混迷に陥った日本を [ 経世済民 ] のメガネで眺めると、物量主義と経済学の限界がはっきり読み取れる。 日本再生に最も必要なものがインテリジェンス戦略であることを証明した、特効薬的な内容を持つ本。
はじめに インフォメーションとインテリジェンス 資訊と智恵の違いを知れ 私がアメリカに住んでいる最大の理由は、アメリカでは本物の情報革命がダイナミックに進行しており、そのシステムの中で毎日の生活を存分に楽しむことができるからだ。つまり、21世紀を特徴づける情報社会を先取りして、20世紀のいま未来体験をつぶさに味わえるからである。 こんなことを言うと、日本でも情報革命は着々と進行しており、[マルチ・メディア]や[情報スーパー・ハイウェー]という言葉が氾濫し、日本経済は情報時代の到来を見すえて、着実に準備がととのいつつあるという反論があるかも知れない。しかし、日本で進んでいるのはアメリカの物真似にすぎないのであり、しかも、情報機器や情報伝達施設を中心にした、情報関連のハードウェアに関してのみ、騒ぎ立てているに過ぎないのである。 その理由はそもそも日本の産業社会の体質に関わっており、戦前の大船巨砲主義や戦後の、大量生産設備のように、日本人が得意にするのはあくまてハードウェア中心で、ソフトウェアは付け足しである伝統に由来する。しかも、情報そのものにもハードとソフトの両側面があり・その点に気づいて考察した日本人も残念ながら少ないだけでなく、そういう指摘は常に黙殺されてきたのである。 ことによると幕末の品川沖に現れた4隻の黒船に驚き、太平の夢を破られたという近代日本の幼児体験が、感情障害[トラウマ]としてコンプレックス化したのかも知れない。その後遺症で、潜在意識のレベルに取り付いた不安が、ハード指向の脅迫観念の源泉であるとするならば、そろそろそんな悪夢から自らを解放して、朗らかな生を謳歌したらどうだろうか。話が横道にそれて黒船が出現したが、情報の歴史や意味の定義などに関しては、拙著 『インテリジェンス戦争の時代』(山手書房新社刊)で詳しく論じたので、そちらを参照して頂ければ幸いである。 ただ、日本で使う情報という言葉は中国語では[資訊]と書き、同文の両国でも異なった文字を使っているが、同時に情報の質の変化によって文字が変わり、平安時代の日本語や現代中国語では、智慧と言葉が使われている事実を紹介して、現代日本語における情報の特殊性を喚起しておきたい。 日本語の情報は二つの意味を内包しており、その識別がないまま使われているために、日本では情報に関しての意味論さえ不在だが、中国語では明らかに[資訊]と[智慧]に区別されている。だから、情報という言葉が氾濫しているのに、日本には読むに値する情報の本も存在しない状況にあり、言葉の周辺をただ騒ぎ廻っているのである。 今度は同じ問題を英語の例を使って検討すれば、インフォーメーション一資訊一に相当するデータや資料が、一次情報として素材の形で存在している。また、それに区分や評価を加えてシステムに組み込み、分析や総合などのプロセスが施された、判断の加わったインテリジェンス(智慧)としての二次情報がある。
最大のメディアは[故人]を求め[二千里外]を動く人 コンピュータ網や電話回線のネットワークを使い、インフォメーションに対して自在に接することは、情報時代の醍醐味を味わう上で、知的快感を満足させる楽しみである。 もちろん、入手した一次情報を自分のシステムの中で処理し、二次情報としてインテリジェンス化することで、自分流の認識とイメージを作りだすことは、現代史の観察者としての視座を固める上で、大事な基盤造りであることは確かである。 それに加えて、自分自身が一つの生きたメディアであり、接触したい人たちに会いに出かけることは、かけがえのない遍歴の旅路を約束するし、人生にとって嬉しい出会いを実現してくれる。