Introduction
2001年4月26日に「聖域なき改革に挑む」と宣言して発足した小泉内閣Koizumi Cabinetは、2005年8月18日に池田勇人(1899-1965)内閣の在任日数録を抜いた。 これは戦後の長期政権である佐藤栄作(1901-1975)・吉田茂(1878-1967)、中曽根康弘らが率いた内閣に次ぐもので、戦後歴代4位の記録である。そして、「9・11選挙」general electionに圧勝し単独過半数を手にしたことにより・2006年9月までの自民党総裁LDP presidentの任期termをまっとうするだけでなく、ことによるとさらに継続するかもしれないので、これで佐藤栄作の在任日数までも抜き去る可能性もある。そうなれば小泉政権は日本が解体するまで続くかもしれない。 しかし、この長期政権はこの国と日本国民に、いったい何をもたらすのであろうか? それを文明論的な見地から、あるいは病理学的な見地view pointから検証examineするのが本書の目的である。つまり、本書はこれまで誰も書かなかったであろう小泉政権の診断書health certificateである。 「小泉首相のやっているのは社交外交で、戦略外交ではない」と酷評したのは中曽根康弘だが、このような酷評は今後は沈黙を強いられて、名宰相論が続出する気配が感じられる。 それはともかくとして、現時点での小泉内閣を検証するには、以下のような数字をあげれば十分だろう。 まず、彼は就任時の公約policy pledgeとして、新発国債new government bondの発行を30兆円以内にすると約束した力、これをいとも簡単に放棄abandonした。そのために、2000年度末で約370兆円だった国債発行残高outstandingは、2004年度末で約480兆円にも達している。さらに、政府短期証券や民間からの借入金debtsなどを合算した国の借金は800兆円の水準に至り、地方の借金を合わせると1000兆円を突破した可能性が高い。 これは日本国のGDPの約2年分に相当する巨額な債務huge deficitであり、もはやどんな手段measuresを駆使しても返済は不可能impossible to repayだから、景気動向economic trendとは関係なく、日本国は崩壊の危機crisisに瀕しているのである。 また、こんな数字もある。 52万9822円。これは総務省が発表した2004年度の勤労者世帯の1ヵ月の平均実収average incomeである。小泉政権発足前の2000年度のそれは55万8424円だったから、なんと4年ほどで日本人の世帯収入は月に3万円ほども落ち込んでいる。まさに、小泉政権は国民にとっては「悪夢の長期政権」ではなかろうか?
私はこの四半世紀にわたり日本の外outside Japanに足場を置いて、世界の中で日本を位置づけることで、故国my home countryを観察し続けてきたが、このような語るに落ちた政権は初めてだ。小泉政治は浮薄で不真面目きわまりなく、国家と国民を無視ignoreし続けている姿勢を取っているので、北朝鮮North KoreaやナミビアNamibia以下だと判定してきた。いったいなぜ、これほど酷いデタラメ政治bullshit politicsの蔓延widespreadが放置されてきたのだろうか?その理由の1つに批判精神critical facultiesを失ったメディアの姿勢があるが、日本人自身が自分たちが陥った悲惨な状況について、自覚(realize where we are)できていないということもあるはずだ。 小泉政治がいかにお粗末easy-goingであるかについては、もはや世界の見識ある人々はよく知っており、あきれ果てているといっても過言ではない。しかし、それを自覚できないのが当の日本国民であるのは、本当に不幸なことだと言わざるを得ない。 私は年に数回ほど故国を訪れるが、その度に私の読者や知己のジャーナリストと会って、日本の状況について議論debateしてきた。そうして決まったように言われたのは、「藤原さんの次の日本診断書」はいつ出るのかということだが、私は「それは病理学のプロの仕事だ」と答え続けてきた。 私の読者にはジャーナリストjournalistやプロの分析家professional analystが多いし、旧知の政治家politicianや官僚bureaucratも結構いる。そういった、現在この国を支えている良心的な人たちが、興味深い内部情報inside dopeを提供してくれるだけでなく、ときには調査に協力してくれる。