経済活動をエントロピーとエネルギー史観で把握。太陽系のレベルで経済現象の本質を捉え、環境問題 と[ 天・地・人 ]を綜合した先駆的な古典書。
はしがき-マクロメガからの問題解決−松崎弘文個々人の日常生活から出発して経済をみると、すべて「たべもの」「おかね」が原点にある。それを量的に引伸ばしてみるとマクロになり、数的に引伸ばしてみるとメガになるが、マクロとメガの統合体が究極点に向うものとしてダイナミックに提える視点がマクロメガになる。日本の場合、近代化、欧米化というわけで、これまでは現代経済学が人間生活や文明についてのマクロな考え方の集大成であって、輸入品の経済学が万能視されてきた。 P> ところが、最近になって、本場での経済学の効能書きがオカシクなって来た。経済学の定石通りに日常生活が動いていないことが次第に明白になったからである。「おかね」と「エネルギー」という尺度の違い自体も甚だ不明瞭な上に、それを分りやすく解説する試みも緒についたばかりである。 日本ではまだ一部のトップ専門学者が警鐘を鳴らし始めた程度だが、いずれ、こういった現代経済学の壁を超えての経済運営の「たてまえ」論が日常の問題とされる日が来るはずである。 戦前の金解禁論争と国際的圧力による日本の「金」の自由化は、ケインズが「きん」の国際相場で大金を失い、ついでそれを何倍にも増して個人の財産を築いた頃と前後していた。半世紀たって、日本の政治はやっとケインズ経済学の亡霊から解放される方向に動き出した模様である。当時の情勢と、国際的圧力に対する日本政界の反応を思い起こすなら、今の貿易摩擦や市場と金融の自由化にまで一脈の糸が引かれていることが分かるはずである。 日本人は貿易摩擦とボカした表現を使っているが、海外ではズバリ「トレイド・ウオー」(貿易戦争)と呼び、これは何百年という伝統に基づいている。アメリカ合衆国の独立自体が、植民地のアメリカで毎日飲用していた紅茶に対し、イギリス議会(政府)が課した税金がキッカケとなっている。つまり、イギリスが輸入を独占したのに反発し、英国の王室に対する大逆罪にもかかわらず、植民地の人びとが大規模な反乱を企てたのである。 税金を喜んで払う人間は、民主社会どこを見てもいるわけがなく、税金はそれに対する「見返り」があるから払うのが基本関係である。大体、所得税などという代物は、第一次大戦の軍費支払いのため始めて導人され、それがそのまま定着したものである。それまでは、植民地からのあがりや、それに関連した輸出入税、物品税、土地家屋税をもって政府はまかなわれていた。現代資本主義自体、民間企業の儲けや利潤によって成り立っており税金が取り立てられなければ政府自体が存続できない。だから、現代社会は、ケチルという大原則によって成立していると言ってよく、「ケチルことはよいことだ」というのは近代資本主義、全世界の人類共通の大原則である。 したがって、貿易収支が黒だ赤だといって騒ぎ立てるのは純然たる経済学のマヤカシである。皆ケチルことに頑張っているのだから、その大原理を無視し、政治的に何かウラで甘い汁をと企んでいる巧妙な人間以外、「赤字」で長続きする国も企業もビジネスもあるはずがない。まして、日本のように質易収支が黒宇であるのは大悪玉で、その裏で非常に苦しんでいるのが大赤宇のアメリカだというような論法は全く不法である。今世界最高の景気を誇っているアメリカは、世界最大の赤字国であり、ドルは世界最強の国際通貨でもある。フランスがアメリカのドル赤宇に正面から対決する姿勢をとっているのは、それなりの理由があるのだ。貿易収支が黒字であるのは、日本が世界で一番ケチな生活をしているからで、ほめられて当然である。ところが、もっと毛皮を買え、ダイヤモンド、金、そしてウイスキー、ワインなどの舶来品を買え、と言って、輸入の増強を迫るのは無理難題というもの、私から見ればトンデモナイお役所流の発想法であり、日本の風土に全く合わないのである。 ただ、いかに法外な要求ではあっても、世界の「政治」が日本の「おかね」に目をつけて圧力をかけて来ている事実は否定できない。それにしても、幕末みたいな甘い汁はもう吸えないということは連中も知っているはずであり、何故そういった圧力が出て来るのか、いかなる理由でそういった欧米の社会通念が定着しているのかを知りぬいておくことが必要である。果たしてそれが単なる政治家の建て前論なのだろうか。そういった基本点を見失っていれば、日本の対応は的ハズレになるに違いない。 コロンブスの卵流の想像力豊かな解決策は、おそらく現代の日本の優等生型官僚思考や西欧正統派的思考からは出て来るはずがない。官僚制度自体タテワリで、自分のナワバリ中心の仕組みだから、より広い視野を持つ日本の庶民や、民間企業の指導者の活力に期待するほかはない。「ケチルことはよいこと」という原理を確実に自分の身で確かめて来た人間でないと、現在の難問にはマトモな対応ができるはずがない。 「歴史は繰り返す」と言う。カール・マルクスは、「歴史に名をとどめるほどの事件は必ず再現することになっている。最初は悲劇として起こるが、二度目は茶番劇としてだ。」
