湾岸危機 世界はどう動くか
1990年12月15日初版発行 本体価格1165円+税
TBSブリタニカ
絶版
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砂漠の盾と人間の盾----プロローグ
第二次世界大戦の終丁の時点に始まって、すでに、半世紀近く続いてきた冷戦時代が、ソ連の経済的な行き詰まりのために、ペレストロイカを不可欠なものにした。たとえゴルバチョフの改革が挫折で終わっても、冷戦の基盤の上に成り立つ世界関係を、あっと言う間に終わらせた点で、彼の登場は歴史的な成果を残した。
こうして始まった米ソの敵対関係の和解は、ブッシュとゴルバチョフの信頼関係として、兄弟愛的と形容できるほど緊密であり、永年の西側の同盟諸国が目を見張るだけでなく、当惑するほどの大変貌を伴っていた。
こういう状況と時代性があっただけに、そのインパクトが大きいのは当然だが、イラク軍仁よるクウェートへの侵攻は、ポスト冷戦における夜明けの鐘として、世界中に強烈なショックをもたらした。「悪魔」から「物乞いする天使」に変身し、裏返しのルシファー(堕天使)になったソ連は、壊れたベルリンの壁を乗り越えて、西側の陣営に乗り込んで馬を乗り換えたので、その後に大きな真空状態が発生したのは、物理的にきわめて自然な現象だったのである。
石油価格低迷がもたらしたソ連崩壊
こんなマカ不思議な事態が発生したのは、ソ連の官僚主義の硬直化に加えて、市場経清を否定した共産主義が経済の弾力性を奪ったせいであり、産業社会の進化に取り残されて、マルクスの経済学説が破綻した傍証でもある。
また、その決め手になったのは石油であり、産業社会の活力源であるエネルギーの主役が、一九八五年の秋に始まった石油暴落で、過去五年間もの長い期間にわたって、国際市場で価格が低迷し続けたためである。
なにしろ、ソ連の商品は競争力がないために、外貨獲得の七割が石油と天然ガスの輸出代金だから、石油価格の低迷はボディーブローのように効いたのである。軍事大国を築いてしまったが故に、マンモス症候群に陥っているソ連は、自らの重みのために自壊したのである。
アメリカも同じように軍事大国であり、産業界の体質が軍事偏重になっているから、経済的な破綻現象を至る所で現わして、民生主力の日本やドイツに追い上げられ、経済の基盤が大いに揺らぎ始めている。
だから、同病あい憐むという心理に支配されて、仇敵に親しく手を差し出そうと考えた米ソ両国が、国際政治の舞台の上で睦み合い、メロドラマを演じ始めた時に、突然のように中東の一角で銃声が響き渡り、イラクのサダム・フセイン大統領が機甲師団を動員して、クウェートに攻め込んだので、太平の夢が粉砕されてしまったのである。
火の手が上がったのが石油地帯だから、火気厳禁の可燃性資源の危険性を思い、皆が色めきたったのは無理もないが、石油を支配したことで国力を築き上げ、世界経済に君臨した過去を待つアメリカだけに、バイタル・インタレストへの反応は素早かった。
軽率なクウェ−ト政府の判断
一九九〇年の七月二四目から二七日にかけて、ジュネーブで開かれる予定のオペック総会では、割り当ての生産枠を無視して増産する国に、違反を中止させる措置が取られるとの予想が高まっていた。
うわさに敏感なニューヨークの先物市場では、それまで下げ調子だった九月期のテキサス石油が、七月九日に底値の一七ドルを記録すると反転し、需給関係では史上最高の備蓄を記録しているのに、価格が一週間で三ドルも高くなった。イラク政府によるクウェート非難が続き、それが機敏な投機筋の注意を引き付け、イラクの主張する二五ドルの価格水準が、実現しそうだという思惑が働いたせいである。
前回のオペック総会で決まった生産枠を破り、クウェートとアラブ首長国連邦(UAE)の両国が、短期的な利益のために過剰生産を行ったことは、すでに、七月一〇日にサウジのジェダで開催された湾岸五カ国会議でも問題として取り上げられ、サウジアラビアのファハド国王がUAEのザイド大統領に、直接、電話で自粛を申し入れたほどである。
イラクとクウェートの対立が顕在化して、メディアの注目を集めたのは七月一七日である。国営テレビに登場したフセイン大統領は、アラブ首長国連邦とクウェートの両政府に対して、非常に厳しい口調で非難の演説を行い、協定違反の増産による石油価格の暴落で、イラクが被った損害は一四〇憶ドルだと強調した。
「われわれの生活を切り詰めるよりも、首を締め上げようとする相手に対して、その首を切り落とす方が勝っている、という言葉があるのをわれわれは忘れはしない」と強調したサダム・フセインは、石油の価格水準を守るためならば、軍事力の発動も辞さないと付け加え、彼特有の辛辣な口調に凄みを効かせた。
同時に、イランに向けて和平の実現を呼び掛け、両国の関係を改善したいと訴えたサダム・フセインに対し、ラフサンジャニ大統領間はそれに応えて、イランも和平の実現を希望するという内容の演説を、その日のうちにテヘラン放送を通じて行った。
イラクの恨み
翌一八日のアラブ連盟に送った手紙では、イラクのアジズ外相がクウェートを名指しで攻撃し、係争中の国境地帯の油田で石油のフル生産を行って、クウェートが二四億ドル相当の石油を盗み、それを国際市場に流して価格を押し下げたために、イラク経済は大打撃を受けたと非難した。
これは一見すると言いがかりのようにみえるが、イランの脅威からサウジやクウェートを守るために、血を流して戦ったのはイラクであり、しかも、何百億ドルもの戦費を債務にされたと慣る、フセイン大統領やイラク人たちにとっては当然の主張だった。一〇〇万人近い死傷者をだして勝利した以上は、報奨手当をもらっても当然であるのに、払い切れないほどの借金の山が残り、しかも、自分たちのものだと信じている石油を盗まれ、それを安売りされたという根みの気持が、イラク人たちを激高させたのである。
だが、パトロンとして戦費の面倒を見たつもりだから、クウェート政府は抗議を鼻先であしらって、イラク非難を言い掛かりだと決め付けた。
そして、七月二〇日に見解を発表したクウェート政府は、イラクの好戦的な脅迫の言辞の動機として、対イラン戦争の時の数十億ドルの戦費を値引きさせ、借金を帳消しにするところに狙いがあると指摘したので、イラク人は感情を逆撫でされたと感じていた。
抗争のエスカレート
すでに、イラクとイランは共同歩調を取っており、七月二二日付けの「テヘラン・タイムス」の記事は、「オペックのジュネーブ総会においては、生産枠を無視しているクウェートとアラブ首長国連邦の両国を糾弾しているバグダッド政府を、イランは支待している」と報道し、イラクのアジズ外相がカイロを緊急訪問して、エジプト政府に危機解決はできると言わせることで、二日後に追った会議への布石を試みている。
