インテリジェンス戦争の時代
1991年11月05日初版発行 本体価格1600円+税
山手書房新社
絶版
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まえがき
ポスト冷戦と呼ばれる新しい秩序形成のプロセスを通じて、人類が久し振りに体験する強烈な変革が、強烈な地穀変動とともに進行中であり、地球上の至る所で古い秩序に亀裂が発生している。このポスト冷戦における激動の渦は、情報革命がわれわれの産業社会にもたらした、強烈な地殻変動の余波に過ぎないのに、大部分の人はその全体像を捉えようとしないで、資本主義と共産主義の経済競争のレベルや、軍事力を中心にした米ソのへゲモニー争いの水準で考えて、新しい世界関係の構築を予想しようとしている。だが、大変革を招来している主役に相当するものが、文明のレベルにおける情報革命の問題であるなら、産業社会の発展と変化の相を動態分析して、現状を歴史的に位置付ける作業が必要になる。
権力として発展した中央集権体制が巨大化し過ぎて、政治がまともに機能しなくなっている事実は、地球上に蔓延している二〇世紀病であるが、その一番手としてソビエト帝国が崩壊現象を呈しており、それに続く大国の候補は独裁がすでに長期間続く、北京か東京の硬直した中央集権政体らしいと、多くの人がそれとなく予感を抱いている。だが、それを公言するには蛮勇が必要であるために、ほとんどの人が口を噤んだ状態でいるが、病理現象は刻々と顕在化へのプロセスをたどっており、すべての人が認知するのは時間の問題に過ぎない。
そのような状況に置かれているにもかかわらず、日本人は誰もそれが自分の問題だと思っていないが、それほど安心していられる状態でないことは、インテリジェンスをキイワードに使って分析すれば一目瞭然になる。なぜならば、インテリジェンスは情報時代の核心であり、医学的な手法を日本の近代史と現代史に適用して、生理と病理の恒常性をダイアグノスすると、日本の問題点が明確に浮かび上がってくるからである。
運のいいことに構造地質学を専攻したお蔭で、四五億年の地球の歴史を扱う歴史学徒であり、同時に、地球を患者に見立てて生埋と病理を診断するプロの私は、歴史家の史眼と医師の診察能力の訓練を受けているので、大抵の異常状態を構造主義的に識別することができる。そのカルテがどんな内容であるかは、本書を読めば自ずから明らかになるはずだが、普通の内科医が血液の流れとホルモンの分泌で診察するように、私は情報の流れとインテリジェンス機能で、症候群の数々を識別しているだけでなく、歴史法則に相当する病歴律も抽出したつもりだ。
日本は村八分や窓際族が制度的に存在し、権力による嫌がらせが横行する閉鎖的な社全だから、医師でも病状を明示すると差し障りがある。また、政治の腐敗についてはっきり指摘するのは、非常に困難な状況に置かれているので、ジャーナリストや学者も口ごもりがちである。だから、情報革命が進行している時代性の中においては、黙っているのは共犯に等しいことなのに、今日ほど論争のない時代はかつで存在しなかった。
それにしても、「小人に国を為めしむれば、災害並び至る」時代にあって、暖衣飽食で過剰の中の貧因を味わいながら、情報における全体主義に威圧されているが、日本の言論界が本来の生彩を取り戻すために、本書の問題提起が役に立てば何よりである。
一九九一年九月
藤原肇
目次
まえがき
第I部 現代を支配するインテリジェンス戦争
情報問題へのアプローチ
文明の進化と情報革命
情報が持つ二つの意味
組織体の安全保障と情報の役割
政治力としてのインテリジェンス機能
信用を損なう国家モラルの低下と情報時代
本当の国家機密とは何か
情報を扱う人間に要求される資質
ハードウエア主義の日本人
海外で敗退を続ける日本のビジネスの悩み
情報の軽視による誤算と破綻
戦後に続く日本人の情報欠陥
情報を独占する官僚機構と悪の隠蔽
日本人の知らない極秘情報の世界
政府を使った極秘のビジネス
東京の上海化とブレーン政治
愚民政策と情報操作の時代
政治警察国家ソビエト連邦崩壊の教訓
開かれた情報社会の建設へのソフトウエア
第2部 情報戦に敗れた太平洋戦争
第1編 外交 盗まれる暗号と国家の品格
外務大臣官房特別情報班
日本のブラックチェンバーの人材たち
情報が流通しないセクショナリズム
日本人の暗号感覚
暗号解読とカッパライ術
情報の内容を読む
ワシントン会議の敗因
エニグマ暗号機の秘密に挑む
日本のパープル暗号の解読と国家の品位
機密漏洩と日本の海軍大佐の行動
情報戦に立ち遅れた日本
警察の情報感覚と構造腐敗
