X 学問をすることと人間



『学問のすすめ』のすすめ

藤原 人間とは何かという問題については、文明が始まって以来何千年もの期間にわたって、数えきれないほどたくさんの先哲だけでなく、人びとが自らに問いかけてきました。そしてこのテーマに対して、哲学や宗教、あるいは医学的な立場からさまざまな考察が加えられています。同じように、社会とはいかなるものか、という問いかけも絶えず繰り返されました。政治学や法学的なアプローチもあれば、倫理学や経済学ばかりでなく、文学や歴史学を含んだ無限に近い考察が行われたわけです。しかも、人間も社会もそれぞれがテーマとして大難題であるのに、二つは別個に切り離なせない関係もあります。結局は、人間に与えられた永遠のテーマとしてこれに取り組むこと自体が学問をするということであり、しかも、出口がどっちの方向にあるのか見当がつかない、というのが正直なところです。

早川 最も基本的であるが故に一番難しいのですよ。

藤原 ただ、これまでいろいろ自由にディスカッションしてきたことによって、ひとつの結論だけは明らかです。人間が学問をするという行為が、社会的なかかわり合いを持つ接点に教育が出現するわけですが、この教育という狭い分野においてさえ、政治的な意図を持った権力介入が、人格としての自己形成に対して、いかに大きな損失を与えるかという点です。それは明治以来の教育界の歴史に深い傷あとを残して刻みこまれ、具体的には文部省による官僚統制の軌跡の中に観察できます。しかも、それは大日本帝国を崩壊させたプロセスと一体化しており、大正デモクラシーの時代に生れた人や、昭和ひとけたの世代を狂気にまきこんでいます。

松崎 神風が吹くと信じこまされた世代です。

早川 それに「鬼畜米英」なんて叫んだし、最後には一億総ざんげなんてことまでいって見せしめにされましたな。あれは確かに1億人の日本人がモノノケにとりつかれていた時代でした。

松崎 それに個人ではたかだか狂気にはまきこまれないが、民族とか時代となると簡単に発狂するものです。ああいった時代の中でもマスヒステリアに巻きこまれたかった人間というのは実に偉大ですな。

藤原 それをやってのけるのは、個人主義のべースを持ったリベラリストだけですよ。リベラリストというのは単に自由を賛美するというだけではなく、常に批判者であり判断者としての自分を意識する人間です。だからリベラリストであることはとても厳しい緊張が必要なんです。

早川 老荘の道に徹した人も心静かです。だけど他の宗教はどうもファナチックになっていけません。

藤原 いずれにしても、戦後の民主教育はそういった過去への反省を含んで発足しました。そして戦後30年の星霜の中で、いろいろな試行錯誤を繰り返したわけです。

早川 それにしても戦後の日本の教育史を一口で言うと、混乱と闘争の醜態史でして、文部省と日教組が反目し、学生と大学当局が喧嘩しているうちに教育が荒廃してしまったとことです。あれじゃ大学生は勉強しなくなるし、中学生が校内暴力をふるうのも当然ですよ

松崎 国会内では乱闘をするし、元首相は収賄罪で逮捕されて天下は大いに乱れました。大人のやっているスキャンダルには目をつむって、子供のことばかり攻撃するのは不公平ですな。中学生や高校生の不良化をウンヌンする前に、ポルノだトルコだと騒ぎわまっている大人の不良化の問題の方が先決問題です。

藤原  そうやって社会環境が荒廃していき、人びとが教師や学生という弱い者を攻撃している隙に、文部省が官僚統制を復活してしまい、教育界に吹きこんだ民主教育の新風を一掃しようとしています。ぼくの目には教育界が窒息しかけているように見えるし、周辺部はかなり風化して崩壊し始めています。

松崎 誰かが教育はもはや死んだ、といってましたよ。

早川 不正入学や教授が女子学生を教室で暴行したりすれば、誰だってそう考えるでしような。判事が被告の女性を犯したり、ニセ電話の謀略に荷担したりするようでは世の末でして、教育が死んだだけでなくて、社会が死んだというべきですよ。

松崎 それに、最近では落ちこぼれ問題や校内暴力も目立っているそうです。警官の犯罪が増えていることと関係があるんでしょうな。

早川 ローマ帝国の崩壊と似てますぜ。豊かになりすぎて頽廃現象を激化させて没落を早めるのです。経済大国としての未曽有の繁栄が風紀の堕落を招き、キリスト教的神学が批判精神を曇らせてローマを衰亡させたという教訓を自分のものにするためにも、日本人はギボンの大著を熟読すべきでしょうな。

藤原 ローマ帝国の水準で考えてみなくても、受験地獄や詰めこみ教育の弊害、あるいは、学力の低下や学校教育の形咳化などが、日本の教育問題のガンとしていろいろ論じられています。しかし、こういった問題についてはわれわれよりも問題の本質を熟知した識者が日本にはたくさんいるので、あえて深入りをさけてきましたが、少なくとも日本の外からの提言として、個性と教養を身につけた人材育成に力を入れて欲しい、と再度強調していい、とおもうけどどうでしょうか。

早川 最近の日本には教育を論じた本は山のようにあるが、学問について書いた手頃な啓蒙書がないと思もうんですな。そうなると仕方がないから百年昔の名著を引っぱり出すより仕方がありませんが、世界に誇るべき古典としての福沢諭吉の『学問のすすめ』を日本人に是非読んで欲しい。この1年間にたった一冊しか本を読まないにしても、その本として『学問のすすめ』を忘れないでもらいたい、と言いたいですな。

藤原 明治の日本人がベストセラーにしただけでなく、国民の5%以上が読んだという点で大した本です。

早川 私はあの本を彼の自伝とともに時折読み返していますが、今こそこの偉大な学者の指導をうけるべき時代です。彼の教育に関しての考え方は実にまともでして、形式主義を打破して学ぶ、人間の福祉の源泉としての教育をすすめています。それに幼い頃に漢学をみっちり勉強しているにもかかわらず、彼の思想の中にその要素がきわめて少ない、というのは大したものです。学問的要素としては漢籍の知識は残っているが、封建的儒教思想は痕跡も影をとどめていないのです。

松崎 あとになって傾倒した洋学の影響と、本来の進歩的な考え方が結合したのでしょう。

藤原 漢学を乗りこえただけでなく、漢学をマスターした自分を乗りこえたんでしょうね。

早川 それに彼は自学自習です。緒方洪庵の影響はもちろんあるにしても、あの頃に天下を二分した尊皇でも攘夷でもなく、幕府の給料をもらっていても、別に幕府に弁護的ではないし、毅然として独立独歩の精神でいる。学者というのはあんな風であって欲しいですな。

藤原 福沢諭吉は徳川藩という小さな枠組を脱藩した日本人なんです。だから、ぼくは『日本脱藩のすすめ』という本を出版した時、はるか百年昔に書かれた『学問のすすめ』をしみじみと思い出しました。日本脱藩をすることは学問をすることと意味が同じだからです。

早川 それに、彼の『福翁自伝』にあることですが、江戸城大奥の幕臣の溜り場のできごとで、ある経済書に英語のコンペチションということばがあり、彼が競争と訳して説明したら、争という文字が面白くない、と皆がいったらしい。そこで面倒臭いので、そのことばを墨で黒く塗りつぶして皆に見せたそうです。福沢諭吉ほどの人物でも、石頭の幕臣には大分閉口させられたみたいでまるで頑迷蒙昧な評論家を相手に、コーラスを合唱団と訳すのは誤訳だ、といくら説明しても分ってもらえない、あのロンドン大学の森島先生の立場と似てますな。