翌二三日のバグダッドの新聞は、「クウェートはアラブ問題に外国勢力を介入させ、その力を背景に有利に取り引きしようとする点で、クウェートの外相は帝国主義者の代埋人だ」と攻撃し、それに反発したクウェート政府は、事実無根だと否定の声明を発表した。こうした非難の応酬はアラブ世界の常套だから、ほとんどの人はまた始まったと考えて、あまり強い関心を払わなかったが、オペック会議が開催された二四日には、クウェート国境のイラク軍の増強が目立つので、ペンタゴンはこの事態を重視すると、海軍の艦隊に対して緊急指令を行い、ペルシャ湾を警戒地域に指定した。
ジュネーブのオペック総会では意見が対立し、クウェートは生産枠の拡大を要求し続け、四割高い基準価格を求めるイラクに対して、イランとリビアが支持する立場に回っていた。また、二五日にイラク政府がクウェート政府に対して、ルメイラ油田で被った損害額として、二四億ドルの補償を申し入れたが、エジプトのムバラク大統領が仲裁を試み、両国はサウジのジェダで改めて交渉することで話が決まった。
一方、ジュネーブ総会は白熱した議論の結果、参加国が守る新しい生産量の上限が、現行より四〇万バレル多い、日産二二五〇万バレル(三〇〇万トン)に決定し、抜け駆けの増産をして結束を乱さないことが、クウェートとアラブ首長国連邦の責任になった。
インドネシアのカルタサスミタ鉱業・エネルギー相は「サウジが生産の削減に快く協力し、イラクが生産枠の復活に貢献したことが、この総会の偉大な成果である」という談話を発表したし、予定通り総会は七月二七日に閉会して、一応、話合いは成功したという印象を残した。
八〇〇億ドルの負債を抱えているイラクは、国家収入の九五パーセントが石油代金であり、国際価格が一ドル高くなることで、年間収入が一〇億ドル増える計算になるから、ベンチ価格(協定価格)が三ドル上がると三〇億ドルの増収になり、一息ついたということかも知れない。
クウェ−ト政府の粗雑な外交姿勢
週末を終えた七月三一日のジェダでは、イラクとクウェートの政府代表が会談して、二時間にわたって交渉を行ったが、ルメイラ油田の補償や国境問題とともに、石油価格の低落による損害の話し合いでは、結論が出ないまま話は翌日に持ち越された。
一方、イラク軍の増強は着実に進んでおり、クウェート国境は一触即発に近いといってよく、イラク側はすでに一〇万人に近い陸軍を結集していたが、クウェート政府は威嚇としか考えなかった。
翌日に行われた会談も前日と同じであり、意見の食い違いと非難の応酬に終始して、双方が納得するような形での合意は得られなかった。結果としては、次の会談の予定地をバグダッドにしたが、日程については確定しない状態のまま会談は決裂して、両国代表は国王と一緒に晩餐を共にしたあと分かれてしまった。
イラク流の砲艦外交が試みられているのに、その意味に気付かずに決裂させた点で、平和ぼけしたクウェートの外交姿勢は、状況把握の面で油断と奢りに支配されていた。
イギリス人が得意とした砲艦外交は、植民地主義時代の終わりとともに、ほとんど没落したが、世界のいくつかの場所では未だに猛威をふるい、中東やアフリカはその本場だとも言える。砲艦外交の原形になっている支配形態は、騎馬民族や遊牧民が得意にしたものであり、いくら棚ぼたの石油代金の洪水によって、成金趣味を謳歌しているとはいえ、砂漠地帯に住んで遊牧民精神を忘れてしまえば、襲来する危機に対応することはできない。
私はアラブ世界での仕事の経験を待っており、アラブ人の性癖についてはよく知っている。だからアラブ人の心理の機徴に精通し、“アラビアのローレンス”として有名なT・E・ローレンスが、「ひとたび飽食すると、アラブ人ほどだらしない者はない」と『知恵の七柱』の中で指摘している記述に全面的に賛成だ。石油に浮かぶ僥倖に陶酔して放蕩の限りを尽くしたクウェートは、その典型と言えないだろうか。
心しなければならないのは大国意識であり、奢り高ぶりの中で偽りの盛装に酔えば、現在の成金大国の日本にも共通していることだが、飽食は歴史の教訓を忘却させてしまうのである。
間違って切られたカード
目の前に相手が砲艦を並べ立て、それを道具にして挑みかかろうとしている時、優れた人材が政治を担当していれば、頭脳を活用して対決することができる。だが、それだけの人物を指導者に持ち合わせない時には、右手に相当する軍事力か左手に当たる経済力を生かして、亡国に至りかねない危機を乗り越える用意が不可欠である。
必要な時に通切な判断をきちんと行い、危機を新しい機会に転じる能力こそ、指導者に最も求められる資質だが、それだけの人材を育てる努力をして、連材適所を実現することもなく、門閥にかかわっている限り、それは亡国への緩慢な一方通行になってしまう。
クウェートの場合は、サバハ一族が政治権力を独占しており、能力に無関係に血の濃さがすべてを決めているので、有能な外部の頭脳が活躍する余地が少ない。だから、策謀の中を生き延びてきた冷血な独裁者サダム・フセインの前では、クウェートの手の中には交渉決裂のカードはないはずだ。しかし、間違って切ったカードだったにしろ、テーブルの上に並べた最後の切札が、「カジノ・ロワイヤル」で使うカードだった以上は、たとえ王冠を失ったとしても、ゲームのルール上からやむを得ないのである。
同盟国が今度は敵役
こうして犯した判断上の誤りが国を滅ぼし、多くの人間の人生計画を狂わせたという意味で、無能な政治指導者を持つことの危険性がわかり、似たような状況に置かれている日本人も、反面教師をクウェートの不幸の中に見て、砂漠の中に「他山の石」を発見したらいい。
栄枯盛衰は世の常だというけれど、奢り高ぶって享楽に酔う民族には、亡国の歴史は実に教訓的であり、八月二日の未明のわずか数時間で、世界で最も平均国民所得の高かった国は、「槿花一朝の夢」として姿を消したのであった。
この不幸な動きを確実に追っていたのは、すでに、一〇年も前に似たような事態の出現を想定し、油田地帯の封建領主の破綻をシミュレートして、「中東緊急展開軍構想」を作っていたペンタゴンの幾人かの将軍たちであった。
一九七九年秋にシミュレーションが試みられた「酒落た金塊」(ニフティ・ナゲット)計画の時のシナリオは、中東の油田地帯へのソ連軍の侵略が基調だったが、冷戦の終結でソ連が姿を消し、その代役でイラクのサダム・フセインが登場した。
それにしても、アメリカやクウェートの以前の同盟国であるイラクが、今度は敵役として相手になったというのは、何とも皮肉な歴史のめぐり合わせではないか。
アメリカはソ連の脅威から油田地帯を守るために、イラン軍に大量の新鋭兵器を供給しペルシヤ湾の憲兵に育て上げたと思った瞬間に、たちまちイラン革命でテヘラン政府が転覆して、兵器もろとも僧しみの中でイラン関係を損い、人質問題で敵対関係に陥ってしまった。しかも、イランと戦争を始めたイラクを支援して、陰に陽に戦争協力をしたというのに、今度はサウジアラビアの味方として自ら軍事動員すると、イラク軍を相手に対決に入ったのである。
