T 人生は節目で翔べ




 ――いま、日本人にとって、国家の枠組では、目一杯に成長した日本経済、国民生活を維持するには、資源・エネルギーや市場の確保のため、国際的な障害からどうして自分を守るか、という受け身のナショナリズムが強まっています。一方で、政府と企業が市民生活にますます影響力を行使するに従って、個人としてどう自分を守るか、というこれまた受け身の市民意識が高まってきています。

 八○年代は、たしかに内外とも危機感をはらみ、不安の時代です。日本と日本人にとって本格的な国際化が始まってはおりますが、この危機をうまく乗り切ることができるか、それにはどうしたらいいか、真剣に考えねばなりません。受け身ばかりでは厳しい時代を生きてゆけないと思うからです。
 藤原さんは、世界を舞台に、石油開発コンサルタントとして活躍されて、貴重な体験を重ねられ、その上に立って積極的に新鮮な発言をしてこられました。まず話を進める順序として、藤原さん自身の生き方、物の見方について具体的にお聞きしたいと思います。つまり、あなたが一人の日本人としてこれまでどういう生活をしてきたか、どんな価値観に従って、何をどうやろうとしているのか、それから始めてください。
 あなた自身の人生の節目をどのように考えてこれまでやってこられましたか。お聞きしますと、現在のように国際ビジネスの中で独り立ちした人間として、まるで一匹狼のように自由自在に活躍されるまでに、いろいろと興味深い経験なり考え方があったということですが……。



なぜコンサルタントか

 ちょうど現在は四〇代の人生というのを始めておりまして、すでに一年半が経過したので、四〇代の人生に関しては、持ち時間があと八年余りしか残っていません。孔子風に言うと四〇代は不惑の年代ですが、この一〇年間は自分の実力で石油ビジネスをゼロの段階から石油会杜の健全な育成にまで持っていかなければならない時代に当たっているので、それこそ戸惑うことなく着実に前進し、成果をあげていきたいと考えています。僕の仕事の内容について具体的に言いますと、ひとつは資源コンサルタントとして、世界中のお客さん達に資源開発についてのアドバイスをしたり、鉱区評価のような分野でのサービスを提供して、それをビジネス化しているのです。日本ではコンサルタント業というと、かなりいい加減な商売のように思われがちですが、国際杜会では情報が非常に価値あるものと評価され、その情報を総合する能力というか、判断力は何ものにも増して価値があると考えられています。そこで専門分野について卓越した能力を持っているという評価を持つコンサルタントは幾らでもビジネスがありますし、ビジネス自体が、有能なコンサルタントとパートナーを組まない限り効率よく機能しないという現実が生まれています。
 ただ日本が得意にしている重工業中心の産業社会というのは、一九世紀から二〇世紀前半にかけて地上に君臨した技術指向性の高い工業の発展段階に対応しているので、それほど卓越した外部のコンサルタントを必要としないでも済みました。ほとんどの場合、企業の内部に組みこんでいる技術者や特殊技能を持つ経営者で十分といえたのですが、ビジネスが多国籍化し、仕事の内容がより知識指向性を強めていく現代のようになると、どうしても世界的な規模で専門化しているコンサルタントの協力が必要になるのです。
 そういう意味では、八〇年代のビジネスを最もダイナミックにやっていくのはソフトウエアを商品化と結びつける産業であり、その中で最も成功するのは、それぞれの分野で最も優れた能力を持つコンサルタントを自由自在に活用する企業だと断言できます。これは別に目新しいことではなく、七〇年代においても六〇年代においても通用していたことですが、日本ではあまり一般化していなかっただけにすぎません。八〇年代の始まりと本格的な国際化への突入によって、日本でも本当に世界の一流として通用するコンサルタントが、大いに利用される時代の夜明けが来たといえるわけですね。
 こういったことを考えると、企業や組織の中にいる人間にとっては、どの仕事をさせる時に誰が世界で最も有能かということを知り、その人間を活用してビジネスに生かす能力を身につけることが大切であることがわかります。そういった能力を持たない人間が組織のトップになった時には、国際化の中でその組織は敗残者の立場に陥って破綻するに決まっていて、これからは戦国時代と同じで、実力者が活躍する時です。それも世界的な規模で各国の実力者同士が激突し、時には合従連衡するわけですから、一芸に秀でるためにも、何でも構わないからこれだけは誰にも負けないという何かを身につけることでしょう。そして、そういう何かがあるという自信が出来た時には、コンサルタント業として幾らでも独立できますし、二ヵ月コンサルタントとして働けば、企業の中で一年間仕事をするのと同じ収入がありますし、勉強に必要な自由な時間も生まれてくるわけです。いずれにしても八〇年代はコンサルタントが活躍する時代となるでしょう。


ビジネス・ゲリラ時代が訪れる

 それとともに企業家精神に富んだ人々が、自分の創意と熱意に基づい自分自身でビジネスを始める上で、八○年代は七〇年代よりも大きな可能性を秘めていることは疑いありません。それは巨大化しすぎたことによって活力と柔軟性を失った大企業がどんどん行きづまり、その間隙をぬって小さくとも機動性と創意を持った集団が台頭する時代が本格化しているからです。アメリカでは、この傾向は1960年代から着実に定着し、日本でも七〇年代後半からその意向が顕在化しています。いわゆるビジネスにおけるゲリラ時代の訪れでして、日本ではいまだ本格化するに至っていませんが、実業界におけるベンチャー・ビジネス、そして、あえて虚業界とは云いませんが、水商売の世界におけるフランチャイズ制がそれです。ともにソフトウエアというビジネス・ノウハウを武器にして、やる気を持った小集団が創意と挑戦の気概に燃えて、既存のビジネス領域に進出を企てているのです。最初のうちは困難に遭遇して苦しいことも多いですし、涙をのんで敗退しなければならないかもしれませんが、幾ら大きなものでもマンネリに陥っていれば、必ず新進気鋭の者に隙をつかれるものです。それに組織が小さければ経費は最少限度で済むので、いざとなったら耐久度は抜群ですから、とことんまで耐えぬけば、いつかは微笑む時を迎えることが可能になります。しかも、自分でビジネスをやることによって自らの創意を生かし、実力を試すことができたら、人生これくらい楽しいことはないし、これ以上の生き甲斐を感じることはありません。
 というわけで、コンサルタントとして他人に知恵をつけて快適な人生を送るのもひとつの生き方だが、人に与える知恵を自ら使ってビジネスに生かすのもやり甲斐があると思って、ついにアメリカ人のパートナーと一緒に、今度は石油ビジネスの本場アメリカに乗りこんで、石油開発会杜の経営を始めて現在に至っています。
 まだ創立以来一年半しか経っていませんが、会杜の内容は資本金の量や従業員数で評価するのではなく、スタッフの質の良さとビジネスの内容によって決まるという意味からすると、すでになかなかいい線をいくに至っています。米国に進出した日本の大企業がテレビの組立工場を作って数百人のアメリカ人に仕事を提供しているという計算に従えば、僕がもう一人のアメリカ人と共同でベンチャー・ビジネスを始めて、年間二〇本近くの試掘をして石油開発をビジネス化すれば、やっぱり年間数百人のアメリカ人に新しい仕事を供給することになります。
 その上、石油産業というのは地上最大の産業であり、やり方さえ間違わなければ、石油ビジネスほどもうかるものは他にありません。今のところ創立間もないので、まだ海のものとも山のものとも言いかねる段階ですが、あと一年半くらいで目鼻がつくことでしょう。それに石油は「黒い黄金」と呼ばれ、全世界が一滴でも多くの石油を欲しがっている状況は、ここ一〇年以上続きます。だからあと八年半の持ち時間のうちに、氾濫する黒い黄金の中に自分の石油会杜が水没して、嬉しい悲鳴をあげることになる可能性もありうるわけです。
 あるいは鳴かず飛ばずで終わってしまったり、破産の憂き目にあって、あのセーヌ河の新橋(ポン・ヌフ)の下の仮住まいということで四〇代を終えることになるかもしれません。それでも一生懸命にやった上で出た結果がそういうことであれば、「青山骨を埋むべし」であって、これまたひとつの人生と言わなければならないでしょうね。


四〇代へのひと区切り

 いずれにしても、こんなシナリオを四〇代の人生と考えますが、「盛年重ねて来たらず」と陶淵明が書いている通り、どのような生き方をしたところで時間は刻々とすぎていき、僕の持ち時間だけでなく朝露のような人生はあっという間に終わりのページになってしまいます。そういう意味では一日一日が無駄に出来ないし、読まなくてよかった本を読んだり、見なくても済んだテレビ番組に時間を割かないことによって生み出した余暇を使い、自分が繰り返して読まずにはいられない本と対話し、どうしても喋り合いたい人たちと議論する中に、四〇を過ぎた人間の人生があるのではないかというのが、最近の僕の心境です。
 もちろん自分の仕事としてのビジネスを通じて、その一部が生かし得るならば、こんな楽しいことはありません。そこに僕が石油開発会社とコンサルタント業の経営をするという二足のワラジをはいた人生をやっている真意もあります。
 ウィチタという日本人にはあまりなじみのないカンサス州の町で石油会社をやっている理由は、僕が過去一五年以上も世界各地で仕事をしてきた結果、この町に本拠地を置くことが石油開発ビジネスをやる上で一番有望だと判断したためです。わずかな資本でビジネスを始めても、石油発見の確率が一番高く、インプットする資本に対してアウトプットとして期待できる利益が世界で一番高いところがビジネスをやるのに最適であることは誰にでもわかり切っています。売上高の大きさなどという虚妄の数字に迷うことなく、利益率の大きさだけでビジネスをやっていけば、やりたい仕事だけを選ぶのはこちら側であり、しかも最終的には大いにもうかるわけです。
 僕自身、三〇代の一〇年間は多国籍企業と呼ばれる巨大な石油会社で仕事をし、別の意味で人生を楽しんできましたが、大組織の持つ実力と限界の中でいろいろな体験をした結果、もはや名誉のためのビジネスや体面のためにもうからない仕事もやらなければいけないという大企業の体質に、いささかうんざりした気持になりました。
 そこで新しい人生の節目である四〇歳を迎える四ヵ月ほど前に、機会があったので独立してコンサルタント業を始めました。この仕事はプロフェショナルとして、実に厳しい真剣勝負の世界で、それだけに勉強しなくてはならないのできついけど、自分に知識をインプットする上でやっておいた方がいいと判断したものや、こういう人と仕事をしておくと情報が得られると考えた場合、そういうことをやっておくのはコンサルタントとして財産作りの役目を果たします。だから二足のワラジをはいた生活をしていますが、僕のコンサルタント会社はカナダのカルガリーにあります。このカルガリーという町は世界第二位の情報センターなのです。世界第一はテキサスのヒューストン、第三は英国のロンドンであるというような情報については、日本人のほとんど誰も知りません。その辺に国際化が進んでいるとはいっても、日本がまだ本当の国際化の洗礼を終えていないという状況と、産業社会全体がソフトウエアを主体にした知識集約型への本格的な移行が始まっていない段階にある好例だと思うのです。
 僕自身このカルガリーという町の持つ情報的ポテンシアルに魅惑されて、過去一〇年ほどこの町に住みついてしまいました。しかも僕は昔から岩登りばかりしてきた男でして、自分の住む近所に雄大な山なみがないと落ちつけないという悪い癖がありますから、家族と家庭はカルガリーあります。そして、月のうち三週間はウィチタ住まいをして、残りはカルガリー住まいとコンサルタントとして世界をとび歩くぺースの生活です。カナダから米国へ通勤すると言っても、片道三〇〇〇キロの距離がありますが、こういった長距離通勤が日常的になるというのも、八〇年代のビジネスマンにとっては、普通になるのではないでしょうか。僕の友人のアメリカ人にはカンサス州とカリフォルニア州の間を毎週往復して通勤しているビジネスマンがいますから、たとえ国境越えをやるにしても、僕の例などそう珍しいことではありません。現に僕の知人のあるオイルマンは、ダラス、ロンドン、シンガポール、カルガリーに家を構えて、明けても暮れても世界をとびまわっています。だから、そのうち僕の生活も飛行機の中で過ごす時間と地上での時間が逆転する日が来ないとも限りませんよ。
 あまり落ちつきのない人生になっても味気ないとは思いますが、われわれが生きている時代はすべてが非常に安易な仕組みになっていまして、「風蕭々として易水寒し」などという状況は全く存在しなくなっているので、どう苦労したところで昔の人の困難に比べたら、どうってこともないと言えるのではないでしょうかね。

