V 絶対主義と皇国教育



ミリタリズムとプロシア精神

藤原 明治一四年(一八八一)の政変と呼ばれるクーデタで、大隅重信や福沢諭吉の門下生を政府から追放して、伊藤博文の絶対主義路線がはっきりします。その反動として、秩父事件や加波山事件のような反抗と弾圧が、明治の日本に激動の渦をまき起した。結局は、民権運動がしめ殺されていく中で国粋主義と絶対主義が支配的になり、民学を押しのけて官学の力が強まったことは、明治憲法と同時に教育勅語が発布になって、狂信的な水戸学的な思想がすべての教育機関に押しつけられた事実に象徴的に現われています。しかも、伊藤に協力して師範学校の軍隊教育化などを推進した文部大臣の森有礼でさえ、憲法発布の日に国粋主義者に暗殺されるほど、反動の嵐はすさまじくなっていく。

早川 師範学校を卒業した短期現役兵のことを『六週』と呼んだ、ということを御存知ですかな。

藤原 なるほどね。師範学校の卒業生は徴兵義務を免除される代りに、全員が六週間ほど軍隊に入れられ、将来における小学校の配属下士官の任務を与えられた。一種の軍隊のPRみたいなもので、兵隊屋敷の臭いに親しませるという効果を狙ったんじゃないですか。六週間くらいなら、軍隊にそれほど反感を抱かずに御役目御免になりますからね。

松崎 その軍隊体験を小学校に持ち帰り、子供に軍隊への親近感を伝達させようとしたんですな。

早川 むしろ、軍人思想への憬れを小学校の生徒に植えつけ、最終的に軍隊で皇国思想の仕上げをしたのです。「あの男は軍隊に行ってきた」といえば、学がある人間として尊敬されたのです。とにかく、義務教育も兵隊教育も本質的にはいっしょだった。これは横浜の話ですが、終戦後のこと、ある学校が火事になって焼けたので、戦時中に急造した兵舎に引っ越したら、連隊長室は校長室で教員室はもとの士官集会室、そして、兵隊が寝起きした兵舎が教室になり、しかも、おあつらえ向きだったというんです。

松崎 つまり、兵舎と学校とは構造まですっかり同じだということですな。そういえば、戦後になって旧兵舎がほとんど学校として利用されましたよ。

藤原 大体、西南戦争のあとになって壮丁教育が盛んになり、徴兵することによって、国民皆教育ということで、義務教育と軍事教育が一体化しています。師範学校を卒業して六週間の軍事訓練を終ると、村のエリートとして先生たちは軍事教育の執行者になった。

早川 同時期のできごととしては、民権運動の高まりもあって、私学が勃興してますよ。大隅さんの東京専門学校や新島さんの同志社英学校なんてのが発足している。東京専門はあとで早稲田になるけど、学生に一種のスタイルがありました。五つ紋の羽織りに仙台平の袴、太い白絹の縄のような羽織りのヒモを首に引っかけ、手には藤の弓折れで作ったステッキに銀の金具、そして詩でも吟じながら悠然と都大路をいくのが政治青年の姿です。

松崎 そのスタイルは応援団や大学弁論会に辛うじて残ってます。

藤原 むしろ、昭和の翼賛政治が華やかな時代の院外団の壮士スタイルです。明治の頃には機会を見て中原に鹿を追い、やがては議場で獅子吼えすることを夢みていた政治青年の末裔も、昭和になると壮士気どりのゴロツキになっていく。

早川 明治の日本は官学が中心だったけれど、官学だけでは学生を収容しきれないので、私学にもいろいろと特典を与えて学校の増設を試みました。とくに、高校や専門学校だと兵役延期や幹部候補生資格を与えたりして、私学を官学の補助隊に編入した。それでも、あの頃の学校は予算的にも貧しくて、便所も不潔で衛生状態は劣悪といってよく、ションべン臭かったですな。

藤原 それは日本中が汲み取り便所だったんだから仕方がありませんよ。ブルノ・タウトも日記の中で指摘してるほどですから……。

早川 中学校の窓ガラスが割れた場合、その犯人が分れば父兄に弁償させたが、犯人不明の時はいつまでも窓がふさがりませんでした。今でもよく憶えているが、私が行った横浜市立大岡小学校には校舎が二つあり、古い平屋建ての校舎は屋根瓦が実に立派で、窓は油障子とはいえガッシリしていました。それに対して、明治の終りにできた二階建ての方はガラス窓だったが、それほど古くないのに丸太のつっかえ棒が四本もあり、大風の吹く日はギシギシと音を立てていた。そして、大正三年の震災ではみごとにベシャンコに潰れました。幸運なことにあの九月一日は式だけでして、子供たちは早く下校していたので死傷者は出なかったが、あれが平日で授業をしていたら何百人も圧死しており、私も死んでいたことでしょう。

松崎 そういった学校は日本の至る所に存在してました。何時ひっくり返るか分らない校舎で子供が勉強しなければならなかった点からして、日本は貧しかったのですね。

早川 あの頃は小学校が一人当り二〇銭の月謝を徴集していました。タバコが一〇本入りが一箱四銭、東京から横浜への汽車賃が一八銭くらいでした。もっとも、これは大正の初めです。

藤原 戦前の教育制度が皇国史観と軍国主義を車の両輪にしていたのですが、明治六年にはすでに陸軍戸山学校ができているし、その翌年には陸軍兵学校も発足しています。確か海兵は陸士に二年か三年遅れて開校しているが、その前身は海軍兵学寮で、そのまた前は幕府時代に勝海舟が責任者だった操練所だか伝習所のはずですね。

早川 昌平黌や開成所が大学になったのは維新と同時だし、外国人のお雇い教師を中心にして東京大学が明治一〇年に発足していて、この段階で法学、医学、文学、理学の四学部が整っているんですな。そして、学制が公布されてからは全国に続々と大学と高等学校、それに師範学校が作られて、日本の大学網は充実していくのです。

松崎 しかし、すべての官学がオカミにょって作られたのではなくて、東京高等商業学校は民間の力が中心になってできています。

早川 それで思い出したが、現在横浜国大工学部の前身である横浜高等工業は、砂糖成金の鈴木という人が、確か大正一二年頃に百万円を寄附して作っています。それに鈴木さんは余程専門教育に情熱を持っていたとみえて、その他にも商業学校も作っています。

松崎 大阪の実業界が大阪市大の前身である商業専門学校を設立しようとした時は、文部省と対立した形で準備が行われています。その最大の理由は、プロシア思想の文部省と自由主義的な大阪財界の間で、意見が合わなかったのです。

藤原 学問は必然的に体制と衝突するわけで、文部省の役人がニコニコ顔で許可するような大学には碌なものがありませんよ。大体、戦前の日本の教育を歪ませてしまったものは、文部省に陣取ったプロシア派官僚による専制的な教育観なんです。民族主義とミリタリズムが奇妙な形で野合していて、滅私奉公の狂信的な愛国教育がべースになっています。 プロシア精神というのはドイツ民族と文化の独自性という尊大な自己主張にもとづいており、日本人の国粋主義とよく似ているんです。ロマン・ロランはこのプロシア精神を指して、「食傷し腐敗した多感性と、理想と現実の怪しい妥協によりなる傲慢性にもとづく虚偽の固り」といっています。

早川 逆立ちした劣等感といってもいいが、むしろ、潜在意識の中にある過去の思い出に対しての突然の過敏症が、精神的な疾風怒濤をまき起して、一人よがりな優越感に酔払う。要するに、現実が貧しいが故に、その代替物として神話をでっちあげ、しかも、秩序や勇敢さのシンボルとして権威主義的なものを引っぱり出すのです。

松崎 それが皇帝や天皇の形をとって現われてくるわけですな。

藤原 軍隊や官僚制も専制主義を支える藩塀だというわけで、とてつもないハイエラルキーをでっちあげるのです。このことを英国の歴史学者のA・J・Pテーラーは、「ルターからヒトラーまで、ドイツ人は合理的秩序を保つために、常に鉄のような枠組みを求めてきた。ドイツ人はこの枠組みがなくなると、ニイチェのように発狂する」とシンボリックに表現しています。事実上、先制支配の鋼鉄の国内体系や勲功の誉れに輝く武装国家とか、千年王国を盟主にした世界の新秩序といったものが、すべてプロシア思想をベースにした教育制度に集約されます。そして、日本人がそれをそのまま模倣したわけで、縦割りの上下関係のシステムとして、軍隊と文部省が二人三脚で演じたミリタリズム教育を生んだのです。


国家主義の砦・文部省

早川 明治の学校教育をミリタリズム色で統一したのは、山県有朋と森有礼ですが皇国思想を教育勅語としてまとめあげたのは儒学者の元田永孚という男です。その発注者は文部省に他ならないが、明治一四年頃に、小学校教員品行検査規則とか教員思想検定規則を文部省が作っている通り、明治の教育原理を儒学者のお筆先に頼った文部省は、民権思想の拡大と浸透に対しての防壁作りに大わらわだったのです。

松崎 民権思想が国権を脅やかす最大の敵だという意識が、権力老の頭には焼きついていたのでしょう。その意味では、文部省は敵の侵入を防ぐ使命を帯びた防人集団であるという考え方が、明治以来現在に至るまで延々と続いている感じですな。

藤原 だから、ひと口でその位置付けをすると、支配権力のプロパガンダと洗脳工作を担当する機構として文部省がある。それが教育による国家主義思想の普及を通じて、子供たちがお国のためには喜んで死ぬという気持と、忠君愛国の心を持たない者は非国民だという意識を植えつけるわけです。ある意味では、人間の精神世界を支配する点で、バチカンと似たような存在の仕方をしている。

