U 学校の源流をめぐって



学校体系と教育の原点

藤原 われわれは教育学者ではないし、江戸時代における教育制度の詳細についての知識も持ち合せていません。ここでは、単に大きな流れとして、官制教育としての漢学と、庶民の実務教育としての寺小屋式の読み書きソロバンの二つの系列があり、江戸時代後半期になると、そこに洋学としての蘭学の影響が及んできた、ここに日本の教育制度の源流を見出したらどうですか。

松崎 寺小屋で教えた読み書きが、単にイロハ48文字を教えただけではなく、たとえ町人の子供に教えるにしても、四書五経や『論語』まで素読させた点では、学問として漢学をやったわけです。だから、官制教育が漢学だったというよりも、江戸時代に教育と呼ばれるものはすべて漢学だった、と考えるべきでしょう。しかも、漢学の素養の上に和歌や俳句も存立し得たのであり、その延長線上のエンターテイメントとして黄表紙や草子物の世界が拡っていた。だから、当時の日本は文字の読める人間が人口の三分の一以上もいた、という驚異的な水準を誇っているのです。ものの本によると、これは18世紀19世紀の水準として、英国やフランスよりも、日本の読み書きできる人口比率がはるかに高かった事実を示しているそうです。

早川 文盲率が低いということは、ある意味では誇るに値する立派なことだが、あまりそのことを強調しすぎると一人よがりに陥る恐れがある。というのは、文字を持たなくとも高い水準を維持した文化は歴史上いくらでもあるし、文字を読んだり書いたりしないが、高い見識や豊かな教養を持ち合せた古老は、昔からいくらでも存在していました。要は、人間としての教養の問題であり、その教養の水準が各時代にあってどこまで要求されており、しかも、社会におけるどの階層が文字を媒体にした教養を自分たちのものにしていたかに関係します。日本の場合は、伝統的に支配階級であった天皇を取りまく公卿貴族と僧侶や神官といった人びとが、古代王朝から平安時代まで、文字を媒体にして漢学を独占していた。また平安時代以降は、その仲間に武士が加わって、文字文化としての漢学は公家、僧侶、武家の三大グループが、いわゆる官僚に近い立場で独占していくわけです。

松崎 鎌倉や室町の時代も似たような情況が続くけど、それほど華々しくはなかった。ところが江戸時代になると徳川幕府の振興政策もあって、漢学を中心にした学問がものすごく隆盛しますね。

早川 われわれ3人ともに箱根の関の東に生を受けたアズマエビスの後裔ですが、関東の荒武者が支配権を握っていた鎌倉・室町時代というのは、学問よりは武芸が評価された時代です。もちろん足利学校のようなものもあったが、学問の伝統は主として禅僧を通じて伝えられました。

藤原 ぼくも勇猛果敢な東エビスの末裔だったらいいんだが、どうやら瀬戸内海を根拠地にした海賊の子孫らしいんです。軟弱な京都の殿上人ではないので、みやびやかな文化の残り香を持ち合せていないわけですがね。それはともかくとして、学問には文字を中心にした教養的なものと、体や腕で身につける技能や技術といったものがあり、庶民の段階では修業を中心にした職人や工人の領域が、古代王朝の帰化人の時代以来評価されていて、そこにひとつの学びの対象があったとおもうんです。広い意味でこれも教育でしょう。

松崎 確かにそうです。弟子入りをして修業するのだから、そこには学ぶというモチベーションと学びの場があります。ルソーなんかにいわせると、教育は教師が知識を伝授するというより、むしろ、自然の力によって人間が自ら生長し発展することになるので、技芸を身につける以上は教育の場と考えていい。

早川 むしろ、それが修業をする場の出発点にあるという点で、弟子入りは教育問題の原点に位置します。孔子や孟子の例だけでなく、芭蕉やプラトンにしても、弟子が先生の名声をしたって集ってきて、自然発生的に塾のようなものができる。授業料は野菜や果物であり、それが先生の生活を支えました。

藤原 より広い解釈をするならば、商人のところへ丁稚奉公するんだって商売の修業だし、お屋敷に女中奉公するのも行儀見習いの修業として、学びのプロセスと呼べますね。しかし、それは学問ではなくて学習と呼んだ方がいいのかもしれない。日本の場合は、教育制度上からすると、職業教育は各種学校扱いで、いわゆる学問や教養を身につけるための一般教育と差別をして、一段低いものとしていますね。

早川 それは日本やヨーロッパ諸国の場合には、伝統的に封建的な身分制度が教育界に根強く残っていて、教養としての学問は支配者階級のものであり、生活のもとになる職業的な訓練は被支配者階級に属す庶民のもの、という考え方が濃厚なせいです。中国だってそうでして、学問はエリートとしての素養だ、ということで文人が独占し、それが制度化して科挙になっている。

松崎 世界で一番民主的な北米大陸だけが、辛うじてその弊害を克服して、学問としての一般教養をエリート意識から解放した。それがいわゆるコミニュティ・カレッジであり、住民は誰でもいつでも一般教養を学べる。しかも、職業学校としてはボケーショナル・スクールがあるし、大学自体が非常に市民に対してオープンであり、昼間のクラスでも夜学でも自分の学びたい科目が聴講できます。

早川 現に私自身がカルガリー大学の大学院で学生生活をやっているが、いわゆる同級生が若者だけではなくて、いろんな階層と年齢層から成り立っているのが興味深い。子供が皆成人になり時間的余裕があるという家庭の主婦、もっと関連領域についての知識を身につけたいという中学校の先生、7年奉職するたびに1年間研究のためにもらえるセバチカルという休暇を利用し、学生になって新しい分野の勉強をする、というよその大学の教授なんて顔ぶれもあります。

藤原 職業として教える立場にある人が、時たま学ぶ立場に身を置くことは非常にいい。教えることは最良の学びの手段だけど、学生の立場になって逆に教え方を学べますから……。

早川 批判精神を持って自分の立場を眺めることにより、いろいろと反省ができます。ブレイクの詩の中に「水槽はたたえ、泉はあふれ出す」というのがあるが、単に受けいれる水槽の立場から、泉になって与え合うのが、教師と学生の両方の側に要求されるのですな。

松崎 しかし、現実には職業としての教師の立場に馴れてしまい、サラリーマンとして月給を稼ぐために教師をやっている人間も多いところに問題がある。1時間の授業をやるために教師は2時間の準備をすべきだし、学生も1 時間の予習と1時間の復習をしない限り、本当の意味での与え合う授業は出現し得ない。とくに日本の大学の場合には、この予習と復習の精神が失われて久しいんじゃないですか。余裕を持って学問をする時間が圧縮されて、教師も学生も私用やアルバイトに忙しすぎるようです。

藤原 教師が収入のためにアルバイトせざるを得なかったのは、いまに始まったことじゃない。ガリレオの場合なんかを見ると、彼はベニスの大学で数学の教授だったけど、大学からの収入だけではとても生活できなかったので個人教授をした。生徒は下僕を伴った貴族の子弟であり、教師の家に賄いつきで下宿するのが普通で、彼の所には20組の学生が下宿してたらしいです。毎日の食事の仕度や食料品の仕入れなどでテンテコ舞になり、ガリレオは大学の教授だか下宿屋の親父だかわけが分らなくなったそうです。

早川 それでいいのです。教師は人間を育てるという仕事柄からして、社会的な尊敬を与えられるのだし、常に批判精神を持つ独立した人格として人びとの鑑になるのも、豊かすぎることによって、人間として堕落しないということの反対給付に他ならない。人間は豊かすぎるとほとんどの場合が精神的に堕落するし、教師が精神的に堕落したらこの世は終りです。しかし、そうだからといって貧しさの中に追いこんでもいけません。