 ――藤原さんは、そうやって現在は北米にたどりついて、新しい時代を切り開く形でビジネスマンとして生きておられるのですが、そのような人生航路をふり返ってみた時、いろいろと紆余曲折というか、遠まわりをしたり後もどりをしたりして現在に至っていると思うのです。その中で特に現在ビジネスマンとして世界を舞台に仕事をしている上で大いに役に立っている経験などがあったのではないか。そして、さまざまの経験の中で楽しかったり面白かったものよりも、むしろ失敗したり苦しんだものの中に人生を考えたり、あるいは行いを改める契機になったものが多く見つかるのではないかと思います。一体いつの頃から人生に節目をつける生き方をされたのかはわかりませんが、一応一〇年ごとに生きる方向を変えるというやり方をするというと、まず一〇代の時はどうだったのですか。


図書館に入学し学生運動で修業する

 若者の時代としての僕の一〇代は、ある意味ではありきたりでした。別の意味では、ちょっとはみ出し少年というか、平凡ではあったが個性的な生き方をすでに始めていたと言えるかもしれません。まず第一に文学少年でして、中学生の終わりの頃から独学でフランス語を始めたりしました。その動機は至って単純でして、フランス文学かぶれです。それも偶然アルフォンス・ドーデの『風車小屋便り』という短饗の中の『星』というロマンチックな小説に感動して、それを原文で読みたいと思いたったのです。高校では英語が正課でフランス語の授業がなかったので、放課後にアテネフランセや日仏学院に通ってフランス語を大いに勉強しました。
 このフランス語熱が僕の受験勉強にとって幸いしたり災いしたりしまして、結果的に二年も浪人しました。浪人した理由はフランス語のせいだけではなくて、高校時代から山登りに熱中したことと、高校三年の二学期に志望を大転向したせいだとも言えます。
 現在では大学は保育園化していますが、僕が受験しようとしていた時にも、すでに幼稚園化が進行していました。最初僕は大学で近代史を勉強するつもりでいたのです。ところが日本の大学制度では歴史学科は文学部に属しているのです。
 その頃の僕は多分に早熟なところがあって、哲学書や原論みたいなものをかなり読んでおり、非常に理屈っぽいところがありました。だから、歴史、経済学、政治学、法学、文学といったものは大学で講義をうけて学ぶものではなくて、図書館で学ぶべきものだという考えを持っていました。三〇〇〇年以上の人類の文明の歴史の中で、沢山の優れた先哲たちがいい本をいろいろ残してくれており、その中から学ぶのが最良である以上、大学ではなくて図書館に入学すべきだというのが歴史学をやるつもりでいた僕の結論でした。
 それでは、大学に入らなけば自分では修業できないものは何かというと、医学、工学、自然科学だということになり、結局自分に一番性にあったものという判断に従って、地球の歴史なら歴史に関係があるし、山好きの僕に最適だと考えて地質学をやることにしました。この段階で僕の一〇代の持ち時間は終わってしまい、次の二〇代の人生が始まるわけです。

 ――ちょうどあの頃は六〇年アンポの盛んだった時代ですが、日本中の犬学生が燃え上がった学生運動の中でいろんな体験をした頃に藤原さんはどんな生き方をしていましたか。登山熱にとりつかれていたといっても、まさか山ばかりに登っていたわけではないでしょう。

 僕は大学に入るよりも山岳部に入るために受験したようなものでして、当時学士山岳会が派手に活動していたせいで、僕は京都大学を受けて落ちたのです。それも受験から戻る途中で鹿島鑓を狙って、唐松岳の雪疵で落ちて足を痛めたために父親に山行が発覚してしまいました。運がいいことに二期校の埼玉大学には合格したのですが、入学してみると生活協同組合もないボロ大学で、僕は自治委員から全学委員にもなりましたが、政治的なことよりも実務的なことの方が好きでしたから、生協設立準備副委員長とか、予算委員長として専らそちらの方での修業をしました。その経験が現在の僕のビジネスの中でどれほど大きなプラスになっているか、はかり知れないほどです。
 現在財界に陣取っている老人たちは、学生運動が政治的に尖鋭化して反体制の急先鋒の役割を果たしているという理由で、就職の差別をしたり、学生運動を弾圧して潰してしまいました。しかし、これは長い眼で見るとリーダーシップの修業をする場を学園生活から排除したという意味で、実に惜しまれることだと思います。学生は学生で権力に反抗し、労働者は組合を通じて経営者と交渉し、経済人は財界を通じて政治に抵抗して、そこで初めて指導者達が育ってくるのです。世の中も対立関係の中でお互いを桎梏と認め合いながらやっていくところに緊張か生まれ、発展が結果としでもたらされると思うのです。
 政治的な抗争にしても経済的な利害の対立にしても、これはルールに従ってやっている限りゲームでして、たとえ喰うか喰われるかの熾烈な闘いをしても、ルール違反をすると国際社会では袋叩きの制裁をうけるのです。
 現在の日本が本当の意味で国際化し得ていないのは、このルールをわきまえようとしない態度と、ルールの存在を理解できる人たちが、政治や経済のトップに存在していないためでして、日本のミドル・マネージメントの人々にそれのできる人材が多くひかえているだけに、世代の交替が望まれるわけです。ゲームをやる以上、たとえ相手が敵対するにしても、その存在自体は感情を抜きにして認めなければならないし、相手をルールから逸脱させないように工夫するところに、創意と知恵が生まれてくるわけでしょう。短絡的に対立や競争をなくしてしまったのでは、本当に自由な社会は成り立ちませんよ。社会が正常な機能を発揮するためには、ある程度の束縛や桎梏があった方がいいということに、日本人はもう少し習熟しないと、八〇年代を生きるのはとても難しいと思うのです。
 ちょっと脱線しましたが、僕は一〇代から二〇代にかけての一時期、学生運動に参加して自分のリーダーシップを磨く機会に利用できたことを大いに誇りに思っています。それに僕は一つの党派の枠の中に埋没するほどスケールの小さい人間だと思わなかったので、自分の判断と責任で行動したため、全学委員会を除名になった経験もありますし、山岳部もサブリーダーで除名されています。この除名処分というのは、自分が正しいと判断した場合、自分自身の内部にある価値基準の防御でしで、外部からの圧力にも屈しないで耐えることを学ぶ上で大いに役に立ちました。鉄は熱いうちに打てといいますが、若い時に体験するあらゆるものは、できるだけ吸収するにこしたことがないという意味で、僕の二〇代は何でも見てやろうとともに、何でもしてやろうの一〇年間として始まりました。


知識より見識を

 ――大学での勉強という意味では、学園生活はどの程度意義がありましたか。またそれと現在のビジネス・パーフォーマンスとの結びつきからすると、八〇年代に活躍するビジネスマンを育てる上で、大学のできることの中で一番重要なものは何でしょうか。

 僕の成績表を御覧になればわかることですが、おそらく僕は大学始まって以来最低の成績で卒業した学生の一人ではないかと思うんです。授業にほとんど出席しないので、出欠をとる先生の講義は全部不可です。出欠をとらなければ生徒が受講しないようなものは出る価値がない思っていましたし、実力のある先生は、試験を受けるだけで幾らで優をくれました。僕は授業よりも図書館の方が好きで、専ら図書館で原論みたいなものばかり読んでいました。必須科目は可をとればそれで十分だと思っていましたし、『地質学雑誌』という専門誌を明治の初めの創刊号から全部通読したら、それぞれの時代の論争点や学問の傾向わかってしまいました。論争の第一線にも立てない先生から講義を受けるのが馬鹿馬鹿しくなって、三年になるとともに、よその大学の先生達に面白いテーマを提供してもらい、勝手に卒業論文に取りかかってしまいました。別に僕が優秀だったわけではなくて、これは一人の青年が全力を出して勉強すれば、四年制の大学の授業は二年半でマスターできるくらい、内容が希薄だということです。それはどこの大学でも同じことで、旧帝大系なら少しはましだということもないのです。努力すれば二年半で物にできる過程を四年もかけてやるとすれば、優の数が幾つあろうと実力とは無関係ですよ。人生二万五〇〇〇日前後しかない持ち時間を考えるなら、この時期は大いに読み、何でも体験し、しかも知恵を持った老人に沢山めぐりあっておけというわけで、いろんなお寺の老師を訪ね歩き、穂高で岩に登り、卒論で野外調査をしている間に大学生活が終わってしまいました。僕が卒論をやった場所は長野県と群馬県の境目の十石峠の信州側で、長野県南佐久郡大日向村という所です。そこは秩父事件の落武者が信州へ逃れ出た時に通路になりました。そこに一〇〇日以上も滞在して仕事をしたことが、今度はフランスヘ行くきっかけになったのだから人生は面白いと思うんですね。
 大体、長野県は東京の裏庭でして、地図で見ると埼玉県を挾んですぐの隣です。ところが東京から長野に行くには碓氷峠か甲府経由しか道がありません。そこでひとつ秩父山脈を標高一三〇〇メートルくらいのところでちょん切って台地にしたら、長野と東京はひと続きになると思いました。日本で発生しているあらゆる問題は土地の不足に由来していて、国土の八三%が耕作不能で工場も作れない山岳地帯だからです。一九九〇年代の日本の国家計画の主題のひとつに、国土改造が登場するに違いないけれど、土建屋に山を切らせる仕事をやらせたら、日本列島は目茶苦茶になってしまう。だから誰かがその学問的な裏づけになる仕事をしておく必要がある以上、将来はそちらへ進もうと考えました。なにしろ日本は地質学的には非常に不安定なところで、アイソスタシーといって地殻が隆起したり、地震が起きやすいので、やたらと山を切り取るわけにはいかず、構造地質学的なアプローチが必要だけど、日本にはその専門家が一人もいないのです。
 ソ連のレニングラード大学にいい先生がいたので、そこに留学したいと考えて、ソビエト政府の給費学生試験を受けたのですが、落ちてしまいました。フランスのグルノーブル大学もその分野で非常によく知れていましたし、あそこはアルピニズムのメッカだから大いに山を登りまくろうということで一年ほど父親の経営する会杜で仕事して、資金稼ぎをやりました。日本的なセンスからすると父親が会杜を経営していれば長男の僕が跡を継ぐのは当り前ということでしょうが、僕には自分の性に合った人生を切り開いていく権利があります。第一僕は昔から頭の高い男でして、銀行に頭を下げて金を貸してもらうような人生はやりたくないと考えていました。子供の時から小さ企業を経営する父親を見ていて、新しいプロジェクトを始める度にカネのことで苦労をしているのを知っていますから、そんな人生をするくらいなら学者にでもなった方がまだましだという気がしました。それにしてもあの頃は若気の至りというか、向う気が強く大分無鉄砲な考え方をして、どんどん実行に移しましたが、それが案外役に立っているというか、いい決断になっているんですね。
 大学というところは青年達に原論のようなどっしりしたものを徹底的に読ませ、勉強の仕方の基本と、曲がりなりの洞察力でもそれをつける機会を与えることと、リーダーシップを習得させることができるなら、それで役目は果たしていると思います。このごろのように複雑化した産業杜会が要求する専門知識というのは、学問的にはマスター課程を終わった程度の水準のものが要求されていますし、マスターやドクターの肩書があればそれで済むといった時代でもありません。学問の進歩があまりにも早いので、大学で習った知識の大半は五年以内に時代遅れになることから言えば、若い頃に大学で何を専攻したというのは能力を計るひとつの目安にはなっても、決め手にはなりません。そうであれば、大学生は知識を身につけることをやるのではなくて、見識を育てるためにエネルギーを有効に使うのがいいのではありませんか。そうすれば、社会に出てから対人折衝や生涯教育を通じて、今度は品性を高める努力と見識を更に磨くことに専心できるんじゃないかと思うんです。実は僕はビジネスで忙しくやっていますが、いまだに大学の夜間部に時々顔を出して、講義やゼミに参加したりして、頭脳の老化を防ぐために利用しています。大学は若い人には不可欠な場所ですが、中年の人間にも老人にも利用価値のあるもので、もっと開放されなければいけないという気がします。


