『アメリカから日本の本を読む』から 松岡正鋼著 [春秋社・絶版] 一回目を読み終ったあと、カバーの図柄をぼんやりと一五分以上も眺め続けた本である。頭の中が白く乾いて、無闇矢鱈にすがすがしかった。空海という人問の存在を知り、場面としての生命の海が眼前に彷彿と拡がった。 それだけでなく、現役のエディトリアル・ディレクターとして活躍する著者が、私と同時代に生きるより若い世代であると知ったことが嬉しかった。文明の変革期であり時代の転換点に位置する現代は、本物の知識人が種として絶滅に瀕している時代だからである。 『もくじ』に続いて本文に入る間の黒いページに白抜き文字で、「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し」とあるのが、強烈なショックをもたらせた。 解説は本文中にあって、著者も肺腑をえぐられる印象を持ったようだが、『秘蔵宝鑰』の序にあるこの章句には、空海の決定的な生命観が籠っている。 彼の名の空が私の用語のドライウェアを示し、海が生命と結びついてウェットウェアを意味するとしたら、日本が生んだ不世出の哲人は、宇宙生命そのものを体現していることになる。 「空海は全存在学の思想系譜にこそ位置づけされるべき」と確信し、「空海ほどElan vitalを日本において主唱した思想家はいなかった」と著者は言い切る。そして、空海には《意識の進化》と《言語の進化》という二つの大きな視座があることにより、「生命の普遍性や言語の普遍性に対する信じられないほどの今日的考察がある」事実を確認した著者は、その背後にあるコトダマの底流にふれるために、エディトリアル・オーケストレーションの妙を最大限に発揮してみせる。 「生命が意識を持ったということは、ほぼ同時に言語あるいは記号系をもったということだ」に始まる、人類史と生命史の語り口は絶妙である。情報系の視点で捉えた生命史のパースペクティブは、実に広く深くダイナミックである。地質学を専攻にした私が大学四年を費して学んだことのエッセンスに相当するものが、僅か十数ページに抽出整理してあったので、私は感嘆の吐息をもらしたほどだ。 知識量を誇る単なる博識やIQの高さくらいなら、たやすく心を動かす私ではないが、そのレベルを超えて情報系の文珠を見た思いがしたので、私は目を見張ってしまった。 「思想は時代を横なぐりにする。しかし、空海は時代をタテになぐった」とか、「空海は人物そのものではなく、その奥にゆらぐキ一フメキにのみ感応できた」といった表現は、修辞を超えて物事の本質に喰いいる発想であり、誰にでも書ける文章ではない。 これだけ核心に迫る表現力を操る日本の文士に、これまで出会ったことがないが、『仮名乞児の反逆』と題した空海の青春譜は、まさに大河小説のエッセンスであり、甘露を含む澄んだ水質 と豪快な水量を、緻密な構成の中で描きあげている。 また、インドから中国に伝来した密教の物語りは、それ自体プラネタリー・ドラマの一部を構成するだけでなく、コスミック・シンフォニーの響きを持つ。 日本史もアジア史も思想史も、著者にとっては生命史の一部になっている。全体の明晰性を反映して細部まで透き通った水になり、読む者を目がけてノアの洪水のように襲いかかってくる水勢のダイナミズム。『空海のアルス・マグナ』と題して、『絶対の神秘』に始まって、『象徴の提示』、『儀礼の充実』、『総合と包摂』、『活動の飛躍』と並んだ表題を眺めているだけで、頭の中をコスミック・シンフォニーが鳴り響く思いが拡がっていく。 呼吸の芸術であるシンフォニーは宇宙生命の流れの韻律である。《ジュピター》として名高い第四一番の壮大な響きからすると、ニックネームのない交響曲四〇番は、私にとって《クウカイ》の名でもいいと思えてきた。第二楽章のアンダンテと第三楽章のメヌエットには、たゆたいのモチーフをたたえた《イロハ歌》が感じられる。モーツァルトの明るさが空海の冥さと、妙に整合していくのが面白い。 私はこれまで本書を二度読んだに過ぎないが、読むたびにより深い味わいを体験できたことからして、真言密教の開祖空海に対して、松岡さんが今後どのようなアプローチをし、どんな形で無言の対話を行間に埋めこんでいるかを探る楽しみがありそうだという予感がする。 奥行きの深いテーマ故に、私はこれまで著者と空海の世界の一部をかい間見ただけにすぎないかもしれない。それに、死ぬまでの問に更に何度となく読みかえし、そのたびに異った味わい方が出来るタイプの本だ、との印象も強い。しかも、一度と言わず何度でも、本書を読んでみたらいかが、と若い世代の人にアドバイスするのが心楽しく思えるのだから、素晴らしいではないか。
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