「ケチルことはよいことだ」というのが古来の真理だとするなら、ケチの原則に正反対の輸入品購入を首相自ら範を垂れるやり方は、「たてまえ」の欧米に迎合したまことに巧妙な海外宣伝、逆説的には有害無益な国内政治での指導力発揮だといわざるを得ない。権勢を維持するために真の国益を叩き売った愚行については、次の時代が歴史の茶番劇の典型として引用し実証する日が必ず訪れるに違いない。 現代資本主義自体、「ケチ」らなければ成り立たないのだから、「ほんね」で対抗するだけの素養を身につける「時間」と「空間」を入手するために、析角稼いだ黒字を使うべきだと考えるが、いかがなものであろうか。 マクロメガの立場から扱った本書のテーマは、こういった日本人の生さ方、生活の仕方に対する一つの意味ある解答になると確信する。 いわば、何が出来て何が出来ないか、といった原点についての対談ということで、われわれと共にブレーンストーミングに参加していただけたらと思う次第である。 目次はしがき第1部 視野狭搾症の現代経済学1、天動説経済学時代の終り2、モノで考える経済的視点 3、ハードウェア史観とソフトウェア史観 4、ウェットウェアの登場 5、インビジブル・ハンドの有効性 6、古典派からマルクス経済学派への椎移 7、マルクス経済学の効用限界 8、新古典派の台頭と没落 9、ケインズ革命の災難と破綻 10、ニュートン力学的な経済学 11、エネルギー機関としての人間と地球 12、文明レベルでの原価計算 13、エネルギー学派の開祖ジェボンズ 14、帝国主義時代としての第二文明期 第2部 マクロメガ経済学1、コンドラチェフの波動理論2、食糧エネルギーと士気 3、生態循環と四次元農法 4、ロシアの凶作とブリックナー周期 5、食糧のエネルギー収支計算 6、エネルギー経済学の時代 7、ミニアチュア化への挑戦と進歩 8、文明化とミニマックスの法則 9、食事が餌づけになる世相 10、エネルギー・パスと生存権 11、太陽エネルギーと人間の営為 12、エントロピーの法則と経済現象 13、エントロピー思考のメリット 第3部 第三文明期の思考革命1、ヘリオロジー(太陽学)の提唱2、桎梏措としての国民国家 3、イノベーション社会と失業者 4、廃時間のエントロピーと超字宙 5、愚者の灯・原子力発電 6、符号化した通貨とことばの意味 7、ことぱとコンピューター 8、情報の公開と官僚主義 9、経済学の一般相対性理論 10、第三文明期の創世紀 あとがき
あとがきすでに広く公認されている考え方に対して懐疑の視線で望み、より普遍性を持つ座標軸の存在を考察することを「批判」と名づける。そして文明の発達と思想における進化の歴史は、マイノリティ側の批判とマジョリティ側からの反批判としての弾圧の過程であったことは、世界史が雄弁に物語っているところである。 短い時間の流れの中で、生成・発展・衰退から滅亡への過程をたどる個体発生(オントジェネシス)は、ひとつの完結体としての個体にまつわる喜怒衰楽の感情をさそうエピソードを伴って生々流転していく。
シナジーは物理学や生物学を含む自然科学の用語だが、経済学や経営学の世界では奇妙な方程式を成立させるものとして、1+1=3とか、1+2=8といった表現でシンボライズされ、これに習熟した有能なビジネスマンは、常識のラチ外とも言えるテークオーバー(企業買収)ゲームを謳歌することになる。それを実践して、既存の考え方にドップリとつかっている金融界や産業界に大衝撃を与え、ニュース・メディアをショックと熱狂で騒然とさせているのが、アメリカ人で私と同じジェオロジストとオイルマンの経歴を持つT・ブーン・ピケンズである。彼はガルフ、ゲティ、フィリッブス、ユニオンなどの大石油会社への企業買収攻勢で時代の寵児になり、現代版錬金術の威力はウォールストリートを震憾させた。その結果は、セブンシスターズのマドンナでもあったガルフ石油を、挽歌の響きの中で地上から永遠に葬り去ってしまったほどである。 テキサス州の地方都市アマリロに本拠を構えるメサ石油のトップとしての彼が、これだけ大胆な挑戦を実行し得た理由は、ネゲントロピーの持つダイナミズムを企業レベルで調整しただけで、最大のシナジー効果をもたらし得たからであり、シナジーこそ文明の革命歌であり、マニフェストを生み出す力であると証明してみせた。 