藤原 要するに、清貧の中に人間としての精神的な美しさがあり、物質的な貧しさをカバーする心の豊さが輝きを増す。しかし、清貧はいいが赤貧はいけませんね。

松崎 ガリレオの場合は赤貧に近かったのですか。

藤原 家族の借金に追いまわされて大分苦しかったようです。でも、彼の場合、貧しかっただけでなく病気がちでもあったので、逆に反発心をバネにしていろいろと新発見への努力をやれたのじゃないかな。

早川 学者の場合は飽食していたらいい仕事ができるわけがない。そこに「財を積むこと千万も、薄芸身に従うに如かず」ということわざの基本精神があるのです。またそれが封建社会における階級間のバランス保持のべースになっていた。名誉を与えられた武士、教師、僧侶、公卿などは、本来は貧乏でなくてはいけないのです。

松崎 徳川時代の日本で見るなら、名誉は朝廷や僧侶が担当し、権力は幕府を頂点とした武士が掌握し、財力は専ら町人に属していたというパターンがある。しかも、それを地域的に把えると、名誉が京都、権力は江戸、財力は大阪ということになります。

藤原 ところが明治の中央集権的な絶対専制体制によってすべてが東京に集ってしまい、名誉は華族や軍人、権力は官僚、財力は財閥ということで一元化に近くなり、その中核は明治国家と結びついたソシアル・クライマーでした。東京に集りすぎですね。

早川 ソシアル・クライマーというのは役人的な人間です。江戸時代の武士は封建体制下における官僚であるとともにエリートだった。明治のクーデタによって旧権力の官僚としての地位を失うと、生きるために知識を切り売りしたければならず、そこで権力から名誉へと切り替えて、名誉の末端を代表する教育者にと転じた。もともと漢学の素養があるから、その移行はかなりスムーズにやれました。


江戸時代の教育と漢学

松崎 ペンは剣よりも強しというわけで、明治になって廃刀令や廃藩置県で身分や地位を失った士族の多くは、学問があるということで、官吏になるか教育者になったわけです。ある意味では生きるための手段だった。しかも、そういったパターンは江戸時代にはすでにあって、浪人が塾を開いて子供たちに手習いを教えたりしているから、非常に自然な移行だといえますな。

藤原 日本の封建社会のパターンは、中国の戦国時代や漢の時代にモデルがあって、日本人は2000年以上も昔の中国の政治のやり方を手本にして社会を作ってます。現に徳川時代の日本人にとっての古典は周や漢の王朝時代のものです。浪人が塾を開いたことなんかは、日本人にとってはいかにも江戸時代的な現象だけど、『三国志』の中で貧乏時代の劉備が関羽や張飛と義兄弟の約束をする場面があって、そこにすでに寺小屋のモデルがあります。劉備自身が14歳の時に洛陽の近くに勉強に出て、盧植という学者が開いていた私塾に入門しているが、関羽自身も浪人していた時に塾を開いて村の子供たちに読み書きを教えています。この関羽の塾は江戸時代の浪人の主催した塾の原型です。

早川 江戸時代の塾の本体は寺小屋であり、その源流は禅僧を中心にした学問堂や奈良平安仏教の講堂にある。それがまた徳川幕府のテコ入れもあって、学問としての漢学が僧侶の手を離れて学者の手に移る。昌平黌を創立した朱子学者の林羅山、その門下の木下順庵や新井白石、それに昔は講談によく登場した荻生祖来や中江藤樹なんて名前が思い浮びます。また幕末になると松下村塾の吉田松陰や適々斉塾の緒方洪庵なんていう、実に壮々たる教育者が私塾を開いて人材を育てましたな。

松崎 今名前をあげた学者のほとんどは、士族の子弟を教育した。しかも、武士階級の教育機関としては、徳川幕府の公認学問としての朱子学が儒学の正統派として君臨したけど、その他にも各藩ごとに正統派や非正統派儒学を教えるものとして、藩校があっただけでなく私塾もありました。それだけではなくて、町人を相手にした寺小屋式の塾もあったし、芭蕉に見るような特殊なスクールも存在して、実に賑やかでした。

藤原 また、山鹿素行や熊沢蕃山が処罰されたり、寛政異学の禁で体制批判を封じようとしているけど、明治時代よりは多様性があって賑やかだった。結局は、封建制の方が絶対制よりも締めつけがゆるかったともいえますね。

早川 そう簡単には決められません。由井正雪や林子平のように、いろいろと名目をつけて、反体制ということで徹底的に弾圧を加えている例は、数えあげたらキリがないですよ。それから松崎先生が指摘した芭蕉を取りまく弟子たちの系譜は、その源流が孔子や孟子の師弟関係にあり、これは正統派儒学の流れのバリエーションの一種です。いわゆる思想と趣味の結びついた折衷型のもので、お花や茶道、あるいは能楽や踊りの家元制度に見られるような、サークル活動の派閥的なものとして独得な学校を形成しています。

松崎 ナントカ学派に相当する英語のスクールでして、それは同じ儒学の中にも、孔門派とか孟子スクール、それに朱子学や陽明学があるのと同じで、もっと俗っぽくなって自己主張をやり出すと、裏とか表になったり、西川流や観世流ということになるんです。

藤原 日本の政党活動なんかそのいい例だし、現在の目本でサラリーマンたちの間で流行している勉強会や同好サークルも、ほとんど同じ系列に属すとおもうんだけど、何となく人間が集まって共通の話をするグループができる。そして、その中で芽生える人間関係がグループ意識や共同体的なサブカルチャーで統一されて、いわゆる派閥や学閥みたいなものを生み出すパターンが日本人の場合強い。制度として教育界全体を支配するほどの拘束力は持っていないが、このパターンが日本の教育に与える影響自体は、実に強烈だといえるんじゃないですか。

松崎 しかし、古典派とか新古典派といった具合に、学派に分れてそれぞれが自己主張するのは、古今東西を問わず常にあるのでして、日本に限ったことじゃない。つきつめるなら、人間の在る所は一人一派が成立してもいいわけですからね。

早川 ただ考えなければいけないのは、日本のような国では、その派閥なり家元が一種の世襲財産みたいなものになっていて、グループやサークルの構成メンバーがいて、それをベースにして枠組ができるというよりは、枠組の方が先にできあがっていて、その中に各人が参加していくパターンが支配的です。

藤原 それは個人主義的な基盤が稀薄であることと、伝統指向型の社会的性格が強いせいです。ある意味で太古的といってもいいが、古代的な社会意識がかなり純粋な形で残っているせいじゃないですか。宗教や軍隊のようなものにそのハイエラルキーが保存されているけど、根底には共同体意識と秩序体系が力学関係で結びついているんです。

松崎 それは日本文化自体がセカンドランナー型であり、古代から中世にかけては中国、近代においては欧米諸国をモデルにして制度を取り入れたという、手本模倣型の性格を持っているせいです。教育制度だけでなく、宗教、政治、社会制度のほとんどすべてが、どこかよそに手本になるものがあり、それを上手に導入したのであって、自発的に何かを作りあげるために試行錯誤を繰り返した、ということじゃありません。古代律令国家自体が唐からの完全な借りものです。

藤原 それも形態を借りてきただけで、なぜそういう形態を取るようになり、取らざるを得ないのかといった、考え方までは追求せずに取りこんでいる。それは現在の技術導入だって同じで、日本人はハードウェアをマスターして自分のものにする能力には、実に素晴らしいものを持っているが、残念ながらソフトウェアが苦手なんですね。大学制度なんてその典型じゃないですか。 大学は容器としての学校なんて大した意味がなく、問題はその中でどんな人材が育ち、どんな研究が行われているかにあるんだが、日本人にとっての大学は専らカンバンが関心事になっているもの・・・・・・・。