何でもしてやろう

 ――それで今度はグルノーブル大学へ留学された。そのフランスでの生活体験を通じて、藤原さんが日本人であるということを強く意識しなければならない場合がいろいろあったと思います。それは何も留学生だけのことではなく、海外に駐在員として派遣されたり、出張で外国に行く場合にも体験することですし、国内にいて外国の人を相手にビジネスをやる時にもありうることでしょう。

 大体、僕は過渡期の人間という感じがするのです。昔は、将来は国家を背負っていくために、ある学問の成果を日本に持ち帰るとか、欧米の国家機構に負けないものを日本に完成させるために国がエリートの卵を選んで留学生として派遣した人材や、ブルジョアの子弟が国際的な見識を身につけるために遊学半分に外国生活を体験するというのが、留学生のほとんどでした。
 僕のまわりには官費の留学生や親からの仕送りで優雅な遊学体験をしている日本人が何人かいましたが、ピッケルと登山靴を持ってグルノーブルにやって来て、大学に登録する前にフランス山岳会員になったなどという風変わりた男は、留学生の異端児みたいなものでした。それでもフランス語に関しては中学生時代からやっていたし、日仏学院ではカトリックの神父からフランス語で講義を受けていたから自信もあったのに、大学院の授業に出てみると自分の実力不足を嫌というほど思い知らされました。要するに自分がすでに知っていることについて先生が喋っている時にはよくわかるが、全く新しいことについて説明されると、一体何がどうなっているのか見当もつかず、五里霧中どころか百里霧中といった感じなのです。しかも、日本では論理的思考法に従って、相手を説得する目的で文章を書くとか、討論を楽しむために自説を否定する側の立場に立ってものを検討する訓練を受けたことがありません。だからそういう方法で思考の多様性を訓練するフランス流のやり方に圧倒されました。単層構造的で直線的な発想法しかできない自分に日本人としての限界を感じて、大分動揺しました。
 今にして思うと、あの時の僕の困惑と同じものを、国際化を前にした日本が国をあげて体験しているといえるのでしょうね。それはある意味で自分を中心にした独りよがりの判断と、希望的観測をいつの間にか事実と誤認してしまうという、島国根性に由来する主観的文化主義とでも名づけたらいいものが、外部世界と接触してショックを起こしていると言うべきかもしれません。
 その一例としてこんな体験をしました。その頃の日本は黒四とか秋葉ダムを建設しており、世界一とか世紀の快挙だとか宣伝していました。僕も日本のダムエ事に関しての実力は世界一だと信じて、胸を張るというか誇りに思っていました。ある日、グルノーブルにあるソグレアという会社から電話がかかり、うちの会社のエンジニア達と議論してもらいたいと言ってきました。その会社は日本でも埋め立てに使うテトラポットの特許を持っていたりして、水に関するシンクタンクとして世界一なのです。そこへ行って僕が発見したことは、日本のダムのほとんどはこの会社に地図や資料を送って、基本設計をやってもらっていたという事実です。それまで僕は日本は大した国だと信じきっていたのですが、一番大切なソフトの部分は外国に依存していて、土木工事のような労働者を大動員する部門しか担当していないとしたら、これはとんでもないダム帝国だと思って、自分がこれまで実像だと思ってきたものの中にもかなりの虚像があると反省しました。
 国際化を通じて日本人が一番悩まなければならないのは、この実像と虚像の乖離現象ですよ。世界の立場から情勢を分析し、世界で通用している水準で考えて、果たして日本はどうなのかを判断していかないかぎり、独りよがりになったり、進路を間違えたりすることになるのじゃありませんか。
 僕自身が現在の日本が直面しているのと同種類の困惑に陥っていた時に、偶然グルノーブルに立ちよった日本人が、小田実が書いて当時ベストセラーになっていた、『何でも見てやろう』という本を見せてくれました。これを読んで啓発された僕は、小田さんが何でも見てやろうの世代なら、僕は何でもしてやろうの世代として生きなければならない。ひとつ二〇代の残り時間は何でもしてやろうに徹して、あとになってやり残しがあったと悔まないように生きようと決めました。そこで手当り次第あらゆるフランス人のグループとつき合ってみました。王党派、ナポレオニアン、共和主義者、カトリック、社会民主派、マルクス社会主義者、プルードン社会主義者、共産主義者、毛沢東主義者、反税同盟、ブルジョアサロンといったあらゆる党派の人々の集まりに顔を出してみました。パリの商社で通訳のアルバイトも体験したり、フランス山岳会の記念山行にも参加して、大いに愉快でしたよ。
 グルノーブルに次いで札幌が冬季オリソピックの開催地に決まったあとでは、札幌市からは駐在代表を頼まれるし、グルノーブル市からは札幌担当責任者の役目をまかされて、いろんな興味深い体験をやったわけです。しかも六七年のプレオリンピックでは、僕自身が日本チームの一員として、リュージュという木ぞり競技に参加するといったはしゃぎようでした。なにしろ日本の代表自体が未経験である以上、岩のぼりをやってバランス感覚が優れている僕の方が上手なのはわかりきっていますから、何でもやってやろう精神には格好です。おかげでオリンピックにまつわるさまざまな潮流や駆け引きが手にとるようにわかって、これはいまだにものすごい僕の知的財産です。
 ヨーロッパの炭田にもぐって切り羽で議論することを得意にしていたせいで、そのうち日本の商社の石炭に関する仕事は僕が一手に取り扱うことになり、一種のパートタイムのコンサルタントみたいた存在になりました。もっとも現在のコンサルタント業とは段違いでして、それほど好き勝手を言える立場にないとはいえ、金では買えない体験が増えていきました。アフリカの資源開発もいろいろ手がけたし、CIAがらみのクーデター事件など、本にまとめたら面白い冒険小説になりそうな場面に遭遇しているうちに、段々と二〇代の持ち時間も残り少なくなったという次第です。


禁止の人生

 一九六八年の冬季オリソピックの時は、グルノーブル市のオリソピック・アタッシュになって、日本関係を一手にまかされて、外交官の仕事と似たような体験をしましたが、これが人生にとっての新しい転機をもたらすきっかけを生みました。オリンピックに関係してグルノーブルに集まった各国の名士の中には、知恵のある老人がかなり混じっていて、そういう人たちと成り上がり者や機会主義者を見比べているうちに、ある重要なことを学びました。
 それは、何でも見てやろう、してやろうを、人生の若い段階で試みるのは構わないが、そういう生き方は必ずどこかでひと区切りすること。そして、次には、興味を持ってはいけないことや、してはいけない事柄に関しては、いっさい手を染めないという人生を歩み出さない限り、屑籠のような人間として一生終わってしまうという教訓がそれです。なにも阮籍のように白眼をむき出す必要はありませんが、対座して相手に微笑している時でも、話題によっては自然に耳に蓋が出来たり、ものによっては相手に悟られないで眼に幕がかかるような人間を作れということでしょうか。僕のように人一倍好奇心が強く、人づきあいのいい人間にとっては、実に難しい注文ですが、三〇代の人生ではそれをやってみようかなという気持ちになりました。そのような生き方をやりとげるためには、虚業ではなく正業につかなければいけないし、そうなるとコツコツと真面目に仕事をやるエンジニアか科学者といった職種の中で出発するしかない、と諦観せざるを得ません。多少山っ気があったにもかかわらず、そこで一歩後退しまして、とりあえず博士課程だけは一刻も早く片づけてしまおうというわけで、昼と夜を逆転させて、まるで幽霊のような顔色になりながら論文書きに精も根も使い果たしたのがこの時です。途中で六八年の五月事件もありましたが、とにかく論文の公開審査もパスすることができ、いよいよ杜会人として働くことになったのですが、水のシンクタンクであるソグレアという会杜に辛うじて入ることができました。
 日本に戻れとかアフリカに進出する日本の企業で働かないかという話もありましたが、どうせならいいソフトウエアを持っている外国の会杜にもぐりこんで、使えるノウハウを全部学びとりたいという、いかにも日本人的狙いを持っていたのを見ぬかれたせいか、なかなか自力ではその会社に入ることが困難でした。それでも、いろいろな人の長い手で押してもらった結果、どうにか目的を果たしたものの、わずかの研修のあと、サウジアラビアに派遣されてしまいました。この時の体験は一冊の本になるほどの内容を持っていますが、それは別の機会にゆずるとしましょう。僕の仕事は首都のリヤドが必要とする水を掘るための、ボーリングの現場監督役ということでした。
 その頃のサウジアラビアはまだ石油大国ではなく、ヤマニだって石油大臣になって四年目くらいの駆け出し時代で、ファイサル国王が陣頭指揮に忙しかった時代です。日本人も時たま商社マンがベイルートからやって来る程度で、多少パイオニア的な気分と出稼ぎ根性の混じった気持で、現代における一三世紀の世界ともいえるサウジアラビアの生活を二ヵ月半ほど楽しみました。ここで皆から、これからは石油ビジネスが面白くなると、仕事替えをすすめられたわけです。しかし、修業をするなら世界の第一線でやらなければいけないし、サウジアラビア政府の外人顧問では大した勉強にならないので、フランスに戻って会社をやめ、結婚をしたところで二〇代の持ち時間が終わってしまったという次第です。三〇にして立つと言いますが、この時の僕はまだよちよち歩きする程度でして、とても独り立ちするところまで達していませんでした。


待遇で人生は決められない

 ――それでいよいよ三〇代の人生が始まって、石油ビジネスの世界に関係を持つわけですが、外国で日本人が仕事をみつけるのは大変だと思います。どのようにして外国で職を探すのかという秘訣や、どうして日本の企業に勤める方向で考えなかったのかという点も興味があります。特にこれからの日本の企業は国際化に備えて、内部の人材を国際派ビジネスマンとして育てるだけではなくて、外国人や、海外の大学を卒業してよその国の文化について熟知している若い人材をどんどん採りこんでいく必要が日毎に高まっています。そういった問題を考える時、日本の会杜の側での対応の仕方や、機構面でいろいろ変えていった方がいいと思われる面や、この点は更に強化すべきだという注文があるのではという気がしますが、いかがですか。

 石油ビジネスが地上最大の産業だと言われ、エコノミストが数字を並べたてて、売上高や取引量についてああだこうだと言ってますね。しかし、僕は石油産業が二〇世紀における王者になった背景には、文明の次元での産業社会の発展段階が大きく関係し、知識集約指向性の中にその秘密を解く鍵として隠されているのではないか、という予感がしました。だから、僕はその秘密の鍵について探検しようと考えて、石油産業の中にもぐりこみたかったのです。日本には本物の石油開発会社と呼ぶに値するものが皆無であることは、中東の生活体験を通じて十分に心得ていました。それで日本の会社には全く関心がなかったわけです。しかし、ヨーロッパやアフリカで鉱山開発や資源探査の仕事をした経験があるので、日本のお役所、鉱山会社、商社から仕事をしないかという話は幾つも来ました。でも、そのほとんどは待遇をどうするということで、僕にこの仕事を担当しろとか、まかせるという申し入れではなかったのです。
 人間が仕事に取り組む時に待遇を中心に考えると修業にはなりません。あり方として静的な状況に過ぎない"待遇がいい"ということは、更に成長しなければならない人間をダイナミックな側面から見た場合、"価値あるもの"と考えて疑ってみなくて果たしていいものだろうか。仕事を与えられ、その結果を評価してもらうというタイプの受け身の人間にとっては、待遇はひとつの満足感をもたらすものとして価値の尺度に使えるかもしれないが、外面的成果にすぎない待遇は、自分の内面的価値である実力とは無関係な存在である場合が多い。こう考えて、人生の出発点を待遇で決めること自体おかしな発想だ、と僕は大いに反発を感じたものです。ことによると蟷螂の車轍に当たるということだったのかもしれませんが、新卒の大学生達が待遇のいい会社や初任給の高い有名会社に列をなして押しかける、という新聞や雑誌の記事を見るたびに、自分がかなりのツムジ曲りだったのかなあと、あの時分のことを思い出して苦笑してしまいます。