だから、一〇年前に取った杵柄の意味もあり、昔の計画とまったく同じ手順に従って、まず空母艦隊の緊急展開を行い、インド洋から航空母艦をアラビア海に急行させた。また人質救出を中心にした訓練を調えている、ノース・カロライナ州のフォートブラック墓地から、第八二空挺部隊を緊急空輸したし、続いて、カリフォルニアの第一海兵師団と、ノース・カロライナの第二海兵師団を動かしてから、沖縄の第三海兵師団の順で動員した有様は、まさに計画通りで寸分の狂もないのだった。
アメリカの素早い対応
この軍事的な展開と呼応して行われた、ワシントンの外交的な動きも素早いもので、バイカル湖で魚釣りを楽しんだ後で、モンゴルに出かける直前のベーカー国務長官は、ワシントンのキミルッツ国務次官からの電話で、数時間以内にイラク軍が軍事行動に移るというCIAからの緊急警告を受け取っていた。
そして、一応は予定に従ってモンゴルを訪れたが、すぐに日程を変更してモスクワに飛ぶと、ブッシュの非常事態宣言に合わせて、シェワルナゼ外相から武器供与停止の約束を取り付け、イラクの即時無条件撤退を求める共同声明を出し、電撃的な外交の展開を実現した。
一方、ワシントンではブッシュが陣頭指揮を取り、イラクとクウェートの資産の凍結や、イラクとの貿易停止などの制裁借置を断行するとともに、西欧諸国にも経済制裁への協力を求めるなど、次々と果敢なぺ−スで布陣を敷いていた。このような、イラクのクウェート侵攻に対して行った、アメリカ政府の機敏な行動は、かつて想定訓練を試みただけに鮮やかであり、危機管理の実際として実に手際がよかった。
だから、続いて国連を使った経済制裁の決議などは、国連大使を歴任したブッシュの経験が生き、さらに、アラブ会議に属している諸国が、サウジ防衛の軍隊を派遣するという所までまとめるなど、最初の一週間のブッシュ政権の動きには、目を見張るものがあった。恐らく、それは訓練された危機管埋の成果だろうが、ここにアメリカ人の底力が説み取れるし、リーダーが先頭に立つ行動パターンが観察できる。
これに対して農耕民族としての大和民族の行動様式だと、長老が後ろからかけ声でグループを動かすから、前進の時には非常に調子がいいが、後進の時には足並みが乱れがちになり、危機が混乱に結び付く傾向が強い。このような対照を比較して見ると、クウェート侵攻から一週間の動きには興味深いものがあり、実に多くの教訓を提供しているのである。
国際石油政治のジグソー・パズル
ニューヨークの先物市場で取り引きされている、アメリカの西テキサス産の石油の値段は、サウジ渡しのアラビアン・ライトや、北海で生産されるブレント石油に較べて、バレル当たり二ドルから三ドル高いのが、石油市場における一般的な傾向である。ところが、クウェート侵攻が起きるとその差が縮まり、ほとんど同じか逆転現象が始まったので、これはパニックの兆侯だと私は判断した。
しかし、メディアに登場するエコノミストや評論家たちのコメントは、世界は石油の過剰生産状態にあるし、備蓄量は史上最大を記録しているので、心配する必要はまったくないというのが、ほとんどであった。
エコノミストは数字だけを操る過去を向いた人間だし、評論家は知ったかぶりをするだけで、ビジネスの経験のない口舌の徒に過ぎないと、私は考えているから、彼らが何を言おうとまず疑ってかかる。
なぜならば、二〇年近くも昔の話になるが、私が石油危機の襲来を警告して、『石油危機と日本の運命』と題した本を書き、十指に余る出版社の拒否を乗り越え、かろうじて本として活字になった時に、「著者は日本経済の実力を過小評価している」とか、「ペシミズムに支配されているのではないか」といった書評が並び、その六カ月後に石油ショックに見舞われると、今度は大声で騒ぎ立てたのが彼らだったからだ。
石油ビジネスの中で汗を流した経験も、中東の砂漠地帯の砂嵐の中で身を削って仕事をした体験も無しに、彼らは頭の中で勝手な判断を作り上げ、それを切り売りして生活の糧にしているけれど、生きた経験はダイナミックであり、書斎の中だけでは論じ得ないものである。
だから、エコノミストが素人向けに気休めを言い、石油価格は最悪で三〇ドル程度だと託宣しても、私は蜃気楼に似た感慨を抱いたに過ぎない。なぜならば、プロの人間がやらなければならないのは、考えられないことを考える努力であり、その可能性と対応について思い巡らす責任を、社会的に担わされているからである。
侵攻から最初の二日間の私は、目の前で進行している出来事よりも、その原因になっている歴史的な背景について、正確な把握をしておく必要性を痛感した。そこで、最近のイラクとクウェートの外交関孫の推移と、オペック総会を巡る国際石油政治の動きに注目して、情報のジグソー・パズルの組み立てを試みた。
その結果たどりついた視点の一つは、これはサダム・フセインの石油戦略であり、アメリカがこの危機をエネルギー浪費の抑制に生かして、長期的な政治路線を重視する機会にするか、それとも、現状維持のために短期的な利益の選択をするかが、人類の運命を決定付けると考えた。そのいずれを選ぶにしても、石油戦略が発動されている以上は、値段は暴騰と暴落に揺れ動くから、瞬間風速の値段はどうにでもなると予想した。
武器としての経済封鎖
私はかつて「経済封鎖の政治学」(『日本丸は沈没する』時事通信社所収)という記事を書き、国際政治の力学法則は経済封鎖の関数であり、戦争も平和も共にその枠組みで理解できる、という結論にたどり着いていた。だから、アメリカが客観情勢を正確に把握しないまま、大急ぎでイラクの石油を封鎖すると決めた瞬間に、エ−ル大学出身で頭のいいブッシュが、経済封鎖の政治学に関しての定石について、よくわかっていないのを残念に思った。
彼は安い石油を確保したいと願いながら、わざわざ石油の流れを細くしてしまい、市場関係を逆の方向に動かした点で、ソ連のアフガニスタン侵略の時の、カーターの対ソ禁輸と同じ勇み足をしてしまった。経清封鎖は両刃の剣であり、カーターは自らの武器で傷ついたが、ブッシュも同じパターンを無意識に繰り返してしまった。
経済封鎖は一見すると魅力的な武器であり、思わず手を出したくなるものだが、これは何をどの段階でいかに使うかを十分に見極めないと、バックファイヤーで自分が傷つきかねない、取り扱いの難しい究極的な武器だ。だから、運用に際しては天の時と地の利を読み、相互連関分析手法に基礎を置いて、変数の連鎖を読む冴えた頭脳が不可欠である。だが、大部分の政治家や軍人は単なる衝動だけで、有効だが危険な武器を気軽にもてあそびがちであり、ブッシュの場合もその例外ではなかった。
案の定と言っていいが、石油の値段は急速に上がり始めたし、三日後の八月六日には二七ドルに達して、時差の関係で一日早い東京の知人や石油関係者から、私の判断を求めて国際電話が鳴り始めた。
「東京を支配している一般的な空気は、石油ショックの心配はないというが、それをどう思うか」といった質問や、私の見通しを打診する電話がかかり、中には高い電話料なのに三十分もしゃべる人もいて、何とかしたいという気持に私は支配された。