早川 ギリシアの場合で見ると、ソクラテス以前の段階で、いわゆるソフィストたちが啓蒙的で私的な塾みたいなものを開いたといわれるが、その実体は辻説法みたいなものでして、公園やギムナシオンと呼ばれる体育場で問答みたいなことをしたわけです。どうしたら人間は正しい生き方ができるかとか、経国済民の国事問題や哲学が議論の中心で、孔子や孟子がやったのと似たようなものです。結局、ギリシアや古代中国の哲人のパターンに共通しているのは、学問というのは辻説法よる対話に原点があり、それが次の段階で、お寺や講堂の一角を借りて定着型の講演場になって、最後に学校のようなそれを目的とした建造物を持つようになって、制度として固定していくのが教育の発展のパターンじゃないですかな。

松崎 同じことは宗教についてもいえます。辻説法から講になり、次に宗門として建物や本山とか末寺の関係が生れてくる。ソクラテスなんかだと辻説法型に近いが、プラトンあたりになるとアカデメイアに学園を開いて、いわゆる教育と学校経営の両方に精を出してます。

藤原 昔から本当に偉い教師というのは、フォーマルな形で教えること自体を拒否しており、学ぶことで教え、教えることで学ぶというやり方を問答の形でやるだけでしょう。だから本当に偉大な人物は本なんか書き残さないし、教授などという肩書にさえ無関心です。

早川 大体古典として本当に優れた本は、弟子たちが先生の言行をまとめて、「…子曰く…」といった具合に書き残すのです。この頃の大学の先生の本のほとんどは、どう読んでみたところで「オレがオレが……」といった調子の自己主張ばかりが目立ちます。あれじゃあ、とても古典として何百年も残りませんや。第一、きわめて当り前のことですが、『論語』の中で孔子が「自分はこう思う」なんてことをひとつもいってやしません。すべて「子のたまわく」です。芭蕉あたりになるとぐっと落ちるから「予は……」なんて自分のことを書き出す。

藤原 ガリレオあたりになると「自分はこう考える」なんて書き方をしてます。自然科学上の発見では偉大な仕事をしているが、人間としては日常性の中で生活苦と闘う必要もあって、どうしても自己の売りこみというか、いろんな具合の自己主張が目立ちますね。

早川 それはガリレオが研究者であって、教育者でなかったせいでしょう。 大学の中には両方が混在しているけれど、本来教育者と研究者とは存在形式が違うのです。

藤原 教育者の究極は宗教家にあるし、研究者の究極は自然科学者にある。そして、その両方を結びつけるものとして、一般的な意味でのフィロソフィのバリエーションが存在しています。そのフィロソフィのべースになるのが教養であり、無知を克服して幅広い教養と見識を身につけた人間に対し、哲学博士ということでPhDを授けたのが、近代におけるアカデミズムのアチーブメントの表現形式だったのではないですか。

早川 学問ひと筋に打ちこんで一生を終ることの虚しさについては、ゲーテが『ファウスト』の冒頭のところで完璧な形で書き尽しています。あのせりふは大変な名言でして、こんな具合の独自になるんですな。「ああ、私はこれですべての哲学も医学も、それに、あらずもがなの神学さえも、努力に努力を重ねてきわめつくした。その挙句がこのざまで、哀れな愚か者だということだ。前よりは少しも賢くなっておらぬ。マスターだのドクターだのという肩書で十年という長きにわたって、あげたり下げたりひきずりまわして学生たちの鼻を引っ張ってきた。そして、われわれは何も知り尽し得ないと悟るばかりである…」。まさにその通りでしてファウスト博士が山と積んだ本を前にして、知識のモヤの中から解放されたいという気持は、実にヒシヒシと伝わってくるおもいです。

松崎 それはすべてをきわめ尽した人間であるが故にたどりついた境地であり、大部分の人間にはものを学ぶこと自体が大変な仕事になるわけです。そうであるが故に、学問への大きなコンプレックスもあるのではないですか。

藤原 だから、教育における初期の段階としての学習が子供たちに必要であり、その次の中期の段階で教育が出てくるんです。学習は馴化への第一過程であり、馴化というのは文化の別名でして、情報媒体であることばの助けを借りることで、ある限定された時間帯における空間の中に参加させられるプロセスだと考えられます。だから、何度も繰り返して人間の中枢神経システムと肉体が、環境としての文化に適応することと、その文化の中の個体として自らを統制する仕方を身につけるのが学習だとおもうんです。文化に受け身の立場で接しながら、しかも学び習うという主体的構えを維持しているのが学習期です。

松崎 その意味では、文化というのは単なる伝統的な芸術様式とか風俗習慣、といったものではなくて、ひとつの学習された価値体系といえます。そこで教育の役割の重要性が脚光を浴びることになる。

藤原 学習期の次にくるのが教育期であり、これは文化を担う側からの教えるという動きと、それを受け止める個人が自ら育っていく、という相互関係で成り立っている、とおもうんです。理屈抜きでいえば、教え育てる行為と、教わり育つという反応の循環作用でしょう。

早川 しかし、日本語の持つ響きからすると、教育は教え育てるであって、これは明治の臣民訓導と官吏養成の精神が根強く生きているせいでしょうな。おそらく、教育という日本語自体が明治の権力者が作りあげたもので、ことによると漢語調の単語をたくさん発明した、あの西周あたりの作ったものと違いますか。現に福沢諭吉が書いた有名な『学問のすすめ』だって学問ということばを使っていて、『教育のすすめ』とはいっていません。

藤原 もし福沢諭吉が『教育のすすめ』なんて題を彼の本につけていたら、明治の人はあの本を競って読もうなんて気を起さなかったはずです。教育のすすめという発想はいかにも漢学的で封建的な儒教思想の臭いがプンプンしていて、福沢諭吉のイメージに合ってないですよ,

松崎 学問ということばには、己れに挑む人間のイメージがあるが、教育だと何となく訓導ということばに重なります。

早川 日本の伝統的な修業の世界に能楽があるが、修業の過程を三つの段階に分けています。まず第1が修であり、これは師匠や先輩を手本にして、それを徹底的に見習うのです。第2は手本を十分マスターした段階に達した時で、手本やカタを打ち破って自分のものを見出すのでして、これ破と呼びます。そして、第3はあらゆるカタや枠組にとらわれることなく、自分だけの独自の境地を切り開いていくことで、これを離といいます。これは書道でも剣道でも皆同じで、修、破、離の階段を登っていくのが筋道でしょう。

藤原 知っているから分るまでの領域が修であり、頭で知ったり分ったりすることを会得といい、体を含めて知ったり分ったりすれば体得になるんです。そして自信がついた時に破とか離に行けるけれど、それは学校で学ぶことではなくて、自らの力で開拓していく領域じゃないですか。

松崎 少なくとも高校を終えるまでは、普通の場合は破や離が出てこないでしょうな。高校までは教育の場だけれど、大学は学問の場であって、大学を含めて教育の枠に入れたのは概念の濫用です。すべてを教育という枠で抑えこんだのは、官僚的硬直化の現れでしょうな。

藤原 おそらく、教育ということばが一般化して国民理解されるようになったのは、教育勅語が出てからじゃないですか。

早川 そうかもしれません。教育勅語の謄本と天皇と皇后の御真影と呼ばれた写真が全国の学校に配布されて、学校教育の中に臣民精神を叩きこむことになる。小学生は勅語の全文を丸暗記しなければいけなかったし、御真影には敬礼しないと非国民呼ばわりをされました。

松崎 不敬事件というのがありましたね。勅語への奉読に敬礼したかったということで、内村鑑三がものすごく攻撃されたし、学校の火事の時に御真影を運び出すために、たくさんの校長が焼け死んでいる。酷い盲従の強制がまかり通ったお陰で、教育ということばが国民の間に広まったのかもしれませんな。