正規軍の時代は終わっている

 それにパートタイムのコンサルタントとして三年近く商社の仕事をしたおかげで、日本の商社の持つ限界と悩みについて、十分観察する機会に恵まれたのは有難いことでした。本当の意味でのテクノロジーとソフトウエアを持ち合わせない商杜の存在というのは、あくまでも過渡的なものでしょうね。しかも多国籍化しえないという機構上の特質によって、ゲリラ化と機動化に特徴づけられる八○年代には商社のポテンシアルは著しく低下するはずです。こんな予想が、一〇年以上も早い段階に出せるほど時代の変化が激しく、商社の体質改革は立ち遅れていたのです。
 それはちょうど国民政府軍の軍事顧問としてドイツからやって来たゼークト将軍が、鍋を背負った素足の中国兵を相手にして、連戦連勝だと勝ち誇っている日本陸軍を目撃したのと同じような印象だ、と言ったら生意気でしょうか。当時のドイツの国防軍はトハチェフスキーの機甲師団思想に対抗して、パンツァー師団の構想を固めていたのに、中国大陸の日本軍は普仏戦争時代と同じように馬に乗り馬車を使って戦争をしていたからです。
 日本の産業界がいまだ十分国際化していないという状況と、国際社会に開いた限られた窓口を独占していた商社という関係からして、日本の内と外に落差があれば、商社のダムは包蔵水力のポテンシアルを誇れます。でも落差がなくなれば、同じ水量からより多くの付加価値を生み出すためのソフトウエアが必要です。しかもゲリラ時代の到来とともに、正規軍の戦術はその有効性を著しく低下させているのです。
 こんなことは部外者である僕にも読みとれたことですから、時代性に鋭敏な感覚を持った一部の商社マン達はいろいろ思い悩んでいましたし、真剣に転職を考えていた人もいます。特にエンジニアリングやサイエンスをバックグラウンドに持つ商社マンで、鋭い問題意識を持つ人ほどこの傾向が強かったのが、今でも印象に強く残っています。
 ちょうどこれは戦時中の日本の陸軍や海軍の中で、合理的思考と客観的な判断力を持つ一部の将官達が、戦争遂行の馬鹿さ加減に心を痛め、思い悩んだ状況があったのと全く同じです。日本と敵対する国々との国力の差を比較し、八紘一宇という神がかり的な妄想のために、延びきった補給線を守ることだけに日本の持てる力を全部投入することが、いかに非能率なことであるかは、自明の理でした。巨大な正規軍であったが故に、日本の陸海軍は自らの重みに耐えきれなくなって壊滅しましたが、商社が現在同じ道を突き進んでいます。そして、同じように日本中の会社がより大きなものを目ざして定向進化を続け、白亜紀末の恐竜や第四期末のマンモスのように巨大化へ突き進んでいて、危険きわまりないことです。巨大企業のいいところは、人生の駆け出し時代にいろいろな現場を体験し、仕事の基礎的なトレーニングを施すことと、億という単位の金額にビクともしなくたる金銭感覚を培うくらいのことです。自分の実力で幾らでもビジネスがやれる人には、長くとどまる職場ではないことは、かつて巨大組織のエリート社員で、その後より小さな企業で思う存分にやったり、自分で独立の事業を始めた人人が口を揃えて言っています。


下から見れば見えてくる

 そのようなわけで、僕は日本の企業に横すべりはしないで、とりあえずはヨーロッパ系の石油会社の仕事ぶりを探検するために、油田地帯を仕事をしながらめぐり歩くことにしました。
 自分の肩書を使って目標の会社に仕事を求めていくのは、正攻法のアプローチです。しかし、そういったやり方をせずに間接アプローチをするのが最も有効であり、昔から急がばまわれと言っていますね。一見遠まわりに見えるものに近道があるのを、山登りによって体験的に心得ていましたから、僕はまず仕事を始める時には、コントラクターという下請け会社に入ることにしています。とりあえず暫くの間は、自分の肩書きや実力について忘れ去るのです。自負心や挑戦の気持を殺して、一番下積みのところまでおりると、どこの会社の仕事でもやれるというグラウンド・フロアーがあって、僕のような石油開発では井戸の掘削を監督するウェルサイト・ジェオロジストがその仕事です。軍隊で言えば分隊長か小隊長程度の役割で、一日一二時間労働ですから、あまり楽ではありません。この仕事をしながら雇い主の石油会杜を下から眺めると、いろんなものが見えます。こんな男が現場監督の会社は駄目だとか、この会社はこんな所で手抜きをしている、あるいは、こんなに厳格に各プロセスをしているが無駄じゃないか、といったことがわかってくるのです。そうやって仕事をしたあとで、この会社ならある程度の期間仕事をしながら修業してみようかと判断して、仕事を申し込みに行くのです。もちろん断られる場合も多いです。特に大手の会社は雇用担当の専門家がいて、履歴書だけを見て、現在空席はないから、そのうち欠員ができたら連絡する、という態のいい逃げ口上で追い払われるのがオチです。その時は、自分が働く場合に上司になる人を捜し出して面会し、自分はこれだけのことができるし、こんなことをやりたいと希望している、と申し入れるところまでやる必要があります。欧米の企業の多くは、日本の会杜のように一定時期に新入社員を大量に採用するというやり方をせず、随時必要に応じて人間を雇う方式をとっていますし、能力とやる気を持つ人材に対して慢性的不足状態に陥っています。就職にしても転職にしても同じで、仕事は与えられるのを待つのではなくて、自分から捜し求めていくものです。人間や本に出会いがあるように、求めることによって仕事との真の出会いが、人生には二度か三度はあるものでして、若い時はそれを求めて移動すべきです。
 とにかく、こうやって現場でいろいろ仕事をやりましたが、フランスだけでなく、イタリア、イギリス、オランダなどの石油会社の井戸を転々としていた時、アラスカで北米最大の油田が発見されたというニュースで、これは何が何でも北アメリカに出掛けていかなければいけないという気持に支配されました。ある意味では、「火事だあ」という声で火事場にとんで行く野次馬心理に似ているかもしれませんが、実は前々から石油の本場米国にはいつか出掛けたいと思っていたのです。人間何かを修業するには一流の道場へ出掛けていかねばなりませんが、石油ビジネスに関してはアメリカこそ世界のメッカに他ならないというのは石油関係者の共通の見解です。
 同時に、今火の手が上がったノーススロープの次に火事場になる場所はどこかと調べてみると、どうやらカナダ領の北極洋周辺ではないかと見当がつきました。火の手が上がる前に次の火事場にもぐりこめば、火勢をあおることも火消しの役もできるということで、カナダの石油会社に就職の申し込みをしたけど、なかなか色よい返事が来ません。そこで、また現場にもぐりこむ仕事から出直そうというわけで、自動車に家財道具を積みこみ、その車を大西洋横断の客船に積んで、女房と二人で新天地のカナダに渡って来たという次第です。確かあの当時四〇〇〇ドルくらいの現金と買いたての自動車だけを持って、地球上で二番目に広いカナダに渡りました。モントリオールに三週間住んだあと、麦畑の中を一直線に延びるカナダ横断ハイウェーを五日間走り続けてカルガリーにたどりついたわけです。朝日が麦畑から昇り、時速一〇〇キロ平均で一日一〇時間近く走りつづけ、また太陽が麦畑の中に沈むという旅行が四日続いた時には、人生どこかに青山がなければ単調で発狂してしまうと感じました。それでも五日目の午後・地平線の彼方にロッキー山脈の山脈が浮かび上がってきたので感激しましたが、思いもかけないことから、この町に一〇年も住みつくことになってしまいました。


シベリアとカナダの兵要地誌

 ――そこでいよいよ新天地のカナダで石油開発の仕事をやられることになったわけですが、藤原さんのように日本人の水準からすると思いきりよく仕事を変え、住む場所を変える人が、カルガリーという町に一〇年間も住みつくというのは、余程の事情があったという気がしますが……。

 前にちょっとふれましたが、その昔ソ連に留学したいと思ったが、試験に落ちた経験を持っていて、僕は特にシベリアの資源に対して非常に興味を抱いています。それはアフリカで資源開発をやった体験をもとに考えれば、もしソ連がアフリカ圏を勢力下におくと、世界の鉱産資源の最も重要な部分を独占できて、それだけで世界支配が可能になるからです。
 僕の場合は、興味の対象が鉱産資源から石油にどんどん移行していますが、石油や天然ガスのポテンシアルから見ても、シベリアとソ連領北極洋というのは、ものすごい可能性を持っています。地球儀で見ますと、カナダとシベリアは隣り合わせでして、その間に広がっている北極洋は水たまりみたいなものだと考えると、実は地質学的には地続きと言ってもいいのです。だからカナダの地質に熟知して、地質構造や堆積環境の変化についての一般性を理解すると、地形図や地質図を見るだけで、その地域に秘められているポテンシアルを見ぬくカンが育ってくるのです。これを昔の軍人は兵要地誌と言い表していますが、参謀本部で地形図を眺めるだけで、そこでの戦闘配置図が作れなければいけないし、作戦を指揮できなかったら、一流の参謀とは呼べません。石油開発会社で開発担当ジェオロジストというのは、この参謀役に相当するプロの人間でして、僕はその仕事を大分長いことやったわけです。特に僕の場合は人工衛星の写真解析も特技にしていて、北緯六〇度以北の地域は地球的な規模で解析を担当しました。
 それからシベリアというのは日本でもシベリア開発といって大騒ぎされていますが、八○年代と九〇年代を通じて、大規模な資源開発が予定されるところです。ところが八○年代にシベリアで大々的に使われる技術というのは、実は七〇年代にカナダの北部地域で使われているものであり、米国の場合もカナダでテストしたものを大型化して、アラスカで使っているパターンがあるのです。だから現在カナダで使われている技術をマスターすることは、二〇年後にシベリアで使われる技術を知ることになり、その習熟は未来を現在において手に入れる王道だとも言えます。残念なことに日本人の大部分は、こういった間接アプローチの発想が得意ではないので、財界の老人達はシベリア開発というと、すぐにシベリアヘ群をなして出掛けていくのですが、実は方向が全くおかしいのです。ちょうど仏教哲学の研究をやりたいと思ったら、府釈迦様が生まれたインドヘ行くよりも、チベットや日本に行った方が原典も注釈書も多いのと同じです。
 そこでそういったものがあるカルガリーに陣取って、まずは定石通り下請け会杜の仕事から始めました。しかし、せっかく修業する覚悟でカナダまで来たのだから、もう一段落としてしまえということで、地質テクニシャンということで石油開発現場に行きました。最終的には石油会社のジェオロジストになりました。カナダに来て一〇年間に五つか六つ会社を変わりましたが、大体ビジネスの中で同じ会社に三年から四年いると、あらゆることがわかってしまい、全部マスターして、自分の色彩を強く出せないとわかったり、これ以上この会社で仕事しても時間が無駄だと判断した時には、思い切りよくその会杜をやめて、他の会社に自分を売りこみに行くのです。一般にはより大きな責任を与えられるので、より小さな会社に移動しますから、北米の場合は人材は必ず大から小に向かって流れます。
 また、われわれジェオロジストは、北米ではプロフェショナルでして、医者、弁護士、技術者、公認会計士と同じ扱いをうけます。だから、サラリーではなく年俸契約でして、自分はこれだけの仕事をこれまでやり、能力はこれくらいある。そこで、これくらいの権限と責任を与えてくれれば、年俸これだけで仕事を引きうけてもいい、と自分を売りこみに行くのです。会社に入ってみて、仕事のやり甲斐のない組織だとか、自分の上司が無能で救いがないと判断すれば、辞表を出すだけです。また会社側が無能な人物だと判断した場合には、二週間分の賃金の前渡しをして、そのままお払い箱で終わりです。会杜をやめる時に地図や書類といった物を持ち出せば、それは石油ビジネスでは貴重な情報ですから、訴訟される場合があります。でもソフトウエアは人間と共に自由に移動するので、そういったものを目当てにスカウトされる場合もよくあります。しかし、特定の情報だけを狙ってスカウトする場合は、情報を提供し終わった段階で利用価値はなくなり、棄てられるばかりですから、情報は安売りしないだけでなく、他人の機密をベラペラ喋って信用を喪失したいためにも、いろいろ頭を使わなければいけないわけです。
 それから、カルガリーに一〇年間住みついてしまった理由は、まず第一に、石油ビジネスの全側面をマスターするのに一〇年かかってしまったということがあります。本当は八年で切りあげてもよかったとは思うものの、修業する上で最低一〇年必要だったという厳しい現実がありました。他の人なら、ことによると五年で修業を終えることも可能かもしれませんが、僕の場合はせい一杯やって一〇年でした。大部分の人には二〇年と毎三〇年かかる歳月を、とにかく一〇年で仕上げ得たことを、僕としては一応満足に思っています。平均して毎日三時間ずつ費やして一冊に二年間かかりましたが、この修業期間に、国際石油政治についての著書を四冊ほど世に送りましたから、この満足感は決して独りよがりではないという気がします。
 カルガリーの町の面白さは、前にちょっとふれましたが、世界の情報センターとしての性格に由来しています。この町には三五〇社の石油会杜があり、最初の一〇〇社が大手から中堅の石油会社、次の一五〇社が独立系の小さな石油会社です。そして、最後の一〇〇社は石油利権の転売やプロモーションをしたりしますが、中にはペテン師とでも呼んだらいい、いかがわしい会杜も大分あります。当然コンサルタント会社やサービス会社もあり、全世界からいろんな目的、いろんな役割を帯びた人材が集まっています。そこでこういった環境の中で沢山の人間と知り合い、ビジネスを通じて情報を探り合い、議論をすることになります。人生の楽しみは金もうけではなくて、人間関係を通じてビジネスを実現しながら、真剣勝負を味わうところにある、などといい気でいたら、光陰は百代の過客でして、あれと思っているうちに一〇年が経過してしまいました。