早川 しかも、独自のストラテジーまで持っているから恐しいのです。未だに建国記念日や君が代の強制は文部省の中心テーマだし、道徳教育や教科書の統制も戦前のパターンでやろうと懸命になってます。学校運営のための予算を扱ったり、サービスのためのコオーディネーション以外のために、変なストラテジーを持った文部省的な役所を持つ国は、全体主義の共産国以外には日本を除いて存在しないんじゃありませんか。

藤原 官僚国家のフランスがかなり中央集権的であり、教育制度としてピラミッド的なものを持っているけど、日本のように役人が何から何まで統制の形で支配するようなことはありません。 各地方ごとにアカデミーが教育行政の責任を取るようになっているし、現場の教師の権限と判断は尊重されています。

松崎 日本の場合、文部省が存在することによって、教育が制度としても運営上も大変偏っていることは事実です。たとえば、北米大陸には日本のような中央集権的な形での初等中等教育管理制度は存在していないし、高等教育制度もヒモつきではないです。

藤原 それに国立大学自体がないですよ。

松崎 公立大学は州立とかコミュニティ立であって、州や市町村が予算を出しているので、大部分の大学の台所は火の車です。それに、小学校や中学校の教育費は家屋税として市町村が税金を集め、それを自主財源にして学校運営をするのです。しかも、その監督は住民が選んだ教育委員が公開の会議を通じて行うんです。

早川 カナダの連邦政府を見ても、教育省や教育大臣というのは存在していません。

松崎 文部省のような全国的規模で教育を統轄しているところはありません。地方ごとに予算実施上の必要から教育庁みたいなものはあるが、原則として大学にはノータッチです。予算面では、特別の場合を除いてヒモのつかない予算が大学に与えられているし、大学内の運営は自治権にもとづいた独自のやり方にまかされています。したがって、財政的見地からすると州ごとの格差があるし、教科内容も大学ごとに相当異っているのが普通です。

藤原 要は、州政府の出す予算に政治色がつかないようにするだけのことです。政治は力関係が支配するけれど、教育は政治力学に影響されてはいけない、より普遍的で高度な次元に属しているんです。

松崎 だから、権力と結びつきを持った人が教科内容に干渉すると、政治問題に発展しかねないので、教師の身分保証もこういった意味あいを含めて慎重に配慮されるのです。

早川 それでも、時の政府が予算面で若干のイロをつけるということは、よく行われています。

松崎 小中高の学校の財源は住民税と財産税があてられているので、どうしてもローカルな貧富の差が出てしまう。そのいい例がアメリカの黒人の多い地区とかゲットーのある場所でして、これを平均化するために学校バスを使ったパシングという政策がやられています。

早川 米国やカナダの場合は建国以来の思想である、チェック・アンド・バランスとしての組織の相互抑制と監視の原理が働いている。これで地方自治をべースにした分権制度の上に立って、教育が民主的なプロセスでやられている、ということになります。こういう仕組みに慣れた人間にとっては、日本の中央集権的で画一的な教育制度が、何か変に薄気味の悪いものに感じられる。ヒトラーの全体主義に対して嫌悪感を覚えるのが、個人主義を基盤にした人びとの一般感情でして、黒づくめの制服を着た日本の中学生や高校生の姿は、ちょっとした驚異になります。とくに修学旅行の一団が詰め襟とセーラー服で並んで歩いている姿は、今に残るミリタリズム予備軍の印象を与えます。

松崎 あれは生徒としての自覚を持たせて、統一行動をさせるというところが、ミソなんでしょうね。カトリックの坊主や修道女も皆制服を着ているからサマになるので、修道女がショーツやジーパン姿では恰好がつきません。それに昔から軍人や警官だけでなく、郵便局員や駅員も制服と制帽で身を固めてます。

藤原 学生たちが制服を着ていたのを最大限に利用したのが東條大将で、学徒出陣の時には学生服のまま剣付き鉄砲をかついで分列行進をさせ、それを閲兵していましたね。もし学生が詰め襟を制服にしていなかったら、学徒出陣もああスムーズにはいかなかったんじゃないかな。

早川 文部省の深謀遠慮がみごとに効果をあげたということです。テンデンバラバラな服装だったら、まず軍服を支給するところからやらなきゃなりません。今のアメリカの学生のようにジーパン姿だったら、これはとてもじゃないが中国の便衣隊以下で、東條閣下も閲兵どころじゃなかったはずです。昔の学校は今よりはのんびりしていたところが多かったが、それでも服装面で制服制帽を強制して全国統一した点では、文部省の工作は学徒出陣への最大の貢献だったと、いえそうです。

松崎 教育会議に当る小中学校の当時の職員会議は議決機関ではなくて、校長に対しての諮問機関にすぎなかったのではないですか。

早川 諮問ができるなんて夢みたいなことであり、単なる上意下達のための機関にすぎませんでした。私の教員生活の体験からしても、心ある人は発言しなかったし、むしろ適当にサボタージュすることによって、教育者としての良心を守ろうとしたのです。

藤原 校長に異論をさしはさむことは文部省のやり方に反対することになり、それはそのまま天皇への反逆を意味するということで、非国民扱いする時代性が支配してました。ペスタロッチやデューイの本を読むだけで、アカ呼ばわりされたくらいですからね……。

早川 見ザル聞かザル言わザルの三ザル主義しかありません。教師にも与党と野党がありまして、発言するのは専ら校長の取りまきのグループであり、校長が何かいうと、そうだそうだまったくだ、といった具合に、まるで小原庄助さんの歌の一節みたいなことをいっていただけです。 太平洋戦争開戦直前の頃になると、どこの校長も東條張りのアクセントで喋りまして、日本語としては大変珍らしい発声法の演説口調が流行したものです。

藤原 その東条節というのがヒトラー節によく似ていましたね。

早川 ガタガタのトラックが石ころ道を驀進しているような調子です。それでも、あのダミ声を張りあげて神がかり的なお説教をやった徳富蘇峰よりはまだましでした。文部省と結託して日本のゲッペルス役をやったのが、あのダミ声屋の蘇峰だったのです。

藤原 というよりも、文部省が徳富蘇峰を初めとした国粋主義者に乗っ取られてしまい、国家主義の砦になってしまった、ということじゃありませんか。

早川 それは今だって同じです。私にいわせれば、戦後の一時期に出現した日教組抬頭時代を別にすれば、日本の教育行政を貫くものは文部省で旗をふる国家主義ばかりです。もっとも、日教組が強くなればそれでいいかといえばそんなことはなく、伊勢神宮の国家主義がクレムリンの国家主義に置き替るくらいのことじゃありませんか。

松崎 要するに、教育の問題は現場の教師の判断にまかせるべきであって、中央から変な指令をするようなやり方から脱却することです。今のやり方では教師の創意工夫を生かせませんよ。

藤原 昔からちっとも変っていないけれど、日本の教育界は服装やカリキュラムだけでなく、高校や大学の入学試験の中に統一試験が導入されたりして、統制による画一化が行き届いています。これは全体主義の日本支配にとって好都合だとおもうんですよ。

松崎 仮に外国が日本を占領するようなことが起ったとしたら、支配上とても便利じゃないですか。至って簡単に乗っ取れますよ。

早川 参考までに昔話を披露しますが、終戦の時に私は終戦連絡事務局という所でコッパ役人をやった経験があるんです。マッカーサー司令部の命令を日本全土に伝達するんですが、中央集権的な日本の行政チャネルのお陰で、命令の実施が実にスムーズに行われました。東京の中央政府は崩壊状態で機能マヒに陥っていたけど、県庁はちゃんと機能しています。そこで命令は終連を経由して地方終連に行き、県庁を動かすようなメカニズムができあがったのです。また、この実施状況を監視するために、各県庁所在地には県単位の軍政部を置いたのですが、抜け駆けの功名を狙って、権力者に直接交渉を持つのが役人の本分、と心得た連中がたくさんいて、御主人様は文部省からたちまちアメリカ様になってしまった。それに、長いものに巻かれなれてきた地方の役人たちは、自分の判断で何かをやるだけの能力を身につけていないのです。だから、課長や部長が通訳を連れて軍政部に直々に出頭して、命令を催促するという珍風景が続出しました。この時ほど中央集権制の恐しさを痛感したことはありませんな。

松崎 教育だけでなく、すべての分野で行政的に地方分権が確立されていないし、自分の力だけで地方を治める訓練もできていません。だから、クーデタでも革命でも落下傘部隊でも構わないので、東京さえ占領して中央の首をすげかえさえすれば、全国的に右向け右でも左向け左でも自由自在でしょう。

早川 何も外国が日本を物理的に占領しなくたっていいのであり、それ以上のことは思想的にいくらでもやれます。現に占領されたがっている連中も多いのと違いますか。また今の日本の首府はワシントンだといっても、それほど見当はずれじゃない、とおもいますよ。

松崎 一時は国会議員の半分以上が日韓議員連盟に所属しており、日本の首都が京城だったこともあります。まさに分割統治みたいな感じですな。

早川 やはり本命としての首府はワシントンですよ。 東京にある政府の諸機関は、往年の終戦連絡中央事務局の拡大強化しただけのものです。

藤原 中央集権的な中央事務局の中に、国粋主義的な伊勢神宮派が抬頭してきて、ヘゲモニー争いをしているんです。変な国ですよ、日本という国は。


教育と地方分権

松崎 教育が政治の道具にならずに本来的な性格を維持するためには、地方分権にもとづいたシステムとして作り直すことが必要です。現在のように、国際的に政治情勢が目紛るしく変化し、いろんな形での圧力が外圧として各人の運命に及びかねない時、過度な中央集権は大変危険です。とくに何かの理由で中央の指令が間違っていた時には、全国的なスケールで悲劇にまきこまれてしまうから、より小さな単位でチェックするシステムがいるのです。しかも、最終的には各人の個性や能力と、教師の自発性と自主性を結合したものとして、小さな単位で自己完結性を持つ分権システムが重要でしょう。