特に有楽町にある「外国人特派員クラブ」FCCJのメンバーには、取材と分析力を誇る古い友人が多いから、彼らと議論して宿題homeworkを残して帰ると、次の訪日のときには私の疑問が氷解flash of understandingすることがたびたびあった。 それにしても、私はいずれ誰かが「診断書」を書くだろうと思っていた。ところが、そうした人間は現れなかったので、小泉内閣はついに4年を超える長期政権になってしまった。そうなると、やはり私が書くしかないと思うようになり、数年前からデータ・ファ イルをつくり始めた。 私は地質学geologyのプロとして地球の診断医earth diagnosticianを自認している。だから、本当は大自然mother natureを相手にした方が爽やかなのだが、私の観察力を使って人間社会human societyを捉え、文明civilizationの側から見た診断を試みることにした。
小泉純一郎という人物について、これまで語られてきた一般的な理解general knowledgeを整理すると、次のようなことが読者の脳裏に浮かぶだろう。
・「自民党をぶっ壊す」と宣言して、総裁選に勝利し、首相になった。
私は十数年前に『平成幕末のダイアグノシス』(東明社1993)の中で、当時の日本には幕末期end of Edo periodに似た攘夷感情excluding-foreigners feelingの蔓延が見られ、それとともに体制Japan's systemが崩壊しつつあると論じた。そして、今の日本はまさにそれが完全に具現化realizeした状態だと考える。こういう攘夷感情が蔓延することにより、それを利用する権力者rulerが現れるのは、歴史が教えているところである。上記した小泉首相に関しての数々のエピソードは、まさにその象徴ではないだろうか? 小泉純一郎の政治手法は幼年期の独裁者dictatorの手口に似ており、絶対やれないことをやると断言して人気を集め、それがやれなくなると装飾dressingのために、丸投げして責任逃れを試みようとする。これは、小皇帝Le petit Bonapartistと呼ばれたナポレオン3世Louis N. Bonaparte(1808-1873)と同じで、出たとこ勝負の「後は野となれ山となれ」方式だから、約束は結果的に踏みにじられてしまうことになる。 2005年8月8日、衆院が解散され、万歳する議員たち。(写真:共同通信社) しかも、約束違反で国民の怒りanger of peopleが自分に向きそうになると、今度は次々にテーマをすり替える。要するに、問題の先送りpostponeと責任逃れである。これがくり返されると、肝心な問題nitty-gritty problemsは忘れられてしまうので、一種の手品magicのようなものである。 さらに、自分に従わない者はすべて敵his enemyだと決めつけ、権力powerの肥大と政権regimeの維持を図る。これが誰の目にも明らかになったのが、2005年8月8日の「郵政解散」dissolution of the Lower House after the postal privatization bills were defeatedだった。 つまり、小泉首相は口先だけ(All talk no-action)の無責任主義者であり、説得などという言葉は彼の辞書にはなく、舌先三寸の「だましの術」kindergarten-style gimmickだけには驚くほど長けている。 これでは、単なる香具肺mountebankである。しかし、香具師が騙しを正業にするとはいえ、日本人なら義理と人情は持ち合わせている。ところが、小泉にはそれもない。節操と理念のなさでは「わがまま殿様」同然で、まさに「プチ独裁者Le petit dictateur」と言うしかないのである。
それにしても、日本の政治はこんな酷い状態にまで、なぜ行き着いてしまったのだろうか? おそらく、かつては存在した富national wealthの公平分配equitable distributionが差別分配になり、中流意識middle-class mentalityを抱いていた階層が「負け組」losersに転落してしまったからであろう。 そして、「勝ち組」winnersは外国と連携した一握りの集団であり、世界の中で日本は「負け組」に転落したのに、いまだに「勝ち組幻想」に陶酔しているからである。