それに、イランの侵攻に先立って決めていたのだが、パームスプリングスの暑さにたまりかねて、八月七日から一〇日間の予定でメキシコに行き、浜辺で文学書でも読んでくるつもりだった。しかし、大事な時に戦線を離脱することは、プロとして無責任のように私は思った。
そこで侵攻後の一週間以内にまとめたのが本書の1と2の二つの記事であり、それに続く記事は、その後の二カ月間に書いたものである。これらの文章の中で今度の中東紛争の墓本問題はほぼ論じ尽くしており、あとはパレスチナやイスラエルの問題について、補足するだけで十分だと思われるが、それは他書に譲るのが通当であろう。
石油の浪費構造と安い石油価格
ブッシュがサウジに大部隊を送り込んだのは、イラクの侵略主義への対決の目的もあるが、それ以上に、エネルギー源としての大量の石油を安い価格で確保し、アラビア半島に恒久的な駐留軍を置きたいという動機が、大きく働いていたことは疑いの余地がない。その点からすると、イラクとクウェート産の石油を封鎖した行為は、多分にエモーショナルな反作用であり、十分緻密に計算が行われたとは思えないだけに、サウジをはじめとした産油国に対して、不足分の増産を強要せざるを得なかった。
また、イラクの侵攻にアメリカが過剰反応したのは、アメリカの社会的な体質が石油の浪費の上に成り立っており、それ故に外国石油への依存の度合を強め、石油の価格や供給量に振り回されるという弱みを抱えているからに他ならない。
アメリカ自体は世界第二の大産油国であり、浪費体質を改めることによって、この弱みを克服することは可能であり、レーガン時代は最大のチャンスだったのに、選挙民に媚びる政策のせいでその実現が果たせなかった。
ある意味では安値は善政かも知れないし、政府の税金への寛容を表わすとも言えるが、世界の多くの先進工業国と較べると、アメリカのエネルギー価格は極端に安く、ガソリン代や灯油価格を比較しても、日本やヨーロッパ諸国の三分の一である。それだけに、世界の人口の五パーセントに過ぎないアメリカ人が、全世界のエネルギーの三割を消費することで、アメリカ風の豊かな生活を維待しているのは、人類の規模で見た場合に不都合であり、糾弾される対象にならざるを得ない。
安いエネルギー価格を使って経済競争をすれば、それは不当競争をしていることになるが、その辺はエコノミストの思慮の枠外だから、誰も正面から問題にしなかったために、大きな盲点として取り残されている。だが、地球という一種の熱機関の上にある文明が、こういう基本的な問題を放置したままで、勝手な資源の占有権を主張し合う時代は、そろそろ終わりに近づいているのではないか。
クウェートが浮かんでいる石油にしても、地主としての王様が勝手に処分するのではなく、未来の世代が受け継ぐ人類の遺産として、国際機関が管埋する対象として議論し、その延長線上にイラクの撒退問題を置き、どうするかを考える必要があるのではないか。
そして、これから体験する各種の紛争に関係して、国連を中心にして各国が共同歩調を取る時に、このような基本精神をベ−スに置くことで、その枠組みの中で日本の協力を考えることや、世界に貢献する日本の在り方などが、明確に位置付けられることが望まれる。
そういった理念を抜きにして、安い石油の確保や軍事的な後方支援という問題に終始して、政府がいう国連平和協力隊や平和維待軍といった、欺瞞的政策に振りまわされてしまえば、われわれは未来の世代からあきれた連中だと批判され、二〇世紀の歴史をさらに汚すことになりかねないのである。
安い石油が果たして善か
石油価格が上昇していることを指して、困ったことが起きていると言われがちだが、このことが正当な評価といえるか否かに関して、われわれは、真面目に考えたことがあるだろうか。
石油は何千万年もの時間をかけて生まれたので、燃料として燃やすには余りに惜しいし、有用な化学的組成を持つ資源として、物質的に非常に豊かな性質を備えており、地球が人類にもたらした地の幸である。しかも、時間が濃縮されているという点で、再生が不可能な資源であり、一度燃やしてしまうと炭酸ガスと水になって、資源としては消滅してしまうのだ。
たとえ、燃料として使われる場合にしても、一リットルのガソリンは一トンの重量の自動車を、二〇キロ以上移動させる力を秘めているが、一リットルのウイスキーの値段はおろか、一リットルのビールよりも安いことに馴れてしまい、人間は石油の価値をおとしめている
有限な資源で石油を置き換えることにより、燃料としての石油の消費を抑えるために代替エネルギーの開発が望まれているが、石油が安すぎるためにその実現が遅れたまま、必要なことだとわかっていても、これまでは何も実現できなかった。しかも、サウジやクウェートなどの産油国が採用してきた、石油価格設定のガイドラインには、代替エネルギーの開発を促進しない程度に、ベンチマークの上限を設定する戦略があり、新エネルギーの研究や開発に関して、世界の産業界は間接的に妨害されてきたのである。
社会の活力源としてのエネルギーは不可欠であり、無駄のない枠組み内での有効な消費なら、石油使用の恩恵は計り知れないものがあり、エネルギーの効果的な利用によって、文明は偉大な発展を遂げた歴史を記録している。
また、個人と社会では次元の差があるが、石油をガブ飲みする社会の状態は、極瑞な類比によって考えれば、麻薬患者が薬断症状を恐れて、常にコカインを取り続け、しかも、限度以上にそれを求めるのと同じことである。
自分たちの経済的利益を守るために、クウェートやサウジアラビアの王族は意識的に計算して、代替エネルギーの開発を妨害してきたことも、過去数年間の石油の低価格の目論見や、今回の石油クライシスで明らかになったことである。
それにしても、われわれ自身が石油中毒に陥っており、共同体として築き上げた産業社会が、アラブの王族の半奴隷の状態にある事実に気付かないで、安い石油の魅力に埋没してしまうなら、現代人は歴史から何の教訓も学ばずに、代替エネルギーなしの病的社会を二一世紀に伝えてしまうのである。
現代史を突き動かす石油支配の真相
砂漠は純化のメカニズムが支配するところであり、流体と熱の力学が君臨する神聖な世界だから、その浄化システムが機能することによって、塵やゴミの類いをすべて吹き飛ばした、虚飾の一切を剥ぎ取ってしまうことで、真実が何かを教える気まぐれを時に示す。
また、砂時計の発明に象徴されているように、砂は流れ動くという作用を通じて、時間のアレゴリーになることもできるし、砂嵐として人間や文明の命を奪うことで、自然の掟を破壊する者に対して、制裁を加える力をも持ち合わせている。