藤原 ことばの訳は、コンテックストの中で正確な状況判断ができる人間でないと、正しく解読できないのです。福田恒存の論法でいくと、リサイタルということばは無条件で独唱会と訳すでしょうが、それが契約の話なら、列挙事項と訳さないといけないことを知らないのです。要するに、現体制の幕臣を自認して派手な防衛論をまくしたてる評論家も、徳川幕府の中で攘夷論にふらつく幕臣も世間知らずの井の中の蛙と同じだ。ということですよ。これからの若い世代の中から、こういう厚顔無恥な人間を生まないようにするためにも、教育者にしっかりしてもらわなくてはいけないですね。

松崎 いずれにしても、何とかして経済についての学問を教えようとして、武骨者の幕臣を相手に骨を折っている様子がよく分ります。知らないということは恐しいというか、世間知らずのこんな幕臣を相手にしているうちに、福沢諭吉は幕末の政争にあいそをつかしたのではないですか。

早川 世の中には、愛想をつかしたくなる屁理屈はいくらでもまかり通っています。毛沢東によると、政治は経済に先行するんだそうですが、これなんかも私にはよく分りませんな。経済という人間の自然な営みは政治以前のものである、なんていおうものなら、毛主席の存命中の中国では監獄行きか懺悔をさせられるかのどちらかでしょう。言論の自由だけは守らなければならないが、そのうち自由なんてことばもタブーになりかねませんぜ。

松崎 自由ということばがタブーになったら世も終りですよ。自由杜会でなくなるものね。

早川 福沢諭吉によると、幕臣の頭は商売しながらも忠君愛国であり、お国のためには値段をつけなくとも品物を売る、と書いてあれば皆の気に入るんだそうです。そうなったら商売もヘチマもないですぜ。

藤原 値段をつけなくとも品物を売る代りに、喜んで命を捨てるとやれば、文部省の修身になってしまう。


世界に通用する為政者の姿勢

早川 世の中のために自分が犠牲になるということと、お国のために命を棄ててもいいと思うことは一見すると自己犠牲の面で似ているよう見える。しかし、時と場合によって自らが犠牲になってもいい、と判断することのできる人間になることと、修身などが強調するように、君主のためやお国のためには死ぬことも必要だ、と子供たちに教えこむのとは、本質的に違います。考え方として、自分がそういった選択をしなければならなくなった時に、状況を正確に把握して、自分としての決断をする必要があることを知っておくのと、単に滅私奉公が最良の行為だとして、洗脳をする形で純真な子供たちに教えこもうとすることは雲泥の差がある。戦前の大蔵省はそのマニピュレーションをやったからいけないのであり、再びそれをやろうとするならば、日本を殺すだけでなく、教育もろとも日本の子供たちを道ずれにする自殺行為です。

藤原 学校の分野だけでなく、広い意味での学問の世界まで含めて見ても、今の日本ではそういった自殺行為が進行しているんです。日本に行った時に、読者の一人でジャーナリストが、是非会わせたい人があるから時間をもらえないか、と言うんで都合をつけました。というのは、考え方から顔つきまで僕とそっくりで、アゴ髭のスタイルも全く同じであり、20年後の僕の容貌をタイムマシンを使って見に行くと、その人を発見するはずだ、と言うんです。

松崎 まさか文部大臣だったというわけじゃないでしょうが、それが日本の自殺行為とどう関係するのですか。

藤原 その相手が日本学術会議の伏見康治会長なんです。原子物理学者だというので、僕は質問したいこともあって、麻布の学術会議の本部へ行きました。僕はアインシュタインの、エネルギーは質量と光速の二乗の積だという方程式が、イコールでは成り立たない、と思い続けて来たので、胸をはずませていたんです。ところが、学術会議の建物の中にはほとんど電気がついていないし、エレベーターも全部止っている。おかしいと思って聞いてみると、学術会議が政府の干不ルギー行政や科学政策に批判的だからというんで、予算を削られて兵糧攻めにあっているという。

松崎 それはひどい。言語道断ですよ。

早川 しかし、日本の政治家や官僚ならいかにもやりそうな手口ですな。神奈川県庁の労務課長が海軍の言うことを承知しなかったら、早速赤紙で二等兵として前線に送られた話や、束条首相を批判したら殺された中野正剛の例もあるし、徳川時代ならお家断絶なんて幾らでもあった。それに最近の例では、政府と財界が批判精神が気にくわないといって、広告を減らして毎日新聞社を兵糧攻めで経営不振にさせたとか、いろいろあるでしょう。水戸藩の天狗党と書生党の関係のように、自分と意見が違うと、相手側の存在さえ認めようとしない狭量なところが、日本人にはどうも強い。

松崎 しかし、政府が学術団体をそんな具合に弾圧するなんて、とんでもないことです。直接の管轄は文部省ですか。

藤原 文部省と結びついた自民党の文教委員です。しかも、政治家というのは今の日本では、カネさえ積めば幾らでもなれる存在だし、単なる力関係で権力を握っているポリテシャンにすぎなくて、とてもステーツマンと呼べる代ものじゃありません。それに対して、学術会議やアカデミーは一国にとって元首なみの名誉と尊厳がかかっていて、政治家のごとき連中がそんた横暴なことをするなんて、よその文明国じゃ考えられません。

早川 日本は文明国じゃなくて文化国家だから、世界に通用しないことでもまかり通る。選良といわれる代議士が灰色高官と同義語になり、しかも、疑獄事件の被告が闇将軍として代理人を首相にして操れる国が日本ですからな。

藤原 僕だって代議士くらいには幾らでもなれるが、学術会議となると会員候補にだってなれない。そんなくらい優れた人材が集まっている学術会議を、代議士や役人の分際で粗末に扱ったら、日本は世界のもの笑いです。ところが現に権力を使って弾圧しているんですよ。

松崎 政治権力が力を背景に何でもやれるというのは、後進国特有の現象であり、政治は一時的であるのに対して、教育は永遠のものです。しかも、アカデミーの世界の最大の価値は批判精神と、何ものにも支配されずに自由な判断を行う人間がいるということです。それが理解できないお粗末な人間が政治家として権力をふりまわせば、それは暗黒政治だし、現代における中世です。

藤原 日本の現状は太古ですよ。世界の常識がこの国では丸きり通用していません。

早川 たとえば、フランスが世界の文化国として威張っているのは、何もフランスの政治家や実業家のせいではなく、フランスのアカデミーのお蔭です。ナポレオンも大した男には違いないが、彼が残したもので最大の遺産は、軍事的天才を持つ政治家であったことよりも、科学という普遍的なものが理解できた政治家としての能力です。エジプト遠征にたくさんの科学者を連れて行ったし、探険隊にカネを出していろいろ研究や調査をさせている。そのひとつの成果が有名なロゼッタ石であり、エジプトの絵文字を解読するのに大いに援助している。モスクワ遠征をやったり一時ヨーロッパを制圧したからナポレオンが偉いのではなくて、科学アカデミーのように尊敬に値するものを正しく評価できたが故に、彼は歴史の中に政治家としての名をとどめたのです。