そのために、かつては国際協調派に属していた者でさえもが、今では排他的ナショナリズムexcusive nationalismを指向するようになり、その上に小泉政権が長期君臨しているのである。 フランスの大学に留学した青春時代の私は、理学部で構造地質学structural geologyという地球ストレスの研究をしながら、他の学部に潜り込んでファシズムの授業をとって、そこで独裁者の心理psychologyと病理pathologyについて学んだ。 ヒトラーAdolf Hider(1889一1945)やムッソリーニBenito Amilcare Anclrea Mussolini(1883-1945)の生態は、すこぶる興味深いものだが、それに比べると小泉純一郎はいかにも矮小な感じがする。せいぜい「猿まね男」acopycatの仲間であり、中央アフリカ共和国Centra1 African Republicの独裁者ボカサJean-Bede1 Bokassa(1921-1996)のレベル程度に思えてならない。 相手が強いと卑屈なまでにへりくだって従属するが、弱いと見ると居丈高になってイジメ抜く性格はそっくりで、小皇帝Le Petit Bonapartisteを気取る2人は同じ血液型か、生まれた日の星回りastrologyが似ているのではないかと思いたくなる。 ナポレオン1世Napoleon Bonaparte(1769-1821)に憧れたボカサは、クーデタで政権を獲って大統領になると、共和国republicを帝国empireに変えて自ら「皇帝」emperorに即位して、戴冠式をするという時代錯誤anachronismなことまでやった。そして、盟主のジスカールデスタン仏大統領(当時)Velery Giscard d’Estaingに巨大なダイヤdiamondを贈呈している。しかし、アジアの世襲議員hereditary Diet memberの小泉純一郎は、皮ジャンパーleather coat(ブッシュからのプレゼント)のお礼として、アメリカの財政赤字financial deficitの穴埋めに米国財務省債券Treasury Bpdを買い、税収tax revenuerを超える数十兆円の国費を使った。そして、国民の富をアメリカに貢いだだけでなく、日本国憲法the Constitutionを踏みにじって、自衛隊SDFのイラク派兵dispatch to Iraqまで強行してしまった。しかも、「9.11選挙」という擬似国民投票により、小泉体制が信任を受けたということで、日本人の血と汗の結晶を象徴する、最後に残った郵貯と簡易保険までも差し出そうとしている。
ここで、私が本書で診断に使う方法を説明すると、それは調査報道investigative reportとかき集められる限りの情報collectable informationを整理する。さらには、歴史を鏡に使って相似現象を選んで、鏡像mirror imageと実像real imageを比較してみるのだ。そして、それを背景の中で俯瞰的perspectiveな立体モデルに転換convertする。すると、目の前に全体構造entire Structureの現状が浮かび上がり、その構造がいかに機能しなくなっているかがはっきりする。 本書には、私自身が直接取材direct gatheringした情報もあるが、それ以外は多くの先人たちの成果によっている。また、友人のジャーナリストや協力者が提供した取材メモの活用もある。 いずれにしても、それらをジグソーパズルjigsaw puzzleと同じように再構築して、全体像として1枚の絵a pictureにしたものである。だから、生命体living organismである日本社会の解剖図鑑anatomical bookとして、その健康状態の観察と診断を試みたものと思っていただければよく、現代日本の「覗きカラクリ」として見てもらえれば有難い。 気鋭のカナダ人ジャーナリストのベンジャミン・フルフォードBenjamin Fulfordは、日本政府の失政maladministrationによって失われた十数年を総括したうえで、『ヤクザ・リセッションThe Yakuza Recession』を書き上げ、日本の現状を『泥棒国家の完成The Iron Kleptocracy』であると分析し、将来を展望して、『日本がアルゼンチシ・タンゴを踊る日The day Japan Come Crashing Down』(3作とも光文社ぺ一パーバックス)を日本人に突きつけた。 しかし、腰の定まらない日本のジャーナリストや学者scholarsの多くは、今も地元にいながら惰眠をむさぼっているidle one’s time awayので、フルフォードの3部作trilogyを乗り越える警世の書を生み出していない。