藤原 小学生が教育勅語を一句一語も間違わずに丸暗記し、教師が御真影に絶対盲従を義務づけられたところに、義務教育としての本質が顕れていたといってもいい。上からの強制という形をとって、国民を特定な鋳型にはめこもうとした、明治の為政者たちの統治する姿勢が、そこにはっきり集約されていますね。まさに絶対専制の権力支配です。

早川 そこには義務としての教育があるだけで、権利としての教育は片鱗もありませんや。

藤原 これはぼくの個人的な定義の仕方だけれど、権利としての教育という概念は、ある社会の民主化度の関数になっていて、教育の段階では義務と権利はスライド関係で共存している。そして、本当の意味で権利が主張できるのは、初期の学習と中期の教育に続く後期の学問の段階であって、学問の権利という表現だけが、本当の意味を持つのじゃないかとおもうんです。

松崎 人権のひとつとしての学問をする権利ということですな。しかし、教育の目的のひとつが学び方を学ぶことにある以上、教育ということばの概念の中に学問を含めて考えてもいいのではないか。日本語で教育ということばを使う時には、学問を含めているのが普通ですよ。

早川 要するに、学ぶのはそれぞれの個人だが、教えるのが誰かということです。もちろん直接教えるのは情熱を持った教師に違いないが、制度としての教育が教師の情熱と意欲をベースにするのか、それともその背後に国家権力や教会、あるいは専制君主や独裁者といった、特殊な目的意識を持った存在がひかえているのかどうかの問題です。私自身の立場は、教育は教師に始まって教師に終ると考えるので、本来あるべき教育というのは、学習も学問も勉強も含んだ幅広いもののはずだとおもいます。

藤原 ぼくは学問ということばが好きだし、教育ということばより高度で幅が広く、しかも主体性をより多く含んでいるので、教育より学問を上位のものだと確信しています。またルイ・アラゴンの詩の一節に、「教えるとはともに希望を語ること、学ぶとは、誠実を胸に刻むこと・・・・」という素晴らしい表現があるけど、これは早川さんが考えるところの、教師に始まって教師に終るという師弟関係のパターンの中でしか生きません。その意味で、学問をするための教育の場というのは、すべての権力的なものから独立していることが望ましい、といえる。

松崎 しかし、大学の歴史などを検討してみると、神学を体系づけるために 教会がゼミナリオの形で組織したり、メソポタミアのように官僚としての神官を要請したりする、いわゆる官学的なものと、高僧や有徳者のところへ人びとが集まって師弟関係を持ち、それがいわゆるスクールとしてまとまってくる民学的なものの二系統がある。その両方がともに教育システムの正統として位置づけられる以上、教師がすべてである民学的なものだけがいい教育で、官学はすべてにおいて悪いと決めつけるのは無理だ、という気がします。

早川 それも確かに正論です。ただ、現在の日本が、個人の自由を基本にした民主社会を理想にしている時、そこで追求されるべき教育の在り方が、果して官学的なものとして文部省あたりの役人によって、国家主義的な官僚統制の方向で指導されていいものかどうかが問題だ。民主社会の教育なら権利としての教育という発想で、松崎先生流に言えば、より民学的なものを追求するのが筋だとおもうんですな。ところが現実にはそうではありません。

藤原 教育の反動化もあるけれど、機構としての大学そのものが教育的な機能さえ喪失して、はつらつとした気持で学問をするという精神は衰え、ほとんど若者の保育園か遊戯場になってしまっている。これは実に悲劇だ。

松崎 受験地獄の反動と大学が卒業証書の取得場になってしまったせいです。

藤原 それもあるが、むしろ、学問をするということの基本が見失しなわれたせいですよ。社会が豊かになりすぎたために乳離れができなくなった青年層が、モラトリアム人間として教育の場を遊びの場にしてしまった。

松崎 それはちょっと酷い考え方です。学びの心は遊びの心と共存していて、それはそれでいいのです。また、どの学部でもそうですが、トップの一割に入っている学生はよく勉強しているしできもいいですよ。問題は大学が増えたことで大学生と呼ばれる若者が激増し、大学生の平均水準の質が低下したのと、水準以下の救い難い連中を含めて大学生扱いをするところにあります。

早川 大学の歴史はイタリーに始まり、ボローニヤ大学が最古といわれているが、ユニバシティは語源的に見ると協同組合であり、学問をしようと考える学生が集まって学生組合を作っていったそして、学問をこの人から教わりたいとおもう人物を選んで教授に迎え学生が自主的にユニバシティを運営した。だから、学生組合は教授の任命権だけでなくて、自治権の下に自分たちの警察や裁判所まで持っていました。だから、大学自体がひとつの都市機能を持ってしたので、これは完全に民学です。

藤原 面白いのは教師と学生の関係であり、ピサ大学の数学講師だった頃のガリレオの体験です。教師は講義を休むたびに罰金を払わさせられる規定があり、情状酌量は全く認められていない。そして罰金が給料から差し引かれるのですが、大洪水のせいで授業に出らなかった彼は休講7回分の罰金のために、アルバイトに追われるんですよ。

早川 日本じゃ休講だと学生は大喜びをするし、罰金を払わされないのに大学の先生はアルバイトに忙しいですな。それはさておき、ボローニヤ大学と並んで古いパリのソルボンヌ大学の場合には、逆に教師たちが組合を作っていまして、そこに学生達が学びに行く。貧しい学生がほとんどだから、共同生活のための寄宿舎や寮があって、キャンパス自体がひとつの自治を持った都市で、この教師主導型の民学が、現在の大学の原型といってもいいでしょう。

藤原 フランス語でシテ・ユニベルシテールと呼ばれているもので、ぼくも寮で生活をしたけれど、学生による自治制が確立していました。フランスの大学はパリのカトリック大を除いて全部国立だけど、自治に関しては教授会も学生自治会も共に強い力を持っています。

早川 制度としての官学が伝統的に民学の精神を持っているということですかな。今の日本じゃ原則的に民学であるべき私学までが、官学といっしょに官学精神に支配されているみたいです。

藤原 民学で一番古い大学がボローニャ大だとすると、官学としてはアレキサンドリア大学あたりが一番古いのかしら。確か回教で一番古いのはカイロのアズハリ大だったと記憶するけれど….

松崎 果して大学と呼んだかどうかは知らないが、仏教やユダヤ教のゼミナリーみたいなものとか、エジプトやメソポタミアの神官養成所みたいなものが古いのではないか。天文観測のための技術員養成なら、さしずめ理学部の宇宙物理学科じゃないですか。プトレマイオスなんかスタッフの一員だったのと違いますかね。


思想における闘争と幕末のテロリズム

藤原 ボローニヤ大学とソルボンヌ大学の例で、民学における二つの系譜があることが分り、官学としては神官や僧侶の養成所や中国の儒家のグル−プに源流的なものが見られます。その他に各種の私塾もある。こういったモデルで教育制度について考えみると、江戸時代の日本には官学としての昌平黌 や藩校などがたくさんあるとともに、寺小屋的なものとソルボンヌ的なものも結構あったといえる。しかし、ボローニヤ大的なものは余りないですね。

早川 そうは言い切れない、というのが私の見解です。藩校というのは一見すると官学に見えます。だがその藩の指導層としての藩主や家老、老中といった人びとが、これはとおもう優れた人材を師範として招いて、人材教育を担当させた時はボローニヤ型のバリエーションです。もっとも幕藩体制という封建的な社会関係の枠の中、という点での限界もあって、自治などといった概念とは無関係です。また、藩校の師範ではなく藩のアドバイザ−的存在になったり、自分の私塾に藩主や家老が弟子入りした例もたくさんあって、小幡藩の家老の吉田玄蕃と山県大弐の関係や、松代藩主の幸田幸貫と佐久間象山などがそうです。

