2 サダム・フセインに試されるアメリカの民主主義



 イラクに対しての全面的なエンバルゴに続いて、経済封鎖の抜け穴を封じるために、軍事的な包囲作戦が展開され、中東情勢はきわめて流動的になっている。すでに、中東の周辺には五隻の航空母艦とともに、戦闘準備を整えた機動艦隊が結集しており、アメリカ海軍は総員3万5000人の戦闘要員で古典的な全面封鎖態勢を整えたが、エンバルゴは時間のかかる制裁である。そうなると、急展開する軍事増強の態勢は、経済封鎖の政治学の法則が教える歴史の教訓と、どのように整合していくのだろうか。
 サウジの領土内には空軍と陸軍が送り込まれ、4万人を超えるアメリカ軍がエジプト兵とともにいる。この大規模な軍事動員は、サウジ防衛という名目で始まったが、防御態勢から先制攻撃への布陣にと、その性格が日を追って変わりつつある。
 専門家筋の話によれば、国防省は25万人の派兵まで想定している。3軍合わせて7万5000人という現在の動員規模で、1時間当たり100万ドルの追加出費を要するそうだが、戦火が燃え上がって本格的な戦争に突入した時に、アメリカの納税者はどう反応するだろうか。


突出したペンタゴンの動き

 ブッシュがアメリカ大統領としてどう考えようと、また、ホワイトハウスや議会には無関係な形で、ペンタゴンの巨大な官僚機構が本格的な戦闘準備を整えてしまった結果、戦争にのめり込む危険性が増大しているが、この意味する内容はきわめて深刻である。ベトナム戦争以来20年ぶりの緊張事態を前に、あの泥沼戦争で得た教訓を思い出して、慎重にことを運んで当然だというのに、ワシントンの動きはそれからかけ離れたものである。
 最も突出しているのはペンタゴンである。チェイニー国防長官が急速、アラブ諸国を訪問して、軍事行動への根回しを精力的に行ったし、彼がパウエル統合参謀本部議長と呼吸を合わせたように、軍事状況の解説ということで、メディアに登場するのが非常に目立つ。
 また、国防キャンペーンがテレビに華々しく復活し、産軍複合体がスポンサーになって、アメリカ兵器の卓越性を強調し始めた。その好例がノースロップ社のスポットである。
 究極の隠密兵器として空軍が自慢するステルス戦闘機が画面に登場すると、大きく回転して弧を描いてから、ペンタゴンが星になって視界から姿を消す。次に、名パイロットとして空軍のシンボル的な存在であるイエーガ准将が制服姿で登場して、「この戦闘機は価格は高いかもしれないが、高い値段に見合っただけの価値がある」といった説明をするのである。
 一見、他愛ない内容だが、1機が1億1000万ドル(約150億円)もする戦闘機がテレビのコマーシャルに登場する背景には、国防予算の削減で危機感を高めていた兵器産業界の巻き返しの意気込みが読み取れる。
 それに加えて、キッシンジャーやブレジンスキーのような武断派的な発言をする学者が、まるでイスラエル政府と口裏を合わせるかのように、興奮気味のメディアに頻繁に登場して、軍事行動の早期決行の必要性を声高に論じている。
 こうしたキャンペーンが効果を発揮して、アメリカの庶民感情の好戦的な部分は、艦載機を主体にした航空作戦の推進に急速に傾斜する世論を盛り上げている。