コンサルタントからベンチャー・ビジネスヘ

 ――それでいよいよご自分でコンサルタント業を始められたわけですが、どんな判断で独立の契機をつかんだのか、一〇年かかった修業が一段落したということで、新しい人生を始めたということなのか、という点はいかがですか。

 石油ビジネスのいろんな側面を全部マスターするのに一〇年かかってしまいましたが、その一〇年間というのは、ある意味で次の人生への布石として役立っていたとも言えます。というのは、年間数億円という自分の裁量で使用できる予算を持ち、石油開発や調査などに費やしたのですが、それぞれの分野で世界のいいコンサルタントを活用したわけです。そうやって仕事をすれば、一流や三流の区別はつきますし、どの分野がとび抜けて優れているかも確実にわかってきます。ところが仕事を一緒にしていると、向こうでも果たして僕が一流かどうかを判断しているし、どんな面では三流だという評価づけを行います。同じことはコントラクターとの関係にもありまして、この会社は他の同業者に比べると一日当たりの単価は高いが、能率がいいから結果的に安上がりになるとか、この仕事はこの会社の誰に担当させるのが一番だというビジネス・ノウハウが蓄積できます。これは日本のビジネスでも全く同じで、大変に有益な無形資産ですが、特にコンサルタントとしてこの分野では誰が一流かということを知り合った人材のネットワークが出来ると、北米では鬼に金棒です。お互いに協力してビジネスをやり合おうということで、コンサルタントとしてのコミュニティの中で生きていけます。しかも、一〇年目が近づき、四〇代の新しい節目の人生が接近した時に、ある組織から三カ月間のプロジェクトとしてコンサルタントをやってくれないか、という話があったので、それをきっかけに会杜をやめました。
 コンサルタント業を開始したとなると、仕事の話が持ちこまれます。たとえば、アブダビのこの地域の構造解析をして欲しい、という話が来た場合には、この仕事に関してはロスアンジェルスのターナー氏の方が知識もあるし、同じ料金で仕事が早い上に、関連情報を多く持っているから、彼に頼んだら、と仕事をまわします。同じように、よそのコンサルタントに行った仕事が僕にやらせた方がいいといって回って来ます。
 一年に二ヵ月コンサルタント業をやれば、収入の上からは十分に生活できるが、情報商売のコンサルタントとして、自分で勉強するための仕事をすることについては前に喋りましたね。インプットしない限りアウトプットするものがないし、問題意識をとぎすましておかない限り質のいいアドバイスはできません。そこでいろいろと勉強して、自分自身の問題意識を高めるために、内面に向かって投資しなければなりません。僕の情報や判断力の価値というものは、当然値段が張るようになりますから、頼まれてもあまり原稿を書いたり講演はしないようになりました。情報はペラペラ喋るものではないし、本当にその価値を認めて有効に使ってくれる気持のある人にだけ提供すればいい、という境地にたどりついたからです。
 それとともに他人に知恵をつけてもうけさせるのもいいが、ひとつ自分でも石油ビジネスの中で生かせば、その面白さを楽しめるのではないか、ということで、ちょうどアメリカ人のコンサルタントが一緒に会社を始めないかと申し入れてきたので、彼とパートナーを組んで、石油開発会社をベンチャー・ビジネスの形で始めました。
 僕の三〇代の人生は、プロフェショナルとして大きな会社で一生懸命修業して過ごした一〇年間でした。しかも大組織でしかやれない、スケールの大きな石油開発もいろいろ指揮して、ある意味で、師団級の規模のものを動員し、大いにエンジョイしました。しかしこれからは一匹狼としてのゲリラ時代です。コンサルタント業を含めて、これまで言ってきたことは口先だけのことではないのだということを、実践を通じて証明していく時代です。僕が過去一〇年間やってきた言論活動は、評論家やジャーナリストのような二次情報の切り張り細工ではなくて、いかに一次情報の価値があるかということを明らかにしなくてはいけないのです。そうしないと、評論家のような口舌の徒と、本物のビジネスマンの論評の差を、世間の人は気がつき得ないからです。グレーシャムの法則が支配して、悪貨が良貨を駆逐し、ニセ者が本物を追い払う時代性が日本を支配していますが、ニセ者がニセ者であることは、誰かが試金石をみつけてこない限り発覚しないと思うのですが、いかがでしょうか。


無意味な帰属感覚

 僕のように武者修業みたいな人生を送っている人間には、実像と虚像がよく見えるというところがあります。例えば個人と組織の関係でして、僕には個人の実力が一人の人間にとって実像であり、その人の属している組織というものは、実は虚像と呼ぶべきものではないかという気がするのです。
 日本に来ると、ほとんどの人が、私は三菱のナントカだとか、住友の誰それでナントカ部長と自己を名のるわけです。しかも、そこには資本金や売上高みたいなものを基準にした格づけみたいなものが生きていて、一流と言われているものは三流を威圧し、大企業の人間は小企業の人間を見下しているみたいな気分があるのです。しかし、個人の実力で勝負する人間にとっては、三菱や三井というのは、まさに相手が加賀百万石の指南番であると名のっているとしか聞こえないわけです。
 大体、百万石というのは、殿様の収入に相当する石高であって、指南番の実力とは全く関係ありません。伊達六〇万石の指南番と加賀百万石の指南番同士で実力を競ったら、殿様の収入に比例して腕に差があるということにはなりません。それに、幾ら百万石を誇っていても、大凶作に見舞われれば、加賀の殿様の収穫は三〇万石になって住民は飢饉に泣かなければならないかもしれません。しかも、宮本武蔵ではないけど、浪人していても、指南番よりもはるかに腕のたつ剣の達人は世の中には沢山いるし、中には鞍馬天狗じゃないけれど、日本刀で切り結んでいる所へ、ピストルを持ち込む人間も現れるかもしれません。これから国際化が進むに従って、グラバーのように幕末の日本に機関銃を持ちこむ不良外人だって出現するでしょうし、しかも名うての世界無宿として、ゲリラ活動を得意にするダイナマイト使いが来るかもしれないのです。
 そういう意味では、日本の社会というのは、世界に通用しない尺度を価値基準にした閉鎖社会という感じが強くて、自分は百万石の殿様に帰属するから、といって皆が胸を張ったりうなだれたりしていますが、個人としての自覚に基づいて個人に徹するところから出発しない限り、本当の意味で、より大きな次元の枠組の中で自己の能力と役割を最大限に発揮できないという気がします。特に、これから日本が国際化していく過程で相手にし、つき合っていかなければならないのは、個人単位の外国人であり、こちら側に確立しなければならないのは、個人としての自己とその主体性です。コミュニケーションの基本は会話力ではなくて、個人としての人間の魅力ですし、それは瞳の輝きや顔の表情に現れる誠実さと信頼感です。コンサルタントやビジネスマソの仕事をして一番の武器はこれであり、その次に判断力の的確さが来て、最後に情報量や知識力で勝負が決まると僕は思っているのです。
 いずれにしても、あと八年半の持ち時間の中で、石油開発会社に関しては存分にやった、というあと味が残るようなやり方で、自分の実力を試してみたいと思っています。


ベンチャー・ビジネスとは何か

 ――藤原さんが石油を掘る会社を経営しているのはカンサスですが、どれくらいの人間を使い、どんな規模でビジネスをやっているのですか。

 日本に来るとすぐそのような質問に出くわしまして、やっばり日本的だなという気分になります。僕が自分の会社を経営し始めたと言うと、それで資本金は幾らくらいで、従業員はどれだけ使ってますか、と必ず聞かれるんですよ。
 われわれがカンサス州で始めた会社は、いわゆるベンチャー・ビジネスというものでして、日本では名前としては取り沙汰されているけど、現実にはあまり存在していないし、いまだ本格的に活躍していないタイプのビジネスだと言っていいでしょう。
 ベンチャー・ビジネスというのは、問題意識とソフトウエアが非常に優れていて、この人ならこの種の問題に関して世界一とか、関西で一番わかっているという人物が寄り集まり、しかも必要最小限度の人間だけで構成し、不要な者はいっさい組織の中に入れないで運営する事業です。たとえばタイピストの女性に関して言えば、たとえ人員を雇う余裕があっても、それをやりません。そして町で一番タイプが上手で利口なタイプ業のおばさんに、これを今日中にタイプして欲しいと渡します。その人はタイプ打ちに関しては一〇年、一五年と経歴を誇っているキャリア・ウーマンですから、打ち上げてきた文書は完壁です。われわれのようた単位時間当たりのコストが非常に高い人間が、文章に間違いがないかとか、誤字はないかといったことをチェックする必要がなく、サインするだけで済むわけです。もちろん日常業務用のタイプくらいすぐにやれるタイピストは不可欠ですが、五枚、一〇枚とまとまった文書や重要なものは、仕事を信頼してまかせ得る人間を外部に確保しておき、大いに活用するのです。会計だって同じで、仕事時間中に私用の電話をしたり、コーヒーやタバコばかりのんでいる人間はスタッフの中にいらないのです。パートタイムの人間に毎日一時間ずつ来てもらって整理してもらうか、月に一日、町の会計事務所の人間に来てもらってまとめさせるといったやり方をするのです。時間当たりや一日当たりのコストは雇いいれた人間の場合の費用の五倍、一〇倍しても、長期的に見れば安上がりになるし、われわれのように忙しい人間が雑用に手を染めないで済む間接効果を考えると、こういったやり方は大いにプラスを生むのです。
 組織の発展の歴史をふりかえってみるなら、仕事を分担して能率をあげるという原理に従って、組織は複雑化し拡大してきたのは確かです。複雑化することによって不必要なものをとりこみ、拡大したことによって多くのものを失ってしまったという事実に注目するなら、不必要なものを切り棄て、必要があるにもかかわらず失ってしまったものを取り戻す努力をすることも、発展の別の側面ではないでしょうか。マックス・ウェーバーが喝破した通り、官僚制というのは人間が作り上げた最も合目的的な機構であり、合理性の特徴を持ちうるものであると言えますが、組織内部の個人の能力の活用と、構成員としての個々の人材の実力の自律的増進という意味では、あまりにも多くのものを喪失しているのも事実ではないでしょうか。特に、素早い決断をするプロセスと、組織の機動性を保持するためには、最小限に複雑化し、最小限に拡大するという態度に徹しなければならず、それを実現してビジネスをやっているのが、実はベンチャー・ビジネスの正体です。ベンチャー・ビジネスは規模の単位によって大きさを計る、小企業とか零細企業とは本質的に異なった理念で成り立つものであり、外見的には似ていますが、中身は気が遠くなるほどの違いを持つといえるでしょう。