白楽天の昔から、[三五夜中、新月の色、二千里外、故人の心]と言って、人は遠く離れた心皮のことを遥かに思うものだし、機会を作って訪れるのは友最大の喜びであるが、現代文明はそれをいとも簡単に実現してくれる。 この点で私が住む砂漠のオアシスは足の便がよく、自宅から車で二〇分のパームスプリングズ空港や三時間の距離にあるオンタリオ空港を使うことで、アメリカ全土の空港ネットワークに結びつく。また、二時間たらずでロスの空港に車で行けば、飛行場の側のパーキングに駐車するだけで、全世界を自由に飛び回ることが可能になる。 日本の飛行場は官僚たちの天下り利権そのものであり、利用者の便利のためになんて配慮して作られてはいないが、アメリカでは飛行場は公共通機関としてしっかり位置づけられており、アクセスの便利さや駐車料金の安さなど、市民の立場での便利さにおいて雲泥の差がある。 道路も日本では政治家や役人の利権の金城湯池であり、高速道路は現代版の関所と同じで有料だから、メディアとしての人間がネットワークを動くために、気楽に利用できるシステムにはなっていないし、普通の道路も渋滞で、走るより止まっていることが多い。 国内次元では日本の鉄道網はよくできているが、これはヨーロッパの良さを模倣したからである。構内を鉄道会社が私物視して改札口を作り、都市の延長という雰囲気が疎外されている点で、日本に行く度に窒息しかける私の市民意識は疼きだす。一億の日本人が汗を流し税金を払うのだから、人間としての尊厳の対象になって然るべきだのに、定員を無視した通勤地獄の放置! 官尊民卑の横行! これらは即座に改めるべきではないか。 たった一度しかない短い人生だというのに、毎日の生活が小役人やそこに群がる業者たちの利権を支えるために収奪され、しかも、必要な情報さえも入手できない状態で、与えられ操作された大本営発表を鵜呑みにするのは、インテリジェンスの価値と魅惑を知った者には、とても耐えられないと私には感じられる。 そこで情報アクセスと交通の便が良く、市民感覚をもって生活ができる、カリフォルニアの砂漠のオアシスに住み着いたが、眼前には標高差3300mのサン・ハシエント山も聳え、役人の余計な干渉の届かない庵にあって、懐を得失に忘れて本を抱いて寛いでいる。 その他の理由は『地球発想の新時代』(東明社刊)に書いたので、ゴルフをやらない私が世界のゴルフ・キャピタルに住み、砂漠という大自然と近代文明の接点で、宇宙と世界のことに思いを馳せている点については、他書に譲りここでは触れないことにする。 日本のルネッサンス人たちとの蘂蓄を楽しむ [流波は旧浦を恋い、行雲は故山を思う]と言うが、一年に春と秋の季節に限って故国を訪れ、一カ月ほど滞在するリズムを繰り返している。その理由は、逢って楽しい思いをする人たちと歓談して、生きている悦びを確認するためである。 成田空港が都心から遠くて不便なことや、交通機関が利用客の便利本意に機能せず、管理者の顔情に従って兆民の深患であっても、櫨里の煙りは心懐かしいものである。人生の醍醐味は人間の出会いにあり、それを、屈原は[楽しみは新しく相知るより楽しきはなし]と表現しているが、旧知との再会も人生の至上の喜悦であるから、季節が来ると鮭のように私は故郷に湖行するのである。 本書に収録した対談に登場する友人たちは、全員が十数年ほど前に出会いの機会をもち、それ以来ときたま再会の喜びを分かつだけでなく、お互いの新しい展開を確認し合って、アンテナの感度とインテリジェンス能力のチューニングを試みる。 対談ものは本として売り難いという市場環境と、ダイアローグ(対話)を楽しむ読者層が薄い日本では、出版界が対談物を敬遠する傾向が濃厚である。 過去数年、タイムリーだという点で実に幸運なことに、私は優れた論者を相手にして、日本の混迷の原因をテーマに対談してきた。