第2編 戦中 近代情報戦争の勝者と敗者
真珠湾攻撃の最後通牒
軍事占領について理解不能の日本政府
情報のメッセージを読めない日本のトップ
ルーズベルトの天皇宛ての親電
コード暗号とサイファー暗号
暗号の漏洩とそのメカニズム
英国海軍のプランバー暗号
ドイツに致命的な打撃を与えた日本
太平洋戦争の決め手になった暗号解読
上海で発展したいかさま政治ビジネス
被害者役のお人好し日本人
イギリス人の欺瞞作戦とドイツの油断
幾つかの終戦工作と苦し紛れの取引
無条件降伏が決まった前後と最後の人材
第3編 戦後 現在に至る空白の日々
敗戦と大日本帝国の解体
悲劇を救う人材の輝き
マッカーサー進駐前後の日本の外交
解読できなかったソ連の暗号
時代に取り残される外務省
朝鮮戦争と旧体制の復活への動き
地盤沈下の外務省と五五年体制
文化的な外務省を支配する自閉症
総理府の外交部になった日本の外務省
指導者としての人材と独立国のポテンシャル
第4編 湾岸戦争 「暗愚の経済大国」から脱却への試練
世界が落胆した日本の外交的混迷
リベラリストはどこへ消えたか
外圧の嵐に翻弄された日本の政治
海外派兵と憲法論争
言論と「戦争と平和」の相剋
田中義一外交が教える派兵路線の破掟
亡霊を呼ぴ出した海部政権
「ルサンチマン」の日本の伝統
日米関係における意志疎通の不備
政治思想に生かす東洋哲学
第3部 現代のインテリジェンス戦争と日本の立ち遅れ
第1編 未来への布石 現在の日本は何も持っていない
テクノロジーが主役の時代
後期帝国主義の時代
人工衛星枝術では後進国の日本
情報のエントロピー
二次元から三次元の世界へ
目に見えない領域を読むノウハウ
電磁波を利用した武器との戦い
地図を作る努力とその情報的価値
地表を監視するサテライトの眼
湾岸戦争を決定づけたサテライト写真の威力
第2編 危機を機会に転換するノウハウ 活路を求めて
国力と優れた人材の活躍の場
ラインとスタッフの区別のない日本
人材構成のパターン
見失った国是の再発見
開かれた情報社会の建設
戦略発想に欠けた日本人の戦術思考
未来を読む能力と情報解析のテクノロジー
天の視角と視座を持つ眼
インテリジェンス人間の育成と情報時代への布石
知恵の交流とサイエンスの復活
あとがき
あとがき
読み終わった後で本書から受けた印象が、個々の事項についての解説がない状態で、結論が突然に示されたという理由で当惑したのなら、それは過去の歴史をエンターテイメントとして作品化された、日本で流行する歴史小説の読み過ぎだ。目の前で進行している自分たちの歴史に対して、俗世間で大声を張り上げている評論家や、大衆相手に稼ぐ文化人の託宣抜きに、それを自分の目で冷静に眺めて判断するのを、日本人は日毎に苦手にしていくように思えるが、そうした時代精神は伝染する性質を持つものである。だが、そのように感じないで読み終えたのなら、まずは大いに安心していただいて結構であり、テーマにしたインテリジェンス能力を解く鍵は、本書ではなくて議者の頭の中に発見できることになる。
この本は初心者を相手にした解説書ではないし、大衆向きのキワ物出版物に属すものではないから、不満に思った人は歴史書を暫く読み歩いた上で、再び本書を批判的に読み直していただきたい。その時に私が何を本書で訴えていたのかもわかり、しかも、インテリジェンスが何を意味するかについても、納得してもらうことが可能になると確信する。
最初は多分に取り付きにくい内容であり、うんざりした気待ちになったことだろうが、それは足場を取り払っていないピラミッドや、工事中の建て物の見苦しさと似たものであり、そんな目障りなものを払いのけて読み進んだ挙句に、この「あとがき」にたどり着いた読者に対して、私は著者として心からの敬意の気待ちを表したい。
なぜならば、本書は読み易いように書かれたものではなく、選ばれた読者に問題を提起するタイプの本だからだ。ぺ−ジごとに領いたり首を傾けてコメントの書き込みをする読者こそ、愚民政治が生んだ安っぽい演出に飽き、日本の停滞した解説書の洪水に退屈した人たちだし、退屈するには高い精神の働きが必要だという意味で、そのような読者との対話を私は心から歓迎する。