戦後版大艦巨砲主義は破綻する

 ベンチャー・ビジネスは非常に経済合理主義に徹した組織体ですから、不要なものはいっさいかかえこみませんし、無駄と考えられる経費は全く使いません。事務所にしても、大きなビルに入って立派な看板をかける必要もありません。誰かメンバーが持っている会杜の中の一室に陣取ったって構わないし、ホテルの会議室を三カ月間借りて仕事を仕上げ、目的を果たしたら、さっさと解散するなり、新しい組み合わせで別の組織体と共同事業を始めてもいいのです。ある意味で課題を遂行するためのゲリラ組織ですから、特別任務が終わった段階で組織は解体されて再編成されるのは当然でして、この解散能力がベンチャー・グループの活力源とも言えます。特に、労働力指向型に比べると技術指向型のものが、技術指向のものに比べると知識指向性の高い組織体の方が、より経済合理主義に徹しており、同じベンチャー・ビジネスでも最新技術とノウハウを誇るものになればなるほど、情緒性は乏しくならざるを得ない現実があります。日本人は分かれたり解散するのが苦手ですし、不要なスタッフを切り離すのは非人情だという家族主義的気分が、温情の形で価値観の基準になっていて、みな組織の中にかかえこむのがほとんどです。一度雇ったらクビは切れないし、組織が非生産的な人間の重みで動きが取れなくなっても、自滅寸前までそこにしがみついています。しかし、組織は運命共同体ではなく、ある課題を実現する目的で作られた乗りものにすぎない以上、ビジネスをやる組織は、目的の変更によって自由自在に動ける状態にない限り、自らの重みに耐えかねて自滅してしまうのは世の習いではありませんかね。
 たとえば、こういった意味では、二〇世紀においては戦争でさえも、実利感覚に基づいた計算によって評価されるようになっています。そのことは、コスト・パーフォーマンス理論の登場によって明白です。しかも、理論の登場以前の戦争においても、その考え方が有効性を持ち得たことは、日清戦争を思い出すだけで十分でしょう。
 最新戦艦の「定遠」や「鎮遠」を持つ丁汝昌提督麾下の北洋水師は、ハードウエアの威力の点では、日本の連合艦隊を足もとにも近づけないだけのものを誇っていました。ところが、小回りがきいて機動的に動けた日本の海軍は、そのメリットを生かして黄海海戦に勝利しています。日露戦争の海戦にしても、ロシアの誇る極東艦隊やバルチック艦隊に対して、日本は魚雷艇や水雷艇を最大限に活用して勝利しています。
 ところが、その後の日本海軍の発想というのは大艦巨砲主義一本やりでして、現在の日本の産業が同じように戦後版大艦巨砲主義に毒されています。巨大な生産設備と大組織というのは、まさに航空母艦や巨大戦艦でして、回転するにしても一〇キロの半径で弧を描かなければなりません。そんなことでモタモタしていれば、この目まぐるしい時代性の中で国際競争にとても勝てないばかりか、生き残ることも困難です。潜水艦の魚雷攻撃だからさあ逃げろといったって、戦艦ヤマトの機動性では逃げきれるわけではない。ところが水雷艇だったら一八○度身をかわし、しかも魚雷の背後にまわるだけで推進力を封殺することも可能です。これからのビジネスは、杜会の変化が非常に激しい勢いで進行する時代性を反映して、機動性に富んだ組織で、構成要員の一人一人が独立した戦士として自律的に動けるゲリラ的なものでないと思う存分に活躍できないのではありませんかね。

 ――そうなると既存の形態をとっている大石油会杜のような組織の将来というのは、あまり明るくないと見通せるし、わが国で有望企業と考えられている大会社も、ことによると戦艦ヤマトのような無残な最後を遂げるかもしれないということですね。


地下権のビジネス

 大石油会杜というのは名前が有名で、日本でもモービル、エクソン、シェルといった具合に、誰でも存在をよく知っています。僕自身がそういった大石油会杜の仲間に属す、もう少し規模の小さな石油会社で一〇年ばかり仕事をしたので、その能力も限界もかなりよく心得ているつもりです。
 結論的に言ってしまいますと、大きな石油会社の実力は、大きくなるまでのある一定段階の間に築き上げた実力というか、過去のある時期に猛裂な勢いで発見した石油の上にのって、過去の遺産の上にあぐらをかいている存在と言ってもいいのです。しかし、石油の値段は年々高騰しているし、独占的な販売体制を確保していて、絶対にもうかるような市場メカニズムを握っていますから、財政的にはものすごく豊かです。
 過去の遺産の中で最も価値があるのは、すでに発見されている油田ですが、それに優るとも劣らないのが、まだ石油は発見していないが、適当な場所に試掘することによって、石油発見の可能性を秘めている石油鉱区を、大手石油会杜が大量に確保していることです。いわば石油がありそうな場所における地主的存在だという点です。日本風に言えば、地上権みたいなもので、石油は地下にあるので石油の採掘権は"地下権"と呼んだらいいかもしれません。大石油会杜は豊かな資金力にものを言わせて、この地下権を世界的な規模で所有しています。この地下権は本当の地主である政府や個人から一定期間借りうけるのでして、昔はこの借地料もほとんど只同然に安かったけど、最近はどんどん上がっています。
 最近では地主である各国政府が石油の価値に気がついて、ものすごい高値を要求するだけでなく、出て来た石油に対して高いロイヤルティを要求しているために、石油の値段はいよいよ高騰しています。
 大手石油会社はこのあたりは石油が確実にありそうだと、いろいろな科学的なデータを基にして土地を評価する能力を持つジェオロジストを雇っていますから、まず彼らの判断にしたがって鉱区を押さえます。野球場くらいの狭い鉱区もあれば、本州の五倍も一〇倍も広い巨大鉱区もありますが、五年なり一〇年なりの期限をつけて借りた鉱区の中で石油開発のビジネスは行われるわけです。地上権の場合は、目に見えますから、人間が見ておよそのことは判断できますが、地下数千メートルの状況は素人目には一体どうなっているのか見当がつかないので、そこでジェオロジスト(地質学者)や、ジェオフィジシスト(地球物理学者)といった人の科学的判断力が重要な役割を演じるわけです。近所に存在する試掘済みの井戸から出て来た岩石破片や、さまざまな物理的特性を記録したログと呼ばれる図表などを解析して、石油のポテンシアルを評価するのです。つまり、どの地点を掘ればどの深さにどれだけの石油がどういう状態で存在しているということを、科学的なデータを基に解明していきます。その上で、その地点にどれだけの費用を投入して石油を掘り当てれば、資金は何年間で回収でき、年間どれだけ利益をあげ得るという経済計算をします。そして投資が十分に採算に合うとの結論に達すると、実際に井戸を掘ることになります。井戸を掘る仕事は下請け会社にまかせて監督をすればいいだけですから、石油開発の仕事は試掘を始める段階までが中心で、あとは出て来た石油をタンクに溜めたり、パイプラインで送って売却するだけの話で、他のビジネスと大差がありません。
 ところが、試掘するまでの間にいろいろなビジネスが出来て、これが大もうけの種になります。自分の持っている鉱区であまり有望だと思えないところについては、ジェオロジストがまとめたデータを地図化したプロスペクトを他の石油会杜に持って行き、取引の交渉をするのです。もしお宅の会社で試掘費用を一〇〇%負担するなら、出て来た石油を山分けしませんか、という次第です。これは鉱区を持っていることによって費用はいっさい負担せず、もうけの五〇%をロイヤルティとして受け取るというビジネスのやり方で、鉱区を持つ会社は掘る会杜に"ファームアウトした"と言います。もう少し有望なプロスペクトについては、自分の会杜は井戸を掘る費用の二〇%を負担するから、出た石油の七〇%を欲しい、貴社はコストの八〇%を負担して三〇%の利益取り分ということで一緒にやりませんか、と話を持ちかけるのです。交渉における経費や利益配分については、商品としてのプロスペクトの内容によって決まるので、幾らでも数字が変わります。しかし、科学的なデータをどう評価し、それを石油発見によってどうビジネス化するかは、プロとしてのジェオロジストの判断力にかかわる事柄ですから、結論がそう大きく違うはずがありません。プロいうのは真剣勝負のできる独立した個人のことですから、プロの評価が大きく違ったらおかしいので、もしそうなれば実力の差か、見解の相違にかかわることで、駄目なジェオロジストをかかえている側が石油のもうけを逃すことになるだけです。あるいは石油を発見できずに費用を損するわけです。
 しかし、石油ビジネスはリスクが大きい代わりに、当たれば数百倍、数千倍のもうけが期待できるビジネスです。そこでリスクは取る代わりにひとつひとつの試掘でのリスクを少なくするために、できるだけ沢山のプロジェクトに資金を分配して、統計的にもうかるように合理的な資金運用を追求します。大石油会社のように豊かな資金力を誇る組織は、沢山のプロジェクトに一口ずつ参加できるので、最終的にはいよいよ収入は多くなります。


会社を作っては売る発想

 同時に、この豊かな資金力を使って、小さくて活力のある石油ベンチャーを買収したり、小さな会社が持つ油田の権利を買い集めるのも大手石油会杜の主要なビジネス活動になっています。言うならば、小さな石油開発会社は大手会社の活力源を供給する餌のような存在であり、いかに効果的に大手会社の餌になる石油ベンチャーを作るかが、実は有望なビジネスになっています。たとえば、僕自身が一億円の資金と二年間の歳月をかけて育て上げた会社を、ある大手会社が一〇億円で買収したいと言ってきたら、交渉次第で一二億円まで持っていって妥協するか、一〇億円で即座に手放すかは、僕の判断ひとつです。重要なことは買収された会社にのこのこついていって、副社長になるといった馬鹿げたことをしないことです。この世界では月給や肩書をもらって待遇に甘んじるサラリーマンになってしまうと、ビジネスマンとしての生命が尽きたことになるからです。
 会杜を買収されたのではなく、一億円のコストをかけた商品が二年間で一〇倍に売れたと理解すれば、乗っ取られたとか、お家断絶という江戸時代的発想に陥らないで済むのです。しかし日本では、まだまだこの種の封建思想に災いされて、ビジネスを作っては売るという思想がうけいれられていません。実はビジネスで一番もうかるのは、会社をゼロの水準から作り上げて、大きな企業の餌として売るプロセスにあります。また大企業はそれによって活力を補給しているのであり、弱肉強食はビジネスにおいてはモラルの問題ではなくて、生理の問題にすぎないのです。だから、個人としての自律性と創意さえあれば、餌の中にまぎれこんで呑みこまれてしまわずに、再び時間をかけて新しいビジネス・ベンチャーを作り上げていけばいいだけです。しかも、それが内容がいいベンチャーであれば、また買い手が殺到して来るのは確実です。飢えた大企業のために餌を作って高く売りつける、というプロセスの中に、フリー・エンタプライズ制の中を自由自在に泳ぎまくる、企業家精神に富んだ人間のフィールドがあり、これは資本主義世界におけるファーミング・ビジネスと言えないこともありません。
 小さな企業は大石油会杜の餌となることによってもうけ、大企業はファームアウトすることで、他人に石油を発見させてロイヤルティを取ることでもうけるというのは、資本主義における厳然とした利益獲得ゲームのメカニズムです。これを単純に収奪のメカニズムと呼び切れないのは、餌のビジネスに関しては自由競争の原理があり、ファームアウトにおいては、頭の使い方次第で、鉱区権を他人が横取りできる方法が、ルールとして確立しているからです。ソフトウエアをビジネス・ノウハウにまでした大石油会杜のファームアウト方式は、一九世紀以来続いてきたやり方の近代化したものですが、これはその後石油以外のビジネスに応用されて成功しています。ビジネス・ノウハウを武器にフランチャイズ経営をする外食産業や、ショッピングセンター作りを通じた店舗のファームアウト等がそれです。石油ビジネスをやっている僕は、現在日本で進行しているビジネス革命が、実は石油産業が一世紀以上もかけてルールを作って実験してきた、ひとつのビジネスゲームの応用であるという印象さえ持ちます。