早川 教育は地方分権的である方がいい、というお説はもっともであり、原則論としては十分よく分ります。しかし、日本の地理的な狭さという点から見ると、一本化してしまうのが自然の勢いであるともいえるので、現在のように東京中心主義を改めて、少なくとも旧帝大の分布に対応するくらいの地方主義でやったらいいと思います。東北・北海道地方とか、関東甲信越くらいの単位です。

藤原 道州制ですよ。教育だけではなくて、政治的な単位としても真剣に検討すべき課題です。

早川 教育とそれにまつわる行政との関係はコインの裏表みたいなものです。東京を総本山にした中央集権的なものと地方分権的なもののどちらが、日本人全体にとってよりいい結果をもたらすか。教育施設、思想、文化といった点で決め手になるものがあればいいが、今のところこれはというものがない。実際問題として、個性中心の教育がいいというのがわれわれの傾向のようですが、中央集権的なものに反発するというものの、東京から奔流のように押しよせる水勢に押し流され、地方的で個性的な教育など、ほとんど見かけないのも事実ですよ。

松崎 しかし、広い意味での教育は全人間的なものである点を見失なわないでください。その意味で、第一の教育の場は家庭にあり、第二に生活の基盤となる地域社会がきて、第三のものとして各種の知識や専門分野がくるのではないでしょうか。家庭が担当する教育で一番重要なものは躾けです。

藤原 人類の一員としての教養を含んだ見識、社会人としての常識とルールヘの理解力、それに個人として家庭のメンバーであるための躾けが、バランスを持って教えられ学びとられることが大切だ、とぼくはおもう。ところが、日本の場合は、社会人であることが狭義に理解され、日本人であることが強調されすぎているのではないか。特殊なものから普遍を求める収斂型のアプローチは、後進国としての劣等感を強く意識したドイツや日本に特徴的な傾向です。だけど、これからは普遍をまず求めて、そのあとで個性的なものを確立するやり方が日本人には必要だのに、それに気づいていない。あい変らず国をあげて文化のことばかりが強調されてますね。そこにバランスを崩して、日本の教育が国家主義的な色彩を強くする背景がある、という気がします。

早川 昔の日本では家庭の躾けがかなり厳しくいわれたが、最近この面での欠陥が露呈している感じです。子供が親父を鉄棒でなぐり殺したり、パリまで出掛けた良家の子弟が恋人をサシミにして食べちまったりしているし……。

藤原 しかし、武士が刀をふりかざして斬り合ったり、ナニワ節が毎日のようにヤクザの出入りを名調子でうなっている限り、そういった文化的環境の中で育つ子供に、絶対的な平和主義を理解させるのは無理ですよ。忠臣蔵の仇打ちや清水次郎長の縄張り争いを、毎日のテレビやラジオを通じて親しんでいれば、ヤクザや国会議員になって似たような行動をするのは仕方がありません。要するに、日本文化を乗り越える方向で人間を育てない限り、文化の中に埋没する程度の薄っべらな文化人しか生れてこないでしょうね。

早川 それに昔は村や町といったコミュニティを中心に、社会的訓練や躾けを身につける場もあったが、日本の場合は、この領域がいち早く崩壊してしまいましたな。おそらく余りにも中央集権化しすぎて、小さな単位での自治の精神の芽をつんでしまったために、本当の意味でのコミュニティを窒息させてしまったのでしょう。

松崎 北米の場合は、未だ社会として新しいせいか、公民館や小中学校の校舎を利用して、一般向けの成人教育が盛んでして、設備もなかなか充実しています。こういったプログラムは自治体が住民と協力して自主的に運営しており、州とか県の政府は希望者が一定数集まるといった条件さえ揃えば、補助金を出しています。

早川 たとえば、生徒が一二人いて相撲についての講義を希望している、と私が申請して、その通り受講者が集まれば、ちゃんと補助金が出て開講できます。コミュ二ティ・カレッジを利用してて、剣道、空手、合気道、茶の湯、ヨガといった授業が大盛況です。

松崎 私も中国料理と日本料理を教えたことがあります。大体、学校の施設は自分たちの税金で作った、という意識が住民に強いので、よく利用するだけでなく開放への努力もしている。それに、大学図書館だって学生や教師の専用というわけではなく、一般市民の閲覧や貸し出しも差別しない。また教育には政治を持ちこまない原則が確立しているので、あらゆる政治思想や宗教批判の本が揃っており、それを読むか読まないかは読者の選択になっています。

藤原 当り前のことがごく自然にやられているだけですよ。文部省的なものがないということと、自分たちのことは自分たちの責任でやるのだから、役人が権力意識をふりかざしてツベコベいうな、というわけです。

松崎 教育というのは二律背反的な性格を持っていて、一方で保守的なものがあるとともに、他方では同時に革新的なものを含んでいるのです。州の独自性が関係しているんだけど、ダーウィンの進化論を教えると問題になる所があったり、驚くような内容の性教育をしている州もある。 州民が自分たちの判断で決めるわけですが、そこに各州の文化的独自性を尊重する姿勢があります。

藤原 保守性というのは、長い時間の選択を通じて生き残った、本物としての古典への評価にもとづいていて、理性による抑制や規範に由来した伝統が主体になっています。古ければいいという骨董趣味ではなくて、いいものは時代を越える、という意味での古典主義がそこに生きていて、それが手本として教材になるのです。それとともに、革新性は個性と独創性に由来するものだが、極度に技巧的であるが故に、ベースとしての古典を徹底的に修業することによって、初めてその境地に達することができるのです。その点では、学習は古典主義への修業に相当し、学問は古典主義を乗り越える修業に相当するのではないですか。

早川 昔は学校で名文や名詩をよく暗唱させられたが、古典主義に偏していたわけです。ところが最近の学校では個性の尊重ばかりが強調され、自由作文や自由詩ばかりがまかり通っているけれど、基礎としての古典的手法をしっかりマスターしないと、とてもじゃないが、個性など発揮するところまで行きませんや。

藤原 だけど、文部省が旗ふりをしている復古主義への反動として、個性や独創性を強調する過度の自由主義が現れたんです。曲がった竹を真直ぐにするためには、反対に曲げるのが正攻法なように、自然の中には作用反作用の大法則が支配していて、バランスがとれていく。中国人はバランス感覚に大変富んでいて、上に立つものが率先して中庸を指向するけれど、日本人はどういう訳かウルトラが心情的に好きだから、文部省みたいな極右ラジカリズムが政治的に存在できる不思議な国なんですね。真の古典のベースを持たないで、古くさくてカビの生えたような太古の思想をかつぎまわることを伝統主義と誤解しているところに、日本の民族主義者たちの悲劇があるんじゃないですか。

早川 作用反作用といわれたが、文部省と日教組の関係はまさにミラー効果であって、お互いに鏡に映っている己れの姿におびえたち、嫌悪したり不信感を投げ合っているのです。教育に関係する行政官と現場の先生たちのグループのトップが、ともに中央集権的全体主義の病魔に犯されていると、間にいる子供たちがたまったものじゃないですよ。

藤原 しかし、権力者の脅迫や誘惑に迷わされてその走狗になったり、戦前の日本の教育を超国家主義で塗りこめる役割を演じた、封建的な陽明学者たちに率られた全国師友会とかいう狂信団体に属す教師たちみたいな、超ウルトラに比較すれば、日教組のトップなんか至って中庸に近いですよ。それに、現場で教えている先生で見た場合、熱心に子供たちの将来を考えて、真剣に教育の正しいあり方を探し出そうと努力している教師のほとんどは、日教組の教育研究集会に出席しています。よほどの馬鹿か歴史的近視眼でない限り、文部省やその背後で糸を操る国家主義者たちが、現在の子供たちを再びいつかきた道にひきずり戻そうとしている野望に対して警戒心を抱くのは、自分の意志で教師になったくらいの人には感じとれるんじゃないですかね。

松崎 教育が各地方の独立性と文化的自主性を尊重するなら、地方ごとに保守的であったり進歩的であったりしてもいいわけで、そうやって日本文化の中に多様な個性づけをしていった方が内容を豊かなものにできる。ところが、税金の動きが中央から地方にヒモつきで流れるせいで、すべて文部省あたりが設定した指標と基準で画一化されている。画一化は全体主義への一里塚ですよ。

早川 日本は文化的に地方色を持った国だから、ローカル教育を尊重することで、教育が土地と密着してきます。たとえば、歴史教育にしても、日本史の他に郷土史を教科としてとりいれ、郷土のできごとや人物を身近かに感じられるようにすれば、自然な愛郷心や愛国心が涵養できるはずです。

藤原 県単位になると封建主義と結びついた藩意識が出てくるので、せいぜい東北地方とか九州といった規模での地方史にしないと、偏狭な土着思想にこり固まった人間ができてしまう。それに、人類史、世界史、アジア史、日本史、郷土史がバランスを取った形で身につかない限り、島国根性やオラガ村根性しか持ち合わせなくなります。全体との関係で、個としての自分の身のまわりを位置づけられるようになって、初めて常識を身につけた健全な市民になれるんですよ。

松崎 そうですな。市民として健全な人間を育てるのが教育の第一の課題であり、しかも常識をわきまえた国民になるのが個人の目標です。

藤原 ところが、文部省の発想は市民を育てることではなくて、依然として戦時中に強調された小国民を作るところに眼目がある。

早川 画一的で中央集権的な管理体制を指向しているので、どうしても、日本の教育は縦型の構造を生み、それが封建的なハイエラルキーをうけいれやすい国民を作ってしまう。各地方ごとの教育委員会がもっと権限と自信を持って、自分たちが責任をまかされている地域の子供たちに、いい教育を提供する努力をするしか仕方がない。

松崎 しかし、日本のようにボス政治がまかり通っている国では、よほど準備して地方分権の努力をしない限り、各地方各市町村ごとに小さな文部省ができてしまい、いよいよ混乱することも考えられます。

