星の爆発を想定してみよう。直視している見者は、なお一年、この星を視覚の中に、客体として捉える。しかし、天上からか側面からの観察者には、この客体の実体はすでに存在しない。
「両者の立場を同時に取りえないのが、人間だよ。」
しかし、同時性を論じる前に、私の自己紹介を果そう。
ストレスに苦しむケストラーは、人間観においてはネオ・フロイデアンであり、社会人としてはエクス・マルキスト(マルクスを継ぎ凌いだ者)、そしていまのところでは、ジェネラル・セマンチクス(一般意味論)に関心が深い。
東京の意図の一つは、国際ペン大会への参加であったが、改めてセマンチクスの重要度を認識したに止まる」
注/
一般意味論=言語その他の記号の厳密な使用を訓練することによって、人間の環境に対する反応の習慣を改善しようとする学説(広辞苑)。ケストラー氏の場合は、意味論以前の、共通の論争の場さえ用意していなかった国際ベンの集会に愛想をつかして、退席してしまったらしかった。どういう訳が日本ではほとんど評価も紹介もされることなく、カナダから合衆国に移り、上院議員として時々その名を散見した、意味論中興の祖といわれるサミュエル早川教授が、「日本語に、普遍性を持つ抽象語が少いというよりは皆無に近いことは、有識者として、自覚してほしい」と、現役の学者のころ、助言というよりは忠告のかたちで、訴えておられたのが、いまも思い出される。エネルギーにせよ、ストレスにせよ、古代中国文学(というより仕方のなくなった)漢字をどう行使しても、表現し難いものだろうと語ったのを、銘記している。
いづれにしても、初対面の両者の自己紹介の底流に、ある共通のいわば主題が発見されるのを感得した私は、こう尋ねた。
「医としても若輩の私が、百戦練磨の尊兄に、いうなれば臨床医の立場で現代という怪物に対峙する処方をお漏し頂けないだろうか」
「ディバンキングに始まる」
ニコリともしないで、即座に返答が返ってきた。
注/
ディバンキング(Debunking)=虚偽の正体をあばく
一人旅と独身者の気軽さもあって、翌夜は当方からケストラー氏を宿舎の国際文化会館に訪い、『一九八四年』の著者G‐オーウェルとの出会いと評価。個と全体との対立と、質による適応の難易。これはそのまま後の『機械の幽霊』や、日本では未見の人の多い、天才論に発展したようだ。
数日後、さらに深夜の来訪があり、来日の途次インドで調査してきた、ヨガの与える脳波と、禅中の脳波の差異について、私見を求められた。いまでは識者の間では、常識化しているが、ヨガの示す頼状波は、テンカン発作時のものに似て烈しい。
「瞑想中、ヨギは意識の深層に泳び、禅者は和定に直線すると説く」
答になったかどうか。
後にその資料を整理した『ロポットとロータス』に対し、日本の諸書子は、白眼視していたが、絶対者を予断してしまっては、百%のコンミュニストや国粋主義者に対すると同じように、共通の言語はなくなる。当然意味論も不用だろう。
帰路の門出は15分の珈琲だった。それは、同時に本書の発端だったかも知れない。
藤井尚治
著書
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