太平洋の彼方から祖国を観察し、著者と読者が質疑応答を通じて、日本の問題点を浮き彫りにした好著。阪神大震災はサイエンスの軽視と技術優先主義による土建屋政治が招いた人災ではなかったのか、との分析は鋭い。
まえがき 21世紀の始まりが既に秒読み状況になっており、目まぐるしく変化する時代の動きに従って、これまでの古い世界秩序が大きくゆらぎ、変動が世紀末を思わせる混迷を見せている。これは文明のレベルで進行する情報革命の過程が、新時代に有効な産業社会を生み出すために、明日の生命を秘めた嬰児が誕生する前ぷれであり、新世紀のドラマの始まりを告げる陣痛に他ならない。 有効性を失った古い秩序に変わる新しいものが、未曾有の試練の後に産声を上げるためには、混沌の中での暗中模索と悪戦苦闘が続くし、産業社会が不況の長いトンネルを進むに従い、行く手に明るい新時代が近づいてくる。全体としては大きな希望が広がっているのに、個々の断面では多くの困難な局面があり、戦略的には楽観で戦術的には緊張が必要だから、叡知を磨きエネルギーを蓄えることで、試練に挑み障壁を乗り越えることが不可欠である。 ところが、過去十数年の日本はこの逆の路線を邁進し、ヨーロッパの没落や米国の崩壊を騒ぎ立て、経済大国として自国の経済力を過信すると、21世紀は日本の時代だと思い込んで油断した。緊張感を棄て享楽と驕りの時代精神が蔓延し、国民はグルメやレジャーに浮かれて成金趣味に酔い、財界人は快適な地位を守って人材育成を忘れた。また、御用評論家たちは日本の工業力を褒め讃えたし、政治家たちは利権漁りに明け暮れたために、必要だった緊張感が弛緩してしまったのである。 こうして招いた混迷は誰の目にも明白であり、政治の指導性の欠如と私物化の激化と共に、亡国現象の顕在化は日に日に強まっている。それは日本の枠に捉われ自国中心に全てを考え、世界全体を捉える地球発想の欠如のためである。 産業界も同じように天動説と視野狭窄症に陥り、シェアー拡大と大量生産の妄想に支配されて、ハードウエア中心の設備投資に熱中したが、技術集約の産業社会の時代は終わりかけている。 こうした世界の趨勢の大枠を理解できずに、経済界のトップは老化と問題意識の低下を強め、その酷さは徳川末期の状況にも劣るほどだ。経済大国の矯りに酔って人材を育成せず、ハードウェアである生産設備を過剰に持ち、身動きが出来ない状況に陥ってしまった事実は、眼前で進行している平成不況が証明している。 最も基本的で生存の本質を決定づける問題に疎く、目先で頻発する些細だがセンセーショナルなものに煽られ、一喜一憂して事後の対応に忙殺されてしまい、国策の長期的な展望や危機意識の欠落に気づかず、大国意識に陶酔して来たのが日本であった。 そんな欠陥が制度疲労として一気に噴き出し、湾岸戦争の時にはPKOを種に足元を読まれ、一兆三千億円もアメリカに召し上げられたし、阪神大震災を目を覆う人災にしてしまった。このような異常な事態を冷静な目で診断して、カジノ経済とヤクザ政治にっいてては、『平成幕末のダイアグノシス』で歴史分析を行ったし、産業社会としての構造的な問題点の指摘により、『日本が本当に危ない』で私は読者に議論の叩き台を提供した。 宴会の最中に『養生訓』の話は歓迎されないし、お祭り騒ぎの時に火災避難訓練は野暮だが、社会の安全をマネージするウォッチドッグ(番犬)は必要であり、それが非常事態の時の危機管理を保障する。異常に備える有効な視点と足場の確保は、生存のために最優先の課題であり、高い次元で問題 を捉える地球発想に習熟して、全体の動きを理解するのが何よりも重要だ。しかも、それが組織はもとより個人のレベルにおいて、安全を確保する上で決め手である以上は、地球発想こそ世紀末における命綱ではないか。 歴史を鑑にしながら現在の状況を観察していると、世界的な規模で古い秩序がゆらぎ出しており、日本がまるで嵐に襲われた池の木の葉のように、荒波に翻弄され押し流されている様子が、太平洋の対岸にいると明白に読み取れる。混迷の渦の中に巻き込まれて漂流しているのに、束の間の大国意識 に陶酔した日本人は、全体の流れがどの方向に向かって動くのかも、行く手に激流が逆巻く瀑布があることにも気づかず、奔流の上で宴会に興じていたのである。 ここに来て不況の嵐が継続しているせいで、混迷の渦に巻き込まれていると実感したようだが、地球規模で流れ全体の動きを捉えない限り、奔流に流されて浮沈を繰り返すだけである。 