早川 現にそれが口実になって、教育委員を任命制にする工作が文部省によって行われたのだし、一番いい例が自治体警察の運命です。戦後アメリカの制度を導入して自治体警察が生れたけれど、結局は国家警察に吸収されてしまった。日本人は体質的に中央集権的なものが肌に合っていて、お上に隷従するのが好きなんですな。

藤原 そこに教育問題の根幹があって、隷属思想が日本文化の特性であるならば、教育によって日本文化を乗りこえるような人間を育てなければいけない。

早川 そこまで言い切ってしまうから、藤原さんはラジカルで危険思想の持主だと烙印を押されてしまうんです。日本人がもっと民主的な考え方を身につければいい、といっておくだけで済むのですよ。現に、大正デモクラシーと呼ばれる時代は、中道的で人間的な印象を人びとに与えることに成功したが故に、あの絶対主義の時代にあっても、デモクラシーが一時的に花開くことができたんですから……。


大正デモクラシー時代の教育

松崎 英語でいえば、同じデモクラシーでも、今の民主主義と違って、あの頃の日本語では民本主義と呼んだものです。吉野作造先生の作ったことばだといわれています。

早川 第一次大戦後の一九二〇年代初期に、欧米から一種の自由教育思想が入ってきて、大正一〇年頃の雰囲気よりもはるかに明るくて、開放的な気分に包まれていました。確か大正九年に株式の大ガラがあって、一種の恐慌が始まった。この恐慌は欧州大戦に疲弊したヨーロッパの産業界に対して日本が一種の火事場泥棒をやったことが関係していた。ヨーロッパ勢が戦争に追われて、極東市場で余り活動できなかったので、その虚に乗じた日本の産業界がアジアで押し売り貿易で稼ぎまくったのに、終戦で破綻したということで、特需景気の宴のあとというわけです。

松崎 もともと戦時景気は虚構の特需だから、線香花火によく似てるんです。

早川 それで、花火が消えっ放しで慢性不況に落ちこみ、労働争議が活発になるのに対して、軍縮気運の高まりによって体制側は意気消沈です。それに反比例するように、平和攻勢のムードの中でデモクラシーが台頭し、いわゆる大正デモクラシーの時代になるのです。

藤原 ちょうど六〇年アンポからべトナム戦争にかけての時期が、時代的に対応してます。あとはワシントン会議に相当するものが日米経済摩擦に相当して、その後急速度に日本の社会は教育界を含めて全体主義化していく。ぼくはアンポ世代として人間形成したけど、早川さんは大正テモクラシーの中で教育をうけた、といえますね。

早川 一九二〇年が大正九年ですが、私はその時小学校三年生でした。子供心に憶えていますが、突然物価が安くなったとおもったら急にハイカラになり、チョコレートなんてものを初めて口にした。また無闇に洋食屋が増えて、西洋料理というノレンのかかった店が方ぼうに開店しました。女給は和服に白いエプロン姿、白いリンネルのカバーが掛かったテーブルには、洋銀のフォークとナイフが並んでいて、東京の精養軒や横浜のグランド・ホテルなどが時代の花形でした。

藤原 一九二〇年といえばベルサイユ条約の年だし、国際連盟も発足して日本が常任理事国になっている。それに、平民宰相といわれながら、原敬が普通選挙を頑強に拒否して、官僚と手を結んで政党権力を築き始めてますよ。

松崎 だから、翌年に東京駅頭で暗殺されています。

早川 確かに原敬は官僚と密着していたが、ジャーナリストをしていたこともあるし、明治の自由民権運動の意味をわきまえていたので、昭和時代の官僚政治家に較べたら、はるかに大正デモクラシーにふさわしい人でした。

藤原 それに、ジャーナリスト時代の原敬は、フランス革命の歴史的な意味をわきまえていましたよ。 ストライキの首謀者として司法学校を退学処分にされていますしね。

早川 退学というのも学校の出方のひとつですよ。私も中学校でそれを体験しました。

藤原 退学で学校を出て入獄で生きた社会生活を学ぶことによって、強靱な人間になるコースもありますね。歴史の中に登場する感動的な人生を持つ人は、たいてい国事犯として獄中生活を体験しているでしょう。

松崎 国事犯ならいいけれど、破廉恥罪ではだめですよ。

早川 国事犯といえば、大正デモクラシーに先立つ時代は、国家権力によって自由の締め上げが行われて、幸徳秋水を始めとした社会主義者たちがデッチあげ事件で処刑されています。ある意味からすると、大正デモクラシーはその影響が反作用として現れたものと、見ることも可能です。白樺派の文学運動や青鞜による女性運動、桂内閣時代の護憲運動とか米騒動や農民運動なんか、皆この延長線上にあります。

松崎 吉野先生のデモクラシーもそうだが、あの時期には外国の文献が大量に翻訳されましたね。第二の文明開化といってもいい。

早川 固有の情操をはぐくみ、優れた才能を引き出すペスタロッチの説とか、アメリカのダルトン式自由教育なんかも、大正時代に流行したものです。

松崎 それで、教育の理念としては、実際の学校教育の中でどんな具合にやられたのですか。

早川 ひと口でいってしまえば、何もなかったのです。お上は相変わらず富国強兵のための忠君愛国教育の継続のつもりだったが、国民をどっちを向いていいか皆目見当がつかなくて、ウロウロしていたのです。なぜなら政治屋は勝手に政争をやり、豪商はもうけ話にウツツを抜かし、百姓は出稼ぎや娘を売ったりだし、庶民は米相場の犠牲で、「俺は河原の枯すすき」なんて流行歌の中で生活に追われていた。大正九年、一〇年といえば失業者が町にあふれ、大学を出ててもろくな就職口はおろか仕事さえないのです。

松崎 専らノンキ節なんてものが流行して、時事批判みたいなことをやったでしょう。

早川 失業者は社会の側から見ればドロップアウトだし、半ばヤケも手伝って「ハハ呑気だね……」なんてやった。大学を卒業しても仕事がないので、私大の学生でバイオリンのひける人がやり出したものです。明治の民権運動の時にも似たようなことをした学生がいたので、その真似でしょうな。

藤原 さっきペスタロッチの話が出たけど、ルソーのエミールのような教育理念も、あの時代を特徴づけてますね。

早川 エデュケーションはエデュケーレであり、才能を引き出し育てるものとして、直観と実物による心の訓練が教育だ、なんてことがいわれてもてはやされたのです。教員の主体は師範学校の卒業生だが、就職にあぶれた私大や専門学校出身者が代用教員という資格で先生になりました。この人たちは師範タイプと違う、教員臭くない雰囲気を持っていて一種の清新な気分を漂わせていましたよ。

松崎 それで教育としては、大正デモクラシーの線に乗っていたのですか。

早川 そこが問題です。体操などでは遊戯の要素が入って楽しくなったのは確かです。大体、教育というのは本来からして好奇心と参加の喜びを内包しているのだから、子供にとっては楽しいのが当然です。ところが、指導要領に従って教師が監督者とか教導官の立場に立って教えるから、学校を退屈で苦痛な存在にしてしまうんですな。部分的には楽しかったが、修身や国史になると国体の本義そのもので、明治の絶対主義がそのまま続いていました。学会のトップには津田左右吉なんて偉い学者がいても、途中に文部省が頑張っているので、その考え方は小学校の門の中まではとても入れません。  われわれは鼻水をたらしながら、ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトクなんて天皇家の家系を暗記させられたし、六年生になれば、これが漢字でかけなきゃいけないんです。実に馬鹿げたことを文部省は子供に無理強いしたもので、われわれの世代から大偉人が育たなかったのも、あんな愚劣なことで脳みそを痛めた結果、頭が悪くなっちまったんじゃないか、という気がしますな。  

藤原 今の日本を覆っている試験地獄のための暗記も似たようなものです。これじゃあ当分の間は日本人から傑物は育つ見込みがありませんね。

早川 小学校での学習の一環として、いろいろなものを暗記するのは、これは修業のひとつとして必要かもしれないが、九九の暗記のように普遍性のあるものを中心にしてもらいたいですな。

松崎 それで、小学校に続いて早川さんの中学時代も、大正デモクラシーの名残りの中にあったわけでしょう。

早川 むしろ、小学校時代だけといってもいい。というのは、大正デモクラシーは大正一二年の大震災で一巻の終りになったからです、あの地震の結果は、東京も横浜も全滅同然でして、被害としてはものすごいものがありました。しかし、はっきりと事実の結末を観察するなら、思想界に対しての被害の方がはるかに甚大だったのです。権力者というのは社会的な大事件をチャンスに使って、自分たちの思う方向で事を一挙に押しまくろうとするものです。その例にもれず、大地震で人心が大混乱している時を狙ってデマがまきちらされ、朝鮮人が反乱するという噂と共に、警察の指導で町々に自警団が組織されました。

藤原 日本人は善良すぎるのか、どうも流言蛮語に抵抗力がないですね。

早川 本当の自信を持っていないからです。そして、朝鮮人が暴動を起こすとか毒を井戸に投げこむというデマに、日本人がパニックを起して、朝鮮人だと見ると見境いなく追いかけまわし、電信柱にしばりつけて斬殺したわけです。おそらく五千人以上の人間が、朝鮮人だ、ということで殺されたんじゃないですか。

松崎 震災の犠牲者としての日本人も多かったので、ドサクサにまぎれて知らぬ顔を決めこむにしても、五千人というのは実に大変な殺人です。暴虐もそこまで行くと戦争と同じ犯罪でホロコーストです。

藤原 それに憲兵隊が動員されて、甘粕大尉が大杉栄一家を虐殺してます。それも六歳になる子供を含めて殺しているわけで、国家によるテロリズムですね。そういうことを考えると、この次に起きる大地震がどんな形の国家テロを誘発するか、と予想するだけで、身の毛がよだつおもいがします。

早川 当時の社会情勢を一望するなら、震災直前に秘密に結成された日本共産党に対しての弾圧や、当時盛んになってきたアナキストやサンディカリストの活動を封じるためであったことは明白です。