藤原 彼はアカデミーを尊敬していて、皇帝でも科学を意のままにできないし、科学者を支配するのは不遜だと心得ていた。ナポレオンがアルミニウムのスプーンを宝物にしたり、有名な電気ショックの体験までしてますね。日本のサル山のエテ公みたいな政治家とは人間の格が違う。

松崎 ナポレオンのエジプト遠征に選んだ学者は、あらゆる部門の自然科学者だけでなく、哲学者やエンジニア、それに当時最高の詩人や画家まで参加していて、総合大学をひき連れていったという感じですな。

早川 ナポレオンはたかだか軍人あがりの男だが、それでも学問への尊敬の気持と、何が普遍的な価値があるかについて、世界に通用するレベルでのセンスを持っていた。だから、彼が単なる暴君としてネロや糾王と同格には扱われないし、欧州の政治家の頭の隅にはそれと同じセンスが残っている。ビスマルクは日本では鉄血宰相として有名だが、何も彼がカジ屋や肉屋の親父ではないんで、社会福祉の重要性についての見識を持ち合せており、人間の尊厳を政策の中にいかに取り入れるかに腐心した。日本ではビスマルクの杜会福祉政策についてあまり知らないし眼中にもないが、彼は福柾行政の分町では世界のはしりです。ベルリン大学のあの壮大な建物も、彼が予算的にとてもよく面倒を見ています。

松崎 日本じゃそれだけの宰相は現われなかったので、安田善次郎が東大の安田講堂を作る資金を提供しています。

藤原 ウィルヘルムニ世やエカテリーナ女帝も強烈な権力者ではあったが、一応は啓蒙君主であったが故に、歴史は全面否定していません。為政者が単なる天下の権力支配者の水準にとどまっている限りはエテ公なみであり、学術や芸術への評価能力を持ち合わせたければ、世界に通用しません。それから、昔は安田善次郎のような人物が日本人の中から現われたのだから、税制を改めて財団を作るようにし、教育や研究を国や文部省から分離して、財団のバックにして民聞の総意を結集したらいい。それも日本の商社グループみたいなものでなくて、もっと非系列的で産業グループ財団みたいにしたらどうでしょう。

松崎 しかし、日本ではどうしても紐つきになるんじゃたいかな。

早川 それこそアメリカの財団を手本にしていいところを学んだらいい。特に、いろんな研究所をシンクタンクの形で作れば、その中から政治家や政府高官として直ぐに役立つ人材が育ち、松下電器の会長がやっている政経塾みたいなものより、はるかに優れた人材プールができるでしょ。ただし、財団はその背後にひかえる企業や産業グループから完全に独立して、独自のやり方で理事を選んで組織体を運営する方式を確立しないといけません。それこそ各財団の中に小型文部省でも出来たら始末におえないです。

藤原 そうなら、学術会議のアドバイスを受けたり、教育委員会が地方アカデミーと協力して教 育行政が担当できるように、道州制を生かすといった路線も追求できるんじゃないです。

松崎 しかし、そこまでやると日本全体を作り変えることになって、大変な改革を伴うから問題も多いでしょうな。


社会人の再教育システム

藤原 何といっても問題なのは、教育を考える時には20年後とか50年後のことを想定して、現状を大いに革新する姿勢だけれど、一体未来において何が必要であり、現在知られていないどんなものが価値の中心になるかです。ところが誰もその答を知らないし、また、それが分るわけがないのが辛いですね。

早川 それでも、日本における大学教育の未来像に関しては、アメリカやカナダの大学の現状を分析することによって、ある程度の予測はつくのではないか。別にアメリカがはるかに進んでいるとか程度が高い、というのではなくて、戦後における日本の新制大学制度はアメリカのカレッジ制度の導入だからです。実際的である以上に教育論を超えて政治哲学でさえある『民主主義と教育』のデューイの思想の導入、という意味において、アメリカの学校制度を通じて試みられた数々の実験やその結果には、学ぶべきものが多いと思うのです。特に、学校を選択された環境として把え、環境はその中に在る人間を変えるだけでなく、人間の変化や時代の変化によって環境自らが変らねばならず、制度としての学校は新しい社会的要請に応えるだけの柔軟性を保つことによって、変化していく社会が真に必要とする人間を育てあげる機関でなければならない。この視点で見るならば、十年一日どころか百年一日のごとく、大学が青年期の人間を一定期間収容して、最終的に卒業証書を与えるというパターンそのものが、大きく修正されなければいけない時期に来ていると思いますな。

松崎 学校が個人と社会を結びつけるブリッジになるにしても、これまで主流だった縦の流れとしての年齢的なものよりも、むしろ、環境として横の拡りとして、空間的なブリッジとしての機能を強めるということです。さっき話題になったプロフェッショナルのためのゼミナールとか、特別な研習会やビジネススクールみたいなものを、もっと一般的な形で大学のシステムとして採用していくことも必要でしょう。

藤原 今の日本では、教育と言うとどういうわけか、若い人たちの問題としてしか論じられない。確かに子供や青年たちの教育も非常に大切だが、産業社会が急速に変化して知識葉約化への色あいを深めている以上、中年層の再教育や壮年や老年の人たちの経験と生活を生かして、より充実した人生を体験する足場としての大学問題を考える時期が来ています。四年間で大学課程を終るとか、一つの大学だけに所属する、という枠組をはみ出さない限り、大学が青年たちの保育所化する傾向を改め得ないのじゃないかな。

早川 私自身の現在の経験から言えることは、人間は十年に一度の割合で人間ドックに入るつもりで大学に戻ったらいいし、頭の中でサビついている古い知識のオーバーホールが必要です。そのために、大学を中年層や高年層に開放する必要があるし、社会に出ていろいろと実際的な経験を積んだあとで、もう一度理論的なアプローチで問題を考え直すことで、本質的なものの理解ができるのではないか。そういう人が教師に質問を発したり、異った見解を主張することによって、教室の緊張度や知的集中力も高まるし、先生と生徒の和互反応で講義の質もグレード・アップすることになると思います。

松崎 考え方としては大変結構だが、教師の立場から発言させてもらうと、それによって授業の進行が大分狂うことになるし、若い学生の大部分はとまどいを感じて、教育効果が低下することも考えられます。それは大学院のマスターコースか、大学の四年生くらいだったらいいかもしれません。

早川 これからは学問自体がどんどん学際的になっていく訳で、教育は教育者だけにまかせるのは問題だし、授業を教師だけに担当させるのではなく、広く他の分野の経験を積んで来ている生徒を交えてやっていったら、と思うんです。昔から「先生は見て来たような嘘を言い」というように、本で読んだ知識だけというのは、非常に限られた見方しか出来たい場合が多いからです。

藤原 そのためには、現在の大学のカリキュラムを改めて、講義単位の認定制を導入したり、フレックス・タイムのやり方を採用したらいいと思う。そうすることによって、大学の生活が一般の社会生活と結びつけうるかもしれない。

松崎 講義のフレックス・タイムというのはどういうことですか。

藤原 たとえば、三年で取得した方がいい講義について見るなら、経済関係は月曜と火曜、自然科学は火曜と水曜、医学は水曜と木曜といった具合に、週に二日か三日間にわたって朝から晩までビッシリと時間割を組むのです。そうすれば、学生の間に二つの学部を修了することも可能だし、これから段々と週4日制や3日制が一般化するにつれて、社会人として仕事を持っている人が、火曜や土曜日に大学生活を体験できる。また、別の大学では3年の経済学が金曜と日曜なら、2つの大学を組み合せて3年生の単位を1年間で仕事をしながら取れます。それに、大学の先生こそ本当の自由人なんだから、何も皆と同じように日曜日を画一的な休日にしなくても、火曜とか金曜とかを休日に選んだらいいと思うんです。しかも、日曜日こそ公開講座を外部の人に提供したらいいし、そうなって休日が本当のリクリェーションとして、生産的なものになるんじゃありませんか。