ワシントンを脱出した大統領の謎

 こんな具合に事態が急展開している時に、ホワイトハウスのスタッフは休暇中であり、メーン州のケニバンクポートの別荘で、25日間の夏休みを取っているブッシュ大統領は、イラクの侵攻以来の3週間に、わずか2回しかワシントンに戻っていない。また、外交が主役を演じなければならない時期、しかも、クウェートの大使館が強制閉鎖された大事な時に、べーカー国務長官はワシントンを留守にしてワイオミング州で夏休みを過ごしている。これはアメリカ民主主義の危機の兆候ではないだろうか。
 ホワイトハウスとペンタゴンの間に不一致が生じ、軍部は「宮廷革命」に似た玉座の取り込み騒動を起こした。この時、ブッシュは休暇にかこつけて別荘に引き籠っていたが、そこで将軍たちの影響力を避けているのが苦境に陥った大統領の姿だとすれば、神経戦はアメリカの指導部に亀裂を生んだことになる。
 何か異変が発生したらしいという印象を受けたのは、8月22日に行われた予備役の動員発表がチグハグだったからである。こういった重大な決定発表は、大統領がホワイトハウスで行うのが慣例だが、今回はプロセスとしてそれが欠けており、8月17日に大統領に要請して承認済みという形で、ペンタゴン当局は公式発表を事前にリークした。
 22日、大統領の別荘には、チェイニー国防長官を筆頭に、国家安全保障担当スコウクロフト補佐官、国家安全保障担当ゲーツ次席補佐官、パウエル統合参謀本部議長やスヌヌ首席補佐官が集まったが、肝心のべーカー国務長官は欠席している。
 また、緊急事態にもかかわらず大統領が補佐官から遠ざかっていた点や、この種の予備役動員は普通なら二段階で行われ、戦闘要員は第二段階で動員されるのに、今回は一まとめだったこともひっかかる。
 さらに、別荘前庭で行われた会見で、大統領は「たとえ国連の決定がなくても、必要とする全権限をアメリカは保有する」と宣言したが、これは何とも奇妙な会見だった。大締領はグレーの背広、縞のネクタイの正装だったが、白いスニーカーを履いており、いくら休暇中でもこれはチグハグで、ここに特別なメッセージがあると感じた。
 ブッシュは奮い立つ将軍たちの前では外交の正攻法を守れないと考えて、ホワイトハウスを一時的に放棄した。わざと孤立状態に身を置き、非軍事的な活路を開くためにゲリラ外交を狙ったのなら、それは撹乱戦法だが、果たして上手にコトを運んだといえるのだろうか。スコウクロフト補佐官がブッシュと密着して行動し、軍事よりも外向的なアプローチを助言しながら、水面下で政治的な工作も試みられており、その一環で、共和党のドール院内総務が、ムバラク大統領をはじめアラブの要人に会っている。


アメリカ外交の弱点を突く人質作戦

 サウジヘの大量の軍事力を投入する戦法をして、ペンタゴンはこれを「砂漠の盾作戦」と名付けた。一方、イラクは国内にいる外国人を人質に使った「人間の盾作戦」を採用して、軍事施設や爆撃目標に人質を配置し始めた。
 相手の攻撃意欲の減退を狙うサダム・フセインの戦法は国際法の精神に違反しているが、エンバルゴを逆に人質の苦しみに転嫁する点で、これは弱みを強みに変える捨て身のやり口だ。第二次大戦末期のヒトラーでさえ、報復を恐れて毒ガスや生物兵器は使わなかったが、サダム・フセインはこの毒ガスを使いまくり、イラン人やクルド人を大量に殺戮した前歴を持つし、国際法を無視するのはお手のものである。
 だいたい、過去15年間のアメリカ大統領にとって、人質問題は政治生命にかかわる威力を持ち、一種のタブーのような存在になってきた。
 1980年4月、テヘランで起きたアメリカ大使館の人質事件では、カーターが取り扱いに失敗して失脚の原因を作り、ベイルートの神風トラックによる特攻戦法で、241人の海兵隊を爆殺された時には、アメリカ人は完全に戦意を喪失してしまった。それが米軍の中東からの全面引き揚げの原因になり、レーガンの人気と信用は大暴落している。
 また、その後になって試みられた、ベイルートの人質救出作戦に関係したブッシュは、イラン・コントラ事件に巻き込まれて、もう少しで政治生命を失うところだったが、きわどい所で回避した経験を持っている。だから、人質事件はブッシュが最も苦手なものであり、彼はこの弱点をサダム・フセインに見抜かれて、撹乱と威嚇の対象にされているとともに、ペンタゴンにまでイニシアチブを取られかけている。
 一万人を超える外国人を人質にして、これは第二次大戦の時にアメリカ政府が行った、日系人の強制収容ほど非人道的ではないとうそぶくサダム・フセインを相手に、神経戦を長期にわたって続けることは、ブッシュにとって地獄の苦しみであるに違いない。