藤原 世界史の流れの中で大震災の位置づけをすると、ムッソリー二のローマ進軍やソ連邦の成立、それにヒトラーのミュンヘン一揆が前後して起こっているんですよ。

早川 日本だって世界の動きに対応していて、ストライキ頻発で八幡製鉄や播磨造船はストが続くし、思想弾圧は激化しています。とくに、憲兵や思想警察が勢いづいたのは震災によってです。現実に大震災の翌年からは政府が大攻勢に出ており、治安維持法が議会を通って、これからいよいよ昭和のファシズムヘの地ならしが始まる。夜明けではなくて、暗い全体主義時代の始まりが続くのです。


大震災と昭和ファシズムの黎明

藤原 震災に前後する時期というのは、対外情勢が一段ときびしさを増した時代で、ワシントンの軍縮会議で暗号を解読されて一杯くっているし、排日気運がどんどん盛り上っています。政治の反動化と対外摩擦の高まりという点では、今の日本の状況とよく似ているんじゃないですか。

松崎 歴史ははたしてくり返すか、これからの数年が見物ですな。 それで早川さんの中学生としての体験はどうだったのですか。

早川 大正一三年には中学入試ですが、入試も地獄というほどでなく、六百人受験して二百人合格といった所で、横浜には一中から三中までのナンバースクールがありました。その他に商業と工業の実業学校が一つずつあり、県立女学校も二つあったのでほぼ収容できました。さらにミッションの中学が一つと女学校が三つに私立中学も一つありました。横浜市の人口が当時四五万だから、ほぼ均り合っていたといえます。しかし、自由の気風は今の日本よりもあって、学区とかヘンサチといった変なことばもなかったし、水の高きが低きに流れるのと同じで、すべておさまるところへ自然におさまったものです。

藤原 今だって役人が小細工をしないで自然に放っておけば、うまく行くとおもうんです。官僚的な発想法で制度をいじくりまわすから、教育がおかしくなるのです。

早川 商業学校は市立が一校ですが、これが非常に特色を持った学校でした。実用主義の教育を徹底的にやっていたので、卒業生は引っばりだこであり、皆が市内で就職して、それぞれの分野で業績をあげています。校長は三〇何年来変らなかったし、先生も落ちついて自分の信念で教育に専心できたので、余裕のある雰囲気を持っていたのです。

藤原 各先生が寄り集まって学校の中に自分の塾を持っている、という雰囲気ですね。教育の原点はそこにあるのであって、教育者を聖職扱いすることも労働者扱いするのも正しくなくて、教師は一人の修業者であり企業家だという精神こそ、今の日本に一番大切だ、とおもうんです。

早川 私はこの学校で講師勤めをした時にクラスを見学しましたが、教室の一隅に輸出商があり、仕切りの裏に倉庫業と海上保険、ちょっと斜めに為替銀行、別の一隅に輸入商というものを作って、学生がその中で細分した役割を演じているのです。そして、一つの商品の動きと為替や損害保険の扱い方、それにLC(信用状)の組み方やLCを使った融資のとり仕切り方など、貿易活動を実践的に体験させるのです。しかも、通信文の英語の手紙もいっしょに教えてるのを見て大いに感心しました。このような実務に密着した教育をやっているので、小さな貿易商に勤めても、一人で三人前も四人分も仕事ができるし、外国へ出張しても、一人では電車にも乗れない経済学士とは大違いの、実務戦士を養成していたんです。

藤原 神戸の鈴木商店を切りまわした金子直吉なんかも、そういった実務手腕を武器にしたやり手ビジネスマンだったんでしょうね。

松崎 そうでしょう。 ビジネスの世界は学理だけではどうにもならず、実際的な経験と幅広い常識が不可欠です。

早川 私は常識と知識は同義語として扱いません。いくら高くてもいいが、知識の所有者が自分で主体となって活用できるものが常識です。

藤原 学校や教科書から学ぶものが知識で、学んだことをすっかり忘れてしまって最後に残ったものが常識ですよ。

早川 切角学んだものを簡単に忘れてしまってはいけません。自らのものにして実用に供すればいいのです。エジプト人は平面や立体の幾何学を発明し、ピラミッドの建造に活用している。アクロポリスに行けば、ピタゴラスやデモクリトスの持っていた知識の実用性が分るし、エピダウルスの野外劇場で演劇を観れば、夜間の気流の上昇を巧みに利用した音響効果に驚かされます。 バートランド・ラッセルは西欧思想史においてプラトンよりもソフィストを評価していますが、実用こそ教育の眼目だという点で、私はわが意を得たり、という気がしますな。

松崎 実用教育のひとつの主題は語学教育ですが、その商業学校ではどんな具合でしたか。

早川 立派なものでして、英語の先生が揃って書く方も喋る方も達者です。大学の先生のように専門的で深遠な議論はできないでしょうが、英国人でもアメリカ人でもはっきりと理解できる、嘘偽りのない英語をキチンと身につけてました。その点で日本国内でしか通用しないデタラメ訳をして、それを指摘されると相手を亡命学者呼ばわりをする、自称英文学者の福田先生のようなナマクラ教師は、実力本位の実業学校にはおよそ雇われていなかったですな。

松崎 ロンドン大学の森嶋教授にコーラスが見当違いの誤訳だったと指摘されて、筋の通らない弁解と見苦しい詭弁を弄して馬脚を露した福田恒存のことですな。恥の上塗りとはあのことで、力みかえって姑息な言い逃れを試みれば試みるほど自縄自縛に陥って、実に醜態でした。どうして素直な心で「間違いを指摘してくださってありがとう。誤訳は次の機会に訂正します」くらいのことをいえないのでしょうか。

早川 自分の無知が自覚できないほど思いあがっているせいですよ。よくできる人になればなるほど虚心坦懐に自分の至らなさを、衒いのそぶりも見せずに表明できるものです。同じ英文学者でも中野好夫教授あたりになると、「一応知ったかぶりのようなことはいっても、正直いえば、すべて向うの研究者の受け売りです」とか、「知らぬことは知らぬ、読んだことのないものは読んでない、と晴々と答えて気が楽だ」なんてことを平気で書いたり喋ったりしています。ニセ者と本者の差がここにはっきり見えているが、こんなニセ者が訳したシェークスピアを読んだり劇を見せられたんじゃあ、いくらお人善しの日本人でも、とてもたまったもんじゃないですな。

藤原 筋の通ったロジックならいいが、福田恒存のような屁理屈のこねまわしはかないませんね。ああいう文化人をペダンティックというんじゃないですか。

早川 曲学阿世です。首相をやった吉田さんは外務省の先輩ですし、横浜じゃあ私の隣人でしたが、東大の南原総長に向って曲学阿世の輩といって男を下げたのは有名な話です。切角、藤沢の耕余塾で漢学を学んだのに、南原さんのように本当に偉い人に見当違いなことをいったから暴言宰相といわれたんですな。後輩兼隣人として吉田茂にアドバイスするとしたら、「あなたが男の花道で使いたかった曲学阿世にピッタリな人が、あそこでシェークスピア劇の演出をやってます。どうですか、ひとつここで男をあげ直したら……」といってあげたいですな。それにしても、吉田宰相が一番嫌悪しているようなタイプの人間を、政府がアドバイザーとしてチンドン屋代わりに使っているのだから、彼も墓石の下で安らかに眠る、というわけにはいかんでしょうぜ。

藤原 吉田茂もそういう意味では大正デモクラシーの生んだ日本人で、リベラリストとして軍部から大分いじめられましたね。

早川 何しろ昭和のファシズムときたら、リベラリストはそのままアカということで弾圧されました。大体、大地震でグラグラときたおかげで、切角芽を出しかけていた自由教育は成長するチャンスもなく、あとは一気に軍国主義の渦の中に巻きこまれてしまいました。

藤原 治安維持法を先導役にして、いよいよ軍国主義教育全盛の時代に突入するわけですね。

松崎 それも、昭和と改名したとたんに金融恐慌が起り、それからはテロと軍国主義の中で日本列島全体が、一種の収容所群島化していくんです。


配属将校の時代

藤原 よく天皇制ファシズムということばが使われるけれど、戦後派世代にはその実感がとても掴みにくいとおもうんです。国防色の軍服姿の兵隊が街の中を開歩していたり、特高警察が学生や教師を監視したりするイメージが、ぼくにとっては一番ピッタリするんだけど、松崎先生はどうですか。

松崎 ドイツの映画なんかで見る労働者のストライキの姿と『太陽のない街』で思い出す谷間のバラックで内職する貧しい若妻や、満州の荒野を前進する輜重兵の列がゴチャまぜになったイメージです。

早川 ミュンヘン時代のヒトラーが、ホーフブロイのビヤホール一揆を経て、小さな徒党が急速に膨張してしまい、ついには一〇万の聴集を相手に吠え立てるまでになるパターンがナチズムにはあります。日本の場合は、あそこまで派手に立ちまわる役者はいなかったが、学校の中に軍国主義がなだれこんで軍事色に塗りこめるプロセスには、ナチ的なダイナミズムがありました。それまでは学校の隅で小さくなっていた配属将校が、またたく間に学校の主導権を握り、その背景として、テロで首相や蔵相が次々に暗殺されたり、満州事変が進行したんです。

藤原 山本宣治も暗殺されたし、大学教授も大分追放されましたね。

松崎 白昼堂々と首相や閣僚が暗殺されるのだし、一九三二年の五・一五事件のように正規の軍人が首相を射殺するんだから、アラブ諸国や中南米諸国の現状と大差がない。

早川 何しろ、時代は軍人や右翼壮士の天下でして、実に殺伐としていました。私の中学生活の体験からしても、以前は配風将校が三々五々静かに教室に入ってきたものが、軍靴で開歩するようになりました。朝礼の時など全校の千人以上の生徒を校庭に整列させ「カシラ、ミギ」と叫んで校長に敬礼させるんです。