松崎 教師として発言すれば、それはとてもラジカルで大胆な変革として、いろいろと抵抗があるのではないかと思います。

早川 語源的に言っても、学校や学者を意味するスコレーということばは暇という意味でして、暇を持て余していた人間が行ったりなったりするんです。昔は奴隷がいたので暇のある人間だけが学問を楽しんだのですが、それから2,000年余り後のわれわれは、産業の機械化や自動化のお蔭で働かなければならない時間が短かくなり、1週間に30時間くらいの労働時間で済むようになった。そうなると、余った時間はどうしても本来の余暇の意味と結びついた学問の形で活用しなければならないし、当然のこととして、学問を学者にまかせるだけでなく、杜会人全体が参加できるシステムにしていく必要がある。おそらくそれがこれから何十年も先の全体像じゃないかと思います。

藤原 学校の中に杜会がなだれこんで来るとともに、社会全体の中に大学が拡散していくということで、これは教育の原点に立ち戻る働きだともいえます。なぜならば、社会生活の中で人間はいろいろなものを学んだわけだし、社会は本来そういった鑑としての教育効果を持ってたんです。ところが、ゲレーシャムの法則で質の悪い人間がどんどん社会を俗悪化してしまいとてもじゃないが人間の鑑として通用しないものにしてしまった。だから、このように俗悪化した社会から若者たちを隔離するシステムとして学校が出来たが、進化の螺旋運動の結果、再び社会と学校が一体化する時代が訪れたので、これからは、社会を教育環境にふさわしいものとして浄化しながら、その再結合のやり方を追求しなければならない、と思うんですよ。

松崎 しかし、今の日本のように、政治は乱れマンガ本やポルノが見境もなく社会全体に浸透している社会は、教育にとっては最悪の環境といえます。その辺のところを見きわめないと、単に大学と社会を一体化するといったところで、それは学園の荒廃に終るだけだ、という危険が大きい。

早川 その意味では、教育の専門家である教育者を信頼して、学校の問題は教育者に理想やカリキュラムの組み方などはまかせるとともに、市民の中から選んだ有識者や学識経験老の知恵と手腕に期待する他はないでしょうな。変な紐のつかない自主運営を通じて、それぞれ個性を持った学校をいろいろと存在させ、狭い日本ですが多様性を豊かなものにしていくのです。

藤原 そして、文部省のような変なイデオロギーで教育を支配しようという役所は、もっとサービス本位の機関にと作り直すことです。昔の院外団の生れ代りみたいな自民党の文教委員の暴れん坊たちは、教育の本質を学び直すために、大学で教育学を勉強してもらうということで、代議士をやりながらでもいいから火曜と木曜は通学してもらうとか、感化院にでも送って根性を叩き直したらどうでしょう。特に親の七光りで代議士になったようなスポイルされた連中が一番タチが悪いでしょう。

松崎 文部省のお役人にも、その研習をやってもらう必要があると思いますな。


自分の思想の自由

早川 現在の若い世代やこれから日本に生れてくる世代の将来について考えるなら、明治以来の日本の教育の歴史の中にはっきりと読み取れる通り、この国ではボヤボヤしていると、とんでもない方向に子供たちを連れて行くために、教育を通じて洗脳しようとする一派がいると声を大にして警告せざるを得ません。それが文部省という役所であり、この役所から政府機関の委員をおおせつかったり鼻薬をかがされた学者や評論家たちが、一生懸命になって国家主義や愛国心高揚 のコーラスをやっていて、その声が日一日と高まっている感じです。しかも、その歌詞は当世風の耳ざわりのいいものになっているが、私の耳にはどこかで聞いたことのあるメロディーが適当に編曲されて使われているように思えるのです。

藤原 主題はあい変らず皇国であり、そのバリエーションの大国がきて、経済の前にシャープがついているんです。経済大国の大合唱ですよ。

早川 この次に転調する時によく注意しないといけませんな。うっかりしているとメドレー風に歌が続いて、気がついてみたら「何もいわずに靖国の…」なんて歌っていることになるかもしれませんからな。

松崎 その次は「勝ってくるぞと勇ましく・・・」ですかね。

藤原 徳富蘇峰は日本の生んだ最高の思想家だったなんてことを、平然といってのけるプロシアかぶれの語学教師が、マスコミの寵児としてゲッペルス流のデマゴギーをまきちらしている時代ですからね。清沢洌の『暗黒日記』に綴られている歴史の証言を読めば、徳冨蘇峰こそ日本人を悲劇に追いやった最大の戦争犯罪人だ、ということはあまりにも明白です。

早川 あの時代に現役の役人として生きていた私でも、徳富蘇峰こそ日本人から自由を徹底的に奪い去り、日本人の運命を軍国主義者の手に引き渡すことによって、多くの若者たちに精神における地獄を体験させた張本人だと、強い自信を持って証言しますよ。私と同時代の人間がどんどん死んでいき、本当のことを発言できないまま時代が急激に変っていきます。しかし、日本の若い世代は二度と同じ過ちをくりかえしてはいけないのです。東条英機は憲兵政治で全体主義化した日本を戦争に総動員したが、徳富蘇峰はプロパガンダ教育で、日本人全体を戦争に駆り立てました。しかも、そのスポンサーが文部省だったわけです。極東裁判は戦勝国側の一方的な裁判だったが、もし日本人が自らの手で戦争裁判を行って調べれば、東条よりも徳富蘇峰と文部省こそ、日本国民を戦争に追いやった最大の犯罪者だ、という結論になるに違いない、と私は確信しますな。

藤原 そういった発言こそ、われわれ次の世代がひきつがなければならない歴史的な遺産じゃないですか。

藤原 民族が引きつぐ遺産というのは、神社仏閣や伝統文化だけでなく、そういった歴史的教訓を含めた広義のものなんでしょうな。教訓というのは眼に見えない無形のものだけど、少なくとも先人たちが血と汗を代償にして獲得したもの、という意味で貴重です。

早川 私がなぜこんなことを強調したかというと、人間の歴史の本質というのは、その眼に見えないものを手に入れるための苦難の過程に他ならないからですよ。

藤原 その眼に見えないものの中核にあるのが、ぼくは自由だとおもいます。人間の歴史は自由を獲得するための闘いの歴史だったし、これからもより基本的な人間の自由を求めて、闘いは続いていく、とおもいますよ。

松崎 しかし、その一方では現在の日本は自由の洪水で、自由に恵まれすぎているともいわれています。自由を名のる政党が長年にわたって政治を動かしているし、汚職をする自由、下らない小説を書く自由に読む自由、学校をサボる自由にテロをやる自由、といった具合に、自由の名において何でもやれます。

藤原 それは日本人が自由の本質に肉迫したこともないし、歴史の中で自由のために生命を賭けて闘い、しかも、それを民族の遺産として血や肉としたりするだけでなく、精神の中に高めるところまで行っていないせいですよ。自由にはいろんな水準があって、何からの自由という段階もあれば、何のための自由という段階もあります。しかも、自由は拘束や桎梏と一体化したものであり、拘束から単に解放されただけでは、それは真の自由ではないんです。