そうしたことへの憧憬もあり、砂漠のドライな性格が非常に好きだから、私は過去五年にわたって砂漠のオアシスで宇宙の姿と世界の動きを眺めてきたが、偶然なことに砂漠を舞台にした紛争が始まった。しかも、奇遇と言っていいのだろうか、そこは青春時代の一時期に汗を流して過ごし、ジープやラクダを駆った思い出のあるアラビア半島での紛争だったから、そこで起っていることのほとんどは、皮膚感覚を通じて情景が私の脳裏に蘇ってくる。それに、過去二十数年の人生を石油ビジネスの中で生き、石油がいかに社会や個人の運命に強い影響を与え、企業や国家の繁栄や没落に関係したかを、直接に目や耳で学び取ってきたので、この紛争が「石油春秋」を書くために、天が与えた世紀の命題のようにも思えてくる
一九九〇年の夏に中東を眺めて試みた執筆体験は、新聞やテレビのニュース番組の多くが、その確認を待ち構えていたような感じで、情報の方が私を目掛けて飛び込む感じがして、すべてが非常にエキサイティングで躍動的だった。
政治的洞察が必要
こうして短期間にいくつかの文章を書き上げ、何度か読み返しているうちに気がついたことは、目の前で進行している世界史的な事件が、本質的には実にお粗末な内容に支配されており、しかも、その意味もわからずに沢山の人が右往左往し、大量のエネルギーが浪費されている事実についてである。どうして、このように見当ちがいを犯し、そのことに気付かないのか不思議だが、とりわけその醜態が目立ったのは、日本政府の政治感覚の稚拙さと、それに追従して騒ぐマスコミの無責任さであり、このような軽率な状態に対しては、十分な言い訳が後になって必要になるだろう。
同じようにアメリカからうさん臭い目で見られながらも、ドイツ政府に較べたら日本政府の対策は稚拙であり、政治家はなんら明確な判断力を持たず、単に役割を演じようとしているに過ぎない。この状況をみると、恒常化した日本のアパシーと無政府状態に茫然とせざるを得なかったのである。
こうして中東の油田にまつわる真夏の事件により、これから後に続く記事が記録として残ったが、故国の現代史を同時代において眺める時に、真の政治家が存在しない事実に遭遇して、政治への畏敬の気持が雲散霧消したことが行間に滲み出ているのは寂しいことである。同時に、一つの時代の終わりは新時代の始まりだから、現在の谷間が深いものであるだけに、二一世紀の山項の高さについて渇仰するにしても、人的ポテンシヤルで見る限りにおいて、一九八〇年代から九十年代にかけての日本は、大和民族が示した最低の状態であるというのは、疑いの余地がないと言えそうである。政治的な洞察力が欠落する時代は世紀末的だが、乱世の姦雄サダム・フセインは、その幕を切って落すことにより、恥辱に満ちた時代の恥知らずの行為が日本列島の上に蔓延しているという事実を、白日の下に曝し出したことになるのである。
目次
砂漠の盾と人間の盾 プロローグ
石油価格低迷がもたらしたソ連崩壊
軽率なクウェート政府の判断
イラクの恨み
抗争のエスカレート
クウェート政府の粗雑な外交姿勢
間違って切られたカード
同盟国が今度は敵役
アメリカの素早い対応
国際石油政治のジグソー・パズル
武器としての経済封鎖
石油の浪費構造と安い石油価格
安い石油が果して善か
現代史を突き動かす石油支配の真相
政治的洞察が必要
1 石油を武器にアラプの盟主を狙うサダム・フセイン
予断を許さない石油事情
石油不足と価格構成の奇妙な関係
パワー政治が生きている地域
「敵対する人」が挑む「鉄と血」の石油戦略
長期戦略に基づく中東の盟主への野望
イラクの暴挙は神風か
中東情勢の推移とエネルギー問題
2 サダム・フセインに試されるアメリカの民主主義
突出したペンタゴンの動き
ワシントンを脱出した大統領の謎
アメリカ外交の弱点を突く人質作戦
急速に台頭する介入反対論
割れる世論
3 軍事対決と石油戦略の見えない部分
睨み合う巨大な戦争マシーン
石油政治のタイミング
クウェート侵攻とヒューストン・サミット
補給面から見た石油戦争
石油タンクの潰し合いで壊減的打撃
震え上がったサウジ王室
サウジの精神構造は一七世紀徳川時代
クウェートとサウジの部族支配
アラブ王族連合の備兵としてのアメリカ軍
戦費負担に対する発言
波動理論の第三波に揺れる時代
待久戦がどう作用するか
外交が主役になるべき状況
4 砂漠戦における補給の経済学
地上戦か、航空戦か
兵器では決まらない砂漠の戦い
ソフトな消耗戦が始まった
補給面で見たアメリカの耐久力
補給戦の経済学
燃料が決め手
経済封鎖の政治学
サダムが狙う和平両面作戦
日本政府の間違った選択
アメリカの中の多様な見解
アラブ人自身の問題だ
アメリカ政治の欠陥に巻き込まれた海部政権
次の世代に遺す外交の正道を
5 砂漠の傭兵、アメリカのジレンマ
お流れになったアラブの顔見ぜ興行
ブッシュが被っているいくつかの帽子
国是を改めたサウジアラビア
サウジの石油権益を守るため
サウジの行き当たりばったりの対応
軍事力の結集では問題は解決しない
6 ルメイラ油田物語とペルシヤ湾の石油戦略の行方
軍事展開と第一幕の終わり
戦費調達のための奉加帳
神経戦のフーガが聞こえる第二幕
サダム・フセィンはサウジ侵略を狙わなかった
歴史におけるサダム・フセインのモデル
イラクの近代化のシンボルとしてのルメイラ油田
ルメイラ油田からの盗掘と非難された石油の行方
金持ち王族たちのビジネスは繁栄
無視された石油ビジネスのルール
ボタンのかけ違いの始まり
報復の道よりも和解への選択
7 粗雑な外交が生む亡国の教訓
現代史を突き動かす石油支配者の残像
オイルビジネスは変化している
稚拙な外交が生む国難
8 和平の予測の根拠
ブッシュとサダム・フセインは戦争を回避したがっている
和解の選択をとるサウジ
和平の道に立ちぶさがる存在
9 変質する中東の地政学
危機管埋のできる政治指導者
封建的な君主制度の行方
ソフトなクーデタの時代
瀕死の議会制民主主義
国難から一時的な脱却をした国
アラブ人の手による中東の平和の確立を
湾岸危機テロノロジー(イラク侵攻前後)参考資料
あとがき
変質する中東の地政学 エピロ‐グ
危機管理のできる政治指導者
サダム・フセインが断行したクウェート侵攻は、両軍の動員規模とタイミングが大担だったので、全世界に大きな衝撃を与えたが、補給線の面で多くの問題があったために、膠着状態で最初の三カ月が経過した。受けて立ったアメリカ軍の動員規模で比較すると、最初の三カ月でベトナム戦争の時の五年分に匹敵しており、ペンタゴンがいかに全力を傾けたかよくわかったが、物量作戦が内包する限界についても、理解を深める機会を提供してくれた。戦争は兵器が決定付けるのではなくて、戦場の性質が戦争の内容を決めることが、ペルシヤ湾の位置を通じて証明された。
プロシアの戦略家のクラウゼビッツが言った、「他の手段による政治の継続」である戦争は、単に兵器や兵員を揃えるだけでははじまらず、経済学、心埋学、歴史学、宗教学、人類学、財政学、祉会学などを構成基盤にした、より複雑な政治工学的なものが決め手になる。そこで、各国は最も優れた人材を選び出して、指導者として政治を担当させるのだし、そうすることによって、頭脳ゲームとしての国際関係をじょうずに処埋して、自国の生存条件を確実なものにするのである。