藤原 そこまで拡大して解釈するのなら、皆がそれぞれ教師や弟子を持ちまわりでやり、一種の洋学勉強会みたいな内容を持つ、あの蛮社の獄の尚歯会が、ともに学ぶ喜びといった雰囲気の中で、ボローニヤ型のサークルを作っていたといえませんか。自治権なんてもちろんないから、たちまち弾圧されちまったけれどね。

松崎 無理にヨーロッパの大学のパターンにあてはめようとせずに、日本における民学の系列は底辺にある寺小屋とか藩立の郷学の上に位置する、いわゆる各種の私塾や藩校との比較で論じたらどうでしょう。一番有名なのは長州藩の藩校の明倫館と、吉田松陰が開いた松下村塾ですが、官学の明倫館に較べて私学の松下村塾の出身者に、明治の逸材が余りにも多いというのはよく指摘されることです。その理由のひとつとして、明倫館のおしきせ教育にあきたらない青年たちが、志を持って松下村塾に結集したから緊張感が漲っていた。それが国事犯として幽閉されていた松陰との出合いによって、熱気と火花を生み出したことにより、ものすごい教育効果を生み出したのだ、といわれていますね。

早川 確かに松下村塾の出身者の中からは、高杉晋作、久坂玄端、品川弥二郎、伊藤博文、山県有朋、前原一誠といった維新期の逸材や元勲がたくさん生れた。しかし、逆に考えるなら明治の絶対主義を確立した伊藤や山県の出身校だからということで、必要以上に松下村塾を評価している点もある。また、幕府の弾圧にあって刑死したこともあり、忠君愛国に殉じた国士として松陰の虚像が文部官僚と国粋主義者によってデッチあげられていて、その影響があい変らず強いのです。

松崎 とくに戦前の小学校の修身の教科書には嫌というほど松陰の逸話が繰り返し出ていて、彼を神格化する工作が試みられている。当然の結果として、誰でもが吉田松陰についての虚像を信じこんでしまった。

早川 明治絶対主義の推進者が長州閥だったので、勝てば官軍ということになって、山県や伊藤が恩師を祭り上げたのだが、実際に彼らが松下村塾で松陰の教えを受けたのは一年足らずだし、松陰は教育者というよりもアジテータだった。だから、彼が狂信的であればあるほど、青年たちを過激派にする。松下村塾なんてテロリスト養成場であり、井上日召の立正護国堂や赤軍派の学習会と似たりよったりじゃないですかな。

藤原 若い頃の伊藤博文はテロリストであり、幕府の学問所の国学者だった塙次郎を、暗殺しているし、孝明天皇の暗殺にも一枚加わっているといわれてますね。

早川 証拠はすべて明治政府の手で 滅してしまったでしょうが、時が時であっただけに幕末に暗殺は日常茶飯事でしょう。テロリストが成功すると元勲になり大統領になるのはどこの国にも共通で、殺人をグループで大量にやって偉くなるのが軍人で、個人的にやれば暗殺と呼ばれることになる。山県は将軍としてそれをやり、伊藤はテロリストとして位人臣をきわめた。イスラエルはPLOをテロリスト呼ばわりして勝手放題をして、パレスチナ人やレバノン人を殺しまくっているが、ベーギン首相自身がかつてテロリストだった。いまは国をあげてテロ国家になっている。明治の日本だって同じで、テロリストが権力を握って首相や内相をやれば、朝鮮人や中国人を相手にして、国をあげて大規模なテロをやり、それを事変とか戦争と名づけてごまかすのは至極当然のことですぜ。

藤原 明治維新自体がクーデタであり、暗殺と斬り合いを通じて実現した権力争奪戦である以上は、血が流れたのは仕方がないですね。

松崎 幕府側にも新選組というテロ集団があって暗殺に明け暮れていたし・・・・・・・・

早川 それに幕末期において特徴的なことは、殺し合いが塾を単位にして行われ、塾頭に相当する指導者がほとんど殺されている。刑死や獄死も幕府側からのテロリズムだと考えるなら、幕末というのは実に血なまぐさいテロの季節なんですな。しかも、そこに藩校や塾という教育の場が密接に結びついている。ちょっと思い浮ぶだけでも、象山書院の佐久間象山、松下村塾の吉田松陰、蛮学社中の高野長英があるし、テロリストの巣窟である水戸藩となると、弘道館だとか彰考館だとかが入り乱れて殺し合いをやっています。

藤原 あの天狗党と書生党の殺戮合戦はすさまじいですね。狂気にとりつかれた内ゲバのものすごさときたら、とても赤軍派など足もとにも及ばないほどで、あの辺にカミカゼ的な玉砕精神の原点があるんじゃないですか。あそこまで情念が日本の青年たちを狂気にかり立て得るということは、幕末や太平洋戦争末期における狂信思想の効果というか、青年教育の歪みの恐ろしさというものを痛感させられますね。

松崎 われわれ日本人の場合は、ああやって排他的な民族主義がさらに幾つかの派閥に分れてゲバルト的な殺し合いをやった事実が、歴史の中に指摘できます。ところが、現実の問題としてはレバノンやイランで現実に行われている内戦とか、世界各地で頻繁に起っているクーデタなんかを見ると、そのほとんどが単なる権力の奪い合いということではなく、実は他の集団に対しての偏見や憎しみが、塾的な学習会や学校教育を通じて拡大再生産を繰り返している。その点で、教育の責任というのは実に大きいといわざるを得ません。

早川 その偏見と怨念を最も組織化し巧妙にかき立てているのが、クレムリンを司令部にした国際共産主義運動であり、そのもう一方の雄として、絶対専制を宗教的なオブラートで包んで、人間の精神界を支配しようとするバチカンの世界戦略があります。

藤原 そこまで問題の本質を掘り下げるのだったら、封建主義を喜んで受け容れる人間を作るための儒教精神の役割も、コミュニズムやカトリシズムと並ぶ三大反動思想のひとつとして、そこに位置づけるべきだとおもうんです。それに対して、近代を特徴づける個人主義をベースにした民主主義があり、その中心はアメリカに位置している。この4つのファクターが文明における基本的な社会パターンを作って、全体主義、絶対主義、封建主義、民主主義といった枠組で、歴史におけるヘゲモニー争いをつき動かしてきたとおもうのです。拠点にあたるグラビティ・センタ−(重心地)を地理的な空間で眺めると、全体主義は東欧、絶対主義は西ヨーロッパ、封建主義はアジア、民主主義はアメリカによって一応代表されるけど、これは単なる目安としての意味しか持たない。歴史的に時間軸の中で次にこれを眺めると、それぞれの社会の持つ文化的特性と発展段階によって表現形式を異にするし、そこにモザイク的なパターンがあります。また、これらの特性を一番分かりやすい形で現しているのが教育制度であり、教育理念としてのそれぞれの時代における思想だとおもうんです。

松崎 しかし、そう簡単に図式化するのは危険ですよ。同じアジアといっても、日本と中国は違うし、インドとフィリッピンだってものすごい違いがある。また、中国の場合なんかでは、清朝時代と毛沢東による共産革命後の人民中国では大違いです。

早川 たとえ毛さんが革命をやろうとやるまいと、私は中国人がベースにする発想法自体少しも変っていないと見ます。中国人には「われに孔孟の教えあり」以外のものはあり得ないんでして、文化大革命の時に孔子批判をやりましたが、中国人が孔子を否定することは自己否定のきわみだから、そこで元も子も失って四人組は失脚せざるを得なくなったのです。中庸の民である中 国人にとっては、過ぎたるは及ばざるが如し、ということです。