藤原 ワシントン会議のあと護憲運動の高まりの中で軍縮政策をとったので、若手将校が余ったし、陸軍の場合は豊橋や久留米の師団を廃止したから、失業軍人が大分出ましたね。これが配属将校制の背景にあったのでしょう。

早川 余った士官を首にすると陸軍が小さくなってしまうので、そこで振り替えということにしたのです。私が中学生だった頃の配属将校は、天長節の日には馬で颯爽と登校し、生徒の敬礼に馬上から鷹揚に答礼したものです。この大尉は黒ラシャの軍服に勲章を飾り立て赤白の羽毛の立った正式帽をかむり、教頭を筆頭に並んだ大講堂の席の末席に坐ったものです。横浜には師団司令部などなくて、僅かに憲兵隊があっただけだから、あまり軍国調はなかったが、私のイトコは仙台一中へ行っていて、彼の話だと仙台では配属将校が校長の隣にデンと構えていたそうです。

松崎 仙台は第二師団があって軍隊の町だから、軍人が威張っても仕方がないですな。私が中学生だった頃は、米沢でも配属将校が教頭よりも上位にいたようです。

早川 県立中学校の教師はみな待遇官吏でして、校長は奏任官三等、教諭も古い人は四等や五等が大分いました。山下清じゃないが、高等官三等は兵隊の位なら大佐で二等は少将です。二等以上は勅任官で中将は一等であり、大将は親任官です。だから、大尉というのは五等官くらいなものです。仙台では軍人が威張っていたようです。昭和九年に私が鎌倉で教師をやった時には、配属将校が校長の隣に坐ってましたな。

藤原 軍事教練も大分やったんでしょうね。

早川 まず学校の武器庫が充実して、三〇年式と三八銃が三百丁くらいになり、四年と五年生の合計三百人くらいが同時に野外演習に行けるようになりました。とにかく、こんな具合に軍事教練と配属将校が学校教育の中に定着して、着々と臨戦体制が整って行きました。

藤原 明治以来の絶対主義という一貫した教育の指導原理が、満州事変の頃になると軍国調を強める。そして、臨戦体制と結びつきながら、一種の総動員体制の様相を呈したんじゃないですか。皇国のマスラオである男子は忠勇を第一義にして、殉国の志士として戦場におもむき、女子は良妻賢母として銃後の家庭を守る、という具合です。

早川 大筋としてはそんな感じだけど、そういう空気が本格化したのは一九三七(昭一二)年の日華事変以降です。もっとも、それは比較の問題でして、新体制運動や翼賛運動の高まりをバネに、太平洋戦争に突入した時期の日本は、専ら殉国の勇士と銃後の守り一点張りで、教育の世界はそれ以外なにものでもありませんでしたな。しかし、少なくとも昭和のひとけた時代は、臨戦体制というより臨戦準備といった方が適切でしょう。いずれにしても、クーデタやテロと特高警察による思想弾圧、それに配属将校を通じた軍国主義への傾斜が、この時代の教育の特色でした。

藤原 生れる前のことだから耳学問的な印象でしかないが、昭和のひとけたの時代というのは、国体がキーワードです。国体という怪物が政治や社会だけでなく、教育や軍事をつき動かした、とおもうんですね。

松崎 まずもって、金融不安や大恐慌などが次々に日本経済を襲い、社会の経済的基盤と安定性を崩壌させたことによって社会不安が一般化する。それに対して、政治が無力だったが故に、左翼の労働運動とそれに対抗する右翼の国家主義が過激な社会問題を発生させ、その影響が軍隊に及び出し、その共通テーマとして国体問題が浮びあがってきたわけです。最初は文部省が音頭を取って滝川事件みたいな形で起っているけど、次の段階では昭和一〇年の美濃部達吉に対しての『天皇機関説』事件のように、全体的な政治問題に発展していきます。

藤原 さらに、それが国体明徴問題になって、軍隊自体が政治だけでなく教育に露骨な干渉をやり出します。ぼくにいわしたら、左翼は人民社会主義で右翼は国家社会主義であり、極端に走ると同じ全体主義に行きつくんです。それに、絶対主義的な共通項に注目するなら、天皇家を中心にした一枚岩的な帝国主義に対して、マルクス主義はプロレタリア独裁を神聖視した一種の皇帝主義に他ならないとおもうんです。そこに二・二六事件に見るように、統制派から見ると皇道派はアカであり、統制派に対して皇道派の下士官は幕僚ファッショと指弾した背景もあったわけです。要するに、両方とも全体主義であって、そこで、文部省は陸軍省と参謀本部をいっしょにした形で、行政と作戦を担当しただけでたく、憲兵司令部の役目まで引きうけて、小学校から中学校まで国体教育をやった。その先兵役が配属将校と国史の先生じゃないですか。

早川 その他に、高校と大学には思想善導教官というのが派遣されました。ちょうど五・一五事件の頃私は大学生で、文部省の神がかり的な皇国精神に対して批判的な考えを持っていたせいで、特高警察には随分いじめられました。

松崎 直接弾圧を受けたんですか。

早川 たとえ批判的でなくても、疑心暗鬼でいる権力者たちにとっては、学生は皆危険思想の持主だ、ということになります。それに、あの頃の警察には別件逮捕という便利なテクニックがありました。

松崎 とんでもないことでいいがかりをつけて、留置場にぶちこみ、打つ撲る蹴るから始まって、さまざまな拷問をやり、巧みな誘導で犯罪をデッチあげるという手ですね。

早川 実に目茶苦茶なことが天皇の名において行われ、たくさんの学生たちが拷問で虐殺されています。あの時期は学生が日本の知識階級の一部とみなされた訳だけど、歴史的に見ると、学生や軍人が知識人扱いされる社会というのは、本質的には遅れた社会だともいえる。それだけに、大多数の学生があの気狂いじみた国粋派の人間からみればアカであり、赤色分子と口実さえつけば、殺そうと片輪にしようと警察の自由でした。あの頃に自由を持っていたのは警察だけです。

藤原 だから、わざわざ犯罪をでっちあげなくても、脅かしと嫌がらせだけで、一般の学生には十分の効果があったんじゃないですか。

早川 私の家によく私服の特高がやってきて本棚の本を調べていくんです。私としてはあの息苦しい時代を生きるためには、軟派を装うのが一番だと考えて、築地小劇場に出入りして演劇活動をやりました。同時に森田草平の弟子になって英文学をやりました。 私服が本棚を調べても英語の本ばかりだから読めないんです。それに、面白いことに赤い表紙の本があると、そればかり引っばり出すんですな。よほどアカが気になるらしい。それならオイナリさんや郵便ポストを調べた方がいい、といってやろうとおもったが、下手に挑発すると留置所行きだし、お得意の未決のまま隣近所の警察をタライまわしにされて、当分はおテントウ様も眺められませんから黙っていました。それでも三日ごとくらいにやってきましたな。

藤原 地質学の指定教科書に『火成岩の進化』という有名な本があって、表紙が赤のクロスなんですね。エボリューションをレボリューションと誤ってとられて、地質の学生が大分留世所に放りこまれたそうですよ。

早川 あの頃は酷い時代でして、日記なんかつけるわけにいかなかったのです。いつしょっぴかれて、日記の中の軍人批判や国体への懐疑の記述を証拠につきつけられて、半殺しにされるか分らない。そこで皆がそうなることを惧れて日記ひとつつけられなかったし、手紙にもうっかりしたことが書けませんでした。

松崎 物いえば唇寒しだけでなく、生命も危なかったわけだから、何もいえないし書けない。それに睨まれればテロもあるし、恐しい時代ですな。

藤原 だから、あの時期は個人の日記として残っているものが実に少い。とくに政治とか社会問題にまでふれているものは数えるほどしかなくて、清沢洌の『暗黒日記』とか高見順の日記位で、あとは軍人や高官のものでしょう。だから、あの時代を多角的に把えて歴史を組み立て直すのが大変難しく、昭和のファッショ時代というのは、日本史にとって大きな空白を残しているのです。

松崎 日本の知識人だけでなく大半の国民にとって恐怖の時代だったし、明日の人生がどうなるか分らない不安の時代だったのに、そういった形で一九三〇年代が未だ日本人の手でよく総括されていないですな。

藤原 山本有三が『路傍の石』でペンを折ったり、滝川事件で京大法学部の教授会が自治を守るために全員辞表を出した体験などが、民族の歴史的共有財産になっていないんです。

松崎 忘れっぽい国民だし、そういったことがあまりにありすぎて、いつの間にか風化してしまうのです。戦前の昭和史は右翼テロだけでなく、警察や軍隊を使った国家テロによって特徴づけられているのだと、日本人は一度じっくり考えてみるべきじゃないですか。

早川 血塗られた昭和史です。特高警察の残酷さについてはよくいわれているが、警察の魔手を運よく逃れたにしても、微兵検査があってここでとどめを刺されてしまう。いくら工夫して延期を試みたところで、ついにはどうにも逃れようがなくて、兵役でやられる。その時に連隊区司令官の事務所に、警察からピンク色の通報が出ていれば特別注意人物ということになり、改めて徹底的に酷い目に合わされる、という次第です。

松崎 赤紙とは違うんですね。

早川 赤紙は普通の徴兵通達の葉書です。いわゆる一銭五厘で馬以下の扱いですが、ピンクの奴は昆虫以下の扱いです。たった五〇年ほど昔に「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」という福沢諭吉を生んだ国だのに、同じ日本人がこれほど激変してしまうんだから、価値観の変化は実に恐しい結果をもたらします。


国体と狂気の支配

藤原 日本人はヒトラーが絶叫している光景を他人ごとのようにおもっているけど、つい四〇年昔まで、日本人も同じ調子で民族の優越性と神がかり的な使命感に陶酔して、すさまじいことをやっていたんですよ。