取り柄がないのが選ばれる理由になったり、年功序列とか派閥や血筋などへの配慮が、トップを選ぶ上での決定要因になって、指導者の座る椅子がたらい回しになれば、優れた頭脳が指導者として登場する可能性はなくなる。そうなると、上に立つ者は私益の追求に夢中になったり、政治が権勢欲を満たす道具になる点については、歴史の教訓が教えているところである。
そして、そのような国は予思外の困難に直面すると、混乱の中でエネルギーを無駄に使い果たして、パニックや亡国の醜態を演じてしまう。この事実がいかに説得力を持つかということは、目の前で進行している現象に注目すれば、一目瞭然である。
一九九〇年に真夏のペルシヤ湾で起こった事件は、さまざまな波紋を全世界に及ぼしたが、とりわけ目立ったのが危機管埋への対応だった。国によって稚拙の差があるのは当然だが、政治が特殊利権に密着しているために、危機を前にしてまともに機能しないで、パニック状態を発生させた国としては、クウェート、サウジアラビア、日本の三国が特に注目を集めた。
ともに礼束の洪水に有項天の金満国家として、汚れた仕事をやる労働力に不足しており、出稼ぎの外国人に徴慢な態度を示していた。そして身分不相応な賛沢が蔓廷する中で、外国の高級品が趣味に無関係に氾濫し、人々は大国主義に陶酔していたというのがこの三国だった。
頭脳を使って行う慎重な外交に代わって、礼束をばらまく援助が主役になり、カネで他国の歓心を買うことが好意の代償に使われ、カネが一時しのぎの手段として幅を利かすのだ。こういうことが常套化すると、誠実な努力が政治に反映しなくなり、ついにそこから没落の運命が始まるのである。
封建的な君主制度の行方
こうして粗雑な外交姿勢を取り続けた結果、まずクウェート政府が没落してしまった。ブッシュ大統領の公式発言によると、ワシントンが望んでいるものは、侵攻以前の完全なクウェートの復旧らしいが、これは、アラブ世界の一般的な空気はもとより、国際世論の支待を得るに至らないだろう。
特に、サバハ家の一族の権力復帰に対しては、誰も積極的な支持の立場を表明しておらず、より民主的な政体が生まれない限り、クウェートは蘇らないかも知れない。最近、亡命政府があるサウジのタイフ市で行われた、旧クウェート議員とサバハ家代表との会談では、サアド首相が議員団に対して議会開鎖の横暴を謝罪したと伝えられている。だが、クウェート人の特権の上に成り立つ存在としての、クウェートの復活は可能性に乏しく、国民全体が公平な政治体制を求めつつ試行錯誤を続けていくことは、ヨーロッパの王族の運命が示しているところだ。
また、二番目に醜いパニックぶりを露呈して、政治路線を大幅に変更したのはサウジである。国是だった外国軍の駐留排除を中止して、大量の外国人の備兵を国内に呼びこみ、従来の鎖国政策が一気に空中分解している。外国人の入国や出国に対して、これまでは厳しい制限を行い、人間の動きを取り締まっていたが、備兵への扉を開いた影響により、非モスレム的な要素が激増するから、社全面で激変するのは時間の問題だ。
待に、サウジ女性に与える影響は絶大であり、自動車の運転や労働を認められなかった女性が、顔を覆うベールと体を包む黒いアバヤを捨てて、近隣諸国のアラブ女性と司じように、自由に笑顔を見せる日が間もなく訪れる。現に、他のアラブ諸国や欧米に留学した女性や、サウド国王大学の女子学生がデモをしているし、彼女たちが今後の国づくりの一端を担えば、ウーマンリブに似た社会運動の台頭を通じて、閉鎖的な社会体制に風穴を開けるに違いない。
さらに、サウジ王室はイスラムの視点から見ると、二大聖地のメッカとメジナの守護者に過ぎず、宗教的に見ても正続な指導者ではなく、ギリシャ史でいう僧主に近い在在である。この事実はアラブ世界では知られていることだが、敢えて王家の正続性について触れられずにきたのだが、サダム・フセインはそれを暴露してしまった。
また、最近になって人に対して弾圧を加え、追放や財産の没収を行ったせいで、北のイラクと南のイエメンに挟撃され、自ら包囲網の中に入りこむ政策を採用して、サウジは非常に危検な選択をしている。このような事態が矛盾の度合を強め、サウジの王制が揺らぐことを計算しながら、当面は取れるものは受け取る狙いで、老獪なエジプトのムバラクとシリアのアサドが、サウジに擦り寄っているので油断は禁物である。
現に、アメリカの黙認を活用したアサドは、ベイルートのアウン将軍を爆撃で叩きだして、イラクの影響力をレバノンから排除した。こうして万が一にでも、アメリカ軍の力でサダム・フセインがイラクから排除されれば、真空状態になったメソポタミアに対して、シリアはイランとともに先陣争いをすることになる。
それは中東の地政学を根底からくつがえすことになり、問題をさらに厄介なものにしかねないし、アメリカのバイタル・インタレストの確保において、プラスの要素になるものはまったくない。
それだけに、サウジの本心は現状を維持することにあり、過去の対外政策が現状を守ることだったように、今後もあらゆる変化を嫌悪し続けるに違いない。
ソフトなクーデタの時代
政治的パニックを露呈した三番目の国は、経済大国の奢りに陶酔してしまい、平和ぼけしていた日本である。海部内閣の指導性の欠加に加えて、長らく続いた擬態としての無政府状態が、一気に足場を崩されて無法状態に移行すると、一種のソフトなクーデタを発生させた。その詳しい説明の代わりに、二月一日付けの「東京新聞」に掲載された、「中曽根元首相のイラク訪問[国会の承認もない自己演出]」と題した、私の一文を紹介する。
現在の日本のメディアを支配しているのは、サウジアラビアの傭兵部隊の後方支援のために、民間人や自衛隊員を中東に派遣したり、丸腰か武装するかについての賛否両論の渦である。アメリカ軍は国際法上からは国連軍ではないし、サウジに駐留する各国の軍隊は指揮系続上からも、国別の雇い兵の混成部隊であって、多国籍軍と呼べる続一された組織体ではない。最初、ワシントンから伝わった日本政府のカネ以外の貢献の内容は、難民の救済や外交による調停を含む広義のものであり、足手まといなる自衛隊員の派遣などは、協力の本筋とはまったく無関係だったはずである。ところが、問題が意図的にすり替えられて、いつの間にか、憲法解釈や海外派兵の装備の議論になってしまった。
(中略)
国民の意志を代表する国会の承認もないし、海部内閣による派遣依頼もないというのに、焦燥感で興奮状態に陥っている世論と、放心状態の外交不在の隙間をついて、中曽根個人の演出兼主役という、世紀の大バクチが挙行されかけているのに、日本人はただ手をこまねいているだけである。これはまさに世紀末現象であり、無政府状態の生きた見本だという他はない。