松崎 現在の日本にあるのは、自由の名において横行する放縦の一族なんです。それまで存在していた戦前の日本があまりにも束縛され抑えこまれていた社会だったから、束縛から解放されたことによって得たものを、自由と呼んで謳歌しているともいえますな。

早川 というよりも、これまでの日本人は自由ということばを誤訳したまま鵜呑みにしてしま い、日本の社会にとって本来あるべき自由の意味を正しく理解してこなかったのです。これは実に恐ろしいことであり、国民の5割が英話を10年以上学び、しかも、何万人という日本人が英文学や哲学だけでたく、政治学や社会学の勉強をして、毎年のように大学を卒業しているのに、肝心な問題が国民のレベルで議論さえも行われていないせいでしょうな。

松崎 しかし、自由杜会を守れというかけ声は随分いわれているし、大学でも自由をテーマにした講義は大分行われているはずです。

早川 哲学の授業で必然からの自由がリベルタス・ア・ネセシターテだとか、極限的自由がリベルタス・インディフェレソテエという解釈学を教わることはあるでしょう。しかし、人間にとって一番大事な自由については、解釈学として理解するのではなくて、身をもってそれを受けとめるような形で、しかも、小学生でも中学生でも納得できるものとして、自由について説明されなくてはいけません。一体日本の小学校や中学校では自由について生徒にどんな具合に教えているんでしょうか。

松崎 さあね おそらく何ものにも束縛されない基木的人権、といったようなことじゃないです

藤原  おそらく、自由について本当に自信を持って説明できる教師は、ほとんどいないんじゃないですか。本来からして、自由ということばは日本語じゃないし、概念自体が日本には存在しないとおもいますね。

早川 実はそうでして、自由ということばは中国からの借りもので、しかも、日本人は中国人があのことばを作った意味を正しく理解しないまま、勝手なイメージを描いて、同じ単語を違った意味に使っているのです。

松崎 そんなことがありうるんですかねえ。

早川 いくらでもありますよ。大体日本文化は誤訳文化でして、日本人は勝手に同文同種なんてことをいったものですが、中国人は大いに迷惑したはずです。シナ語の自由が同じ文字で書いてあるので日本語と同じだとおもってしまうが、英語に訳すと、セルフリライアンスです。そこで、この英謡のセルフリライアンスを日本語に訳すと、他人の協力を仰がない、ということになるが、それでは正しくないのです。なぜならば、英語のセルフリライアンスの本来の意味はシナ語の自由と同じでして、思想的に他人に寄りかからないで自分独自の思想を持っている、ということです。もっとくだいて言えば漢語の「自」の意味は、他者の力を借りないで、それ自身に内在する働きに基づく、ということであり、「由」はそれによる、ということです。それ自身に内在する働きの最も基本的なものは思想に他なりません。

松崎 そうなると、いわゆる辞書に出ている自由の訳語としてのリバティやフリーダムとは含む 意味が違っていて、限定的な狭義のものになってくるわけですな。

藤原 でも、禅の語録の中に出てくる自由ということばは、自在と同じで広義の意味に使われていますよ。

早川 シナ語の自由は考え方の自由であり、思想的に他人の影響に支配されない、という意味で、 自我の確立なのです。

藤原 己れが己れ自身によってたつ、ということですね。あるいは仏教用語の融通無碍のように、心に余裕があって自由自在にやるとか。

早川 文字づらから読むと自由はゴーイング・マイウェイとも考えられるので、そこでフリーダムと結びつけたのでしょうが、そうなると折角先人が発見し遺してくれた、自由の本質としての自分自身の思想を持つ、という感じが見失われてしまいます。

藤原 その意味では、自由というのはお釈迦様のいった天上天下唯我独尊とも同じですね。

松崎 ところが、そのお釈迦様の悟りの境地も、日本にやってくると衆生を相手にした念仏宗になって団体を相手にするようになる。

早川 日本は昔から全体主義の国だから、たちまち個がどこかへ消えて行き、行方不明になってしまうのです。だから、宗務省の役目を文部省がやりたがり、宗門の中から個人主義者が現われたいように一生懸命になるんでして、これも歴史的には理由があるわけです。

藤原 でも、お釈迦さん自身が弟子たちに向かって、「二人にて一つ路を行くことなかれ」といってる でしょう。また、自分一人の力で独自の天地を切り開いて行くのが人生であり、己れ自身の思想に生きよ、とアドバイスしてます。結局、学問だって同じことで、師に学び問いかけることに続いて、己れに学ぶことも問いかけることもない境地にたどりついて心静かになる、ということなんでしょうね。

早川 私なんていくつになってもスカラーであって、野ざらし紀行の人生です。「この道や行く人なしに秋の暮」というとこですかな。


太平洋語時代の人材

藤原 早川さんは70歳に近いから、秋の暮なんてことを言って愁いを発散しているけれど、結局は「冬来たりなば春遠からじ」ということで、新しい時代の夜明けも、そう遠くないと思うんです。それが一番強く感じられるのは東京の秋葉原でして、日本が誇る世界で一番素晴らしいものは、フリー工ンタプライズが活況を呈しているあの電化器具街です。最近日本に行ったアメリカ人やカナダ人たちが、一番印象深いと口をそろえて言うのが秋葉原であり、日本人が最も日本文化の粋だと思いこんでいる神社仏閣や新幹線なんか比較にならないんです。僕なんか奈良や京都に1週間滞在するよりも、秋葉原で半日過した方が、はるかに日本文化の息吹きを肌で感じるんですよ。

早川 京都や奈良は長安や洛陽のコピーでしかないし、歴史というのは何も古いものばかりではなく、十年昔だって今日だって生きている歴史には変りありません。歴史はわれわれが祖先から受けついで、さらに毎日の生活を通じて新たに作っていくものです。

藤原 それに秋葉原に行くといろんなマイコンを売っていて、小学生や中学生がまるでオモチャをいじるような感じで、コンピュータを操作して遊んでいます。それも実に手なれた感じで、後生畏るべし、と思うとともに、新しい時代が来ていると印象づけられるんです。

松崎 ちょうど、われわれが中学生時代に模型飛行機を組み立てたり、鉱石ラジオを作ったのと同じ感じで、彼らはコンピュータを操作するのです。5年もしないうちに中学校の授業の中に、コンピュータのブログラムが正課としてとりいれるかもしれないですな。

藤原 それが日本文化に及ぼす影響を考えると、実にすごいインパクトを持つと思います。まず第一にコンピュータの言語は英語であり、ベーシックの習得を通じて本物の英語が身につくようになり、日本人がバイリンガルの人間になるわけです。これは多層思考型への第一歩として、聖徳太子が活躍した時代以来の画期的な出来ごとじゃないですか。

松崎 子供たちがプログラムを作りながら、コンピュータ言語としての英語をマスターすることで、国際化への突破口が大きく開けるでしょうな。

早川 英語でものを考えるということを、シンキング・スルー・イングリッシュなんて出たら目を平然とやってのけるいかがわしい先生が、大学で英語学の教授としてまかり通ったり、こんな嘘っ八教師が英語教育論を書くと、そんな愚劣な本を有難がってエッセイスト賞なんかを贈呈したりする、ニセ者天国が通用しなくなることでしょう。コンピュータを操作している限り、英語でものを考えるはシンキング・インニングリッシュだ、と中学生でも知っている時代には、他人の説をノリとハサミで貼り合せたような本が、知性ブームの本としてベストセラーになるような、実に馬鹿げた現象は日本から姿を消すはずです。