藤原 日本人はせっかちな上に新しいもの好きだから、二千年以上続いてきた儒教の伝統の上に、いろんな新思想や新解釈を結びつけて派閥争いをやる傾向がある。それが面白いように日本の近代史の表面に浮き出している、とおもうんです。

早川 日本人は中国の文化大革命を見て、何と狂信的なことがまかり通ったことだろうと眉をひそめているが、維新期の廃仏殴釈や太平洋戦争中に徳富蘇峰が音頭を取った、あの神国日本翼賛運動なんかが全く同質の狂信行為だ、ということを忘れているんですな。

松崎 文化大革命というのはまさに新体制運動だし、学徒動員と同じで、若者たちが駆り出されるパターンは、洋の東西を問わず共通です。だから、教育の分野に大きた変化が現われる時というのは、社会にとって非常に重要な挑戦が試みられていると判断していいのです。教育界が荒れている社会は不安定ですよ。

早川 保守派とか進歩派とかの立場にかかわらず、社会がひとつの危機に直面しているということです、そして現在がまさにその時に当っているんですな。

藤原 そのことを明白に浮び上らせるためには、これまで論じてきた幕末までの日本の教育体制が、その後どういう具合に変化したかについて見ればいいと思います。

早川 そうなると、明治5年の学制の発布前後の事情から見る必要があります。寺小屋と藩校の時代から、学制にもとづいた学校の時代へ移行するんだが、塾なんかはかなり連続性を持っていたんじゃありませんか。福沢諭吉が創立した慶応義塾あたりが最古の私立大学だとすると、随分長く続いているわけですな。

藤原 でも、私塾というのは創設者の個人的な魅力がキイだから、長く続くのは建学精神が生き続けているか、あるいは大学自体が事業化に成功したり、官学化して没個性的になるのかのいずれかでしょうね。現に江戸時代に盛名を誇った広瀬淡窓の成宜園や緒方洪庵の適々斉塾など、結局は明治まで生きのびなかったですからね。

松崎 慶応義塾とか幕府の開成所とかのように、現在の学校の出発点は幕末期にあるみたす。一番古い小学校は京都にあって、柳池小学校が明治元年に開校したそうです。


明治初期の民主教育とその挫折

早川 藤原さんが『虚妄からの脱出』という本の中で述べている通り、明治5年の学制というのは大変開明的なものです。近代国家を大急ぎで作らねばならないというわけで、欧米諸国を範に取ったせいもあって、非常に民主的な教育観に貫ぬかれている。日本人の頭に理解しやすかったせいか、形の上ではフランス的制度を採用しましたね。

藤原 教育理念はむしろアメリカ的だが、学制としてはフランス式です。当時の日本は総人口でもフランスと似ていて約3,000万人でした。そこで人口600人を1単位にして、日本全土に54,000の小学区を作った。また、210の小学区ごとに1中学区として32中学区ごとに1大学を置いて大学区と呼んだんです。また、学問は自分のためであっても、もし精を出して勉強しないと社会の中で生きていけないという、大変実利的な趣旨の『仰せ出され書』がその根本にあって、授業料は自分で払えとか、子供を学校にやるのは親の義務だといったことが説明してあります。

松崎 ある意味で、アメリカのコミュニティ・スクールの考え方です。あの学制では学校の建設や教員の給料などは住民の負担ということになっていた。ところが、当時の税制は年貢による地租だったし、住民が経済的に余りにも貧しかったので、その実現は到底不可能だった。

藤原 あの段階で一番重要なことは、小学、中学、大学というのが、学区における行政上の広さのことであり、上下関係ではなかった点です。小学校や中学校がそれぞれ自己完結的だという設定は、とても開明的です。

早川 幕末から維新にかけての混乱により、儒家たちが洋学者たちに圧倒されていたこともあって、非常にもの分りがいいことをいってますな。小学校は男女共学だし、学問をするのは国家のためでなく自分のためだ、なんてことまでいってます。同じ年に出た福沢諭吉の『学問のすすめ』が、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずといえり」と書いている通り、短かかったけど、あの時期の日本には近代と呼ぶにふさわしい人間主義への確信が息づいていました。

松崎 それに明六社に見られるように、政府に関係する人間の中にも漸進的な自由主義を支援する雰囲気があった。文明開化のかけ声だけでなく、実際的に、新しい国づくりをするための各種制度の整備という点で、意気軒昂だった。各地に勧工場を作ったり鉄道を敷いたりして、日本の資本主義はダイナミックに動き出したわけですからね。

早川 世の中はそれほど楽天的だったのではない、という気がします。なにしろ、徳川家の側についた藩は朝敵ということで、藩主から下級武土まで人間扱いされなかったし、廃藩置県や廃刀令で切り捨てられた不平士族は不穏な動きを示した。それに廃仏殴釈や世直しの打ちこわしと一揆が頻発して、世情は騒然としてたはずです。明治5年というあの時期に、あれだけ開明的な学制を採用したのは、実に英断だとおもうけれど、ことによるとまだ官僚制が育っていなかったので、下僚が外国のものを翻訳して余り手を加えないまま発表したのかもしれない。そうなると怪我の功名というか、ヒョウタンら駒が出たことになるのかもしれませんな。

藤原 福沢諭吉の『学問のすすめ』が何十万部も読まれたくらいだから、教育に関しての関心も高かっただろうし、当時の日本人の学問的素養や武士としての行政手腕には高いものがあったので、洋学者を中心にしながら、あれくらいの制度を作る能力は十分あったとおもう。むしろ、重要なことは、その後になって反動的な明治官僚の指導者格になる連中が、遣欧使節団の一行として明治4年に岩倉具視について行ってしまう。それも、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文なんていう壮々としたメンバーが、二年近くアメリカやヨーロッパに出掛けているんです。政府は空き家同然で、あとに残って留守番をしたのは西郷隆盛や大隅重信くらいで、大した人材はいませんよ。

早川 あと、井上馨と板垣退助くらいなものです。

藤原 この洋行組が帰国してから、不平士族による佐賀の乱や萩の乱があり、西南戦争と紀尾井坂の暗殺で西郷と大久保が死んでしまうと、いよいよ伊藤博文や井上馨、それに井上毅や山県有朋といった絶対主義を信奉するテクノクラートが君臨するようになる。そして日本の社会は完全にプロシア型の路線をつっ走るわけです。

早川 教育自体が中央集権的な忠君愛国路線になってしまう。しかも、軍国体制をベースにした統治機構の中に、教育制度が組みこまれてしまったのです。たとえば旧制高校のナンバースクールのうち京都の三高を除くと、すべて師団司令部の所在地だということは、軍隊と教育が制度上で表裏の関係だったいい証拠です。

藤原 中国で毛沢東が考えた、人民解放軍と共産党の関係に似てますよ。

松崎 それはソ連の方が本家でして、赤軍と政治委員の関係のコピーですよ。

藤原 日本の教育がプロシア流の絶対主義的軍国路線として確立したのは、森有礼が行った師範学校制度の改革と、明治23年の教育勅語です。この2つの出来事を通じて国家主義が日本の教育の中心理念になってしまい、明治5年の学制による個人のための学問の立場が雲散霧消してしまった。

早川 教育が個人のためか国家のためのものか、という議論は昔からあって、ハロルド・ラスキがこの問題を哲学的に扱っているし、バートランド・ラッセルも論じています。思い切って古い所へ行くとプラトンもやっています。有名な『共和国』に出てくる一種のユートピア論ですが、国家の指導階級であるガーディアンに対して、どのようなエリート教育をやるべきか、という形で問題を提起しています。