とりわけ、その中のいくつかは熟読玩味することにより、緊急課題の要請に応え得る内容を持つので、一書にまとめるに際して私見をチェックする意味で、サンドウィッチの型で収録することの意義は大きいと判断できた。たとえ苦しい試練で呻吟する時期を体験しても、その克服に通じる、日本の行く手に明るい地平を指し示す言葉と思想を多く発見できるからである。 日本のメディアで普段よく見かけるような、どこにでも登場して浮薄な発言を撒き散らす、俗悪な評論家や学者たちの騒がしいお喋りは、[百害あって一利なし]に決まっているから、過去15年以上も私はメディアから遠ざかってきた。五〇億年の地球の歴史を相手にしながら、虫眼と自然の観察眼を磨いた巷の史家であり、自然界のストレス現象を扱う地球の医者である私は、ダイアグノシス(診断)を専門にしてきた。だから、私の個性的な診断のプロセスに対して、別の専門分野の視点での批判とインプットは、シナジー効果の点で何にも増して貴重である。 本書に登場していただいた二人の発言は、日本におけるルネッサンス人の系譜に属すが故に、確固としたインテリジェンス(智慧)を秘めている点で、思想や洞察に重みを感じさせる。昔から[三人寄れば文殊の知恵]と言う。智慧を司る文殊菩薩の愛弟子的な存在に似た、現代のルネッサンス人的な友人の協力を得て成った夜長の歓談に加わっていただける読者諸氏には、その蓮蓄を楽しんで頂ければ幸いである。 メタ凶慌にさらされ硬劣腐死[カタレプシー]に陥った平成幕末ニッポン すでに述べた通り、今回の対談にお招きした知己に知り合った頃から、私は分析や理論化などの仕事に対して、一種の自己主張だと思い当たるようになり、それが新聞や雑誌への執筆などをはじめ、テレビ出演や講演を避ける生き方を選ばせた。そして、自分の修行と精神的な愉悦になるという理由で、興味深い相手と対話の閃きを交換し合って、幾冊かの対談集を誕生させることになった。その結果というのも変な形容になるが、十冊を越える対談集を刊行したことになり、プラトンがこのエピソードを耳にしたら、おそらくあの世で喜んでくれるだろうと思う。 時期的に重複しているのは興味深いことだが、1980年の夏に出版された『日本脱藩のすすめ』(東京新聞出版局利)を皮切りに、[脱藩]という言葉をキイワードにした私は、脱藩トリロジー一3部作)に相当する著作シリーズを生み出した。
1995年になって続々と起きている大変動は、混迷の度合いを強める政治や不況に加えて、阪神大震災や東京の地下鉄の毒ガス騒動のように、日本の運命を動かす激動の襲来に他ならない。33年前に出した『平成幕末のダイアグノシス』の[まえがき]の中に、私は次のような社会診断のカルテを書いている。 〈……現在は天災地変を思わせる大激動の時代であり、世界的な規模であらゆる領域が揺れ動こうとしている。経済的な基盤が崩れてパニック現象を起こすことに対して、一般的には「恐慌」と呼び慣わしているが、[スーパー恐慌]を伴い政治体制が崩壊する現象を指すには、「幕末」とか「凶慌」と形容せざるを得ない。そして、文明の次元での大変革が産業社会の体 質を転換する大事件を指して、「大革命」や「メタ凶慌」と名付けることができるが、技術集約型から知識集約型の産業社会に移行する時期の、非常に巨大で歴史的な革命現象に、われわれが生きる時代は遭遇しかけているのである。 厳密な検討を抜きにした気分的な用語としては、「世紀末」や「末法」という言葉も使われているが、政治体制や経済共同体などが大きく変わる状況を指して、私は「幕末」や「メタ凶慌」という用語を使いながら、過去十数年にわたり一貫した姿勢で、「野ごころ」に支えられた脱藩精神を強調した著書を世に送り出してきた。そして、ここに幕末現象の診断に徹した内容を持つ、本書の上梓が実現したことを嬉しく思う。 