そこで本書がさらなる挑戦として、今の日本の閉塞感cooped-up feelingとともに、小泉流の狂気Koizumi’s insanityが横行する現状に、風穴を開け得たらと願うばかりである。 私はすでに何冊か日本の診断書を書いてきたが、そこに書いてきたのは、バブル時代から長期的な大不況long-term recessionに至るまでの日本が、どんな病歴clinical historyをたどったかであった。現在の病状を正しく理解するためには、過去の経緯がどうしても必要になる。 そこで、ここでは歴史を少々さかのぼっておきたい。
戦後日本postwar Japanの蹉跌failureは、1970年代初めの田中角栄(1918-1993)内閣の時代に始まったと言える。 それは日本の上海化という現象に象徴されていたが、その点に気づいた日本人はいたって少なかった。だから、日本はまだまだ発展し続けるという気分に包まれ、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(”Japan as No.1” by Ezra F. Vogel 1979)と題した軽薄な本に浮かれ立ち、日本人が得意満面as proud as a peacockになった時代が続いていた。 今となっては懐かしい時代good old daysだったと言えるが、ロッキード事件Lockheed scandalで日本中が騒然としていた頃の日本は、ジャーナリズムはまだ批判精神critical facultiesを持っていた。国会では討論をはじめまともな質疑Qs and Asや真相追及が行われ、日本は法治国家nation ruled by lawとしての体裁を保っており、学生は本を読み、国民の瞳は輝き胸には希望があった。 しかし、1980年代は世紀末fin-de-siecle decadenceの幕開けを告げる時代になり、日本は「財テク」という言葉につられた金儲け熱heat of money-firstに包まれ、日本人が次第に驕慢arrogantな態度をとるようになった。謙虚さhumilityと誠実さsincerityが価値の基準basis of valueから遠ざかり、表と裏の世界の交替が顕在化することになった。 中曽根康弘から竹下登(1924-2000)にかけての政権が支配した時代は、まさに、ヤクザ政治yakuza politicsとカジノ経済casino economyの時代だった。そのせいで、日本はエネルギーを放蕩したが、旺盛な体力potentialの蓄積はまだ十分に残っていた。だから、カタストロフcatastrophe(破局)の始まりは苦痛painを伴ったが、バブル崩壊の衝撃は大きくても、診断としてはカタレプシーcatalepsy(強硬症、精神病理学用語で死に至る病いの初期症状のこと)の発現にすぎなかった。そこで、私はこのカタレプシーを「硬劣腐死」と漢字で書いてみた。 しかし、混迷の中で海部俊樹から細川護煕をへて村山富市に続く時代になると、日本の病状はますます悪化go wrongした。ジャーナリズムが堕落corruptして、脳機能brain functionが低迷してしまい、メディアが批判精神を失っていくとともに、政治が統治行為から逸脱trespassするようになった。 政治が理念principleを放棄して野合することで、近代modern ageを特徴づけた理性の溶融が始まり、日本の社会は「劣」から「腐」への移行が本格化し、原始時代archaic ageへの回帰が危惧されるようになってしまった。 そして、ついに世紀末がやってきて、1990年代後半の橋本龍太郎内閣の時代になると、日本には精神に続く肉体の変異が目立っようになった。しかも、次々と現れた多くの合併症coexisting illnessのために、支離滅裂なかたちin a muddleで首相を選ぶ時代が始まった。こうして、小渕恵三(1937-2000)から森喜朗をへて、ついに小泉政権が誕生してしまったのである。 実は、この小泉政権は日本を「死」deathに至らせる政権であり、「改革」reformという名のもとに、社会の崩壊をますます進ませている。そして、ついに2005年8月に郵政民営化関連法案の参議院否決で、衆議院解散dissolution of the lower houseというコントロールさえ利かない状態になり、議会政治の枠組みframeworkまで破壊してしまった。 本書は、この「腐」decayから「死」deathに至る時期を分析し、カルテに記載された症候群syndromeに基づく所見をまとめて、読みやすいレポートのかたちにしたものである。
