想念力の驚異
1996年10月25日初版発行 本体価格1553円+税
絶版
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プロローグ
人間の寿命はせいぜい六○年余りだし、個々の文明の生命でさえ数百年の長さである。
だから、それを越える規模のものに手を染め、自らの能力を越えた時間と敵対するのは、人類として大きな過ちを犯すことになる。しかも、その制御法についての保証もないのに、致命的な破壊力を持つ核エネルギーに手を出し、半滅期が数万年の放射能をいじりまわせば、それは一種の自殺にも等しい愚行である。
技術が人知や秩序体系の枠を越えたために、全生命の存在を抹殺できるだけでなく、生態環境である地球を破滅させかねない、そんな恐ろしい状況を出現させている。
こんな形で二○世紀の最後を迎えた人類は、世紀末の混迷を不安の気分で体験しており、不況の中で進行する金融秩序の混乱で、世相は落ち着きと方向感覚を喪失するに至った。
ある時代の世界観とは時間についての考え方だが、人類は二○世紀に技術集約型の産業社会を育て、スピードヘの挑戦を各種の機械を作って実現し、空間を部分的な時間短縮に結びつけた。だが、不老不死やタイムマシーンの夢に見るように、時間は相変わらず人類にとって最後の課題であり、哲学や科学が全力をあげて取り組んでも、時間の問題を解決するメドは立っていない。
二○世紀における世紀末という観点で見れば、灰色で不吉な印象を持つ雰囲気のために、平成幕末が代表している現在の混迷は、他力本願でペシミスティックな気分の源泉である。だが、夜明け前が最も暗いのは自然の摂理であり、闇は恐れずに突き抜ける対象だと考えれば、日の出に続く行動の準備をすることは、充実した生への布石になるに違いない。
二一世紀には新しい時代が待ち構えており、それが明るい未来を含むものであれば、その過渡期にある現在が突きつけた厳しい課題は、よりよい選択へのチャンスかも知れない。
そのような時代性が天を動かす契機を生み、塩谷先生に九一歳で本の執筆を命じて、処女出版を実現させたのであれば、これは凄い天命の発動だと言うしかない。
なぜならば、開業医として続けた診療所を八四歳の時に閉め、それ以降は旋行やゴルフを楽しみながら、本など書く雑な経験に無関係だった先生は、「俺には書けない」とか「俺は書かない」と主張し続け、専ら正心調息法を実践していたからである。
ところが、活字が大きく表紙にフラクタル模様を描いた、処女作の『健康・長寿と安楽詩』を上梓した途端に、立て続けに三冊も著作が生まれ、いずれの本も世に[乾天の慈雨]として迎えられ、先生は読者に絶大な生き甲斐を提供したのである。
それだけでも瞠目に値する素晴らしいことだが、その背景に字宙無限力の発動があって、先生はゴルフでも次々と新記録の更新を続けた。生涯に一度あったら幸運というゴルフのエイジシュートは、自分の年齢かそれ以下のスコアで一ラウンド廻ることであり、塩谷先生はエイジシュートにおけるチャンピオンである。
八七歳の時の最初のエイジシュートは、塩谷先生がコースを八三(四三/四○)で廻ったので、これは日本新記録の樹立になった。また、九二歳の時に再ぴエイジシュートを達成し、この時の九二(四九/四三)は世界タイ記録になった。そして、一九九六年四月二六日には九四歳のエイジシユートを実現したが、この九四(四六/四八)は前人未到の世界新記録であり、講も予想さえしなかった快挙だという意味で、塩谷先生は現代に生きる超人かも知れない。
この世界記録を先生が実現した前日に、私は墓参のための訪日で東京に到着したので、数日後に吉報を東明社の吉田社長から知らされた。折しも山陰地方を厳行中だったので、帰り道に熱海駅で吉田さんと待ち合わせ、塩谷先生のお宅を訪問して歓談が実現した。
塩谷先生の張りのある声は素晴らしいもので、この対談を吉田さんがテープから起こし、編集を私が担当し四章にまとめて本書になった。先生は私よりも大きな世界に生きているので、老賢人の前では私が青二歳に過ぎなくて、語りの言葉に意を尽くせなかった点を危惧するが、字宙無限力の素晴らしさを伝えたい気持ちは、読者の皆さんに分かって頂けるはずである。
前半部を構成している第一章と第二章は、塩谷先生が樹立した世界新記録を記念して、『財界にっぽん』と『LA International』の誌面を飾り、両誌の一九九六年九月号と八月号で活字になった。記事の転載を快諾して頂いた編集長各位に、ここで改めてお礼の気持ちを表明したい。また、残りの部分を付け加えて再編集して、難しい概念と図面に関しての補説をつけたが、これは解説を目的にしていないために、理解が困難なら読むのを飛ばして頂きたい。これは私自身への問題提起でもあるので、何度目かに読み返した時に分かればよく、次の発展のための足場になっているのである。
こんな身勝手な私の考えを含むとはいえ、こうして本書が出来上がった次第であり、情熱をもってこの本の誕生に取り組まれた、東明社の吉田社長の使命感と好意に深く感謝する。
最後になってしまったが、塩谷先生の快挙に心からの敬意を捧げ、世紀を飾った輝かしい成果を記念して、本書が誕生した喜びを読者と分かち合いたい。
一九九六年初秋カリフォルニアにて、藤原肇
目次
プロローグ
第一章 混迷の時代に豪快な人生を生きる
第二章 字宙無限力の活用と箱根ホテルで起きた奇跡
第三章 老いて健康を保つ字宙無限力の秘密
第四章 21世紀を動かす字宙無限力の源泉
付録 塩谷式正心調息法
付録
塩谷式正心調息法(前著『健康・長寿と安楽詩』より抜粋)