早川 私にいわせれば、最大の戦争犯罪人は徳富蘇峰でして、もしあの男が文部省や陸軍省と組んでデマゴギーをまき散らさなかったら、日本はあそこまで狂気に支配されなかったでしょう。 たった一人の人間があれだけ大きな影響力を及ぼしたとは驚きですが、彼こそが虚を吠えた一犬であり、その他の国家主義者は声に吠えた百犬にすぎません。

藤原 そういう意味では、昭和の一〇年代というのは、お犬様がのさばっていた、あの五代将軍綱吉の時代の再現ですね。徳川時代は本物の犬が社会をひきずりまわしたが、昭和の元禄は人間が犬になってしまい、吠え方専門の国粋主義者と拷問専門の警察の犬が、この世のお犬様時代を謳歌したわけです。

松崎 それにノラクロとしての軍人です。

藤原 しかも、教育という面で眺めると、いよいよ統制的な考え方が支配的になってきて、英語なんかも段々教えなくなったのでしょう。

早川 とくに、太平洋戦争が始まってからは酷いもので、英語の先生なんて哀れをとどめまして、国賊の出来損い、として扱われたものです。中学や高校でも英語は目の仇にされて、授業をすることを禁止しただけでなく、英語の単語を使用すること自体を禁じたわけです。テーブルは卓子で、エレベーターは昇降機と呼び替えられて、野球のボールがダメといった調子だから能がありませんや。昔の帝国海軍の創生期には東郷さんが英国の商船学校に留学したりして、英国流の号令を憶えてきたんです。

松崎 ところどころ母音を長く引っぱって、歌うような調子でやるやり方ですな。

早川 たとえば、返事をする時にイエス・サーという代りに、アイ・アイ・サーとくるわけです。それを日本訳にしたのが海軍用語のヨウソウロウでして、機械はカラクリです。そこで、「カラクリひだりまわせえ」といえば、「ヨウソウロウ」となる。すこぶる悠長に聞えるが、要領を得てなかなかいいとおもいます。明治の人間のやり方に較べると昭和の軍人は心の余裕がないせいか、味わいのない訳語しかおもいつかんみたいです。

藤原 それに、明治時代の日本人は相手のふところに飛びこんで、英語を完全に日本語化してしまうくらいマスターして使いこなしたのに、同じ日本の軍人が昭和になると、英語は敵性語だといって切り棄ててしまい、自分の穴の中に閉じこもってしまった。だから、東郷さんは劣勢の中でさえ勝機を手に入れたのだし、昭和の軍閥は最初勝ち誇っていても自滅してしまうんですね。

松崎 戦時中のドイツは日本とは逆で、敵国語である英語のマスターに重点を置く政策をとり、むしろ平時よりも余計にやらせたそうです。戦場が外国である以上外国語の修得は当り前だのに、日本人はそれさえ考えつかなかったところに、感情だけで動く日本人の欠点がよく現われていますな。

早川 占領地の軍政上からしても、将校、兵隊、軍属、民政官といった形で出掛ける日本人は、英語が使えなきゃいけない。インドやマレーでは英語が下手だとバカにされますぜ。

藤原 戦争は兵隊が鉄砲をもってやるものだ、という考え方しかなかったんです。あれだけ長期間にわたって一五年戦争をやっても、中国語教育をやろうという発想が片鱗さえもなかったでしょう。

早川 短絡的なんですな。理論にもとづいた判断でなく、思いつきや感情だけでつき進んでしまうんです。非合理主義は軍人だけでなく日本人に特有な属性だが、戦時中に夜戦でも眼が見えるような特効薬を陸軍と海軍が欲しがったエピソードがあります。戦後に農林大臣をやった広川弘禅の紹介で、特許を何十も持つというふれこみの石渡ナニガシという人物が研究費をもらって仕事を引きうけた。そして人夫を動員して猫をつかまえてきては殺し、眼玉をくりぬいては、それをすりつぶして丸薬を作ったそうです。猫は夜でも眼がよく見える、というのが彼の理論だそうだが、眼玉と化学成分とをゴチャ混ぜにしても通用するくらい、当時は非合理主義がまかり通りました。

松崎 なにしろ、あんな目茶苦茶で神がかり的な考え方が国中に蔓延していたんだから、どうしようもないですな。教育の場が最大の温床になってしまったが、国をあげて騒ぎ立てていた国体問題なんかに見る限り、狂気の沙汰はキツネつき以上、といえるんじゃないですか。

早川 ついこの間読んだ本に、ハーバード大プレスが一九四九年に出したものがあり、書名はローマ字で「コクタイ・ノ・ホンギ」で、副題が「日本の国家的統一の基本原理」となっています。序文によると、原本をブラジルのサンパウロ州の日本語学校で米軍が手に入れ、それをガントレットというアメリカ人が英訳したのです。序文は連合軍総司令部の教育情報局のロバート・ホール部長が書いていて、日本人のうけた戦前の皇国教育の研究書のひとつです。

松崎 占領政策上からして日本人の過去を知る必要があったのでしょうな。

早川 この原本は一九三七年三月に初版三〇万部が印刷され、文部省が全国の学校教員に配布した。執筆は国文学の泰斗である久松潜一博士で、要するに、紀記の解説とそれによる皇国史観で組み立てられ、日本がいかに神国であり、皇民として生れた日本人は、いかにお国のために喜んで殉じる心を持つべきか、といったことが骨子になっています。今どきの右翼がかかげている七生報国の思想が、メンメンと書きつらねてあるのです。

藤原 毛語録やマインカンプ(ヒトラー)と同じことで、狂信にかりたてるための一種の聖書です。

松崎 日本人は対岸の火事視をして他人ごとのようにおもっていたが、ことによると、文化大革命というのは日本の翼賛運動が手本になっていたかもしれませんな。中国からは文化の輸入ばかりだとおもっていたけど、ことによるとあれが例外的な唯一の逆輸出ですかな。

早川 そう考えると、日本人の得意とする一人よがりに陥る危険があります。大体、新体制運動自体がヒトラーの成功を見て、これはイケルと考えた人が、近衛さんを祭り上げて大あわてででっちあげたしろものであり、手本は海の向うにあった。そのヒトラーにしたところで、中世の魔女狩りとフリードリッヒ大王の奇襲戦法を手本にしています。

藤原 それに、モノノケに取りつかれた形で大衆のエネルギーが大嵐を発生させるのは中国が本場で、黄巾とか大平天国の乱のように、すさまじい例があの国の歴史の中にはいくらでもありますよ。ああいった現象は一過性のもので、ものすごい勢いで盛り上るけれど、高揚期を過ぎるとたちまち凋落してしまいますね。一種の熱病みたいなものじゃないですか。

松崎 むしろ、伝染病でして、抵抗力が無い人間ほど酷い患い方をするんです。戦前の軍国主義者や国家主義者が、戦後になって平和主義者になったり民主主義を標榜したのと同じです。

早川 戦時中と戦後における一八〇度の転向は目を見張らせましたな。戦時中は隣組の大将として町民を非国民呼ばわりをしていた男が、敗戦と共に進駐軍に媚を売って、横流しの食料や衣料を手に入れていたケースを知っているが、実に腹が立ちました。

藤原 だって、戦時中は鬼畜米英なんて絶叫していた右翼が、戦後になると親米に豹変したでしょう。

早川 そのからくりは至って単純でして、本当のフィロソフィーを持っていないからです。大体、日本人はカッとなりやすいし、感激しやすい国民だから、いってみれば、のべつ幕なしに洗脳されているのと同じです。だから、頭が洗いざらしのようになっていて中味がなく、白むくと同じなんですな。それで、次の染料ですぐ染め直しが利いてしまい、たった一度デモクラシーと聞いただけで、たちまち民主色に染ってしまう。中には赤が利きすぎまして、徳田球一だの野坂参三にアジられただけで、たちまち宮城前広場に出掛けて米よこせデモをかけたあわて者がたくさんいましたよ。

松崎 そういう意味では、筋金入りとか凝り固りタイプの人間は、案外もろいところがあって、状況が変ると狐つきが落ちたようになるわけです。その典型がいわゆる転向による対極への移行という奴で、田中清玄や清水幾多郎といった昔左翼で今右翼といった人のタイプです。あまり威勢のよすぎる人は信用しない方がいいのかもしれないですな。

早川 戦前のある高等女学校の国語の教師で皇国史観に凝り囲まった人がいて、クラスだけでなく職員会議も牛耳っていたのです。なにしろこの人は『国体の本義』を繰り返して読んだと見えて暗唱していたし、こちらはそんな聖典は読んでいないし、一介の講師だから反論することもできない。第一、この国語の教師に反論することは、そのまま国体の本義への反対になって、留置所が待ち構えています。それでなくとも私は英語と歴史の講師で狙われやすいので、専ら敬遠していました。ところが戦後になって偶然目撃したんですが、この国体屋の先生が赤旗を立ててメーデー行進しているのを見て、わが目を疑いましたな。

藤原 建国記念日の式典にでも出掛ければ、そんな手合は群をなしてますよ。昔は民主々義をたてまつっていた癖に、最近では民主々義が日本人を駄目にした、なんてのたまわる先生が、評論家として健在でしょう。

早川 君子豹変といっても君子のイメージなんてなかったが、こんた狂犬みたいな同僚のせいで、物騒だから歴史の講師も願い下げにして英文法だけやっているうちに、ついに英語の時間がどんどん縮小されて身の置きどころがなくなり、仕方がなくて外務省の役人になった。しかし、一つだけいいことがあって、英語を敵視してくれたお陰で英語の古本が安くなりました。皆がどんどん売るし買手はいませんから、エブリマン叢書は五銭くらいでタバコ以下だし、ウェブスターの大辞典も一円しませんでしたよ。それからあとは太平洋戦争になって、トルストイを読むだけでアカ呼ばわりされたものです。