松崎 そういう意味では、これからのコンピュータ時代は、日本人に新しいランゲージだけでなく、本物の思考法を身につけさせる機会にもなります。

早川 子供の時から実際に使うためのことばとして、英語が日本の学童の生活と学習の中に入ってくるということは、英語が単に外国語として日本人に学ばれるというより、むしろ太平洋圏語になるのであって、現にそれが進行中だと理解した方がいい。英語がアメリカ化して本当の米語になったのは、ナチスに追われてドイツから逃げて来たたくさんの学者たちのドイツ語と、無学に近い各国からの移民のことばが混合した結果です。それはH・L・メルケンあたりが昔から言っていたし、コロンビア大学のタッカー・ブルックという言語学者の本にも書いてある。アメリカにおける言語の変遷は、地理的に距離の遠くなった植民地におけることばの独自な発展というよりも、むしろ、文明の発展の次元で考えた方がいい現象だ、ということです。

藤原 それはひとつの国際語して、英語が新しい性格を持つようになった、ということなんですよ。

松崎 現在において世界語として通用するのはアメリカ語だけであり、本当は英語とか米語と言うのではなくて、北アメリカ語とでも呼んだ方がいいのかもしれない。

早川 新しいことばの分散の速度に加速度がついて、あっと言う間に太平語になると共に、世界語として通用しているのであり、これはリンゴ・パシフィカムと名づけてもいいんです

松崎 日本文化にとっては危機である同時にチャンスであり、これからの日本語はチャンポンになって、 いよいよカタカナは増えます。その点で前に話題にしたように、海外に姉妹校を作って学生や先生を交換するだけでなく、大学から始めて高校くらいまでは、一部の教課を太平洋語としての英語を使ってやるくらいにならなくてはいけない。

早川 そういうことは、まず知識人と言われる部分が率先して開拓するのが筋ですが、日本にはそれだけのエネルギーを持つ人間が知識人として存在しない。また、知識人が本質的に批判し判断することをもって、その存在価値にしているとすれば、今のように役人が支配している官立の学校には期待できません。とりあえずは、私立の大学あたりからどんどんやってもらうより仕方がないでしょうな。

藤原 でも、それは官学とか私学といった学校の問題ではなくて、教師としての個人の自覚に属す事柄です。問題意識を持った先生さえいれば、それは明白からだってやれることですよ

早川 現代版の森有礼もいりますな。

松崎 私は日本の官立大学へ半年ほど客員教授として行きましたが、今の日本には経営学でさえ英語で授業を行う、という雰囲気はありませんでした。

藤原 しかし、英語だと考えるから抵抗があるので、国際語と考えて扱えば、案外なことに突破口が開けるのかもしれない。歴史的に見ても、18世紀までのヨーロッパではイタリー語が国際語の役割を演じていたので、モーツアルトだって『魔笛』以外のオペラは全部イタリー語だったのだし、ギムナジウムを初めとした中等教育はラテン語を教えたわけでしょう。

松崎 そのラテン語がフランス語とドイツ語を経由して、ケルト語と入り混って英語になったのだし、その英語がアメリカという植民地でさらに世界語への一歩を踏み出す。そして今度は日本語、スペイン語、中国語、朝鮮語、インドネシア語の要素をとりこみながら、太平洋語化していくならば、日本にはこれまで英語を第一外国語として教えて来たべースもある。だから、日本の教育システムをその方向で新路線にのせるのは急務です。

早川 英語はもとになるケルト語とアングル語にサクソン語が加わり、それにノルマン征服のウイリアム1世の大遠征で、一挙にラテン文化とともにフランス語系のものがまじりこんだものです。だから、低地ドイツ語とロマネスク語が英語の幹になり、ルーマニア語や中部ヨーロッバ語もその中に含むとしたら、米国語は太平洋語であるとともに、世界語としての性格さえ持つと考えていい。一方、イングランドにおける英語は、19世紀の段階でそれ以上は余り大きく変化し ていません。現在の米語は英語を正しく知らない各国人が好きなように使って出来たものであり一見すると似ているが、新しく生まれ変わったことばです。ちょうど、イタリー人にスペイン語がほぼ見当つくのと同じで、イトコ同士の親戚関係だ、と思ったらいいのです。

藤原 日本語の中にカタカナが氾濫しているのは、日本語の太平洋語化への変化の現れとみていいし、これからコンピュータの利用でその度合いがもっと激しくなる。そして、最終的には、情報化時代の進展の中で、日本語自体が太平洋語の中の方言になってしまう。現に商社間のテレックス交信では、両側が日本人でもファイルの都合上、電文のほとんどは英語を使ってますよ。

早川 言語の二重構造は世界的な傾向であり、これからは1か国語しか出来ない人間を新刷文盲と名づけ、世界語としての英語とさらに1か国語が出来ることによって、初めて文盲でないと言う時代になるのでしょう。そうなると、日本は文盲首相と文盲閤僚にひきいられたとんでもない国、ということにたりますな。

松崎 太平洋圏の首相がシンガポールや東京で会議をやっても、日本の首相だけがことばが出来ないので仲間はずれです。実際に、世界先進国のサミットでもそうでしたね。

早川 日本人が一般に英語が下手だというのは、英語を数える人が英語が出来ないせいです。いつもニセ者として登場するあの上智大学の教授みたいに、小学生なみの英語力でデタラメを教えて、英語学の専門家だというのだから始末におえません。文盲の先生が知的生活だのレトリックだのと知ったかぶりをし、それがまかり通ったり、英語の通訳を連れてストラットフォードを訪ねたシェークスピア学者とか、日本には変な手合が多すぎますな。ことばは言語生活の基礎であり、英和辞典を丸暗記してシェークスピアを読んだとか、カントを訳本で読んで博士号を取ったような人に、余り偉そうな顔をして英語教育論のようなことをツベコベ言って欲しくないですな。

藤原 辞書の訳語はパーティクル(語形変化のない言葉)でしかなくて、それを文脈の中で読み取る能力が大切であり、教養の有無がそこで決め手になる。

早川 時代背景においてことばのコンテクストを理解し、アノテーション(注釈)やコノテーショソン(含意)を把握することです。それが感覚として生きてくるためには、その言語での生活が必要であり、そのことばで娘をくどき、喧嘩し、ののしり合うところまでやらないと、それは身につかない。結局、これからの日本でバイリンガル教育をやることによって、それのできる21世紀型の太平洋時代の日本人を育てあげることで、現在の問題点を克服していくことですよ。

松崎 その意味では、日本語と太平洋語をマスターし、自分の思想と専門知識を身につけ、幅広い教養を持つ人間が、真の意味で自由と結びついた国際人として、次の世紀の主人公になれるわけですな。


世界が求める日本人像

藤原 自由が自分の思想を持って自らの足で立つ人間によって所有されるものなら、学問をすることは自由を手に入れるプロセスに他なりません。また、そうやって自由の境地を自分のものにした人間というのは、どんな環境の中でも逞ましく生きていけるし、時代がどのように変ろうと、どんな異質の文化を持つ人の間ででも、自信と誇りを持った個人としてやっていける。結局、こういう人間をこれからの日本は大量に育てあげて、世界中で活躍させる機会を提供しなきゃいけない、ということでしょうね。