この呼吸法は正心と調息との二面から成っている。正心を裏とし、調息を表とする。
正心 一口で言えば、心の正しい使い方である。心の正しい使い方は沢山ある。その中から三つ選んである。そしてこれは日常茶飯時の心の持ち方とも言える。
(1)物事をすべて前向きに考える。
二者択一という場合は積極性のある方を採る。したがって行動も積極的となる。その結果失敗に終わった場合も決して悔いない。必ずそこには教訓が落ちている。将来のためになる種がこぼれている。
(2)感謝を忘れない
この心掛を持っておれば身の周りには、感謝することが当然なことが沢山ある。初めはさほどに思わないことでも、感謝の癖がつくと、ああ有難いなと心から感謝するようになる。すると感謝したくなるようなことが起こり勝ちになる。その心の波長に合ったことが自然と起こることになっているからである。また波長に合ったものが集まるようになっている。いいこと、嬉しいこと、為になること、健康も長寿も当然その中に入る。心の法則から言えば、笑う門には福来るというのは至言である。
(3)愚痴をこぼさない
愚痴をこぼしてよいことは一つもない。愚痴っぽい人には愚痴らずにはおられないような困ったことが起こりやすい。厭なこと、損になること、病気や怪我もそうである。心にしまってクョクョするよりも口に出した方がセイセイしてよいと言うことはある。この時はグチュグチュこぼすのでなく、朗らかに大きな声で笑いとばすような調子で話す方がよい。一度吐き出したらそれっきりもう忘れてしまうことである。ちょうどいい機会だから次のように自分に言って聞かせることである。人生に無駄は無いと、繰り返し言って聞かせる。
調息法 これは一種の腹式呼吸法である。
(1)姿勢
背筋を真直ぐに伸ばして座る。肘を直角に曲げて両手を組む。円い玉を両手で包むように組む。これを鈴の印と言う。両眼を軽く閉じる。座り方は正座、椅座、扶座(あぐら)、どれでもよい。また体の弱い人、老衰している人、病気で寝ている人等は仰臥でもよい。この時は両手は離して、体の両側に伸ばし、掌を下に向けて、床面につけておいてもよい。椅座の時に背を背もたれにもたせかけない。また両肘を肚掛にのせない。扶座の時は、座布団を二つ折りにして尻の下にいれるとよい。
(2)息法(呼吸法)
吸息、充息、吐息、小息、静息、とわかれる。
吸息(息を吸い込む)
鼻から静かに息を吸い込む。肺の下部(肺底)に充分吸い込む。普通深呼吸をする時は胸の上部に吸い込むが、これでは肺一杯に吸い込んだつもりでも、肺の上部は一杯になるが下部には充分満ち渡らない。肺は上部より下部の方が広く、空気が沢山入るようになっている。
充息(息を止めて下腹部に力を入れる)
充分吸い込んだ息を下腹(丹田)にウーンと押し下げる。肛門をキユーッと閉める。丹田に力を込めたままちょっとの間息を止める。息を止めている時間は人によって色いろでよい。数秒ないし十秒、苦しくない程度に我慢する。
吐息(息を吐き出す)
鼻から静かに息を吐きだす。腹の力を抜いて凹ます。充分に吐き切って小息に移る。
小息(普通の息)
普通の呼吸を一つする。
以上で一呼吸終わった訳であるが、これを二十五回繰り返す。
静息(静かに普通の呼吸をする。)
二十五回終ったら、丹田に軽く力をこめたまま、静かにゆっくりと普通の呼吸を十回する。これで一回の実修を終る。
塩谷式正心調息法の特徴はこの呼吸の際に、想念と内観を行なうことにある。
想念(心の力を使う)
吸息の間、字宙の無限力が丹田に収められた。そして全身に満ち渡った、と心の中で念ずる。
充息の間、全身が全く健康になったと念ずる。何か治したい病気があれば、その病気が治ったと念ずる。一つの病気を五回ずつ合計五つの病気を念ずる。治したい病気が五つなければ、治したい病気を念じてから、そのうちの特に治したい病気をまた念じる。治したい病気が一つも無ければ「健康になった」を二十五回繰り返す。
吐息の間、息を静かに吐きだしながら、体内の老廃物が悉く吐き注されて全身はきれいになった。芯から若返ったと念ずる。若い人は若返ったと念じない。全身がきれいになったとだけを繰りかえせばよい。
静息の間、想念を発しなくともよい。頑固な難病を持っている人は、その病気が治ったと繰り返してもよい。または自分で公案を作ってこれを念じてもよい。例えば「自分は大宇宙と一体になった」とか、「人類愛に燃えている」とか「短気が治った」とか、色いろ自分で工夫してもよい。何も考えないでいわゆる無念夢想の境地に入ることを目指してもよい。自分の自由時間であるからどう使ってもよい。この息法に慣れてくると、心がすっかり落ち着いて、いい気持ちになる。精神が透徹したようになる。またドッシリ落ち着いて、何事が起こってもビクともしないような、肝っ玉がすっかり坐ったような感じになったりする。人それぞれ色いろな心境になりうる。その時は気の済むまでやってよい。
以上で終わりであるが、一言つけ加えておきたいことがある。ここで使っている正心は心の正しい使い方であるが、正しい心という文字通りの意味もあるのである。
正心調息法は、姿勢を正しくするように述べてあるが、心の持ち方を正しくすることももちろんである。これは呼吸法を云々する以前の問題である。
それから二十五回やれない人がある。途中で疲れる人、飽きる人、苦しくなる人、そういう人は途中でやめてよい。そして間を置いてまた続けてよい。全部合わせて二十五回になればよい。また老人も疲れやすから適当に分けてやってよい。
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