藤原 マザーが書いた『ヒトラー』によるとヒトラー自身がそのプラトンのガーディアン教育論から影響をうけ、例のヒトラー・ユーゲントにおけるエリート教育に応用しています。

早川 ラスキの場合は、彼の国家観自体が個人との契約にもとづいて公共的なサービスのための団体として、アソシエーションの形で存在するものが国家だ、という考えにもとづいている。だから、教育の本質は、個人としての自分が賛成できるものではなくてはならず、もし願望に反していれば、それは洗脳に他ならないということになります。

松崎 教育の現実の姿は一種のマニピュレーション(操作)といってもいいでしょう。

藤原 歴史的に見るなら、これまでの教育を支配してきたものが、主として全体主義、絶対主義、封建主義といったものだったために、ソ連のピオニールや毛語録を暗誦させられた紅衛兵、ヒトラーのユーゲントとか、七生報国なんてことを口にした日本の皇国青年などを生んだわけです。われわれが個人として本当の意味で自分自身であり、しかも欲求の多様性で目標の複数性を追求する条件が存在するときに、そこに自由が生きているといえるけど、国家の要求や目標が先に押しつけられると、個人は自己の本質を喪失してしまいます。

早川 洗脳効果が一生ついてまわるところにその恐ろしさがあって、友人のドイツ人で大変気のいい男がいるんですが、彼にいわせると、ユーゲントのメンバーになれた嬉しさは、いまだに忘れられない、とこうです。市街戦の時に弾丸運びをやらされたわけで、死んだ兵士の銃を取って戦うことまでやったが、誰も勝利を信じていたわけではなく、ひたすら戦いそのものに没入していた、ということなんですな。

松崎 洗脳効果は長く持続するから、たとえ毛語録を焼き棄てたといっても、結局は頭の中に残ったものは焼けません。それは戦後になって幾ら民主教育だといってみたところで、頭の中に教育勅語がしみついている老人にとっては、忠君愛国はどうしてもぬぐい去り得ないし、そこに国定教科書の復刻版がベストセラーになる精神的土壌もあるのです。

藤原 人間はひとつのことを何度も聞かされると、ついにはそれを信じこむ。それを中国人は「三人これを疑えば、慈母すら信ずるに能わず」と表現してますが、子供への洗脳では三人で言う代りに、一人の先生が三回繰り返していうわけですよ。

早川 論語は徳川幕府の役人の必読書だから、さっそくそれを応用していて、そのやり方は江戸時代だけでたく明治から現在にまで続いています。そして、講談やナニワ節を政治学と同じに扱い、落語や義太夫をひとつの哲学として普及させる。雀はチュー(忠)と鳴き、烏もコー(孝)と鳴く、なんてセリフは植木屋から大工や左官の親方や見習い小僧たちにとっては、分りやすくて一番筋の通った論理です。そこで、教育勅語や軍人勅諭なんてものは、この忠孝のロジックと論理を四角な文字に翻訳しただけのことで、漢字をいっぱい織りこんで「朕思ウニ吾が皇祖皇宗……」だとか「忠節を守るを本分とすべし」なんてお経を暗唱させたのです。

松崎 平たい英語で表現すれば全くつまらないことを、カトリックの坊主はラテン語で妙な節をつけるから、何となく荘厳でありがたいように聞えてくる。そこで何十馬力かのモーターで送風するパイプオルガンを響かせて、ブワーンとやれば信者は感きわまって天上の世界をかいま見たような気になる。仏教のお寺だって似たようなテクニックを使い、漢音や凡語なまりの発声で「ナムウ、ミョウホウ、レンゲェー、キョオーウ」なんていってお題目を唱えると、皆はありがたくおもう。

藤原 あれだって平文に直せば「ああ、ありがたやありがたや」というだけのことで、ありがたやの濃縮ジュースに他ならない。神主のやる祝詞だって、コーランの神は偉大なり、というアルラーフ・アクバルだって、ちょっとしたトレモロの利かせ方次第で絶妙な陶酔感を出せるんですよ。

早川 ウィーンにグラーベン・ストラーセという横丁があり、カフカが常宿にしていたグラーベン・ホテルという名の古くさい宿屋があります。日曜の朝などは近所のステファン寺院の鐘が鳴り響き、有名な大オルガン演奏でやるミサに善男善女が出掛け、鳩がとび交う下を寺院にゾロゾロと吸いこまれていく。私もそれにくっついて伽藍の中に入ると、ベラ棒に高い天井のドームいっぱいに、前奏のオルガンが響きわたっているんです。何となくありがたい気分に包まれてウットリしてしまいましたが、こういった教育には、ちゃんと道具だてがそろっていて、そこに行くだけで無言で洗脳されるような仕掛けができてるんです。

藤原 だから、宗教の世界ではその辺にビジネス・ノウハウがあって、大本山の建築には巨費を投入することになっているんです。大学の時計台だって似たようなものです。今どき腕時計をしていない学生なんかいませんからね。

早川 若い頃に鎌倉の建長寺の中に住んだことがあるが、毎朝の勤行のあのポクポクという音が実に心地よく感じました。演奏家ぞろいだったせいかどうか知らないけど、道具だてというものは恐ろしい効果を持ってます

松崎 帰するところは2,000年前にお膳立てができてしまっていて、お釈迦さまもキリスト様も長年にわたり商売繁盛というわけで、効果のほどはよく分っているので、最近ではソ連でも中国でも、宗教のノウハウを子供たちの洗脳に使っている。文部省のお役人だってチャンスを待ってるのと違いますか。

早川 文部省がいちいち口出しをしなかったという点では、たとえ読み書きソロバンにすぎなかったにしろ、坊さんなり浪人なりが教えていた寺小屋の方が、変な洗脳のもくろみが押しつけられないという意味で、教育上の自由が大きかったかもしれんですな。

藤原 でも先生がちょっと口をすべらすと、御注進とばかり町奉行所に届けが出て、銭形平次だの大伝馬町のナントカという岡っ引きが駈けつけたかもしれませんよ。

松崎 しかし、町奉行所から補助金をもらっているわけではないのだから、 余りツベコベいうなと追い払えるでしょう。その点で、たとえ寺小屋と呼ぼうと塾と呼ぼうと、いまの私立学校よりははるかにしっかりしてたですね。

藤原 それは裏長屋の塾にしても、補助金なんかをあてにせず、自分の力でやっていくという精神があったせいです。教育の原点は自立自尊に他なりませんからね。


世界の窓、横浜の学校

早川 それに、建物としての学校があって教育が始まるのではなくて、どこそこに偉い学者がいるとか、人格者がいるから教えを乞いたいという、そういう人間がまずいるという点が大事です。教師のまわりに一人二人と人間が集まり、やがて、それがアテネのアカデミアにたり、魯国の孔門三千人ということになるんですな。

松崎 しかし、いまの日本には学生数十万人なんて、すさまじい大学がある。これじゃあ幾ら孔子が束になってもかなわない。もっとも全教授会で十哲が揃わないかもしれないけれど…。

早川 私は横浜の人間で、親父が神奈川新聞を創刊したこともあり、雑学を小耳にはさむ機会に恵まれていた。自足袋宰相で有名な吉田茂は私の家の隣の吉田という醤油屋の養子でして、子供の時に耕余塾という名の漢字塾に行ったのです。というのは、藤沢の素封家で民権運動のパトロンをしていた人がいて、小笠原東陽という偉い学者が毎日釣りをしていると聞き、先生を口説き落して塾を開かせた、というのです。つまり、先生がいてそこに生徒が出掛けて行ったわけで、吉田さんが学習院に入ったのはそれから大分あとの話なんですな。