その時からわずか3年しか時間が経過していないのに、状況はますます悪化の度合を増しており、擬態としての無政府状態を呈していた政治は、新進党騒ぎで完全に機能マヒを呈して、英文題名で使った「カタレプシー」(神経とホルモンの機能がいかれてしまう絶望的な状態)が現実化した。 医療が診断するのは器官や個体のレベルであり、企業や社会を診断するのが社会科学だし、世界や宇宙を対象にするのが自然科学だ。そして、それぞれの領域に[メタ凶慌]、[幕末]、[カタクリズム一地殻変動一]、[カタストロフィー一破局一]などの現象がある。また、死に臨むカタストロフィー現象の始まりとして、生命体が示す病理現象に属すものが、精神病理学でいうカタレプシー(強硬症)であり、私は漢字の「硬劣腐死」という字を当てたのである。 柔軟な頭脳、そして強靭な思想の牙を研げ こうしてカタレプシーが日本を支配したが、阪神大震災を契機にして危機管理が叫ばれ、それが危機管理にとどまらず、ドロナワ式に全体主義に向かって雪崩こもうとしている。だが、激変する目先の現象にふりまわされ舞い上がらないでいただきたい。安易に警察や軍部主導の危機・管理に傾きがちになるが、それが早トチリに基づく群集心理を生みやすい。現在の日本にとって最も必要なものは、国民が正しい意味での危機感に目覚め、日本が本当に危ないと気づくことではないか。 危機意識は国民一人一人の自覚の問題である。つまり、全体の動きの中で白已の置かれた状況や、共同体としての日本という産業社会が、どのような運命に位置づけられているかを知り、何が優先課題かを判断する選択の問題である。これはインテリジェンスに関わっている問題なのである。 苛酷な状況に立ち至っている日本に対して、適切な提言が必要とされているにもかかわらず、書店に山積みになっている本の大半は、楽天的日本大国賞賛論のものか、センセーショナルな終末論に類したものが多い。いかに景気を良くして不況から脱出するかや、現在の不安を軽減させる気休めは雑誌に任せよう。問題の本質を採り出す能力を発揮させる機会を提供し、行動力を持つ若い頭脳に指針を与えることが優先する緊急課題であり、それが本書が緊急出版された理由である。 その意味することは本文を読んでじっくり確認していただけばよい。既成の固定観念に捉われない柔軟な頭脳と、全てを噛み砕く強靭な思想の歯を使って、対話の中から滋養分に満ちたものを取り出し、それを玩味することで活力が湧くであろう。 そして、沈滞に続く建設の時期に、国造りの新しいビジョンと活力が役に立ち、それが次の世代への遺産になると期待して、本書を幕末の世に送り出すことにしよう。 なお、私の対談が活字になったメディアは、これまで余り一般の目に触れる機会がなかった。また、私が書き下ろした三つの記事を含めて、初出のリストは巻末に一覧して置いたが、本書に収録することを快諾していただいた『ニューリーダー』、『タケヤマ・レポート』、『財界にっぽん』、『パワースペース』の各編集責任者に、その厚情をここで心から感謝したいと思う。 1996年春花咲き乱れたカリフォルニアの砂漠にて 藤原 肇
目次 はじめに 第−章 混迷する社会を[経世済民]のメガネで読む
第2章 大世紀末と経済学の読み直し
第3章 大不況を動態幾何学で読む 落合莞爾VS藤原肇
第4章 政教一致で国危うし
第5章 日本再生へのインテリジェンス戦略 正慶孝VS藤原肇
第6章 メタサイエンスの時代の訪れとアジアの世紀
補説