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この記事にある事柄を検証する待報記事が、「海部首相の外遊中に自民・タカ派が決起」という見出しで、「東京新聞」の二月六日号の朝刊に、「平和協力法案一二日間のクーデタ」の副題で二ページにわたって出ている。
その中で鍵となる指摘をいくつか拾い出すことにより、憲法を棚上げにして無法状態を発生させ、自衛隊の海外派兵を強硬突破しようとした、ソフトなクーデタの輪郭が浮かび上がってくるのである。
瀕死の議会制民主主義
「こうした動きを側面支援したのが、中曽根康弘元首相。月刊『文妻春秋』一〇月号には(問題提起・わが体験的有事行動論)と題した論文を発表した。副題に(自衛隊海外派遣を可能にする方策を検討せよ)とあるように、その趣旨はズバリ、自衛隊海外派遣論だ」「中曽根内閣のブレーンだった人々も活発に動いた。佐藤誠三郎・東大教授は(いまこそ安全保障戦略を転換せよ)(『中央公論』一〇月号)と訴え、評論家、屋山太郡氏も『諸君』一二月号で〔誰が日本を守るのか〕を書いた。言論界でも活発な自衛隊派遣議論が展開されたのである」
「今回のクーデタ劇の黒幕はだれなのか。自衛隊派遣の盛り込みでは、小沢自民党幹事長をはじめとする党三役による(党高政低)の構図で行われたが、ある自民党関係者はこう分析する。個面からマスコミでキャンペーンを行ったのは、中曽根元首相が作った世界平和研究所や、第二臨調グループなどの中曽根元首相のブレーン。法案づくりに動いた実働部隊の山崎元防衛庁長官や石原官房副長官などの中曽根人脈が見え隠れする。戦後政治の総決算を目指す中曽根元首相が、復活を目指してやったのではないか。
社会党の矢田部埋・同党中東問題対策プロジェクトチーム事務局長は、今回のクーデタについて、主犯はアメリカ、それと自民党のタカ派グループが組んでシナリオを作り、小沢幹事長がプロデューサーになったという筋書きでしょう。シナリオそのものが悪いからお粗末な芝居となりましたが、やろうとしたことはおそろしい、と述べる」
かつては武器を持った軍人が主役を演じたので、クーデタの性格は一般にハードなものだった。しかし、現在は情報革命で特徴づけられた情報時代であり、情報操作でメディアを動かすものとして、ソフタなクーデタが支配的な力を持ち、憲法を無視するクーデタとしての超法規が無法状態を指向する集団によって試みられ、幾度かの挑戦の果てに実現することになる。
昭和史で最も大きなクーデタの二・二六事件も、その前段階にいくつかの試みがあり、三月事件、十月事件、血盟団事件、五・一五事件などが予震として起きている。その点で、私的な諮問委員グループを使って、議会を無視する政治が横行した事実もあり、先進国では例外の一党独裁が続く日本の政治は、かなりの領域ですでに空洞化が進んでいるから、日本の民主主義の将来は楽観できないのである。
実際問題として、国会で予算の承認を受けて国の出費が決定し、それ以外の財政支出は認めないのが議会制度の墓本である。それにもかかわらず、予備費でカバーできない巨額の支出がなされたことが問題とされなかったのが、現在までの自民党政治の実態である。
中東紛争のアメリカ軍の戦費員担を目的とした、最初の一〇憶ドル(約一三〇〇億円)は予備費の枠からの支出らしいが、追加の三〇億ドル(約四〇〇〇億円)に関しては、支出する財源は法的に存在していない。また、金丸元副総裁が北朝鮮に約束した五〇億ドル(約六五〇〇億円)も、国会はまったくその決定に関与していない。
かつては郵便貯金や簡易保険の資金を流用して、それを財政投融資の形で食い荒らしたものだが、大蔵省資金運用部を悪用した数々の不始末は、もはやごまかしきれない状態になっている。こういった自民党執行部と高級官僚たちによる、国家資金の勝手な流用の実態が、サダム・フセインのクウェート侵略を契機にして、国民の前に公金のばらまき合戦として露呈した。それにしても、ソフトなクーデタの試みや公金の流用など、国家を食い荒らす蛮行がまかり通っているが、国民や日本の議会主義は、いつまで踏みにじられ続けるのだろうか。
国難から一時的な脱却をした国
全世界に衝撃を与えたクウェートの消滅は、クウェート、サウジアラビア、そして日本という三大金満国家の権力中枢を痛打し、その欺瞞に満ちた政治の体質を搾りだしたが、逆に、この事件のお蔭で混迷から抜け出し、一種の政治危機を克服する神風代わりにした、三つの国について検討するのも有意義かも知れない。
その筆頭に来るのはイスラエルであり、軍事偏重の財政を取り続けたので、経済状態は悪化の一途をたどり、公務員や建設労働者のストラィキが頻発していた。その結果、ソ連から移民するユダヤ系の市民は、住宅問題のために立ち往生することになり、それが右派連合政権としてタカ派を結集したシャミル内閣を苦境に追い込んだ。また、パレスチナ人の蜂起(インティファーダ)が続き、ヨルダン川西岸とガザ地区では多くの犠牲者が出て、国際世論の同情を集めていた上に、イスラエル政府の財政を圧迫していた。
そのような状況の時にクウェートの侵攻が起きたので、世界の目はイスラエルの占領地区から一挙にイラク軍の上に移ってしまい、弾圧政策をとるシャミル政権の姿が、サダム・フセインの影に隠れることになった。そこで、この機会を生かしてアメリカ軍を激励して、一挙にイラクを叩いてしまおうと考え、イスラエル政府は懸命に働きかけを行ったのである。
イスラエルに続いて危機をチャンスに転化したのは、一〇パーセントを超えるインフレの嵐に翻弄され、高い金利政策をとったことによって、国民の不満が爆発寸前にまで高まっていた、赤さびの出た「鉄の女」のサッチャー首相である。
中小企業の倒産が続出して、保守党の支持基盤である中産階級に見放され、曲がり角にきているイギリスの政局については、サッチャー政権は見限られるだろうと言われていた。そんな時にクウェート侵攻が起きたので、サッチャー首相は一挙に息を吹き送し、大声で反イラクのキャンペーンを打ち上げることになった。
こういう政治的な事情があったために、サッチャーはひときわ高い声を張り上げて、サダム・フセインを罵倒し、ワシントンに出かける前には密かに迂回すると、バーゼルの国際決済銀行(BIS)に立ち寄って打ち合わせをしてからアメソカに向かうという不思議な行動を、彼女は繰り返し行っている。いずれにしても、どん底から立ち直ったサッチャ−は、意見の食い違いで大臣が反乱を起こしても、それに挫けずサダム・フセイン攻撃のために、全力投球をして頑張っているのである。
クウェートの混乱と対照的な状態で、一五年間も続いた内戦に一段落をつけ、地獄のような状況から脱出しかけているのが、かつては中東のスイスと呼ばれて繁栄を謳歌ていたレバノンである。