さて、今の日本はゾンビが支配する国(ゾンビ政治”zombie politics”の国)である。「腐」から「死」に至る過程processではまともな人間normal peopleは活躍できないために、ゾンビだけが活気づいているのである。そして、国民は自分たちの上に君臨するのがゾンビだとは気づかずに、閉塞感の中で不安な気分で暮らしている。これは、まさに悲劇tragedyそのものだから、私たちはゾンビとは何かをどうしても理解しなければならない。それではゾンビとはいったい何であるのか? これが数学の世界での説明ならば、「解」は上位の次元upper levelにあり、「ゾンビ」が最低の次元lowest levelだとわかる。しかし、これでは何のことだかはっきりしないので、いくつかの辞典に当たってみることにした。 ただし、普通の辞典に当たっても「ゾンビ」の解説はない。そこで、思案して『心霊研究辞典』」(東京堂出版1990)を開いてみたところ、そこには次のような解説があった。 〈ゾンビZombie:西インド諸島ハイチの言葉で、黒魔術により死体を夢遊状態にして動かし、生き返らす魔力をいう〉 この解説は「なるほど納得できる」、という気分にさせてくれる。なぜなら、すでに死に体lame duckだった自民党LDP(Liberal Democratic Party)を生き返らせたのが、2001年の総裁選挙における小泉政権の誕生であり、あれは黒魔術black magicだったと思えばよくわかるからである。 しかし、これだけでは社会学的な議論にならないので、今度は『日米口語辞典』(朝日出版社1982)でZombieを引くと、「生ける屍」living deadとあり、'その解説として次のような説明があった。 〈この英語の元の意味はvoodoo(ヴードゥー)教のまじないにより、生きた姿を与えられた死体。そこから精神的に死体も同然のヤツという俗語になった。Zombieはこの他に、まぬけという意味の俗語として使われる場合もある〉 それにしても、最近の日本の政界は異様な空気に満ちている。「郵政解散」から総選挙に至る過程は、まさに、ゾンビが跋扈する世界ではなかったか?ここでは、もはやすべての秩序social ordersが失われ、あらゆるものが蠢き、叫び、徘徊した。 「ワルプルギスの夜」ベルリン国立博物館所蔵(写真:PPS通信社) だから、今日に至るまでの一連の流れの中で、私はゾンビという言葉とともに、「ワルプルギスの夜」Walpurgis nightを想起した。 「ワルプルギスの夜」というのは、毎年、五月祭(5月1日)の前夜に、ドイツのハルツ山塊の高峰ブロッケン山Mt. Brockenで、牡山羊・箒の柄・火掻き棒などに乗って魔女たちHexe(witch)が集い、悪魔と「サバト」(狂宴)を催すという伝説の舞台である。 ゲーテWolfgang von Goethe(1749-1832)が劇詩『ファウスト』(Faust)で描いて一躍有名になったが、そこに描かれた光景は壮絶そのものだ。興奮して狂乱に陥った魔女の叫びが、山や谷に反響し、乱痴気騒ぎorgyを生み出すのである。だから、この狼籍現象が私には小泉ブームの元型arch-typeのように思えるのである。 まず、小渕恵三の奇怪な突然死。そして、その後に密室での闇取引black-marketeeringによって成立した森内閣。さらに、史上最低の支持率で森内閣が倒れると、「生ける屍」だった自民党の起死回生策pull it out of the fireというかたちで、「はぐれ鴉」が登場した。そして、そのはぐれ鴉は自分自身の住処own nestまで破壊したのである。それが小泉純一郎である。これら一連の出来事が「狼籍」現象でなくて何であろう。 どうか、以下に示した「ワルプルギスの夜」の一節を読みながら、これらのことを思い起こしていただきたい。
The wind is hushed, the stars die,
風は静まり星が消える
2005年9月
藤原肇
Contents
Nation of Zonbies 日本は死に体
月に3万円も貧しくなった日本の家庭
ポピュリズム運動に身を投じた祖父・又次郎
首相就任前に行った対談で危倶したこと
「ただ仇を討ちたい」だけの田中真紀子の小泉支援
公然とウソが罷りとおる「ゾンビ社会」の出現
「郵政解散」でいったい何の「信」を間うのか?