おわりに 本書が読者の手に届く時期の日本は混迷に喘ぎ、広がった重苦しい空気が不安の気分を高めて、世紀末の憂欝を実感しているかも知れないが、これは数代前の祖先が味わった気分と共通で、徳川幕末に似た平成幕末が到来したのである。 幕末現象の兆しが症候群として読み取れ、それを私が診断書にダイアグノシスとして記録したのは、四半世紀ほど昔に田中内閣が誕生した頃であり、処女作の『石油危機と日本の運命』(サイマル出版会)から『日本丸は沈没する』(時事通信社)を経て、『虚妄からの脱出』(東明社)を書いた頃であった。歴史書を読むのが何よりも好きだったせいで、相似現象を歴史の中に捜していた私には、1970年代が山県大弐の時代感覚を伝えていた。ロッキード事件の影響で中曽根内閣が誕生したことで、この診断の正しさは確信の度合を強めたが、その病跡学的な現象は社会的多幸症になり、財テクをキーワードにした投機時代を出現させ、ヤクザ政治とカジノ経済が日本列島を覆い尽くした。その診断書が[平成幕末のダイアグノシス』(東明社)であり、続いて誕生した『日本が本当に危ない』(エール出版)の警鐘が鳴っている時点で、今度は医局会議に配る基礎資料としてのカルテをまとめて、こんな形のレポートが誕生することになった。 私の試みに協力して下さった友人たちは、現代日本が誇るルネッサンス人の系譜に属し、守備領域では個性的な見解を誇っており、メディアの上でウロチョロ軽薄に動くことのない、堅実な生き方をするタイプの逸材群である。それだけに、巷間で流布しているような上調子の議論や、権威主義的な肩をいからした見解とは違う、閃きに基づく即応の渡り合いを通じて、問題の核心に肉薄し得たのかも知れない。 通底しているのが経済と歴史の分野であるし、数学や意味論でも共通の叩き台があったので、そこに着目して『経世済民』という見失われて久しい主題を見つけた編集諸氏に、ここで改めて感謝の言葉を述べたい。
サリン事件の時にちょうど日本に滞在していたので、私は日本のメディアの報道合戦を目撃したが、コメントをする顔ぶれが有名人であるに過きず、世界に通用する真のエキスパートはいないし、通り一遍の思い付きが世論を動かしていた。その点で声の大きさが思考の内容を凌駕するという、如何にも日本的なパターンが目立っており、付和雷同と虚に吠える犬に従う万犬の群が、幕末現象を加速化しているとの印象が濃厚だった。 戦争でもないのに警官が迷彩服を着て行動し、超法規的な行為が日毎にくり返されているのに、誰もそれを不審に思わないでいる麻揮した感受性。サリンなら一九八六年のカメルーンで起きた、ニオス湖畔の毒ガス事件との関連とか、『マルコポーロ』廃刊事件との結びつきについて、考えていいのに誰もそれを試みようとしない。あるいは、世界で蠢動しているテロリスト運動の状況や、各国政府が持つ諜報機関の秘密活動が、宗教団体を隠れ簑にして行う工作について、四月の段階ではほとんど考察されていなかった。 これは情報におけるインテリジェンスの面で、致命的な欠陥を日本の社会が持っているためであり、『まえがき』でも触れたような意味論からして、日本語の情報という言葉の持つ暖昧さに由来している。インフォメーションとは質的に違うにもかかわらず、インテリジェンスまで情報という言葉で処理する点に対し、私は二十年も昔から異議を差し挟み、その致命的な欠陥を指摘して来たが、日本では受入れられることがなかった。 同じことは現在の日本で政治と経済の両方が、致命的な破綻を露呈して亡国現象を示していて、その背景に存在していたのが責任という言葉である。日本語の[責任]は二つの異なった意味を内包し、英語の[レスポンシビリティ]と[アカウンタビリティ]の違いが、日本人に全く分かっていないと指摘したのは、『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞)を書いた気鋭のジャーナリストで、オランダ人のカレル・ヴァン・ウォルフレンである。国内にいる日本人に見えないことを指摘されても、その重大な意味を理解できないとしたら、どうやってこれからの試練を乗り切って行くと言うのか。国内で嘘を吠える犬の合唱がかまびすしければ、それを改めない限り生き残ることは難しいのである。