早川 自信にしろ誇りにしろ、学問をすることによって身についてくるものだし、実力の裏付けによりその輝きはいよいよ増すのです。しかも、学問は教育機関の中だけでやるものではなく、そこで勉強の仕方を覚え、あとは自分の力で杜会の中でのいろんな経験を通じて磨きをかけていくものでして、人生そのものが学問の道場だ、と考えるべきでしょうな。ベルギーの作家のメーテルリンクの書いた『青い鳥』の真意だって、単に幸福は自分の足もとにある、という教訓にとどまるのではなく、自分の精神の中に自由を発見する努力によって、自分が捜し求めるものが何であり、また何を求めて生きるのが人生かを確認しなければいけないのだ、というところまで読み抜く必要があります。

松崎 だから、子供の時はチルチルとミチルが青い鳥を求めていろんな場所を訪ねまわる冒険談として、童話をそのまま童話として読めばいいが、それを大人になってから或る日読み直したり、ふと筋書を思い出すことによってその意味が分るようになる。しかも、そのためには途中でいろんな体験や知識の蓄積を通じて、人間はものを学び円熟していくのです。その意味では、小学校から大学までの制度としての学校は人間が人材として育つための階段のようなものです。一歩一歩着実に登っていけば高いところにたどりつく。

藤原 ぼくは学校制度は飛行場の滑走路みたいなものだとおもいます。飛行機が空を飛ぶためには滑走路で加速することが必要だけど、大学院までの長い滑走路がいるか、それとも高卒程度の標準式滑走路が必要かは、飛行機の大きさとエンジンの性能がまず決め手で、しかも国内用の短距離飛行機か太平洋横断のジャンボジェットかによります。また、これまでの活躍の舞台は国内が中心だったけど、これからの時代は世界の空を駈けまわらなければならないし、ぜい肉を削ぎ落して小型機でもジャンボを上まわる性能の飛行機として、優れた人材を作りあげることが大切ですね。

早川 学校制度を滑走路と比較して考えるのは面白い発想ですな。そうなると、いくらスピードが早くとも音の公害で相手国があまり歓迎してくれないコンコルド型ではなくて、自然にうけいれてくれる音が静かで燃費のいいものじゃなきゃいけない。それを人材のタイプで考えればどういうことになりますかな。

松崎 まず第一に、人間として誠実で健全な常識と教養豊かなことでしょう。学校で丸暗記したような知識はあまり重要ではありませんし、鼻の先にぶらさげたような知性やエリート意識は、むしろ有害ですらあります。

藤原 ぼくはむしろプロ意識というか、自分が専門にしている分野に関しての自信と、しかも、常に学び続けようという誠実さを感じさせる意欲が一番大切だとおもいます。その次に松崎先生のいわれた人柄がきて、とくに相手の立場で物を考えることのできる、思いやりということが相手国の人に信頼感と敬愛の気持を生み出すわけです。ことばが喋れるなんてことはその後のことであり、カタコトでもペラペラでも大差がないですよ。

早川 面白いことに、二人の意見にズレがあるが、誠実さということばが共通してますな。私も誠実であることが何にも増して重要だ、という点は賛成です。そして、相手に魅力を感じさせる人柄というのは、誠実さと結びついていて、人間としての爽快さや味わい深さを感じさせたんですな。

松崎 ガツガツと儲けること明け暮れないで、余裕のある心で人びとと接していける人間なら、どんなところへ行っても大丈夫です。

藤原 要するに、本物ならどんな所でも問題ないです。

松崎 具体的にどういう人間を指して本物というわけですか。

藤原 自分の足で立ち自分のことばで喋れる人間です。何ができて何ができず、何はしていいが何は絶対にしていけないと分かっていれば、ノーはノーだし、できるならやります、というだけのことです。

松崎 しかし、それを実行するのは難しいことですな。

藤原 難しいからやらなきゃならないのです。

早川 日本国内でそういう生き方をしようとしたら、あらゆる所で角が立って大変な苦労です。あの男は人情の分らぬ唐変木で、全然融通が利かたいし、話の分らない人だ、ということになります。

藤原 なってもしょうがありません。自分がいくら努力しても納得できないものは諒承するわけにいかないし、筋の通らないロジックを通らないと分っていて通すことは、自分をだますことです。ぼくはプロのコンサルタントであり、ニセモノかホンモノかを評価し、その識眼力で商売している人間だから、ジルコニアはジルコニアであって、ダイヤモンドと鑑定するわけにはいかないんです。プロの世界はいつの時代でも同じで、相手に破られるよりも自らに敗けることの方がはるかに多いが故に、ぼくはさっきプロ意識を筆頭に置いたのです。日本が国際舞台で優れた。パートナーとして信頼を獲得できず、至る所で顰蹙を買っている最大の理由は、政治家や外交官がインタナショナルな次元で不可欠なプロ意識を持ち合せていないためです。それは1億コッパ役人化を目ざす日本の教育のせいであり、東大病やヘンサチといった国内でしか通用しない歪んだ尺度におもね、日本人が狂った価値観を狂っている、と気づかないところに問題があるのです。

松崎 確かに指摘の通りだが、そういった形で問題をつきつけてしまうと、日本からものすごい反発をうけますな。なにしろ、国内にいて日本人の眼だけでものを見慣れている人たちは、世界のレベルでの思考法がよく理解できないから違和感を持たざるを得ない。日本の常識が世界の常識と同じでないことに気づいている人は、実に少ないのが現実です。

早川 日本人の考え方が、見た眼にきれいに映るという金魚鉢型であり、アマゾンのような大河や荒れ狂う大西洋に通用する、たくましいロジックにもとづいていない。たとえば、日本の政治を例にとっても、首相や外相のような重要な人物を選ぶにしろ、当選回数や派閥の論功行賞が中心であり、役割にふさわしい実力や指導性によってない。日本が国際社会の中で生き抜く上でのキイ人事がこんな具合に決るのと同じで、会社が海外に派遣する人材を国内で通用する序列や、ことばが喋れる、といった程度のことで決めて、一番大事なその人のフィロソフィやパーフォーメンスによらないのは大いに問題です。外国側で期待している日本の人材というのは、世界に通用するものを持ち合せている日本人であって、その人の出身校や社内の肩書なんてものではないのです。

松崎 特に英語がペラペラ喋れたといっても、話の内容が小学校三年生くらいの子供と同じというのが多くて、これでは信頼を獲得できないだけでなく軽蔑されるだけです。しかも、なまじっか大学を卒業しているから、余計始末が悪いことになる。

早川 一番始末におえないのが通訳まがいの人間でして、幼稚な内容の話をペラペラ喋って得意になる傾向が強いですな。問題は会話力ではなくて、思想があって胆が座っているかどうかです。しかも、会話の内容の質です。それの決め手は教育程度ではなくて、その人の学問的な深さと人同としての洞察力にかかわっています。

藤原 ぼくが世話をしてアメリカに日米のジョイント・ベンチャーを作ったんです。そうしたら、通訳まがいの人間を日本側代表として副社長に選んで、この人物は東大出で英語もできるし、社長業の経験もある上に海外に出たがっていると、いってきました。そこで、英語が喋れるからといって米国でビジネスがやれるわけではないし、日本で杜長をしていたからといって外国で経営者としてすぐに通用するかどうか疑問だ。現場でアメリカ人と仕事をして実力で相手から尊敬され、しかも、マネージメント能力で国際水準に達した人選をして欲しい、と手紙を書きました。というのは、その人が親の七光りで社長業をやり、最近会杜を行き詰らせてすることがないから、華麗なる転身を試みている、という情報を手に入れたからです。ところが、日本側は日本の尺度だけで人選をした結果、パートナーとしての敬意の気持までも失ってしまったのです。なぜなら着任するなり、カンパニーカーを買えとか、カントリー・クラブの会員権は役員の交際費だ、といったことをいいだして、日本人は自分で始末すべき費用をすべて会社に押しつける、という印象をアメリカ人たちに与えてしまったせいです。