そして、十数年前にダイヤグラムを使って、石油産業の構造解析とオメガ・ポイントを目ざしたプロセスの位相解析を試みたことのある私には、新しい時代の曙の訪れと激震の継続が予感されてならない。 1980年代の始まりの時期、当時カルガリー大学で経済学の教授だった松崎さんとでブレーンストーミングを幾度となく試み、それを記録したテープから書き出して編集したものが本書である。 アイディアの一部では、コンドラチェフの波動とエネルギー史観とのかねあいについてのものなど、1983年2月6日にソウルで開催された大韓石油協会のオープニング・スピーチに招かれた時の講演が、『韓国経済新聞』に全文紹介されたし、同年の『文芸春秋』四月号に発表した『誰も知らない第二の安宅事件』の記事のように活字化済みのものもある。文芸春秋の記事は国会で問題としてとりあげられ、通産大臣が石油公団の失敗を認めて謝まるというところまで行ったが、これなどは、うっかりすると二○世紀最大であるばかりでなく、人類の経済史に前例がない大きな企業倒産に結びつくおそれのあるミスマネージメントを、事前に掘り起こしたエピソードである。 ドームゲートと名づけたこの事件は、ハード・デス(死)がもたらす世界の金融パニックを、トリガーを取りはずし火薬を抜きとってソフト・デスに切りかえることにより、衝撃力をミニマイズさせたいとの願望をこめて、不発弾の解体作業を演出したつもりのものである。 果たして、それが私自身の『無謀な挑戦』であったかどうかは、本書を読んだあと同名の本を播いて、その意味するところを熟考していただくことで、私の文明史観と現代社会で進行中の大事件との兼ね合いについて理解していただけるだろう。 産業社会が遭遇している問題点と対峙するに当って、臨床医学的なものよりも予防医学的なアブローチの方が、大変ではあってもはるかに有効だと考える私は、拡散型ではなくてオメガ・ポイントに向う収斂型の進化モデルに支配されているとの印象を与えるかもしれない。だが、拡散も収斂も結局は視点の置き場の違いにすぎない。それはソフトウェアとハードウェアの母体であるウェットウェアにかかわっているのであり、最終的には、シナジーを生み出すウェットウェアは宇宙生命としての熱力学第二法則のシンボルであり、おそらく熱力学第一法則をシンボライズしたものとして、ドライウェアということばが公認される日が訪れる時代があるだろうと期待している。これもまた総てをエネルギーで捉える発想に基づいており、仮に名づけたものだが『マクロメガ・シンソフィ』という想いに、私は現在とりつかれているところである。 いずれにしても、断片的なアイディアとしてのエネルギー史観を、次の世代がひとつの学問として集大成するヒントとして、本書が批判的に読まれ、活用されることになれば、大変嬉しいと思う次第である。 最後になったが、このブレーンストーミングの記録を読者と結びつける上で、多大な努力を注入された東明社の吉田寅二社長の熱意と洞察力に敬意を払うと共に、ホモ・サピエンスとしてのわれわれが遭遇している激動の現代の行く手が、果たして、オメガ・ポイントの方角であるのかどうかを注目し続けたいと思っている。 対談著の横顔 松崎弘文日木を離れて海外生活を約四半世紀、カナダボケで日本国内の過酷な生存競争にはとても参加でさない日本人が二人、ロッキー山脈のふもとで、故国を遠望しながら論じた社会批判、常識に対する懐疑の集大成がこの本である。 さまざまな事情で、対談開始以来四年が経過してしまったが、中味はその時のテーマを忠実に再現しており、アメリカに住み、時どきカナダを訪れる藤原さんのぺ−スで幾回もブレーンストーミングを繰り返してきた。経済学に関してのやや固苦しい総合論を含め、対談の編集は自称対談作曲家の藤原さんが担当した。
藤原さんは、多数の著作を通じ日本では知る人ぞ知る石油の専門家である。私は高度成長以前の二十五年ほど昔に奨学資金とアルバイトのお陰でアメリカで学位を取り、カナダの大学を中心に、四半世紀マーケッティング・マネジメントと国際経営を教えて来た、毒にも薬にもならない存在だと自認している。 フランスのグルノーブル大学で学位をとったこともあり、藤原さんは流暢なフランス語を話すし本格的なアルプス派のアルピニストで、『山岳誌』という山の著作もある。私もフランス語は何とかこなせるし、山歩きもだいぶやったので、二人には共通点がある。 欧米社会を内部から見る機会や、アメリカ的な物の見方を教えてくれる友人にも恵まれてきた。日木と欧米とを比較する上では共に有利な立場にあるので、日本では余り知られていない話や、こちらでは常識化している考え方もこの本にはだいぶ紹介してあるはずである。 