寄生と安住のオンブお化け

 大石油会杜はもうけるためのビジネス・ノウハウを大量に保有しているだけでなく、サイエンスとテクノロジーに関して卓越した頭脳集団を抱えているので、エネルギー関連部門に進出して、その分野で大きな威力を発揮するのは間違いないです。でも自力で石油を発見する能力を刻一刻と喪失して、その仕事を創意に満ちた石油ベンチャーに奪い取られ、いよいよ寄生地主的な性格を強めているのも歴史的な事実で、これは実に興味深いです。
 そこに八〇年代にわれわれが遭遇しようとしている石油危機の一つの原因もあるのですが、石油ビジネスが大手石油会社の寡占体制によって窒息しかけているという、これまでの説明と一見矛盾した現象も進行しています。それは元気のいい石油開発のベンチャー・ビジネスが、貧欲な大石油会社によってどんどん食べられてしまったために、急速に絶対量が減少したことに関係があります。会社を売却して再び新しいベンチャーを築き上げるのには、三年か五年の待ち時間が必要です。企業家精神に富む人は再びそれに取り組みましたが、億の単位の資産を手に入れた人の中には、年齢的な条件や健康上の理由もあって、ハワイやバハマに隠居したり、世界漫遊に旅立っていった人もあります。人生働くだけが能ではないし、後進に道をゆずる必要もあるので、これはいたしかたがないとも言えそうです。
 それにしても残念なのは、大企業から中企業に、そして中企業から独立してベンチャー・ビジネスヘという人材の流れが、ここに来て緩慢化しているというか、大企業が提供する快適な待遇に安住して、サラリーマン化する人間が増えているのです。米国の資本主義自体が安定期から停滞期に移行していることは、文明の次元の問題で考えると歴然としています。特にアメリカ全体の姿勢の中にパイオニア精神の減退の形で現れ、リースマン風に表現すると、自己指向型だったアメリカ人が、次第に他人指向型に変貌しています。それが一匹狼タイプからサラリーマン・タイプヘの移行で、別の言い方をすると"アメリカ人の日本人化"とも考えられます。もっと決めつけた表現をすれば"宦官化"現象でして、体制の中に安住して権力と共に生きていくということになるでしょう。
 僕自身修業のために大企業で仕事をして、その雰囲気を十分に心得ていますが、待遇は快適です。二〇畳か三〇畳くらいの広い個室を提供され、机も三つあります。事務をとる机と本を読む机を区別し、地図を広げていろいろと考え事をする机もあります。月収は同年配の人間の三倍くらいあるし、プロフェショナルが集まるクラブの会員権も提供されます。朝八時に出杜し、四時には家に帰れるし、年間三週間の休暇もあるといった具合です。そこで大部分の同僚は、こういった環境に安住して精神的な嗜眠状態に陥り、芝生を刈ったりゴルフをやる生活に満足してしまいます。若手のやる気を持った連中だけが転々と職を変えますが、中年を過ぎたプロフェショナルのほとんどは、ぬるま湯のような生活から抜け出す気力を喪失して、定年まで毎日似たようなリズムの生活を繰り返すというのが、大会杜に共通した組織パターンです。米国の石油産業の場合は、他の産業に比べてはるかに流動性が高いのに、それでもこういった官僚制的な空気に蝕まれていて、日本ほどひどくはないといえ、停滞化は著しいのです。自力で石油を発見する努力よりは、石油会社自体が他人の努力におんぶして、利益の一部をもらってもうけるという、寄生的な性格がどうしても強くなります。会社は確実にもうけるが、石油発見への努力の結果ではなくて、利権にもとづく分け前の蓄積にすぎないということでして、米国は次第に石油不足に陥ってきています。ほんの一握りの生産的な人間達に大量の人間がオンブしているところに問題があるわけで、僕としては自分で独り立ちできる実力を蓄えたから、もう一刻もオンブお化けとして生きたくないというのが、実は三〇代の人生を終わるに当たっての総括だったのです。だから、これからは他人にオンブしてもらわないで、自分の足で歩く人生を突き進むけれど、いっさいオンブお化けに相当するものは背負わないという意味で、ベンチャー・ビジネスに徹すると決めたのでして、僕は自分の会杜を大組織にするつもりは全くありません。


ベンチャー・ビジネスが育つ条件

 ――ここでベンチャー・ビジネスの問題についてもう少し詳しく検討しておきたいのですが、ベンチャー・ビジネスと小企業の最も基本的な違いとか、どうすればベンチャー・ビジネスが成功するかといった点についてはいかがですか。

 僕のビジネスがいまだ成功したという形ではっきりした成果を出している段階ではないので、成功の秘訣について喋る立場にはないのです。だから、ベンチャー・ビジネスと小企業の差についての見解だけを述べますと、外見は似ているが中身が大分違うということです。しかし、中身の違いは質的なものですから、ここからが小企業でこれはベンチャー・ビジネスであるといった具合には線をひけません。これまで小企業と呼ばれてきたものの中に、立派なベンチャー・ビジネスとして活躍しているものも沢山存在しますし、自らベンチャー・ビジネスと称している会社が、実は単に小さな組織にすぎなかったという場合だって沢山あるはずです。
 僕の考え方は個人的な体験にもとづいているので、経済学の教科書にどんな説明がしてあるかとは全く無関係ですが、ベンチャー・ビジネスというのは、多分にプロフェショナリズムと結びついており、企業家精神が科学的研究や技術開発能力と結びついてビジネスを営む状態で組織化されたものとでも規定できるのではないでしょうか。同じビジネス・ノウハウでも、どこからが科学や技術の領域かと聞かれると、現在のように学際領域が複雑にからみ合っている状況下にあっては説明に困りますが、最新科学や高度技術に関してのソフトウエアが商品開発能力と結びつくものといったことで一応了承して、あとは参考書でも見て下さい。
 日本にも多少ながら素晴らしいベンチャー・ビジネスが存在していますが、日本の産業構造の中で、ほとんど注目される存在になりえていないのは、それなりの理由があります。まず第一に、ベンチャー・キャピタルが存在しないことです。第二は、日本の産業社会という風土の中には、個人主義の発想にもとづいた創意の評価と、実力競争の原理の上に立つフリーエンタプライズの基盤がないことです。幾ら企業家精神の持ち主がいても、ノウハウを商品化するための資本が結びつかない限り、ビジネスは動き出しません。
 それは日本の金融業界が時代遅れで、銀行がまるで中世以前のようなビジネスしかやらない体質を持っていることも関係します。日本の銀行は原則的に担保がない限り融資しない伝統がありまして、アイディアや構想、あるいはソフトウエアでは金を貸しません。例外は一部分の大企業や政府に対しての信用による融資で、これは絶対につぶれないという仮定の上で行われます。しかし八○年代はこういった巨大組織ほど破綻の淵に追いつめられる可能性が強く、日本の銀行業界も方針を変更しなければならなくなるでしょう。
 それはともかくとして、担保で融資するのは本来は質屋の仕事であり、日本では銀行が質屋の真似をして威張っています。しかし、心しなければならないことは、質屋の番頭は通俗的な意味で、その道のプロであり、肉眼でダイヤモンドと水晶を識別しますし、手ざわりだけで眼をつむった状態でも、正絹とスフを区別するカンを持ち合わせています。それだけの能力を番頭が持ち合わせたいなら、質屋はスフの着物を担保に正絹分のカネを貸しつけることになり、質草が流れた場合商売は上がったりになってしまいます。そこで質屋の番頭になるためには修業が必要になるのであり、その道二〇年、三〇年といったキャリアと識眼力を持った人物が店頭に構えて、そこで初めて商売が動き出します。
 ところが日本の銀行にはそれだけの修業をして識眼力を持った人物はいないのに、担保で金を貸す商売をやっています。せいぜい大学で経済学か経営学程度の勉強しかしなかった白面のエリート書生達が、黒っぽい高級背広を着こんで、金を貸したり両替のような仕事をすることで、青春をあたら費やして中年期の出世や派遣役員としての夢と交換して満足しています。
 ヨーロッパやアジア諸国は日本と同じでして、エリート的な人材が銀行の窓口で金を貸したり預ったりしていますが、米国やカナダではそういう時代は三〇年前に終わってしまいました。札束を数えたり、借金依頼の書式を顧客に仕上げさせる仕事には、それほどの能力を必要としないからです。そして、各支店で男性が担当するのはせいぜい支店長と次長くらいで、それも経済学部を卒業したなどという人材は珍しいのが北米の現状です。おそらく八〇年代の後半には日本にもこういった潮流が浸透することでしょう。
 それでは経済学部を出たエリート中のエリートは銀行のどこにいるかというと、実は調査部や企画部に陣取っていて、情報分析やプロジェクト企画、あるいは運用投資といったことをやっているのです。そして、彼らのほとんどは技術系のプロフェショナルとチームを組んで仕事をし、必要に応じて外部のコンサルタントもチームに組み入れて新規プロジェクトを作ったり、プロジェクトをコオルディネイトしたりするのです。
 僕はコンサルタントとして、たまにこういったグループに顔を出しますが、そこには一次情報がふんだんにあるのを見て感心します。日本の銀行の調査部はエリートの人材を集めていても、それらの人が新聞や雑誌の記事を切り抜いている程度で、人材が人材として活用されていない現実を思い出し、実にもったいないことだと思ったりします。彼らのほとんどは詰めこみ教育と丸暗記試験の果てに銀行調査部にたどりついた日本の逸材達でしょうが、数字を丸暗記する代わりに、数字の裏に読み取れる思惑や意図を把握したり、ソフトウエアの価値を評価するところまで識眼力を磨き上げないならば、金融や資本の自由化と産業活動の国際化を通じて、パイオニア魂と企業家精神に富んだ外国の小さな投資銀行家に、いい商売のほとんどを取られるに決まっています。彼らは情報の価値や判断力の重要性を十二分に心得ていて、ベンチャー・ビジネスヘの投資や新しいプロジェクトヘの投資に際して、われわれプロのコンサルタントを活用していて、彼ら自身がベンチャー・キャピタル・ビジネスが何であるかについて知りぬいています。
 ベンチャー・キャピタルが存在せず、日本の銀行がその重要性に気がつかないまま、旧態依然の質屋まがいの業務に明け暮れていると、八○年代の日本経済はいよいよ硬直化してしまい、日本人の持つポテンシアルをそのまま殺してしまうことになるのではあるまいか、と大いに危倶せざるを得ません。


稟議制では間にあわない

 それからもうひとつの問題は、日本に不足している個人主義と企業家精神にかかわることです。僕自身の見解では、国、企業、個人に見る限りにおいて、より大きな次元による支配力が強いために、日本の現状は、過剰統制による創意の窒息化が全般的に進行していると思います。特に上位のものから下位のものに向かっての働きかけは抵抗なしに行われるが、下位のものから上位のものへの主導的な働きかけは困難だという一方通行の結果、個人企業家としての努力が何らかのものを社会の次元に反映させるのを難しくしています。米国には日本に存在しない別種のキャピタルがあります。これは平等主義の問題や企業家精神の有無とも関係すると思われますが、米国にはベンチャー・キャピタルがどんなものであるかを理解する金持が沢山いるということです。僕が電話をかけて「こういう内容で面白いプロジェクトがあります。僕の判断だと話は有望で、四年以内に出資金の八○万ドルは回収できて、それ以降一〇年間は海年二〇万ドルくらいのもうけになる計算ですが、出資しませんか。利益は山分けにしましょう」と言うと「金はいつ払いこめばいいんだ」と話がまとまってしまうというわけです。
 日本に話を持っていくとこうはいかず、地図が欲しいとか、生産データと統計書、それに登記書を送れということになります。資料を見ても評価する能力のない人々が会議をやり、レポートを作っている間に、有望な話はどんどん他人に買い取られてしまうのです。日本式の稟議制による会議で結論が出るまで売れないで残っている話は、よほどつまらない内容のもので、そういったものを日本の商社あたりがプロジェクト化しているので、結果はろくなことになっていません。これは、常務会あたりで承認されるまで売り切れていないプロジェクトだったせいで、初めからダメだったと言ってもいいのです。昔から売れ口がなければ持参金付き、ひく手あまたなら支度金付きというように、日本人が本当に海外でやるべきビジネスは支度金をつけたくなるほどのプロジェクトでなくてはいけません。そのためには、手元にすぐ動かせる支度金が置いてあることでして、プロジェクトの内容を見てから金集めをしていたら、いい話は皆逃げてしまうのです。
 しかもプロジェクトの内容を評価するのがプロとしてのわれわれコンサルタントであり、僕が「これは計画として非常にいいことを保証します」と言った時に「やりましょう」とか「やめときます」で話は決まるのです。それに、僕らは日本の政界のまわりを横行しているいかがわしいフィクサー達とはわけが違って、評価能力でビジネスをしているのです。だから、もうかったら山分けしましょうとか、ロイヤルティを一〇%でどうでしょうと言って、ビジネスは成功払いです。
 ところがフィクサー達は「どこどこに面白い話があります」とか「このプロジェクトを買いませんか、手数料は何十万ドルです」といった具合に、入り口で入場料をとります。成功払いなら確実な話をまとめない限り収入にはなりませんが、入場料や手数料なら内容のいかがわしい話でも商売になるので、フィクサー向けです。しかし、石油ビジネスの中にはいろんなフィクサーがいまして、ロイヤルティで話をまとめる狡猜な人物も沢山いるから用心しなくてはいけません。いずれにしても信頼のおける人物を選んでビジネスを行うということが、失敗しない秘訣でして、これは大昔から少しも変わっていませんね。
 日本にも機関投資家や個人で資産を持っていて、有望な話で確実な内容ならば石油にも投資したいと考えるグループがあるはずで、米国の金持のベンチャー・ビジネスヘの投資とチャンス的には対等の条件にあるといえます。しかし、石油ビジネスというのは、これくらい決断の早さが決め手であり、しかも、上手に一流のコンサルタントを使いこなさなくては駄目だということです。しかも、寿司屋の板前は同じ料理人でもフランス料理が作れないように、それぞれが特技を誇り、専門を持っていますから、どの話には誰を頼むかということも熟知しておいた方がいいのではないでしょうか。