松崎 杜用族として公私混同に慣れた日本人が、外国でもそれが通用するとおもいこめば、問題を起すのは当り前です。大会杜ならいざしらず、設立したばかりの会社ならばビジネス第一であり、ゴルフをやりたいのなら身ゼニを切るくらいの気持がいりますね。

早川 よくあることですが、現地会杜で給料を払う以上はその枠内ですべてをやるべきで、日本からきているということで、杜宅を提供されて当り前と考えるとなると、現地人の立場から見ると差別となり、フェアープレーじゃありません。役割や立場が違うにしても、日本流の杜用族感覚を無原則に外に持ち出せば、これは鼻つまみものですぜ。

藤原 アメリカの場合は自立自尊であって、企業家精神に富んだ人間になればなるほど自分の責任ですべてをやるし、仕事のために動きまわる職種や個人企業ならともかく、役員専用の自家用車をのりまわすなんていうのは、会社としてビジネス精神が弛緩している証拠ですよ。

松崎 そういったことを含めて、日本人の海外進出のやり方の中に、日本人自身が気づいていない問題点がいろいろありますな。

早川 それは日本という国がお祭り精神によって貫ぬかれている国のせいです。お祭りというのは公私の混同が例外的に認められる特殊な瞬間でして、きわめて限定されたものです。お祭りのミコシかつぎのやり方を外国に持ちこんで勝手に練り歩かれたんじゃ困りますな。

藤原 だから、お祭りというのは、ある一定の場所で一定の時期に行われる行事であり、しかも独得な伝統や価値観と結びついているという意味で、一種の限定された文化の在り方に他なりません。そこで、学習されたものとしての文化の問題が出てくるわけで、文化の巾に内在している規範を抽出して一般化することにより、文明の次元に通用する普遍的なものが見つかるのです。ということは、日本文化の枠を乗りこえて世界に通用する人間になるとともに、学問をすることによって人間として普遍的なものの見方ができるようにならなければいけないということでしょう。

早川 しかし、問題はそれほど簡単ではなくて、普遍的なものの見方を身につけること自体が実に大変です。極端な表現の仕方をするなら、人間自体白体がまだ猿から十分進化しきっていないせいかもしれません。


文明開化の黄昏時代

藤原 それは仕方のないことじゃありませんか。生命の30億年という長大な歴史から見れば、 猿人の北京原人やピテカントロプス以来100万年でしかないし、ホモ・サピエンスとしての歴史も、せいぜい3万年程度にすぎないですよ。だから、人類の次元で見ても、われわれは半分哺乳類で半分魚類みたいなもので、遺伝子にプログラムされている情報の99%以上は、原人段階以前のものです。そうなると、余程いい環境を作って個人として個性的な成長をするように配慮しないと、自らの力で獲得形質を手に入れて、それを生きざまの中に反映させるのは難しい、ということにならざるを得ないのじゃありませんか。

松崎 しかし、そんな大きな枠組で論じてしまうと、焦点がボヤけて何が何だか分らなくなってしまう。要するに、アメリカや日本を始めとした工業国が豊かになりすぎたために、社会全体が繁栄の中でスポイルされており、それが若い世代に余りいい影響を与えていないという問題と、社会が複雑化しすぎた、という過剰の問題があるということですな。

早川 とくに今の日本には、ものが足りないということが不足しているのです。ものが不足すると人間は緊張するものであり、内面の活力を刺激されて一生懸命になる時に、人間は生命力で輝くようになる生きものなんですな。ところが、この不足感が欠けているからシラケなんてことばがもてはやされるのでして、自由にとって最悪の敵は無気力や無関心だということを、日本人は注音深く思い出す必要があると思います。それは大正デモクラシーに続いて一体どんな時代を迎えざるを得なかったかに関係していて、教育界が狂気に支配された歴史について簡単に試みた、われわれの総括にはっきりと跡づけられているわけです。

松崎 これからの時代はあまり楽観できないし、バラ色の未来像を描くのは禁物です。

早川 バラ色の花の下にはトゲがあるものですし、楽観主義の中で自己過信に陥る時が一番危ないんですな。とくに、これからの日本は国際化こそ最優先の課題であるにもかかわらず、どんどん民族主義化して孤立するんじゃないか、という感じがします。頭の中では孤立化が身の破滅だと分かっていても、感情が熱狂にひきづられて、群衆として興奮の渦の中に巻き込まれてしまうのが世の常です。

藤原 そういう時代こそ、若い世代が日本脱藩を試みなければいけないし、『学問のすすめ』を読み直すことで、学問をすることによって自らをも乗りこえる逞しい人間に成長してもらいたいですね。

早川 日本文化の枠の中で尊皇を叫ぶか、それとも普遍性を求めて開国を主張するかは、日本人にとっては永遠のテーマだし、国権的な文部省のやり方に従うか、それとも民権としての自由な学問を求めるかも、日本の教育界をつき動かしてきた二大潮流です。私は個人的には民権のほうが、いいとおもうが、国権の強化を希望する国民だって多いかもしれません。いずれにしても、どれを選択するかは1億人の日本人の判断によるわけでして、われわれがあれこれ指図する事柄ではあません。

松崎 しかし、これまでわれわれが素人談義流に跡づけをしてきた江戸時代以来の日本の教育をめぐる大きな流れと、世界の中での日本の教育行政の特異性、という点からすると、これからの日本の教育が中江兆民の活躍した明治の時代よりも、さらに大国の理論に従って国家主導型になっていきそうな気がします。

早川 なるもならないも日本人の選択にかかっているのでして、私としては親父や自分の体験を通じて学びとってきたものを、こうやって簡単にまとめただけでなく、教育観についても自分の考えを思う存分により若い世代に披露できたので、これ以上は何もいうこともありませんな。

藤原 人類の歴史全体を自分の歴史として感じ取れる人間は、自分が属す民族の将来を冴えた眼で見わたせる人だ、といわれています。それにしても、明治以来の日本の教育の歴史を自分の歴史として感じ取れる日本人も、残念なことに刻一刻と少なくなっていきます。

松崎 いくら日本人の平均寿命が長くなったといっても、明治生れは70歳以上だから、まさに古来稀な人びとであることは変りありません。すでに明治生れの日本人は全人口の3%でして、今後の5年問に1%を割りこむと予想されるほど、その存在は貴重です。まさに明治は遠くなりにけりですな。

藤原 明治だけでなく、大正デモクラシーの時代もすでに遠いものになって、日本のワイマール時代の今日的意味が、似たような時代性の中で、なつかしく思い出されるようになっています。明治の半ばに書かれた『三酔人経編問答』が、大日本帝国の行く末を鮮やかに予言して古典としての価値をますます高めているじゃありませんか。明治でさえも遠くなって、古典時代になろうとしていますよ。

早川 明治もじゃなくて、明治が遠くになりにけりですよ。文明開化の黄昏ですな。


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