右派クリスチャン勢力としてイラクと結び、ベイルートに君臨していたアウン将軍が、シリア軍の猛爆撃でフランス大使館に亡命したので、内戦はイスラエルの息のかかったマロン派(右派)と、シリア軍の対決の形でまとまった。しかも、PL○を除くシーア派(左派)とシリア系のグループは、カネのやり取りに中心が移っているので、イデオロギ−による血なまぐさい対決より、取引で問題が片づくと言われている。
それはレバノン人にとっては救いであり、シソア軍やイスラエル軍の影響が低下すれば、内戦が解消の方向に動きだす可能性も生まれるだろう。
アラブ人の手による中東の平和の確立を
実現するまでの道は大変に険しいが、文明の十字路の地点に位置しており、世界の火薬庫と呼ばれている中東に、平和が蘇ることは非常に重要である。世界の石油の半分以上が存在し、産業社会のエネルギー源を支配しており、各国の生命線が石油と密着しているからである。
砂漠の中に陣取っているアメリカ軍にしても、砂の海の真ん中にいるというのに、一番不足しているのはコンクリートに使う砂であり、砂不足のためにエジプトから粗砂を輸入して、それで防御用の陣地を作ることになろうとは、夢にも思わなかったに違いない。
サウジの砂漠の砂は地質学的にはシルトと呼ばれ、あまりにも細粒でメリケン粉に似ており、水を加えるとそばがきのようになってしまい、ベタベタしてどうにも始末が悪いのだ。しかも、徴粒子は石英と石灰泥で構成されている。石英は目に刺さると失明の原因になるし、風に舞って動く徴粒の砂は埃と同じで静電気を発生して、エレクトロニクスの機能まひの原因になる。
いくらアメリカ軍が最新鋭の兵器を持ち込んでも、砂嵐の前ではまったく無力であり、複雑な機械になればなるほど故障するし、どんなに密閉した容器でカバーしても、砂の徴粒子が入り込んでくるのを妨げない。だから、兵器や飛行機の故障は日常茶飯事だが、通信用の電気装置はショートや接触不良に陥り、コンピュータやレーダーの機能低下は、あまりにもありふれた出来事に過ぎない。
自動車でもシリンダーに細粒の砂が入るから、寿命はせいぜい一年というのが当たり前であり、飛行機の部品交換頻度は普通の三倍だが、アパッチ型のへリコプターの部品交換は五倍にもなり、砂漠の威力の前では文明の利器は形なしである。
これが巨大な砂漠の威力であり、サウジの砂漠やサハラ砂漠で仕事をしたことのない人は、鳥取の砂丘や三原山から簡単に類推して、本物の砂漠を安易なものと考えてしまいがちだ。
だから、実情を知らない評論家やエコノミストの分析は、砂漠の戦争を兵器の数の計算で済ましてしまい、政治家たちはそれで問題を理解したつもりになり、実にいい加滅な政策を立案してしまうのである。
こういったことを考えると、中東の砂漠地帯における大きな問題は、そこで生まれて生活の場にしている、アラブ人たちを中心にして解決を試みるのが、最良ではないかと思わずにはいられない。これは敗北主義に支配されたためではなくて、地質学のプロとして世界の地の果てで仕事をやり、多様な文化と生活環境を体験した結果、私が学び取った知恵である。
現在の日本では論議が飛躍して、国連への協力を軍事協力という狭義の捉え方が支配的になっている。だが、協力には財政的なものや物質的なものもあり、特に正現の外交的な協力の仕方が何ものに増して重要である。しかも、軍事的な協力は最後の選択であり、その場合も、争点の原因がどこにあるかを見きわめた上での選択でなければならない。
人間同士が敵を倒すのは簡単だが、大自然と敵対することによって、人は最後には自滅するだけでなく、文明の栄華さえ滅ぼしてしまうのが、歴史が示す貴重な教訓である。そして、人類は戦争を滅ぼすことはできなかったが、戦争は人類を簡単に滅ぼすことができることを、われわれが思い出すにふさわしい場所こそ、青く澄んだ月光に砂丘が映える、雄大な砂漠に他ならないのである。
あとがき
世界史的な事件に相当する重要な出未事を、最初の三カ月で全体の構造として理解し、それを歴史の証言としてオンタイムで記録して、バックグラウンドと輪郭を描き出すことは、野にある個人にとっては困難な挑戦である。それを何となく実現した感じであり、私は一種の心地よい虚脱感に包まれている。
おそらく、人生の最初の仕事を体験した場所の、中東の砂漠地帯が舞台になっており、また、生涯の半分を費やした石油ビジネスが関係する上に一生その学徒であることを誇りに思っている歴史学が、事件の墓盤になるものを強く支配しているせいだと思う。
それにしても、クウェートの滅亡に関係したこの中東紛争は、私にとっては運命的なものと言える。そして第一次石油ショックとして記憶に残る、あの一九七三年のパニックの時に、『石油危機と日本の運命』を上梓して以来、私の人生について回っている、国際石油政治にまつわる集中的な作業として、ここに再びジャーナリスティックな仕事の一つとして世に出ることになった。
緊急に一書にまとめて読者に一つの視野を提供し、世界史的な事件の成り行きに関して、共に考察し合えるのは素晴らしいことである。
本書の上梓に関してお世話になった多くの人々、とりわけTBSブリタニカの掘出一郎社長、西脇礼門さんと、エルコの横山秀男さんに感謝の言葉を記しておきたい。また、オリジナル記事の転載を快諾して項いた、時事通信社「世界週報」編集都長の中村英一さん、秦山会「タケヤマ・レポート」代表である武山泰雄さん、文藝春秋社「文藝春秋」編集長の白石勝さん、はあと出版「ニューリーダー」編集長の足立さん、の各位に改めてお礼の言葉を述べたい。
一九九〇年二月 米国のパームスプリングスにて
藤原肇
初出掲載誌一覧
プロローグ 砂漠の循と人間の循(「『飽食と奢りの外交』が生んだクウェート亡国の教訓」ニ一ューリーダー』一九九〇年一二月号、はあと出版)
1 石油を武器にアラブの盟主を狙うサダム・フセイン(「世界週報」一九九〇年九月四日号、時事通信社)
2 サダム・フセインに試されるアメリカの民主主義(「世界週報」一九九〇年九月一八日号、時事通信社。「タケヤマ・レポート」No.463 一九九〇年八月二八日号)
3 軍事対決と石油戦略の見えない部分(「ニューリーダー」一九九〇年一〇月号、はあと出版)
4 砂漠戦における補給の経済学(「タケヤマ・レポート」No.464 一九九〇年九月六日号。「ブッシュも海部も間違っている」『文藝春秋』一九九〇年二月号、文藝春秋社)
5 砂漠の傭兵、アメリカのジレンマ(「世界週報」一九九〇年二月二日号、時事通信社)
6 ルメイラ油田物語とペルシャ湾の石油戦略の行方(「タケヤマ・レボート」No.475 一九九〇年一〇月七日号、「王様ビジネス連合と独裁者の私闘」『文藝春秋』一九九〇年一二月号、文藝春秋社)
7 粗雑な外交が生む亡国の教訓(「『飽食と奢りの外交』が生んだクウェート亡国の教訓」『ニューリーダー』一九九〇年一二月号、はあと出版)
【「タケヤマ・レポート」は奏山全のメンバーにのみ配布されるプライベート・ニュースレターであり、一般には入手が不可能】
著書
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