 ――これまでのお話のまとめの形で、人生の節目をつけた生き方をしてきて現在ベンチャー・ビジネスをやっている藤原さんとして、同世代の日本のビジネスマンに対して何か言いたいことがありますか。

 自分中心に言いたい放題を喋ってしまったので、違和感を持った人もあるのではないかと思います。僕は現在修業中の名もない一人の日本人でしかありませんから、人に教えを垂れるなんて大それたことを試みても始まりませんし、そんな気持も持っていません。ただ自分の感じたままを率直に披露してみましたが、同じ日本を内側から見るのと外側から見るのでは大違いで、そこに次元ショックとでも名づけたらいい、違和感を生ずる背景もあるといえます。この次元ショックの原因を僕は時間における赤色変移であると考え、ドプラー効果のひとつだと理解していますが、外側と内側という視点の差がある以上、同じ日本人同士がコミュニケートするには、基準として使えるものがあったらそれにこしたことはありません。そこで、簡単な形で僕自身の過去の軌跡を紹介してみましたので、なぜ僕が現在のような状態にたどりついたかについて、何となく納得していただけたのではないかという気がするんですよ。
 自分の過去をふりかえってしみじみ思うのですが、フランスでの五年間の滞在で僕が学んだ最大のものは何かというと、個人主義とは何かということです。その延長戦にあるのは当然ですが、北米に一〇年以上住んでみてここで僕が発見したのは、アメリカにはまだ企業家精神が生きていて、自分が一人の人間として実力本位の真剣勝負をしながら生きていく空間が残っている。しかも、個人の次元を離れてより上位の組織である企業や国家とのかかわりあいの仕方を考える時に、目的意識や利害を共有する生き方が可能だという点でした。それは日本人としての僕が、ことによると自分のビジネスを通じて、将来遭遇するかもしれない故国の難局に対し、たとえ些細でも貢献ができるかもしれないという、一種の自己満足みたいな気分なんですね。
 というのは、現在のような日本の態度と存在の仕方を続けていれば、必ず日米関係が破綻する日が来るという予感が僕にはするからです。しかも、日本は食料や資源は言うに及ばず、情報やテクノロジーのほとんども米国に依存している以上、日米関係が破綻すれば、日本は滅亡する以外には道がないというのは、残念ながら客観的な事実です。
 日本を米国が切り捨てる日の問題については、『中国人、ロシア人、アメリカ人とつきあう法』(亜紀書房刊)という本の中にふれておきました。日本政府がこれまでやってきたような愚劣な対米交渉や、財界が続けている対米進出のやり方では、外交関係での行き詰まりを招いて、日本が米国に依存しているものを全部断たれるおそれが十分にあります。歴史を思い出すまでもなく、クズ鉄の輸出禁止と石油の通商停止が真珠湾奇襲を招き、あの不幸な太平洋戦争に突入したことからすると、次の対日制裁が日本に及ぼす悲劇は、想像に絶するものだと思うんです。
 一億人の日本人は、自国が経済大国であり、日本がアメリカにとって必要な国だとうぬぼれていますが、果たして本当にそうかと考えてみたことがあるでしょうか。ある統計によると、「ワシントン・ポスト」や「ニューヨーク・タイムス」のように国際記事が比較的多い新聞を一年間調べたところ、日本に関しての記事は全体の〇・二%だったというんですね。それくらい日本は米国にとって取るに足りない存在でしかありません。
 最近、米国政府の高官が、サウジアラビアは米国にとって最も重要な外国であると言明しましたが、米中の国交正常化以来、米国にとっては中国の方が日本よりはるかに重要な存在になっていることは、米国のジャーナリズムや世論を見ていると疑い得ないことです。
 日本に来るたびに日本人から「向こうでは日本のことをどう言ってますか」と質問されて、そのたびに「何とも言ってませんよ。誰も日本のことに関心などもってませんから……」と答えるのですが、大抵の日本人はそこで僕の返事に違和感を覚えるらしいです。だけどこれが事実だとしたら、どうしようもないと思うんですね。日本人の多くが日本が米国について関心を払っているように、米国も日本について強い注意を払ってしかるべきだと思ったとしたら、それは勝手な独りよがりであって、客観的な事実認識とは全く無関係です。
 日本は製品の三分の一を米国に輸出していますから、日本人の多くは何となくアメリカのために一生懸命仕事をしてやっているという錯覚に陥っている感じです。ところが、輸出している日本商品の中で、米国がどうしても必要としているものはほとんどないという事実を忘れているんじゃないでしょうか。自動車にしても、日本車はセカンドカーや三台目として買われていて、決してファーストカーじゃないし、鉄だってコンピューターだって、米国では自前で生産しているのでして、どうしてもなければいけないものではありせんんね。しかも、日本の輸出ポリシーの中心は米国に出来上がっているマーケットを蚕食する形で、その一部に食いこんでいるにすぎないのでして、日本がなくても米国は幾らでもやっていけるというのは、残念ながら極論じゃないのです。
 いずれにしても、つまらない感情的な行き違いや政治家の愚劣なオフレコ発言あたりが原因になって、八○年代のいつかに日米関係が破綻して貿易停止にでもなりかけた時、決定権はすべてアメリカ側にあって、日本としては他力本願のまま何の対策も持ち合わせ得ないのです。なにしろ現在の日本には切り札に使えるものが、何ひとつないからです。
 本当は、円が非常に高くて、しかも外貨があり余って困っていた時に、政策的に米国に沢山の直接投資を行って、アメリカ大陸内にアメリカ人をパートナーにして、有望なビジネスを沢山育てる努力をしなければいけなかったんです。今ごろそれをくやんでもすでに手遅れですが、そういった政策を考えるだけの頭脳を持った人間が政界に存在しなかった以上、せっかくの機会はチャンスとして生かせませんでした。財界だって同じでして、緊急輸入拡大のための訪米使節団や、航空機のリース制の導入といった程度のことしか考えつかない人々に日本経済が牛耳られているのだから、救いはありません。一国の将来を展望できる人々が政治を担当せず、企業家精神を持ち合わせないサラリーマンの成れの果てみたいた人々が経済界に君臨すれば、決断力のない総指令官や洞察力に欠けた参謀に指揮された軍隊みたいなものです。日本の経済界には優秀なミドル・マネージメント級の人材が沢山いるのに、上層部がポンコツ同然の軍隊ならば、いくら中隊長や小隊長クラスの人材が優れており、卓越した指揮能力を持ち合わせていても、これは敗け戦さしかできないのです。その結果のひとつが無策きわまりない福田内閣時代の失政でして、貿易立国日本にとって最大の財産だった産業界の国際競争力の喪失をもたらしたというのは否定しようがないわけですね。今となっては手遅れだけど、それでも日本人は将来における日米関係の行き詰まりのときに使える切り札づくりにとりかかるべきだと思うんです。明日では手遅れだけど、今日ならばまだなんとかなるというのが、現在の日本の立場じゃないかと僕には思えます。


母国を超える

 そこで、アメリカ人が困っていることで、日本人が協力することによって喜ばれるものはないかと考えてみます。すると現在米国は石油不足に悩み、特に石油を発見するベンチャー・ビシネスの絶対量が足りないために、大石油会社が確保している鉱区が開発されないで眠っていることがわかります。そうであるなら、日本人の頭脳というか、ソフトウエアを生かし、直接投資に動員できる遊休資本を活用して、アメリカ大陸で石油を開発するベンチャーを作って実績を生むことです。外交破綻が原因になって土下座も役に立たなくなり、米国が日本の切り捨てを考える瞬間に、ことによるとソフトウエア指向の企業活動の存在というのは、日本側が使える切り札のひとつになるかもしれません。なにしろ石油というのは現在地上において最も価値があるもののひとつでしょう。それをビジネスとしてやる日本人のグループが在存しているという事実そのものが、米国の産業杜会の生命力である石油生産によって貢献し、日本人がアメリカに対して最も基本的な分野で必要不可欠な仕事の一端を支えていると、訴える足がかりを作れるかもしれません。これがさっき言った自己満足みたいな気持の内容ですが、こういうことは僕だけではなくて、ソフトウエアを誇り、ベンチャー・ビジネスを組織する能力を持つ、僕と同世代の人にどんどん進出して欲しい分野です。
 日本の破綻を救うのに役に立てるかもしれないと言ったからといって、僕が個人主義者としての立場を放棄して、国家主義的なことを言い出したと誤解しないで下さい。現在の日本に氾濫している国粋的な国家主義者たちの愛国思想には、僕は何の共感も分かち合う気持を持っていないのです。日本文化や日本人が持つ長所だけを一生懸命強調し、独りよがりの自己陶酔に陥っている彼らの島国根性には、僕は同情する気分にさえなりません。表面的に観察すると、僕が日本の運命について懸念することが、国粋主義者の憂国ムードと似ていると見えるかもしれません。これは、僕にとっては日本は自分が生まれた国であり、弟や妹達だけでなく、一億人の同胞が生きている場所として、一種の業みたいな関係で結びついたところだということで、強いて言えば祖国愛みたいな気分かもしれないです。それで海外に長く住んで日本を故国として眺め続けてきたものですから、僕には日本が持ち合わせていない長所が何であるかがよく見えるのです。日本にある長所だったら、僕は外国に出る前からほとんど知っていたと言ってもいいし、外国で生活しながら、それまで気づかなかった日本の長所とともに日本の短所の数々も理解できるようになりました。しかし、更に日本のことだけでなく、世界のことをいろいろとよく知ろうと努力した結果、日本が持ち合わせない長所について自覚できるようになったのです。そういった長所を持ち合わせていないことに日本人が気づいていないために、自分の祖国がいかに運命を損ない、刻一刻と不利な状況に陥っているかが、見えるようになってきたのです。面白いもので、このようにものが見えてくると、海外へ出る機会に恵まれて外国生活を体験し、しかも外国帰りだと言う謳い文句で派手に立ちまわっているある種の知識人達が、日本や日本人の長所だけをあげつらって、国粋主義の神輿をかつぎまわっているのを見ると、彼らの国際感覚はニセ物だとすぐにわかるんです。
 自分の短所を改め長所を伸ばすということは、明治の昔から小学生達でも口にしたことです。ところが現在の日本では、自分の長所をあげつらって自己満足する程度の文化人達が評論家として扱われ、大学教授として知性を売り物にして論壇でもてはやされているというのですから、世も末だという感じがしますね。
 文明の歴史をふり返って見るなら、どれほど多くの人々が、自らの長所をのりこえるために血を吐くほどの苦労をし、自らの価値体系を規定する国有文化を超えようと全生涯を賭けて苦闘したかを知ることができます。それは母国との苦闘であり、自分自身との闘いに他ならず、それをやる過程が人生における本当の修業だと思うのです。一度しかない人生なら、その一瞬一瞬が持ち時間の減少である以上、自分の現在のパーフォーマンスを確認しながら、より高いところを目ざして自らに厳しい修行を課していくのが生き甲斐だといえないでしょうか。僕が世界を舞台に仕事をしている最大の理由は、まだ出会ったことのない偉大な人々が沢山いると思うからで、よく自分よりもできるというか、実力を持った人物に出会うと、まだ修業不足だからやり直さなければ駄目だと感じ入ります。そしてそういう人との出会いがあるということが、人生の醍醐味だと思って僕は生きているのです。


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