世界のジャーナリズムはオープン制であり、問題意識を持つ人間の寄稿で成り立っていて、独立したフリーランサーが尊敬されている。だが、日本のメディアはキャバレーと同じ指名制で、中味の質より編集者の好みと人脈が中心だし、見てくれの良い包装紙と肩書きが第一になる。そこで、三流教授や評論家は雑誌やテレビに頻繁に出たり、いかに自分を売り込むかに熱を入れるし、テレビタレントから代議士になり上ったりで、日本は国会さえもが寄席の延長になっている。 かつての私は商業メディアに書いたものだし、今でも広く訴える必要があると考えた時には、一般メディアに改めて寄稿したりもするが、分かり切った説明は先生たちの仕事であり、自分で考えるという姿勢のためにボツになるケースが多い。問題意識を持つ人は大衆ではない点で、不特定多数を相手にしない会員制の情報誌が、意見を述べる場になることが最近は増えている。本書の記事の大半はその種のジャンルに属し、既に発表済みとはいえ図書館でも入手できず、始めて多くの読者の目に触れることになったので、編集者の意向で幾つかの注を付け加えた次第である。 『平成幕末のダイアグノシス』に収録した記事もそうだが、本書の記事で『大不況の原因と展望を動態幾何学で読む』と題したものは、泰山会の『タケヤマレポート』を発表の場に使っている。このレポートは日本における一種の秘密報告書で、東京市場一部上場の企業の代表権を持つ、社長と会長だけが読めるという性質があり、外部秘だから何を書いても自由である。そこで、名誉棄損を恐れて活字にならない情報でも、このレポートに書いている限り無事であり、日本のトップ層にメッセージとして届く点で、メディアとしてこのレポートは希有の存在だ。だから、特別な問題提起の時はこの場を使って行い、後でそれをまとめて『平成幕末のダイアグノシス』(東明社刊)にしたこともある。 今回の[オウム真理教事件]と[大蔵省の癒着疑惑事件]を結ぶ謎は、あの本の中で [リクルート事件]を解明するために使った、日本の地下社会の構造を解く下敷きを使い、地球発想でアプローチしない限り、鍵が無いので全体像を理解できないはずである。だから、本書で未だ亡国現象のプロセスについて十分に納得がいかないと思う人は、『平成幕末のダイアグノシス』に具体的な例示があるので、ぜひ一読するようにアドバイスする。 いずれにしても、外部の人間には泰山会の例会の討議内容や、レポートに書かれている議論について、いっさい窺い知ることが出来ないのであり、そういう世界の空気を味わう楽しみのためにも、第4章や「平成幕末のダイアグノシス』を玩味頂けたらと思う。市販されている商業雑誌の情報に比べて、会員だけの情報誌の差が分かって面白い。 本書の記述や発言に意を尽くし切れない部分があり、ことによると対談に協力して頂いた友人たちに、迷惑をかけたかも知れない点を危倶する。しかし、発言の書き出しや用語の解説などを含めて、文責はすべて私にあることを明記して置きたい。 また、私の考えや決めつけ方に対して理論や批判、あるいは、間違いへの叱正や忠告があって当然であろう。思想や意見は言論の場を通じて火花を散らし、より高い次元で問題の解決を発見すべきで、それがホロコスミックスが教えるメタサイエンス的解決である。万が一にでも連絡を取る必要がある場合には、『宇宙巡礼』にインテリジェンスのプロとしての私の名刺が、三次元的な暗号で二二五頁に印刷されている。非公開の情報に関しては触れないのが原則であるが、緊急時のホットラインの可能性に関してのみ、ピラミッドの門の中に秘密が隠れているので、その謎解きがイニシェーションになるだろう。 藤原 肇 識
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