藤原 横浜は文明開化と騒ぎ立てられていた時期に、日本が世界に開いた窓に相当し、時代の最先端を行っていた町ですね。自伝によると高橋是清も横浜で世界の空気を吸っているし、岡倉天心や大仏次郎も横浜っ子でしょう。浜っ子である早川さんの横浜の学校についての思い出というのはどうですか。

早川 明治生れでも私は尻尾の方だから大したことはありません。ただ、私の親父は明治九年生れで来栖元アメリカ大使と横浜小学校の同期でして、あの頃は学校の公用語が英語だったのです。教科書ではパーレーの『ユニバーサル・ヒストリー』が歴史で、地埋はミッチェルの『ザ・ワールド・ジェオグラフィー』だったそうです。公立だが一種のコミュニティ・スクールで、本町他の13か町共同立、という面白い歴史を持つ学校です。

松崎 小学校の公用語が英語というのは、いかにも横浜らしいですね。居留地があって外国人がたくさん住んでいたせいかしら。

早川 それも関係してます。私が子供だった大正時代でさえ、町ではフランスやイギリスの硬貨が通用していました。

藤原 横浜を教育の面で眺めた場合、外国人がたくさん住んでいたこともあって、ミッションスクールも多かったんじゃないですか。確か『一房のぶどう』の舞台がそれで、有島武郎も横浜生れでしょう。

早川 そうです。彼が行ったのは確かセント・ジョセフです。教会からの補助もあっただろうが、ミッションスクールは自立経営が基本でして、どこも優れた教育をやっていました。有名なミッションのひとつにフェリス女学院がありますが、あの学校も初めは各種学校でして、床屋の学校や料理学校と同じ扱いをうけていたのです。それは自由教育をたてまえにして、文部省が押しつけた学校令に準拠したカリキュラムをうけいれなかったから、差別されたのです。これが日本人お得意の村八分に当るわけで、卒業しても公的な卒業資格を与えられないし、上級学校への進学を阻まれるんですな。ところが、いい学校だということを伝え聞いて、生徒は押すな押すなでやってきて、入学考査は大変難しかったらしい。七年制で専攻科までやった卒業生は大した実力の持主になり、こと英語に関しては私なんかとても足もとにも寄れませんでした。

松崎 神父を相手に生きたことばを教わっていれば、アメリカンスクールに行ったのと同じでしょうからね。

早川 ところが、昭和になって教育の国家統制が厳しくなりまして、こういった特色を持つ学校に対しての圧力が強まり、いろんな形での規制をうけました。そして、ついには高等女学校令に従って教育をしなければならなくなり、戦争中は名前まで和英女学校とかに改めさせられたんです。もっとも、戦後いち早く元の名前に改名して普通の女学校になったはずです。

藤原 お茶の水の文化学院なども大変個性的な学校でして、学校令で規則づくめの女学校で娘を教育したくないということから、親父の西村伊作氏が子供のために作ったものだし、自由学園だって羽仁モト子女史が似たような動機で建学してます。西村院長が不敬罪になって戦時中は学院の強制閉鎖が行われたそうだが、時の権力の圧力に批判と叛逆をするところに、本当の教育の原点があるんじゃないですか。

松崎 果して叛逆そのものをどこまで評価をするかは、いちがいには論じられません。むしろ、いかに真理に憬れ自分に誠実に生きるか、ということであり、その信念が権力者の思惑に反する結果になりがちだ、ということでしょう。

藤原 建学精神のほとんどは、そこに原点を持っているんじゃないですか。学校は精神で価値が決るのであって、建物やカンバンの有名度じゃありませんよ。

早川 ところが、官学の場合は、まず予算を組んで校舎を建てまして、次に校長以下先生を任命し、やがて生徒を募集する、というのが段取りです。私塾の場合は、何にも増して人格者か実力者としての先生の存在が決め手です。ピカピカの建物でおどろかせて生徒を集めるのは、洋裁学校くらいなものでして、ハーバードでもオックスフォードでも自然に古色蒼然としていますよ。

松崎 超モダンな建物を校舎にして奇をテラう必要はないし、骨董品ではないのだから古色蒼然ぶりを誇ってみても、大学の価値が高まるわけではないでしょう。要は、そこで毎日の生活を行うところの教師と学生の質、ということでしょうね。

藤原 横浜はもちろんそうだけど、その他に神戸、小樽、和歌山といった海に向って開いた町は、昔から実務経験の豊かな先生を集めた高等商業があって、実力のある良質な学生を送り出す伝統がありましたね。

早川 とくに、実務的な生きた英語という点では、戦前でも帝大の英文学科の教授よりもはるかに達者な英語使いの先生がいましたよ。それだから、岡倉天心のようにアメリカ人が文章の手本にする『茶の本』みたいなものを書く人物も生れる。前にいった通り、小学校の公用語が英語で、元町あたりではつり銭にアメリカのセントやフランスのサンチームの硬貨が通用していた位だから、外国をそう遠くに感じませんでした。

松崎 それに、外資系の会社は東京ではなくて横浜に集っていたし、港の重要性が今の空港の何倍もの価値を持ち、人も物もすべて港を通じて外国と結びついていた。人口に対しての外人比率も横浜と神戸が一番高いでしょう。

早川 おそらくそうでしょう。私が子供だった大正時代には、当時の規模で国際的なビジネスは横浜に活動の中心点を持っていました。横浜正金銀行の威容堂々とした建物に競うようにして、露亜銀行、独亜銀行、香上(ホシ)銀行などが山下町にあり、海岸通りにはフランス郵船、キューナード汽船、ジャーデン・マディソン社などが軒を連ねていました。

松崎 日本の町のほとんどを特徴づけている城下町や門前町とはえらく調子が違いますな。

早川 とにかく、人口百人あまりの本牧の漁村が、急になだれこんできた一発屋たちによってブームタウンとなり、そのまま大急ぎで都会になってしまったのだから、日本的な町としての性格が無いんですな。商人の町でありチャンスの町でして、アメリカの西部の町とベニスやジェノバをゴチャまぜにした感じの町だから、性格としては広い外洋への憧れが支配していました。

藤原 福沢諭吉や高橋是清ばかりでなく、高島嘉右衛門や五代才助なんかも横浜に修業するために行っていますね。四海から清濁織りまぜて色んな波が打ち寄せてきた、といえるんじゃないかな。

早川 だから、誰も裃を着たような生き方はしていないので、自由港的な空気が拡がる横浜の町には、本音と建て前という日本的な二本建は通用しない。結果としては、本音の一本建てになるから、革新的な思想を持つ人間にとっては得難い雨宿りの場所になった。だから孫文も黄興も横浜に足をとめたし、インドのタゴールもこの町を仮の宿にしたのです。

藤原 横浜というのは日本の自由人の安住の地だったことは、明治20年の保安条例で反政府運動の活動家を都心から3里の地に追放した事件でも明白ですね。当時の日本での唯一の言論機関としての新聞は横浜が拠点だったし、ピゴー風刺画のある英字新聞なんかは、歴史の資料として一級のものです。

早川 私の記憶では、横浜には銅像がたったひとつしかなくて、伊井直弼が海に向って立っているものだけであり、浜の子供に聞いたって誰の銅像かなんて知っていないでしょう。政治や外交に裏表とか掛けひきなんてあってはいけないのでして、誠実さに殉じるくらいの覚悟が必要です。横浜というのは余りマニピュレーションが通用しない町ですが、ここに教育の原点と共通するものがあるとおもいますな。

松崎 この横浜や神戸のような外の世界に向って開いていた窓に代って、東京を中心にした中央集権的なものが支配的になったのが、文部省を頂点にした戦前の教育です。

早川 それも天皇主義と軍国主義が車の両輪で、私などはその枠のしめつけへの抵抗が、人生のモチーフみたいになってしまったわけです。今になってふりかえると奇妙な半生でした。


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