共通点が多い二人とはいえ、対立点も多く、流行のマーケッティング用語でいう差別優位や差別化の点から見ると、藤原さんは学究的な肌合いの持ち主であり、大学生活の長かった私は、既成の学問的秩序への懐疑論者である。 実務的な面では、藤原さんは本場のアメリカで石油開発会社を幾つも経営するビジネスマンで、キャピタリズムの此右であるアメリカでの実務に砦精通しているだけでなく、余暇を活用して実に精力的な文筆活動を展開している。専門が地質学であり、長い時間と地球的次元で物を見なれているせいか、彼は人類や文明史、現代文明論にかけては実に独骨の考え方と問題意識を持つ科学者である。最近では、ペパーダイン大学総長顧問という肩書きまで身につけ(ペパーダインは日本の慶応みたいな大学)、アカデミーの世界に片足を踏みいれ、カンサスとテキサス、それに南カリフォルニアを足場に実に多彩な活動を展開している。漢学の素養は高校時代以来のものらしく彼は非常な勉強家である。 それに対して、私は大学院時代に、自由競争の親分であるミルトン・フリードマン直伝の経済学の教師から、フリードマンの講義ノートをもとに経済学原理を習った経歴の持ち主で、その頃からすでに私の純粋理論への疑問が発生したらしい。 今はやりのフリードマンの説は、他の経済学説よりはるかに現実的だが、経営の経験のある眼で見ると、余りに机上の空論的なのは原点がおかしいせいだろう。 理論は数学的に余りに単純化されていて、企業行動の動機も現実離れしている。一緒に経済学を習った仲間が皆口を揃えて「こんなものを勉強して何になるのか。まあ経営学の博士課程に入っているし、卒業試験の課題でもあるから、時間が無駄だが勉強する外ない。」といったことをよく言いあったものである。 今から二十五年前のフリードマンは異端と見なされていた。それにも拘らず、彼の考えが他と比べて一番現実的であったために、長い生命を保ち、現在ではその考え方が再確認される形になっている。 ケインズ流の考え方とは正反対であるのはもちろん、彼は小さな政府や自由企業および自由貿易を擁護し、政府補助金や公営企業、そして高い税金といった個人の自由を損うものに反対する立場を一貫して主張しつづけて来た。 私は教職についてから、イギリスの亜流であるカナダに来て驚いたことは、経済学者が政治の中枢にデンと構えており、それも、経済学という「たてまえ」を使って、政治活動という「ほんね」の自己宣伝や金もうけを容易にしていることだった。極論すると、経済学は一種の労働組合活動を推進するために使う公費や、税金の上にかける看板みたいなもので、中味はどうでもよかったのだ。 藤原さんの前著、『無謀な挑戦−ドームゲート事件と日本の運命』に指摘されたカナダの官僚制の無責任さや、カナディアニゼイションとかいった社会主義同然の国枠的な政策は、そういったお役所の仕掛けた小手先の器用さに頼る風土から出て来たと考えていいだろう。 自由企業のエッセンスであるマーケッティングと、自由貿易の親玉である国際経営が看板の私にとって、こういった社会組織は余り面白いものではない。そこで、経済学と経営学を勉強し直すと共に、カルガリー大学経営学部教授としての特権を生かして、学部内の他の学科や他の学部に詮索の手を伸ばしたものだった。 『教育の原点を考える』という共著でも論じておいたが、アカデミーという優等生的な枠組みの中で励む身にとって、余りに政治的な風土は快適ではない。一年前に大学人から実務の世界に転身しコンサルタントになり、今は晴耕雨読とまでは行かないが、夏は農業で植物や昆虫相手の生活があるし、冬は経営診断と原稿書きの生活を楽しんでいる。寒いカナダの冬だが、屋内でワードプロセッサー相手に、英語の作文をやりながら、自由人であることの価値を再確認している。この本の中味は、ビジネスマンであるのに学究肌で精力的に文筆活勤をける藤原さんと、経済学への私怨を長い間暖めてきた何でも屋の私の怪気炎集だが、決して無茶苦茶を言いあっているとは思わない。 藤原説によると、この本のアイディアをもとに論文をまとめれば、経済学賞はおろか、物理学賞や医学賞の分野で、ノーベル賞を取る人が次の世代の中から輩出してもおかしくないとのことである。そこに藤原史観のもつオメガ・ポイントの秘力があるということだろか。 私がこの本に託したものはもっと通俗的であり、日本をマクロメガ的に見る超常識論、「逆の逆は正なり」という「ケチのすすめ」に他ならない。中味が固くなったのは藤原さんのせいで、話を科学論的なロジックで筋を通そうとするためでもあり、私はむしろ、雑学をゴチャゴチャ述べるのが好さなタイブの人間であると付記して筆をおくことにする。
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