急速に台頭する介入反対論

 イラク軍と対決している今回は、ベトナム戦争への本格的介入を生んだ1964年8月のトンキン湾事件や、1986年のリビア攻撃の口実になったシドラ湾事件に似た形で、ことが運びそうな気配である。
 同じように、アラブ世界には「目には目を、歯には歯を」という掟があり、国際法の精神は通用しないのだし、砂漠の民の間に生きている力への服従と、略奪の思想やその実践の凄まじさは、パレスチナ戦争やレバノン内戦で実証済みだ。
 また、アメリカ政府はイラクヘの輸送を抑えることで、封鎖作戦を成功できると思い込んでいるが、砂漠における船はラクダに他ならないし、イランやトルコ経由の密輸は有史以前から続いてきた。だから、その穴を塞ぐのは外国人には不可能だし、地球を半周して補給線が延び切っているアメリカにとって、中東はあまりにも遠すぎる場所だという声が、ここにきてアメリカ国内にも急速に盛り上がっている。
 たとえ国連による連合軍の派遣であっても、アラブ世界でアメリカ人が血を流すのに反対だという声は、モンロー主義的な保守派の側から高まっている。
 「ネーション」誌の常連寄稿者のアレクサンダー・コックバーンは、「サウジの金ぴかのシェイク・エイナイのような王子たちは、カンヌの賭博場で7月だけでも1700万ドルすったし、幾晩かで、F-161機に相当するカネを浪費する男たちを守るために、F-16戦闘機でバグダッドを攻撃するのはどうかしている」と書き、それが放送で全米に紹介された。
 また、上院の外交関係委員会のペル委員長は「われわれが間違った戦争を、間違った場所で、間違った理由で戦っていると、アメリカ人は短期間で結論づけるだろう」とコメントした。


割れる世論

 さらに、タカ派の「USニューズ・アンド・ワールド・リポート」誌でさえも、8月20日号の記事で、「クウェート人は無償の家や教育などを提供されるが、パレスチナ人やその他の外国人は権利を制限され、永遠に市民として扱われない点で、クウェートはアパルトヘイト国家を運営している」という、ショマン財団のラーマン理事の発言を紹介している。
 実際に、クウェート政府はサバハ王族のメンバーが、首相、副首相、外相、内相、国防相、石油相、情報相、公共相、駐米大使などの要職を独占している。アメリカ人好みの民主主義からまったく隔絶しているこうした政情は、クウェートの政体の運命を決定づけるだろう。
 また、前検事総長のラムジイ・クラークは「中東への干渉を止める連合」を組織すると、派兵が憲法違反であると告発して、ペルシャ湾地域からのアメリカ軍の即時撤退を求めている。そして「アメリカがのめり込もうとする戦争は、地球を半分横切る外国の問題であり、だれでも石油が紛争の原因だと知っているが、それはアメリカのものではなく、ペルシャ湾の石油にすぎない。だれがそれらの石油から法外な利益を受けたかと言えば、それは工業化の進んだ金満諸国とか多国籍企業が、このアラブで石油の収奪をしたのだ」というコメントを新聞に書いて、これも議論を巻き起こした。
 このようにアメリカ国内の世論が割れ始め、大統領が板ばさみに陥っている時に、日本政府が軽率にもタカ派のぺースに乗せられて、機雷掃海艇をペルシャ湾に送ろうと思うこと自体が、きわめて愚かしい行為であるばかりでなく、日本の運命にとって非常に危険なことだ。日本は行動を起こす前にもっと熟考する必要があるし、ドサクサにまぎれて戦場への派兵を試みようとする、日本のタカ派の企みに乗せられないように十分に注意する必要があると思われる。


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