学徒動員と戦時教育

藤原 戦争が始まってからの学校教育については、実際にそれを体験した人がたくさん生存しているので証言も収集できるし、ドキュメントもかなり作られている。しかし、前に論じたように個人の次元で社会全体の問題について考察した日記類が余り残っていません。仮に残っていても、警察に追求された時の用心のために、脚色されている恐れもあるし……。

早川 私の場合はドイツ語まじりの英文日記をつけました。一種の暗号だから解読しなければならないし、いくら特高でもそこまで読み抜くだけの限を持った人材はいない。結局そうやることでリアリティを維持するわけで、あの頃は国体を絶対視した神話の幻想だけが正しくて、ものごとのあるがままを信じたり喋るとアカ呼ばわりです。だから、リアリズムであれば右翼までアカ呼ばわりで、そのいい例が、二・二六事件の決起部隊を反乱軍扱いして、赤色軍人と決めつけたことです。

松崎 リアリズムといえば、昭和の大不況の中で地方の農村が疲弊して、その中から綴り方運動が生れたけれど、あれも結局は赤化教員という形で弾圧されてしまったですね。

早川 とくに、東北地方では農民が慢性的な飢餓状態に陥っていて、欠食児童とか学童の身売りなんかが普通だったし、教師自身が給料の遅配欠配で飢餓線上をさまよっていました。そこで、棄民とは名づけなかったけれど、満蒙開拓団ということで、国民学校を出た農家の次男三男を満州の奥地に入植させた。いうならば昭和の屯田兵ですな。そういった若い人間を満州に準義勇兵として送り込むためのトレーニングをする意味で、青年団活動がかなり組織されましたが、結局は、これが大政翼賛会の下部機関になってしまったし、一種の隣組の青年団みたいな役目を演じました。

松崎 結局、大平洋戦争中の学校教育というと、それまでの翼賛体制の中で確立してしまった皇国路線がさらに強化されただけのことで、昭和の初め以来の統制教育としても、大勢にあまり影響がないですね。学生服にゲートル姿の組み合わせと、女学校の生徒が主としてモンペになっている光景、それに勤労奉仕の比率が高まっています。

藤原 松崎先生は国民学校を卒業して旧制の中学校在学中に敗戦を迎えたわけだけど、英語は習ったのですか。

松崎 米沢市が地方都市のせいでしょうが、多少ゆとりもあり英語のクラスもありまし、もっとも、陸士や海兵への進学希望者が多かったせいかもしれません。しかし、勤労奉仕の時間がかなりあったし、勉強よりもよく働く、といった状況でした。われわれの場合はまだ中学生だったから、机に向って勉強する代りに工場へ行ったり道路工事をしてもそれでいいけれど、大学生や高校生として本当の学問をしなければならない青年たちが、ほとんど勉強の体験を持たなかったのは問題でしょうな。

早川 人生にはすべてを忘れてひとつのことに集中する時期が必要であり、それが学ぶという行為や学問をすることで実現できれば大変結構なわけです。教師から学ぶ人もあれば、自分自身から学ぶ場合もあります。学徒出陣という体験を通じて、戦争や人生についていろいろ深くほり下げて考えた青年も、勤労奉仕を通じて働くことの意味を体得した学童も、それを自分のものにしている限りにおいては、何らかのことを学んだのであって、経験自体がひとつの学校に相当したといえます。

藤原 自由の片鱗もない教科書から解放されて、仕事に精を出して汗を流すことの尊さを体験的に学べたとすれば、確かにそういえるかもしれない。しかし、大部分のケースは軍国主義に盲目になった教師に引率されて、一種の奴隷的な労働力としてこき使われたのが勤労奉仕の実態じゃなかったかしら。

松崎 中学生くらいだと人夫代りにこき使われたのは事実です。一日一二時間労働ですし、食料も十分にないので、空腹でフラフラしながら働いたけど、それでも知的な飢餓感を感じて、こっそりと隠れて本を読んだりしました。また、私よりも幾歳か若い人たちの場合には、学童疎開があって親元をはなれなければならないとか、家族がバラバラになって生活をした。今のように学校と塾の間を往復するだけで一日が終ってしまう生活に較べたら、逆説的に響くかもしれないが、戦争中であったが故に、より人間的に生きたといえるかもしれないですな。

藤原 ぼくの場合は、敗戦の年に国民学校に入学して、島根県や埼玉県の学校でそれぞれ一年ちょっとずつ勉強したけど、都会生れの子供としていじめられた体験に増して、自然に恵まれた田舎の生活を体験できたのは貴重だった。僕の体験からしても、小学校や中学校のカリキュラムの中に汗を流して働くものを増し、木を植えたり花を咲かせたりすることを通じて、土や大自然と親しむことで生命力を肌で感じる機会を作ったらいいと思う。長野県の飯田東中学ではリンゴの街路樹を三〇年近くも育て続けた伝統があるそうだけど、素晴らしい情操教育です。子供にはこういった教育こそ一番です。僕は敗戦という不幸が別のチャンスをもたらせました。魚を釣ったりドン栗を拾ったりして牧歌的な生活をしたあと、敗戦二年目に東京に戻ってきたら二部学級だったし、教科書もクラスの一割くらいしかなかった。それでも、戦争中の締めつけ教育の反動もあって、先生たちが教えることへの自負と民主教育への熱情に満ちていて、国民学校の重々しさに較べると、戦後の小学校は開放的でした。

早川 戦前の学校で、天皇を頂点にして文部省から校長や教頭が縦につながり、しかも、その他に視学官だの配属将校だのという監視体制ができあがって、そのピラミッドの中でガンジガラメになっていた教育が、文部官僚の地盤が敗戦でガラガラと崩れたことにより、本来の教育の場になっただけのことです。大体、アドミニストレーションが学務の名において教育を牛耳るというのがおかしいのです。

松崎 その点では、戦争末期になると文部省の指令機能が半ば麻痺状態に陥って、地方の場合など、かえって戦前よりも教師の自主的な判断での教育が行われていました。文部省が中央司令部として動かなくなったことにより、かえって教育がその原点に立ち戻れたともいえますな。

早川 なにしろ紙が不足していたので、文部省の指導要領も十分に印刷できないし、各地が戦災にあって学校も大分焼けたりして、文部省の役人が本来のアドミニストレーションだけで手一杯になり、教育の内容までいちいち干渉する余裕がなくなった。しかし、これが本来あるべき文部省の正しい役割なのです。

藤原 プラトンのアカデミアや孔子の塾にしても、先生と生徒の関係がそのすべてであり、変なアドミニストレーターは登場してきませんよ。自主的たアドミニストレーションはいいけれど、文部省というのは盲腸と同じで余計な活動をするとろくなことになりません。

早川 大体、文部省の役人は教育者ではなくて、ただ文官試験に受かって行政官になっただけであり、しかも、戦前は、成績抜群の人材は大蔵省や外務省に行っています。だから、内務省はおろか商工省にも行けなかったというコンプレックスもあり、余計に権力意識が強いのでしょうな。文部省なんてものは後進国特有の権力機構でして、功績は文部省唱歌を作ったことくらいじゃないですかな。

松崎 戦争末期から敗戦後にかけての時期に、教育の現場が生気を取り戻したというのは、先生が創意を生かして自分のクラスを一種の塾のように運営した、ということもありそうですね。 そこで教師に始まって教師に終るという、教育の現場主義が復活するわけです。

早川 ドイツの大学を見ると分るが、教授が大学に雇われるんではなくて、ただ大学側と契約してスペースを借り、そこへ学生が月謝を払って講義を聞きにくるのです。教授がいちいち月謝を受けとっていたのでは煩わしいし非能率だから、教師の依託をうけて学校がアドミニストレーション事務所を作っただけの話で、アドミニストラティブ・エージェントが学校に他ならない。ところが、このサービス部門が先生と生徒の上に君臨するようになったというのが、そもそもの間違いであり、これは着物を裏返しに着てるようなものです。

松崎 終戦前後の大混乱期の時だけが、文部省が余り機能しなかったお蔭で、着物のまともな着方ができた、というのは面白い視点ですな。

早川 終戦まぎわに教育がちょっと本来的な姿になったことを逆に見るなら、文部省の指導下に右に習えをした官学に対して、本来ならば、最後まで自由な教育の砦であるべき私学を官学と同じものにしてしまったのも役人でした。徴兵の延期を認めるとか、卒業生に高文官試験の受験資格を与える、といった餌で外堀りを埋め、東京専門学校を早稲田大学にしてみたわけです。最後は明治学院や青山学院なんかもこの徴兵延期の特典につられて、文部省の大学令の枠組に入れられてしまい、次に軍事教練を受け入れないと卒業生が幹部候補生になれないので、内堀も埋められてしまった。こうして、戦争中の日本には名目上は私立でも、本当の意味で私立の特色を持った大学は存在しなくなっています。しかし、大学だけはどうしても私学的なものがいつの時代でも健在でないと、その国は駄目になってしまいます。

松崎 矢鱈に私立になってもらっては困るものは、軍隊と警察と監獄くらいなものじゃないですかな。少なくとも、教育というものは画一主義が成り立たない場であるし、それを皇国教育を前面に押し出した文部省が私学さえ官学化して、完壁な形で統一体を作りあげるのに成功した、と思った瞬間に、すべてがガラガラと崩壊してしまった。そして、再び現場の先生が主導権を握った形で戦後教育が生れるのだけど、これが占領軍の政策という外部的な要因を原動力にしたものであり、自らの力によって教育の民主化をかちとったものではなかったところに、現在われわれが直面しているさまざまな問題点がある、とおもうんです。

藤原 でも、敗戦によってプロシア的な専制思想にもとづいた教育制度が崩壊したことは、何にも増して喜ぶべきことです。もしそれがなかったら、日本の教育は権力者の好みの靴に合せて足を削り、そのあげく、自分の足で歩けないテンソク人間ばかりが増えていたんじゃないか、という気がします。プロシアの真似をして日本によかったものはひとつもありません。


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