小泉純一郎は本当に「改革者」なのか?
「酔っ払いが外交している」ような責任のなさ
Reference 1 資料1 小泉政権と時代の歩み
Afterthoughts
数学mathematicsの世界では微分derivationする操作で、次元の飛躍をすることに相当するし、「次元転換」は問題理解の秘伝である。1973年の石油ショックOil Shockの最中に出版が決まり、翌年早々に出版された自著『石油飢餓』(サイマル出版会)の「まえがき」に、私は、次のように書いた。 「戦後長らく続いた保守政治がついにファッショ化して、独裁者のまわりに翼賛政治家が結集し、すでに財閥化した財界と結託して、一億の国民を再び悲劇の中に巻き込もうとしている。……現在進行していることを正しく評価するためには、時間を置いて歴史的事件として過去において見るか、空間的に距離をおき日本列島から一歩遠ざかって、しかも、日本に焦点を合わせてみるかの二つの方法しかない。私は地球を相手にした歴史学者として、自分の生きている時代がどのようなものであったかを後になって気づいて、後悔するのは嫌だから、太平洋を間において日本を観察しているが、このファシズムの不吉な胎動は気がかりでならない」 このときの日本は、石油ショックの混乱で大騒ぎしていたが、小泉純一郎はようやく1年生議員になったばかりであり、福田赳夫や中曽根康弘が天下ruler of the nationを狙っていた。 さて、本書のほとんどは、2005年の夏の始まる頃までに書き上げており、それを読んだ山田順編集長が「藤原さんの文章は長くて複雑すぎ、難しいことを難しいまま表現しているから、せっかくのメッセージが読者に届かない。私に任せてください」と言って、多忙な編集長が1ヵ月半も費やし、私の油絵を日本画風に描き直した。そんなところに、「郵政解散」による9.11選挙の椿事が起き、選挙の結果the result of the general electionを見て加筆して、それから出版しようという話になった。 9月20日に訂正が終わり、全体ができた段階で再び「はじめに」を読んで驚いた。選挙結果の追加だけで書き直す必要がなく、状況は、さらに悪化していたからだ。それは、編集長が着眼した日本の病理illnessの診断と、私が人材枯渇shortage of human resourcesと育成の問題こそ、本書の中心テーマだと設定した路線が、正しかったと証明していた。 政策national policyを忘れて政局のレベルで動く日本は、新登場した未分化で幼稚な小泉チルドレンにより、今後はより劣悪な「小泉劇場」Koizumi's theatre politicsが続き、「ワルプルギスの夜」Walpurgis nightの狼籍は「嵐の曙」まで続くだろう。 そんなときに、襲来したハリケーンの惨事があった。「Katrina」と「Rita」の前で人々が逃げ惑い、アメリカ人が誇った生活American way of lifeの家や財産を放棄し、生命こそが価値valuesの中心だとする現場を目撃して、政治を間違えた覇権国家hegemonアメリカの正体the reality of Americaを見た。 そして、私は「はじめに」で書いたことが本論で、故国の同胞に伝えるべきメッセージであり、小泉などのゾンビについての記述は、本論の「付録」にすぎなくなったと痛感した。 この「おわりに」の後にある「付録資料」referencesは私からではなく、編集部から読者への「贈り物」である。 2005年9月末の秋晴れの日、カリフォルニアの砂漠の庵にて
藤原肇
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