本書は解説する意図などは徴塵も持ってはおらず、ある事柄を全体の枠の中で位置付けて、藤原流の微言大義にしたがって評価を下したものだから、戸惑いを感じる人がいて当然である。また、本書は日本でいう単なる大学生ではなくて、世界に通用するレベルの高等教育機関(高校や大学など)で学問の仕方を学んだレベルの人で、著者と読者の知的対決を楽しむことがわかる人を意識しながら、古典に共通する筆法を使ってつき放した書き方をしている。たとえ、過去の著書で論じている事柄の多くが、結論だけの引用で不親切だと思う人がいても、他方でそれでよしと感じる読者の存在を思えば、本書は十分に読み易い内容になっている。熟達した読者にはすでにおわかりのはずだが、本書には初めて記述された新事実など余りなく、そのほとんどが古くから知られていた事実や、断片的に紹介されている事柄に属している。ただ、誰の目にも触れていたのに看過されたり、情報操作で意識的に粉飾や隠蔽されてきたものを、指座や視点を変えて新鮮な目で眺めて構造化したが故に、新しい指摘のような印象を写えたものも多く、ある意味で「温故知新」の実例を提供している。
歴史を読む楽しみは鏡像を裏返しにして実像化し、断片的な情報を並べ直して謎解きのヒントを掴み、その輪郭を浮かび上がらせる所に真髄があるが、ジグソーパズルと違って完成図は唯一と決まっていない。そうであるが故に、歴史書には折にふれて読み直す楽しみがあり、自己の成長や新しい情報を嵌め込むことで、新しい境地や視座を開拓することができる。実は、そのような本を読みたいと希望していたが、機会に恵まれなくて残念に思っていた時に、『脱藩型ニッポン人の時代』という本の上梓があり、それを切っかけに読者が「脱藩クラブ」を組織して定期的に集まり「インテリジェンスについての議論を始めた」という連絡が届いた。
大局を把握して根本を察す能力が「識」であり、識がインテリジェンスの基盤であるならば、彼らの議論の叩き台に使ってもらおうと考えて、長年の夢をこの本のような形で実現したのだが、歴史が筆者で私は著者に過ぎない本を出した、歴史学徒の遊び心を理解していただければ有り難い。
本書の底本になっているのは『情報戦争』であり、この本は一九八〇年八月に山手書房から刊行されたが、久しく絶版になり人々から忘れられていた。実は、私が出版社に持ち込んだ原稿は対談であり、カルガリー市に在住する早川聖氏に取材して、廷べ五年近くを費やして録音したおしゃべりを、テープから起こして原橋に編集したものだった。一〇〇本以上もあるテープから暗号解読の話を書き出し、それを編集するのに数年を費やしたが、歴史の背景と裏面を知ることは楽しかった上に、フィールドワークとしても実に良い訓練になり、俗論から離れて史眼を育てるのに大いに役立った。
早川さんは戦前の外務省の特別情報班に勤務して、英米班長として暗号解読をした責任者である。英国と歴史的に繁密な関係を維持する、カナダという国で余生を送っておられたこともあり、早川さんは日本人の通例以上に際どい点に口が固く、全部を聞き出すのに時間がかかった。しかし、通俗の歴史は表の世界や兵器の戦争ばかりであり、外務省の内情をはじめ「プランパー」の話や台湾の領事館のエピソードなどは、歴史の証言として非常に貴重だと思ったので、晩餐や酒を汲み交わしながら質疑応答の録音を続けた。こうしてでき上がった原稿であったが、対談では売れないという編集者の判断で、対談は書き下ろしのスタイルに改められたし、校正の原橋に朱を入れたり文章を直す機会もなく、事実誤認が多く耳障りの悪い文体のまま出版になり、読者の手に渡ってしまったのが旧著だった。
歴史では「文は体を現わす」というように、史実の記述は著者の姿勢を明確に規定し、言葉遣いの一端にも価値判断が加わることは、「春秋・公羊伝」にまつわる論争の歴史が示す通りだが、歴史意識はその終始を綜ベ、その終始を察し、その終始を謹むことを要求する。そして、古今を終始して深く事態を見ることにより、その精神を察していくという意味において、有益なアドバイスにしたがい新しい本を誕生させ、「高山を仰ぎ、大道を行く」ことのできた著者冥利を、武重史郎社長と横山秀男さんに感謝したいと思う。
本書では直接の発言の形にはなっていないが、外務省の暗号解読に関しての情報は、すべて故早川さんから教えを受けたものばかりであり、世界の歴史学徒に第二次大戦の基礎資料として、私の理解力と責任において公開していけば、薫仲舒の遺訓への手向けになるかも知れない。
また、日本についての多様な見解については、問題点や欠陥を隠さずに積極的に公開している。これは日本が不可解で特殊な国だという誤解を解き、判断や評価は相手の側に任す覚悟を決めることが、安全保障を確保する決め手になるし、生存条件を確実にするのではないかと考えたからであり、是々非々で耳に痛い指摘があるにしても、世紀末の証言を新世紀の世代に送ることにしたい。
米国パームスプリングスの仙谷庵(旧名 山俗庵)
藤原肇
著書
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