だから、こんな危ない状況に[平成幕末]と名づけて、これまで私は幾冊かの著書を送り出したし、解決の方策として[脱藩]の概念を提供したが、それは既成の枠組みを乗り越えて課題に挑む、新しいタイプの自己変革への呼びかけであった。 その意味では本書は[脱藩シリーズ]に属しており、1980年に先駆けとして上梓した『日本脱藩のすすめ』や、小室直樹博士との対談集『脱ニッポン型思考のすすめ』と共に、脱藩トリロジー(三部作)の一環をなしている。 出版から時間が経つと書店は本を置かないし、読者も横積みの新刊しか手にしないために、商業的な採算に合わないことが理由になり、本書に先行した二書は残念なことに既に絶版だ。しかし、内容的に古くなって有効性を失った訳ではないし、キイワードの[脱藩]は常に生命力を維持しているの で、日本の枠組みを乗り越えて世界のレベルで考え、地球発想をする意義は高まるばかりである。 祖国の運命を損なわずに新世紀を迎えるために、地球発想を自分の思考軸の中心に据えて、二十一世紀にふさわしい生き方を志向することを、ここで若い世代に改めて強く訴えたい。そして、新時代の主人公としてダイナミックな役割を演じ、より明るい調和に満ちた社会を築くために、新しい挑戦に勇気を持って立ち向かうことで、試練として迎えた幕末現象を乗り切ることである。 この使命を担う日本の若い世代を支えるのが、地球発想という普遍精神であると確信して、太平洋の彼方のカリフォルニアの砂漠から、本書を激励のメッセージとしてお届けするとしよう。 1995年春 パームスプリンクスにて、藤原肇
目次 まえがき 第一章 サイエンス軽視と阪神大震災
第2章 立体的な地球発想で日本を見る視座
第3章 アメリカでの事業体験と日本の幕末化
第4章 流浪の一匹狼とパシフィカルの時代
第5章 国土改造計画は住民のために
第6章 東西融合文明の発生学
あとがき
しかし、開放的な江戸っ子の気質もあり、舌が滑り過ぎたと感じるような時も、[他山の石]として使って貰おうと考えて、あえて石選びもしなかったことを酌量して欲しい。 脱藩の意味は組織や地理的なものだけではなく、精神の枠組みを乗り越えることであり、自己変革を遂げることであるといった議論は、総べてDejave(既視感覚)がとても強烈である。その理由はこれが『脱藩型ニッポン人の時代』として、かって一度ほどその発言が生命を持ったことがあり、今度 は東明社の吉田社長の炯眼と使命感によって、新しい生命力を持ったフェニックスのように、輝かしい装いの下に蘇っているからである。 なお、第一軍の『阪神大震災はサイエンス軽視による人災ではなかったか』の初出は、泰山会の『タケヤマレポート』第732号であり、1995年2月20日に会員に発送されている。このレポートは日本における一種の秘密報告書で、東京市場一部上場の企業の代表権を持つ、社長と会長だけが読めるという性質があり、外部秘だから何を書いても自由である。だから、名誉棄損を恐れて活字にならない情報でも、このレポートに書いている限り無事であり、日本のトップ層にメッセージとして届く点で、メディアとしてこのレポートは希有の存在である。
いずれにしても、外部の人間には泰山会の例会の討議内容や、レポートに書かれている議論について、いっさい窺い知ることが出来ないのであり、そういう世界の空気を味わう楽しみのためにも、第一章の記事を玩味して頂けたらと思う。市販されている商業雑誌の情報に較べて、幾らカネを積んで もメンバーになれないという英国流のクラブの、会員だけの情報紙の持つ差が分かって面白い経験になる。 一般の雑誌は編集部の企画に基づく依頼原稿が主で、そこに顔を並べる者の多くが売文を生業にし、原稿料で稼ぐことを通じて有名人になり、マスコミの寵児になるのが日本特有のシステムだ。しかし、世界のジャーナリズムはオープン制であり、問題意識を持つ人間の寄稿で成り立っているが、日本のメディアはキャバレーと同じ指名制で、中味の質より編集者の好みと人脈が中心だし、見てくれの良い包装紙と肩書きが第一になる。そこで、三流教授や評論家は雑誌やテレビに頻繁に出たり、いかに自分を売り込むかに熱を入れるし、テレビタレントから代議士になり上ったりで、日本は国会さえもが寄席の延長になっている。 こんなものは日本発想であって世界発想ではなく、狭い島国だけで通用する茶番劇に他ならないが、こんな弛緩して退嬰的な環境に埋没しないで、真の地球発想を自分のものにするために、本書を踏み台に使って貰えたら嬉しい限りである。 著者識
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